戦国万華鏡

別のブログを始めてしまい、なかなか復活できません。

戦国時代

秀吉の中国大返しのカラクリと本能寺の変義昭黒幕説(2)

◆秀吉が毛利氏に提示した当初の和睦条件

本能寺の変後、急遽毛利勢と和睦をまとめて畿内に取って返し、主君信長の仇を討った秀吉だが、この時点で毛利方との和睦条件が完全にまとまっていたわけではない。
中国大返しにあたっての停戦交渉の段階では、
・五カ国および備中高松城を秀吉に差し出すこと
・毛利氏が人質を差し出すこと
・秀吉と毛利氏の間で起請文を交わすこと
という3つの条件が提示されていたものの、具体的に内容を詰める段階には至っていなかった。
ちなみに「五カ国」については諸説あるが、その後の経緯から推察すると備中・備後・出雲・伯耆および美作ということらしい(「戦国の交渉人」渡邊大門著による)。

両者が和睦交渉の具体的な詰めの段階に入ったのは、本能寺の変翌年の天正十一年(1583年)以降と見られる。
この間、秀吉は本能寺の変の戦後処理や、政敵柴田勝家との最終対決など、天下人への道の足場固めに奔走していた。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が自害したのが天正十一年四月二十三日、安国寺恵瓊が和睦の使者として和泉国堺に滞在中の秀吉を訪ねたのが同年七月十四日のことだ。
つまり、秀吉が信長の後継者としての立場をゆるぎないものとした後に、毛利氏との本格的な交渉が再開されたと見てよいのではないかと思う。
ということは、この約1年の間なら、毛利方にはまだ和睦を反故にして秀吉の敵対勢力側に付くという選択肢もありえたわけだ。
しかし、毛利輝元らは中央の情勢を見極めつつ、表面上はあくまでも秀吉との友好関係を保って、和睦交渉をできるだけ有利に進めようと考えていた形跡がある。分かりやすく言えば、日和見姿勢を貫いたということだ。
毛利方が秀吉に抗う姿勢を見せなかった背景には、毛利方に秀吉と毛利家との実力の差を訴え、一貫して秀吉に抗うことの無謀さを説き続けた安国寺恵瓊の存在も大きい。恵瓊がそう主張し続けたのは、現に秀吉の群を抜いた戦術や政治力を見て、冷静に判断した結果なのかもしれないし、天正元年(1573年)初めて堺で秀吉に対面した後、毛利家中に「藤吉郎(秀吉)さりとてハの者なり」と書き送った時から、彼は秀吉に通じていた・・・という見方もできるかもしれない。
しかし、果たしてそれだけだろうか。毛利家中の大半を占めていたという、秀吉への内通者たちの功績も大きかったのではないだろうか。

◆最終的な和睦の内容とその後の毛利家の発展

さて、肝心の和睦の内容だが、最終的には、次のように決着した。

①人質問題
人質交渉に関しては、吉川元春の三男・経言(のちの吉川広家)と、毛利元就の九男で小早川隆景の養子になった元総(のちの小早川秀包)が、天正十一年に大阪に送られた。此の時、秀吉に盛大な歓待を受けている。なお、二人のうち、経言はその年のうちに返され、元総のほうはその後秀吉から偏諱を授かって秀包と名乗り、知行地を与えられるなど厚遇を受けた

②領地割譲問題
当初提示された五カ国のうち備後と出雲は除かれ、結果として備中のうち高梁川から東側・伯耆のうち三郡・美作が割譲された。この結果、毛利領は安芸、周防、長門、備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐、石見となる。

なお、天正十二年七月に、秀吉から毛利輝元・小早川隆景に対して中国を任せるという朱印状が発給されていることから、この時点までに和睦交渉は一応の決着を見たと捉えることができる。
一見した限りでは、高松城攻めの際にまとまった和睦条件と比較して大幅な譲歩が見られる。勿論、この条件が固まるまでには、安国寺恵瓊が日和見姿勢の小早川隆景や吉川元春を叱咤する場面あり、早々に和睦に応じなければ挙兵して攻め込むとの秀吉からの恫喝もあり、また城の明け渡しが難航するなどの紆余曲折もあって、決してすんなりと好条件を引き出せたわけではないようだ。ただ、それらの点を差し引いても、毛利氏が秀吉に、結果としてかなりの厚遇を受けたことは否定できない。
秀吉は中国大返しの際、毛利勢が敢えて追撃をしなかった(小早川隆景が反対したためという)ことに対して非常に恩義を感じていたと言われる。その恩に報いるための厚遇、或いは、この後に控えていた四国・九州討伐に毛利家の協力が欠かせなかったためとも捉えることができようが、それだけではなく、前回仮説を立てたように、秀吉と毛利氏が共に信長暗殺計画を知りながら黙認していたという共謀関係にあったと考えてもおかしくないように見える。

