戦国万華鏡

別のブログを始めてしまい、なかなか復活できません。

江~姫たちの戦国~

徳川家光妾腹疑惑~その答えは竹生島にある(かも?)

久しぶりにブログを再開しようと書き始めたら、丁度、以前に書いた『徳川家光は侍妾の生んだ子?「江の生涯」』にコメントをいただいた。
この話題は「家光は江の実子ではない」というとにかくセンセーショナルな内容だけに、私の記事の中では一番コメントが多い。コメントをいただいたおかげで思い出したのだが、昨年滋賀の竹生島宝厳寺を参拝した際に、この話題に絡む面白いものを見つけたので、そちらを先に書いてみることにした。

◆浅井氏と竹生島信仰

竹生島は琵琶湖に浮かぶ神の島だ。
古来信仰の対象となってきた島で、現在も宝厳寺と竹生島神社の仏殿・社殿が建ち並ぶほかは原生林に覆われ、人が住むことさえ許されない聖域とされている。
島の周囲は削り取られたような険しい断崖絶壁を成しているが、驚いたことにその断崖は湖底まで続いているのだという。島周辺の水深は深く、100メートル前後もあるとか。つまり、湖底から突き出た100メートルにも及ぶ岩の柱・・・それが、竹生島なのだ。まるで深い湖底から神の手で掴み上げられたような、不思議な島。水深が深いだけに、島の周囲の湖水は碧とも蒼ともつかない独特の濃い色合いを湛えていて、それがまたこの島の神々しさを、より一層引き立てているように見える。
信仰が生まれる場所にはそれ相応の理由があるのだとすれば、竹生島にはその理由が十分にあると言えるだろう。

現在竹生島に参拝するには、湖岸のいくつかの港からフェリーが運航されているが、そのうち最もポピュラーなのは長浜港からのルートである。「戦国武将の竹生島信仰」(竹生島宝厳寺・長浜市長浜城歴史博物館編)によれば、長浜(長浜は秀吉が長浜城を築城した際に改名させた名で、それ以前は今浜と呼ばれていた)は「竹生島の門前町」であり、古くから竹生島参拝者で賑わった土地という。
そう言えば、竹生島は琵琶湖の東北岸に近く、現在も長浜市に属している。また、島にある宝厳寺・竹生島神社の位置も、島の南東、すなわち長浜側に配置されている。地理的な面でも、竹生島が、往古から長浜と深い関係にあったことが窺える。
戦国時代、この長浜(今浜)を支配していたのが、徳川秀忠の妻・江の生家である浅井氏だった。
浅井氏は竹生島の領主であるとともに熱心な信仰者でもあり、有力スポンサーでもあった。
毎年六月に行われる蓮華会(れんげえ)と呼ばれる雨乞いの儀式では、浅井氏が幾度となく頭人(祭典の執行者かつスポンサー)を務めていたことが、宝厳寺に残る古文書に記されている。当時、宝厳寺蓮華会の頭人は、浅井郡出身者の中から選ばれるのが慣例であり、そういう意味でも、浅井郡の支配者である浅井氏は最も頭人にふさわしい一族だったわけだ。

◆浅井氏滅亡後、豊臣家・徳川家へと受け継がれた竹生島信仰

しかし、北近江における浅井氏の支配は、長くは続かなかった。
天正元年(1573年)、織田信長の攻撃により浅井氏の居城・小谷城は落城、城主であった浅井久政・長政親子は共に自害し、長政の妻で信長の妹のお市の方は、三人の娘とともに助け出される。
やがて成長した浅井家の三姉妹たちは、豊臣家、京極家、徳川家に嫁ぐが、嫁した後も彼女たちは生家浅井氏の氏神を祀る竹生島への信仰を、決して忘れてはいなかったようだ。
竹生島宝厳寺には、豊臣秀頼が寄進した伽藍(もとは豊国廟の建造物)が残されており、また徳川家の大奥から寄進された品々なども数多くあったことが伝わっている。これらの寄進は、浅井氏から嫁いだ豊臣秀頼生母の淀殿や、徳川秀忠の妻・江の影響によってなされたものと考えて、まず間違いないだろう。

ところで、竹生島宝厳寺には、あの徳川家光が寄進したと伝えられる蒔絵三重塔も現存している。

◆家光と竹生島を結ぶものは江の血以外にない

家光は江の実子ではないというウワサを耳にしたことがある人間にとっては、この三重塔の存在は驚きだ。
何故、実の母でもない女性の生家が信仰していた寺に、彼は三重塔を寄進したのだろうか。
・・・いや、江が実の母であったからこそ、家光自身にも浅井の血が流れているからこそ、三重塔を寄進した・・・そう考えるのが最も自然だ。
勿論、「家光が寄進したと伝えられる」というだけで、それが事実であるという確証はどこにもない。
ただ、もしこの三重塔が実際に家光が寄進したものであった場合、「江の生涯」(福田千鶴著)に書かれている家光が江の実子ではないとする説は、見事に覆されることになるのではないだろうか。
塔は本来仏陀の舎利を祀る場所。宝厳寺に寄進するにあたって家光が敢えて塔というアイテムを選んだのは、先祖供養の意味があったのではないか・・・と思う。
仮に別の意味があったとしても、自分の生母でもない女性の生家が信仰していた寺に、わざわざ寄進などしない。家光と竹生島を結ぶもの・・・それは、母親のお江の血、すなわち浅井家の血のえにし以外には考えられないはずだ。

もっとも、塔を寄進したのは、実は家光ではなく弟の忠長の間違いではないのかという可能性を指摘する人もいるかもしれない。最近になって、忠長が母・お江の死後、彼女を祀るために厨司(崇源院宮殿)を作らせていたことが厨司の解体修理で見つかった書き付けで証明されてもいるし、忠長が非常に母親思いであったことはよく知られているからだ。
ただ、少なくとも竹生島に残る三重塔の寄進者が忠長であるとは、まず考えられない。
祐天寺にあった崇源院宮殿は、忠長が生前、自らの領地である駿府に安置していたものらしい。彼が独自に母の供養をすることも、彼の領内で行ったものであるからこそ、辛うじて許されたのではないだろうか。
領地を遠く離れた近江の竹生島に忠長が三重塔を寄進するといった、あたかも自身が江の実子の代表であるかのような振舞いは、父や兄が到底許されなかったに違いない。
寄進者が家光ではなく忠長の間違い・・・ということは、まずありえないのではないかと、私には思える。

結局、三重塔について詳しい調査がなされない限りは、全て推論にすぎない話だが、仮に調査がなされた結果三重塔が実際に家光の寄進であることが証明されれば、「秀忠が侍妾に産ませた子」とも「家康と春日局の子」とも言われる家光の出生の謎論争の解明に向けての、大きな一歩となることは間違いない。
長年にわたって物議をかもし続けている家光出生の疑惑に絡む話だけに、ぜひ宝厳寺にも本腰を入れて調査していただきたいものだ。
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【秀吉の死】芳春院(おまつ)の書状【みなみな無になり申候】

◆秀吉の遺言 「此のほかはおもひのこす事、なく候」

慶長三年(1598年)八月、稀代の英雄・豊臣秀吉が死んだ。
彼が、当時継続中だった朝鮮出兵についてどう言い遺したのかは伝わっていないが、臨終の際まで息子秀頼の将来を案じて、五大老・五奉行に何度も秀頼に対する忠節を誓わせる誓紙を書かせたことはよく知られている。もはや秀吉にとっては、戦争の顛末を付けることよりも我が子の行く末のほうが気がかりだったらしい。
下は、死の二週間ほど前、秀吉が書いた遺言状の一節だ。