上に触れたように、毛利氏はこの後の秀吉の四国征伐・九州征伐にも積極的に協力し、四国征伐では伊予(最終的に毛利氏から小早川隆景に与えられる)、九州征伐では、小早川隆景が筑前・筑後・肥前の併せて37万石を秀吉に与えられ、小早川秀包も筑後三郡を与えられた。
つまり、一旦は中国地方での版図を減らしたものの、毛利家はその後の秀吉の西日本統一の過程で四国・九州進出を果たしたわけで、結果としては逆に勢力を拡大しているのだ。北条氏滅亡の後は、豊臣家・徳川家に次ぐ大大名となった。
しかも、四国・九州征伐以降も、秀吉の死後の関ヶ原合戦に至るまで、豊臣家に非常に協力的で、従順な姿勢を貫いてもいる。
これが元就以来の毛利家一流の処世術なのだろうか? それとも・・・
どうも、怪しい。ただ、秀吉と毛利家のその後の関係からのみでは、前回立てた仮説が正しいのかどうか、短絡的に結論は出せない気がする。

◆とても黒幕には見えない無邪気な義昭の行動

しかし、仮説の大前提となる義昭黒幕説をとるとすれば、どうしても引っかかるのが、当の義昭自身の秀吉に対する態度だ。
義昭が明智光秀に信長討伐を命じていたのだとすれば、当然その後の義昭上洛までのシナリオも描かれていたはずである。単に信長が死んだだけでは、義昭の目的が果たされたとは言い難い。
つまり、義昭の計画は光秀の死によって道半ばにして頓挫してしまっているわけで、この計画を頓挫させた張本人こそ、秀吉なのだ。
ところが、フロイスの『イエズス会日本年報』には、こんなことが書かれている。
公方様(義昭)は、彼を追放したる信長の死したるを見て、おのれの追放を想起し、おのれをして、天下の君とならしめんことを羽柴に請いたり。」
本能寺の変の黒幕であるならば秀吉に命を狙われる可能性もあるはずの義昭が、秀吉に対して何ら警戒心を抱かず、むしろ秀吉にも上洛支援を催促しているというのは解せない。
同書は「羽柴はなんらの返答をなさず。使者も耳を(削がれずに)もちて家に帰りたることを少なからざる慈悲と認めたり。」と続けているが、要はフロイスから見て、義昭が当然持つべきと思われる警戒感さえ、彼は持ち合わせていなかったということだ。義昭の秀吉に対する態度は、周囲が驚くほど無邪気で、信長殺害を指示した後ろめたさなど、微塵も感じられない。
その上、秀吉に急速に接近し、義昭の上洛に手を貸さなかった毛利家に対しても、義昭は「もしや秀吉と共謀して自分を排除しようとしているのでは・・・」といった疑念を抱くことなく、最終的に天正十六年に秀吉に請われて上洛するまで、毛利領内(備後の鞆)に留まっている。
義昭黒幕説の検証は大きなテーマであり、安易に肯定も否定もしがたいが、本能寺の変後の義昭の行動を見る限り、とても変を蔭で指示した人物の行動類型にははまりにくいように見える。
それとも、義昭という人が単に天 然なだけなのか・・・(その可能性も十分にあったりして)
今回はかなり中途半端に終わってしまったが、今後義昭の半生を追っていく中で、このテーマは引き続き考えてみたいと思う。

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秀吉の中国大返しのカラクリと本能寺の変義昭黒幕説(1)

前回記事にした『秀吉と海賊大名』の中に、過去に書いた記事で触れた疑問に関する答えになるかもしれない話が書かれていたので、繰り返しにはなるが書いておきたい。

◆秀吉の中国大返しの謎

天正十年(1582年)六月二日、すでに実質的な天下人とみなされていた織田信長は、明智光秀の謀反により、あっけなく横死する。
その時備中高松で毛利勢と対峙していた羽柴秀吉は、いち早くこの情報をキャッチし、またたく間に毛利氏との和睦をとりまとめたかと思うと、猛スピードで畿内まで取って返して、信長の弔い合戦を果たした。本能寺の変勃発からこの山崎の合戦まで、わずか11日。
俗に言う「中国大返し」。秀吉の目覚ましい出世物語の中でも、一番のハイライトと言える快挙だ。
ここで信長弔い合戦の音頭を取ったことにより、秀吉は織田家中での発言力を強め、戦後処理を自らに有利に進めて、天下人への道を切り開いた

それにしても、まるでおとぎ話のような鮮やかさ。通信技術や交通手段の発達した現代でさえ、これほど素早い対応がとれるかどうか。情報収集能力・判断力・決断力・統率力・実行力・・・あらゆる面で、秀吉という人は同時代人の中で群を抜いた異能の人物だったと認めざるをえない。

あまりの鮮やかさ故に、中国大返しに関しては、疑念の声が後を絶たず、本能寺の変秀吉黒幕説の根拠の一つにも挙げられるほどだ。
個人的には、中国大返しの一連のプロセスの中でも特に、信長の死を知った秀吉が、あっという間に毛利方との和睦をまとめあげた点にはひっかかる
情報網の構築・短時間での長距離移動に関しては、秀吉は別の場面でも同様の異能ぶりを発揮しているので、恐らく常々ノウハウを蓄えていたのだろうが、交渉だけは相手のあることでもあり、思うに任せない局面もありうるはずだ。

ところが、秀吉は非常にスムーズに交渉を進め、あっという間に高松城主清水宗治を切腹させて、自らに不利な展開を見ることなく毛利方との戦闘状態を終結させている。
あまりに話がうまく進み過ぎていないだろうか。
ちなみに、本能寺の変から山崎の合戦までのタイムスケジュールは以下の通り。
6月1日深夜(あるいは2日未明) 本能寺の変により信長横死
6月3日夜  秀吉本能寺の変を知る
6月4日    高松城主清水宗治ら切腹 
6月6日    秀吉陣を払い退却
6月7日    秀吉姫路城に帰城
6月8日    秀吉姫路城を出発
6月13日   摂津・山城国境の山崎で明智軍と決戦。敗走途中で明智光秀死す。

秀吉が変報を受けてから、清水宗治らの切腹まで、わずか1日足らず
和睦締結までのリードタイムのあまりの短さから、以前『安国寺恵瓊の毀誉褒貶(2)』の中で、秀吉は毛利方の外交僧・安国寺恵瓊に信長の死を打ち明け、恵瓊に積極的に和睦に協力させたのではないか・・・と推測してみた。もっとも、この記事の内容は秀吉と恵瓊がかねてからの顔見知りだったことのみを根拠とする憶測に過ぎないのだが。

◆秀吉は安国寺恵瓊に信長の死を打ち明けていたと記す毛利家重臣の日記

ただ、この憶測、当たらずしも遠からずだったのかもしれない。
この件に関して、『秀吉と海賊大名』に興味深いことが書かれている。
毛利家家臣玉木吉保の日記『身自鏡』(みのかがみ)の中に、次のような記述があるという。
本能寺の変直後(恐らく6月3日深夜か4日未明のことと思われる)、秀吉は毛利方の外交僧・安国寺恵瓊を呼び出し、或る物を恵瓊の前に投げ出して見せた。
なんと、それは、毛利家重臣が名を連ねた(秀吉もしくは信長に同心する旨の)連判状だった。しかも、連判状に名のない毛利氏重臣は、わずか5人しかいない。つまり、当時毛利方の主立った武将の殆どが、すでに秀吉に内通していたというのだ。
その上で、秀吉は、信長の死を打ち明け、恵瓊に同心を仰いだという。

『秀吉と海賊大名』には、この日記の信頼性について、「すべて事実だと断定することは難しく、あくまでも参考史料とするべき」と書かれている。玉木吉保という人は医者でもあり、それなりの教養人として知られているが、この日記は吉保が江戸時代に入ってまとめたものでリアルタイムの記録ではないし、その点で信頼度は落ちるのかもしれない。
しかし、仮にこの日記に書かれていることが正しいとすれば、やはり、恵瓊は事が火急を要することを認識して動いていたことになる。
相手方にも協力者がいなければ、1日で城主・清水宗治の切腹も含めた和睦の完結まで進めるのは至難の業だ。双方持ち帰り検討などという時間的猶予は一切ない。事実関係から判断すれば、恵瓊や毛利方の主要な家臣たちは信長の死により秀吉にとって停戦が緊急の課題であることを認識した上で、秀吉に積極的に協力していたと考えるのが自然に思える。
この連判状が実在したとして、それが果たしていつ頃作成されたものなのかは定かではないが、本能寺の変勃発の直前・天正十年五月には、信長が六月に援軍を従えて秀吉に合流し、対毛利の最終決戦が行われることが決まっていたことを考慮すれば、その前後に秀吉に内通を申し出る者が続出した可能性は高い。