秀よりの事、
なり立ち候やうに、
此かきつけしゆへ、
しんにたのみ申候。
なに事も、此ほかは、
おもひのこす事、なく候。かしく。

文面から秀吉のひたすら息子を思う心が伝わってきて、読んでいるだけで重苦しい気持ちになる。
富も地位も権力も、全てを手に入れながら、それを息子に残してやれない無念さ・・・持てる者ならではの贅沢な苦しみのように思えるが、決してそういう話ではない。
秀吉の息子である以上、秀頼は否が応でも天下人の後継者という立場に置かれることになる。まだ幼ない彼から天下を奪い取ろうとする者は必ず現れるだろうし、そうなれば必ず秀頼は命をも奪われるだろう。
豊臣家という家に生まれた時点で、頂点を守りぬくか、或いは敗れて屍をさらすか、秀頼には二つに一つの道しかないのだ。
並の家に生まれていれば、そんな苦しみを背負うことはなかったのに・・・秀吉は、そんな茨の道を歩まねばならない我が子を案じて、死んでも死にきれない思いだったのではないだろうか。

勿論、誓紙を何枚集めようと、そんなものは秀吉が死んでしまえば全て反故になる紙切れ・・・それは、書いているほうも、書かせている秀吉本人も分かっていたに違いない。ただ、周囲に愚行と思われても、そうしないではいられなかったのだろう。
天下人ゆえの哀れな末期である。

◆芳春院(まつ)が、ままならぬ世の例えに挙げた秀吉の誓紙

前田利家の妻・芳春院(まつ)が、後年そんな秀吉の晩年を回想した書状が残っている。
関ヶ原合戦も終わり、征夷大将軍の座も家康から秀忠に譲られて、すっかり徳川の天下が定着し始めた1605年~8年頃、嫁いだ娘に書き送ったものだ。下に一部を抜粋している。

死にてのちの事まで申され候大閤さま
日本の衆に誓紙をさせ、いかほどの事、
仰せおき候へ共、みなみな無になり申候に、おかしき事どもにて候


※意味が通り易いように、仮名を漢字に置き換えている
(1605~1608年頃 前田土佐守家資料館所蔵文書)

この書状を書き送った頃、芳春院は江戸で人質生活を送っていた。前田家は、結果として徳川の時代にも大大名として存続したものの、この当時その地位は決して安泰なものではなかった。
芳春院の息子で前田家当主となった利長は、早々に母親を徳川家の人質に差し出し、関ヶ原でも東軍に付いたことで難を逃れたが、もう一人の息子・利政は西軍に付いて所領没収の憂き目に遭った。前田家では利政の復帰について再三願い出たが、家康は許さなかったようだ。
芳春院はこの書状の中で、利政のことに心を痛めつつも、「側にて人がいかほどいかほど精を入れ候ても、ならぬ事候」(周囲がどんなに力づけたところで、どうなるものでもない、の意か)と書いている。
家の存続のため、決して時代の荒波に呑まれぬよう、ただひたすら波が静まるまで耐え続けるしかない・・・そんな現状を綴った文脈の中で、上の秀吉の誓紙の話に触れ、「おかしき事どもにて候」と彼女は続ける。秀吉の哀れさをわが身にも重ね合わせ、自嘲気味に綴る文面から、芳春院の心に漂う無常感が伝わってくるようだ。

豊臣家最後の栄華の象徴となった醍醐の花見の日、まつは秀吉の女性たちに次ぐ最賓待遇のもてなしを受けた。日本中から集めたという桜の名木の花吹雪を浴びながら笑いさざめいた日のことが、もはや遠く空しい思い出となって、彼女の脳裏をよぎったのではないだろうか。