なお、『戦国の交渉人』(渡邊大門著 洋泉社)では、清水宗治切腹は宗治本人が申し出たものとして恵瓊の関与を否定している
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が、もしそうだとすると、本能寺の変との関連で見れば絶妙のタイミングに、清水宗治が自主的に切腹したということになり、あまりに話が出来過ぎている。最終的には清水宗治が申し出たのだとしても、その意思を固める段階で、恵瓊もしくは他の毛利家家臣から何らかの圧力があったのではないかと思う。

◆本能寺の変に義昭が関わっていたとすれば・・・まるで違った様相になる備中高松城水攻めの景

ちなみに、『秀吉と海賊大名』の著者・藤田教授は、本能寺の変は突発的な犯行ではなく計画的なものであり、当時備後の鞆にいた足利義昭が変に関わっていたという立場(足利義昭黒幕説)をとっている。
仮にそうだとして、上の『身自鏡』に書かれているように毛利家中の大半が秀吉に調略を受けていたのだとすれば・・・これは実に面白い話になってくる。

まず、義昭は毛利氏を頼って備後まで動座したわけだし、現に天正十年当時毛利家は信長に敵対していたわけだから、義昭-光秀の間で信長打ちの計画があったとすれば、恐らく毛利方にもこの計画は打ち明けられていたと見てよいのではないだろうか
その場合、毛利家重臣は殆ど秀吉に内通しているのだから、計画を知っていたとすれば、秀吉にも情報が漏れていた可能性が高い
「いつ、どこで」という具体的な計画までピンポイントで把握してはいなかったとしても、信長の側近である光秀が噛んでいれば、恐らくかなり高い確率でそれが成功するであろうことは、皆確信していたにちがいない。

しかし、そうなってくると、天正十年五月当時の、備中高松の景色は一変する。
水没した高松城を挟んで半月以上も対峙していた羽柴勢と毛利勢・・・表向き羽柴勢は信長・光秀の援軍待ちで、毛利勢はそれを迎え撃つ構えだったわけだが、両陣営が秘かに待っていたのは、信長誅殺成功の知らせだったということになりはしないだろうか
すでに、毛利勢は秀吉に調略されていたのだから、信長の死後いともあっさりと停戦に至ったところを見ると、既に着地点まで決まっていて、後はXデー待ちの状況だった・・・ということも、ありえる。

義昭黒幕説をとった場合、(恐らく計画を聞いているはずの)毛利勢が信長の死を知っていて何故秀吉に退却を許したのか?という矛盾が生じることが問題になるが、それも、予め裏で秀吉に通じる者が大半だったとしたら、話は変わってくる。要は、毛利家は既に義昭-光秀ではなく、秀吉を選んだと考えれば、矛盾は解消するのではないだろうか。

さて、これまでに以下の前提を置いて、話を進めてきた。
1.本能寺の変は明智光秀の単独犯行ではなく、バックに義昭がいる(足利義昭黒幕説)
2.義昭の信長誅殺計画は、事前に毛利家にも伝えられている。
3.毛利家家臣の大半は、秀吉に内通している。
4.秀吉は、3の内通者を通じて信長誅殺計画の存在を知っている。

次回は、これらの前提(特に1)が成立するのかどうか、ポスト本能寺の毛利氏と秀吉の関係から検証してみたい。
(続く)

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敗者の視点に挑む書~藤田達生著『秀吉と海賊大名』

ちょっとだけ休むつもりが、気がつけばもう4月。
またぼちぼちブログも再開したいと思う。
ただ、足利義昭については、春からちょっと真面目に勉強する予定なので、本当にぼちぼちになってしまうかも・・・
秀吉と海賊大名 - 海から見た戦国終焉 (中公新書)
秀吉と海賊大名 - 海から見た戦国終焉 (中公新書)
リハビリに、『秀吉と海賊大名』(藤田達生著 中公新書)を読んでみた。著者の藤田教授(三重大学教授)は足利義昭の研究者としても知られており、個人的に必読の書ということで。

◆「海賊」とは何か

本書の中で、「海賊」とは、海関の管理を行ったり、水軍として海戦に参加する海の武士団と定義付けられている。
「賊」という文字からイメージする非合法な存在だけに限らず、合法的な存在も含めた括り方。どちらかと言えば「海賊」というよりは「海族」と表記するほうがふさわしい気もする。

ただ、冷静に考えて見れば、「合法的な存在か非合法か」という括り方自体、中央集権化された社会の物差しであって、統一的なルール自体が存在しない(あるいは存在はしても守られない)戦乱の時代においては、合法か非合法かの色分けを試みること自体がナンセンスではある。
『秀吉と海賊』という本書のタイトルから真っ先に思い浮かぶのは、秀吉が天正16年(1588年)に出したいわゆる「海賊禁止令」だが、この「海賊禁止令」によって初めて国家レベルでの非合法な存在という意味での「海賊」が定義づけられたと考えるのが妥当なのかもしれない
(藤田教授は「海賊禁止令」について、「海賊」そのものの存在を否定したものではなく賊船行為を禁止したものであるから、正しくは「賊船禁止令」であると書いているが、「海賊」=非合法の水軍と捉えれば、これはまさに「海賊禁止令」と呼ぶべきものではないだろうか)

◆伊予河野氏に着目・・・が、その実態は霧の中

藤田教授は、これまでの海賊史研究を、個別海賊論に終始し「木を見て森を見ず」であったとし、中国・四国沿海地域というスケールからの海賊権力論を展開するにあたり、伊予の河野氏に着目する。
河野氏は秀吉の四国征伐により滅亡したものの、鎌倉以来続く豪族であり、室町時代には伊予守護の地位にあった名家だ。
戦国期の瀬戸内海の雄と言えば村上氏の名が挙がることが多いが、村上氏を海賊大名と位置付けるのは過大評価であり、村上氏はあくまでも河野氏の臣下にすぎない、と藤田教授は言う。

河野氏にスポットを当てることで、戦国期瀬戸内海情勢の新たな側面が見えてくるのかと期待しながら読んだのだが・・・残念ながらその点に関して収穫はなかった。
たしかに、藤田教授の指摘する通り、瀬戸内海情勢を語るのに、海は海、陸は陸と切り放して考えるのではなく、瀬戸内地域の海陸を一体として見て行くことでより全体像が見えてくる(だから村上氏ではなくその主君で陸海の有力者だった河野氏にスポットをあてる)という視点は新しく、説得力がある。
ただ、いかんせん河野氏は織豊期に滅亡した一族であるだけに史料の絶対量が少なすぎるのか、本書ではその問題提起のみに終わっている感が否めない。どうも、何度読み直しても河野氏の顔が全く見えて来ないのだ。

◆末期の室町幕府の権威を健在と見るかどうかが、河野氏の位置づけを左右する?

河野氏臣下とされている村上氏が、実態として河野氏の影響下にあったのかどうかについても、本書の記述だけでは、すんなり納得していいのかどうか、悩ましい。
というのは、本書で村上氏が河野氏に臣従していた事実を示す例として挙げられているのは、足利義昭が本願寺戦争(天正四年(1576年)の木津川口の戦い)での村上氏の軍功を賞する感状を、村上氏に直接ではなくその主家である河野氏に対して送ったという一件だ。
藤田教授は、室町幕府は天正元年(1573年)の信長による義昭の京都追放後も幕府は存続しており、特に西国に置いて一定の影響力を保持していたと見る立場をとっているため、義昭の感状を「過去のものとなった室町幕府のヒエラルキーに基づいたものであり形骸化したもの」とは捉えていない。
しかし、その点については異論も多いと思うし、第一、足利将軍が陪臣に直接感状を送るといったことは、当時の慣行に照らしてありえたのだろうか。たとえ、河野氏と村上氏の主従関係が形骸化したものに過ぎなかったとしても、義昭が感状を送るとすれば、室町幕府の幕臣である河野氏宛てに送られたのではないだろうか。
従って、この例のみで河野-村上両氏の主従関係が健在であったことの証とするのは十分ではないように思える。

また、本書の別の個所で、秀吉が瀬戸内海制覇にあたって、河野氏ではなく、直接村上武吉・元吉に書状を送り調略を試みていた事実にも触れられている。この事実を単体で見る限り、秀吉は、瀬戸内海西部における河野氏の影響力を果たして評価に足るものと見ていたのかどうか、疑問に思える。 
勿論、河野氏滅亡とともに史料が散逸しただけで、実は秀吉の調略の手は河野氏にものびていたかもしれない。ただ、その証拠はどこにも残っていないのである。

◆三好氏を語らずに秀吉の瀬戸内制覇を語れるのか

全く素人考えだが、個人的には戦国期の瀬戸内情勢を語る上でキーになるのは、やはり三好氏ではないかと思っている。
本書では、戦国期の瀬戸内海の勢力は東西に二分されており、東側は管領細川氏とその一門(後に宇喜多氏・三好氏・長宗我部氏)、西側は大内氏・河野氏の領域だったとしているが、西側地域の話題が中心で、東側の勢力についてはあまり紙面が割かれておらず、当然三好氏についても多くは触れられていない。
しかし、信長や秀吉が、毛利氏との対立関係の中で、瀬戸内海地域を押さえる上で要としていたのは、三好氏だったはずだ

三好氏が瀬戸内海の海賊と結びついていたことは、三好長慶が弟の冬康を淡路島を拠点とする海賊・安宅氏に養子として送り込んでいたことでも推察できる。阿波の豪族・三好氏は長年泉州堺を本州の拠点としていたが、堺港に貿易船を出入りさせるには、当然瀬戸内海航路を押さえる必要がある(後日追記:そう言えば、堺への貿易船の出入りは基本的に土佐沖を通る外海航路だった・・・瀬戸内海航路は全く利用しなかったのだろうか?)。航路の確保に便宜を図ってくれない武士団が、堺の貿易商人たちに支持されたとは思えない。
信長や秀吉が自らの子息や甥を三好氏に養子として送り込もうとしたのは、彼らが阿波や和泉に確固たる地盤を有していたのみならず、海の上でも一定の影響力を有していたためではないだろうか。
目新しくもない切り口かもしれないが、戦国期の瀬戸内海に関しては、河野氏や村上水軍よりも、個人的にそこが一番知りたい。

◆敗者の側から歴史を眺めることの難しさ

しかし、河野氏にしろ、三好氏にしろ、いずれも戦国期に滅亡した一族であり、手掛かりとなる記録は非常に少ない。河野氏・三好氏に限らず、四国を含む瀬戸内地域そのものが、戦国史においては敗者の集合体であり、瀬戸内海地域からの視点で戦国史を眺めることは困難を極めるのが現実だ。
勝者が踏み固めた土壌から生み出された軍記物にしか手掛かりが求められないようなケースも多い。そうした中から、真実を歪めずに敗者の声を拾い上げることは、果たしてどこまで可能なのか。非常に根気が必要な作業でもあるし、報われる可能性も極めて低い。
だが、敗者の歴史を埋没させたままにしていては、歴史の真実には決して辿り着けないのもまた事実だ。
本書はその困難に挑んだ一冊であり、埋もれた伊予の戦国史に眼を向けさせてくれた点で、評価されるべき書ではないかと思う。

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BS時代劇 『塚原卜伝』最終回

最終回とは言え、続編アリな気配満々の終わり方。
タイトルも『卜伝見参!』。これからが新当流流祖としての卜伝の活躍だ。
一度目の廻国修行は腕を磨くため、二度目の廻国修行は、諸国に新当流の剣をひろめるため。せっかくの一粒で二度おいしい素材、続編をやらないテはない。
原作でも参籠で一つの太刀を授かってから再び旅に出ているし・・・ただ、個人的には最終回のラストを観るまでは、続編はないものと思っていた。
というのは、原作では二度目の旅立ちの後さっそく「手指を四散させ、顔を両断する」という猛烈にバイオレンスな殺陣が展開されるのだが、ドラマの新右衛門はすでに「戦わずして勝つ」という境地に至ってしまっているわけで。彼の剣は、もはや「平法の剣」=抑止力としての剣だ。「世がどれほど乱れようとも、平法の剣を貫かれよ」と、師匠にも言われてしまったのである。再び廻国修行の旅に出ても、今度は死人の出ない戦いになるのだろうか。。。

勿論、続編の放送は大歓迎だ。この枠を契機に、また時代劇が復活してくれれば嬉しい。
でも、できたら続編も平和主義に傾き過ぎない内容のほうがありがたい。「戦わずして勝つ」の境地はしばらく忘れて、続編の最終回あたりに思いだすということで。
(もっとも、今度は『西遊記』パターンで、悟った卜伝=三蔵法師は手を下さず、殺陣シーンは悟空=左門と沙悟浄=勘助にお任せ、という話なら、それはそれで面白そう。襲いかかって来た敵を思わず斬ってしまった左門に卜伝が「左門はいつまでたっても平法の剣が身につかぬのう・・・」と毎回小言、左門平謝り・・・一人くらい、悟らないやんちゃなキャラがいたほうがいい。)

それにしても、動乱に向かう鹿島を後にして新右衛門は再び廻国修行の旅へ・・・というのは、予期しない展開だった。
えっ!せっかく体得した平法の剣を、郷里のために使わないのか・・・という。
勿論、新右衛門の使命は、戦国の日本に平法の剣をひろめることにある、というのは分かる。でも、どうしても「それをまずは聖地・鹿島で実践してこそ意味があるのでは・・・」という印象を持ってしまう。
その辺が、どうもすんなり消化できなかったせいか、スッキリさわやかな鹿島発ちの場面も、なんとなく釈然としない後味が残った。
じゃあどうすればお前は満足だったんだ?と言われそうなので、批判覚悟で(汗)一応書いてみる。
新右衛門は備前守らが企てる謀反に反対し、真剣で備前守と立ち会うことになるが、新右衛門の体得した剣の素晴らしさを目の当たりにして、備前守のほうから、鹿島という狭い世界で終わるな、日本全国にその剣をひろめよ、と新右衛門を説得した・・・という流れにするほうが、新右衛門旅立ちへの流れが納得できるものになった気がする。あるいは、新右衛門は神に授かった一つの太刀を鹿島を守るために使うべきと思い込んでいたが、真尋が伝えた神託は違っていた、というのでもいいかもしれない。
いずれにしろ、新右衛門が動乱前夜の鹿島を後にする決意をするまでの、新右衛門の中の心の揺れを、もっと振幅を最大幅に描いたほうが、より共感を得られたように思える。ドラマの中の新右衛門も、確かに迷い、揺れ動いてはいるのだが、「鹿島に残る」のほうには一度も逆ブレしていないだけに、心の揺れが小さく見えてしまうのだ。
鹿島の神の神託を新右衛門に伝え、
「どうか、兄上の信ずる道を御歩きください」
と言った妹の真尋も、父や母も、鹿島で内乱が起きれば、命の危険にさらされることになるかもしれない。そんな時に、家族を置いて鹿島を離れることの重さ、それでも、鹿島だけではなく日本全国を救うために旅立たなければならないという新右衛門の使命の大きさを強調した、揺れ動く最終回にしたほうが、クライマックスの盛り上がりも大きかったと思う。(多分、そうなると最終回のみ時間延長が必要だったかもしれないが)

しかし、細かい部分は最後まで芸コマで面白かった。
新右衛門を珍しく険しい表情で諌める塚原土佐守(田山涼成)・・・と思ったら肩に灸が・・・「あつぃっ!」とか。
新右衛門を待ち過ぎてハイミスになってしまった鹿乃のその後も、ちゃんと幸せそうに暮らしている様子がフォローされていて安心できたし。
時代背景のフォローも良かった。
今回の舞台は大永二年(1522年)、丁度足利義尹が都を後にして阿波へ去った直後だ。鹿島を尋ねてきた山本勘助は、話しぶりを聞くとどうやら阿波へも行って来たらしいし、周防へ廻って平賀丹後守から新右衛門宛ての書状を預かってもいる。都を追われた公方様と大内殿との間で、連絡係でもやっていたのだろうか。

時代背景に関しては、主君への謀反を企てている備前守が引用した「君は船なり臣は水なり、水能く船を浮かべまた能く船を覆す」という荀子の言葉も、いかにも戦国的な発想が滲み出ている、良いセリフだと思う。
玉造常陸介のセリフにもあったが、この時代、身内同士の家督相続争いが非常に多かった。そのひとつの要因として、家臣が主君の後継者に関して口をはさむようになったことが挙げられている。(『戦国大名と一揆』池享著) それだけ、力ある者をリーダーに据えなければ家が維持できない厳しい時代だったことの表れなのだろう。
泰平の世となった江戸時代以降の「君、君たらずとも、臣、臣たれ」というような言葉が用いられる時代とは、主君と家臣の関係も全く違っていた。
時代の眺め方も的確だし、きちんと時代考証したドラマだと思う。やはりオープニングや本編後の「卜伝紀行」でチラチラ主張されているように、娯楽時代劇とは違うという意気込みが感じられる。
ちなみに、鹿島の内乱前夜の描写は原作にはない。そこを描けば、新右衛門が鹿島の危機に関わることなく旅立ってしまうことへの矛盾は当然出てくるわけだが、そこを押して敢えて内乱への動きを描いたのも、歴史ドラマ的時代劇への挑戦という観点からは、評価できる点だと思う。

さて、どこまで話が決まっているのかは分からないが、続編にはどんなメンバーが登場するのだろうか。やるとすれば出てくるはずの、武田信玄のキャスティングも楽しみだ。
主人公がクリーンなイメージの強い人物だけに、型破りで胡散臭い人物が常連としてほどよく登場してくると、メリハリが付いて面白くなるような気がする。続編は、これがNHK?と思うような異色ドラマへの可能性・・・にも期待したい。(完全に続編をやるものと決めつけて書いてるが・・・大丈夫かな?)

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BS時代劇 『塚原卜伝』第六話

新右衛門鹿島へ帰る。の巻。
10年前、京へやって来た新右衛門と、将軍義尹を供奉して周防から上洛してきた大内義興が、ともに京を去ることになった。
新右衛門は東へ、大内一行は西へ。新右衛門と鹿乃も、別れの時を迎える。
「わたくしを、鹿島へお連れくださいませ」
こらえきれずに新右衛門にすがりついた鹿乃だが、
「それはできぬ。全てを捨てて鹿島に戻るのです。連れてはいけぬ」
と新右衛門は静かに鹿乃を突き放す。自分を抑えて笑顔で納得する鹿乃と、彼女に背を向けたままの新右衛門。
新右衛門の心は、いま一つ見えない。
しかし、別れの日のシーンには、京の街を去っていく新右衛門と左門の姿に、鹿乃の歌声をかぶせる・・・という演出で、新右衛門の未練が、無言の背中に巧みに映し出されている。
お互いに思いは同じでも叶えられない恋・・・露出度四割?くらいにとどめた控えめな見せ方がいい。
この際、「え? 新右衛門上洛から10年も経ってるとなると、鹿乃もいい加減大年増なんじゃ・・・新右衛門責任とるべきなんじゃ・・・」なんて無粋なことは言わないでおこう。
その後、鹿乃は養子を迎えて幸せに暮らしたと思いたい。

勘合を大内義興に奪われた細川高国の怒りの表情を、斜め上からアップで見せるカメラワークも良かった。
怒りのあまり上昇していく管領殿の黒目・・・得意の白目芸ふたたび炸裂(船岡山の戦勝祝いの酒宴以来)かと思いきや、すんでのところで場面が切り替わったので度の過ぎたコントにならずに済んだ。
公方様や管領殿とも今回でお別れ。残念だ。
この後この二人は悲惨な運命を辿ることになる。その後の二人の運命を匂わせるひとコマがあれば、さらに公方様や管領殿の人物像にも陰影が加わって、歴史ドラマ度も高まったかもしれないのだが・・・
それにしても、公方様との別れはなんとも名残惜しい。

今回、新右衛門が鹿島に戻ったことで、漸く鹿島豪華キャストの出番到来という感じ。
最近は八百屋俳優ということでも有名な永島敏行の土臭い東国武士風味な松本備前守もいいし、意図的な配役なのか新右衛門の実父と養父の対象的な見た目もアクセントになっていて面白い。
しかし、分かりにくいのは、鹿島義幹と家臣たちの争いの原因だ。
鹿島城を難攻不落の堅固な城にしたいという義幹の言葉に、難色を示す家臣たち・・・ただ、いくら金がかかろうとも、時は戦国。城を堅固にしたいという城主の主張は、この部分を聞く限り正しい。
たしかに、史実としてそういう原因で家臣たちは義幹に謀反を起こすことになるのだが、家臣たちが義幹に不満を持ったのは、この件だけではなくいろんな背景があってのことだったのではないだろうか。この一件だけでは、皆の不満が高まるのも、玉造常陸介が「奸臣」と呼ばれねばならないことも、すんなりとは納得できない。
その辺の解釈は観る側に任せるということなのかもしれないが、少し戸惑いを感じる部分ではあり、もう少しこなれた流れにすればこういう本筋じゃないところで引っかかることもないのに・・・という気はした。

さて、そんな鹿島家の内紛をよそに、「神の御加護をひたすら祈れ」という物忌様の遺言に従い、「人の恨み、血の汚れ、死を恐れる心」をはらい心の迷いを清めるために千日間の参籠に入った新右衛門。鹿島の太刀を継ぐ者としての修行の最終段階に入ったと言える。
参籠中、流祖国摩真人(卜部吉川家の遠祖)が新右衛門の前に現れ、新右衛門に「一つの太刀」を授ける。予告編で自分自身と戦っているように見えた新右衛門だが、双子の一人は御先祖様だったらしい。
しかし、正直今まで、堺雅人と剣豪塚原卜伝とのイメージのギャップをかなり感じていたのだが、今回神の太刀に感応するという場面に至って、漸く私の中で、塚原卜伝=堺雅人に焦点が合って来た。境雅人には俗より聖が似合う。新右衛門もイイのだが、光輝く国摩真人も、なかなかハマリ役に見えた。
・・・と、盛り上がって来たところで、次回ついに最終回。
最終回は、新右衛門がいよいよ師匠・備前守と対決する。師匠・備前守への挑戦に始まり、備前守との対戦で終わるという、実に美しい流れだ。
鹿島の神殿の前で神の技を授かった新右衛門と、御家騒動の俗にまみれた備前守・・・もうそれだけで勝負はついているようにしか見えないのだが、そこをどう盛り上げてくれるのか、また新右衛門の一つの太刀は御家騒動から鹿島を救えるのか、楽しみだ。

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【追記】 山本勘助はドラマを観終わる頃には出てきたこと自体忘れていた・・・続きを読む
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