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秀忠と江の結婚は秀次事件の前に決まっていた

◆秀次事件の2ヶ月後の婚礼

このところ毎度の大河の話題。
前回の放送は、お江が秀吉に徳川家に嫁ぐよう命令され、
「お断りします!」
とキッパリ断言する辺りで終わった。このドラマのお江は、どうも史実に素直には従えないらしい。しかし、これまでのパターンでいけば、次回あたり江はあっさり嫁に行っている頃だ。結局のところ史実には逆らえない歴史上の人物だけに、江の史実に対する旺盛な反骨精神には、正直イラッとさせられることがしばしば。
ノーと言える戦国女性に自分らしい生き方を謳歌させたいのなら、主人公は史実に縛られない架空の人物にしておくのが正解だったかもしれない。

さて、徳川秀忠と江(秀吉の養女として嫁ぐ)の婚儀が執り行われたのは、文禄4年(1595年)9月。秀次事件の2ヶ月後のことだ。ドラマの中のお江は、事件後に初めて秀忠との結婚を言い渡され、寝耳に水の様子だったが、さすがに豊臣家と徳川家の縁組ともなれば、2か月やそこらでサクサク婚礼まで進むとは思えない。
天下の豊臣家から嫁を迎えるのだから、徳川家としては花嫁のための御殿を建築したり、事前準備にも相当な時間と費用を費やしたものと思われる。
そういう必要な準備期間を考慮に入れれば、秀次事件の前に婚儀の話は決まっており、事件のあった7月には、婚礼準備も既に佳境を迎えていた・・・と考えるのが自然な気がする。

◆秀次とは距離を置いていたお江

ところで、もしこういう順序で事が進んでいたのだとすれば、秀次は、生前秀忠とお江の結婚を知っていたことになる。
言うまでもなく、江は秀頼の叔母だ。その江が秀吉の養女として徳川家に嫁ぐということは、明らかに秀頼のための徳川家との関係強化を目的としたものだろう。当時秀吉と対立を深めていた秀次にとっては、実に不穏なニュースであったに違いない。
この時期、ドラマの江は聚楽第に住んでいるようだが、秀次のお膝下に住んでいながら秀次にとって面白くない再婚に向けて準備を進めていたとは考えにくい。秀勝の死後、江は秀次の聚楽第を離れ、秀吉の縄張りである伏見城または大坂城に住んでいたと見るほうがしっくりくる。(参考「江の生涯」福田千鶴著)
江にしてみれば、姉の淀殿こそが最も頼れる身内であったはずだ。亡夫の兄とは言え、姉夫婦と対立する秀次との交流は殆どなかったのではないだろうか。秀勝の忘れ形見である一人娘(のちの完子)は、ある時期から淀殿の猶子になっているが、これも、江の徳川家への輿入れを機に縁組されたのではなく、父親のいない不憫な姪のために、秀勝の死後間もなく淀殿が取り計らったことなのかもしれない。(或いは、秀次事件の絡みで、秀次の姪にあたる完子の身を事件から守るための措置だったのかもしれない。)
いずれにせよ、秀次事件直前には、秀忠もお江も、秀吉VS秀次の対立の様相の中で、はっきりと秀吉側の人間と見做されていたと考えてよいと思う。
秀次事件の前後、秀次から秀忠に「朝餉参らすべし」との誘いがあったと言い(「徳川秀忠」小和田哲男著による)、徳川家ではこれを秀忠を人質にとるための口実と見てすぐに秀忠を伏見へ逃がしたらしいが、それも、この時すでに秀忠が秀吉の婿になることが決まっていたと考えれば、よりリアリティーのある話になってくる気がする。

◆秀次事件とお江の再婚はワンセット?

江の再婚と、秀次事件。ほぼ同時期に起きた二つの出来事の時系列を追ってみると、どうもこの結婚は、秀吉にとって秀次事件への一つの布石であったように思えてならない
秀次事件の際、秀次の家臣たちのうちには聚楽第に籠城して秀吉に徹底抗戦することを勧めた者もあったと言われる。事の真相はともかく、この事件、一歩間違えば諸大名を巻き込んだ大規模な戦争に発展した可能性もあったことは事実だろう。現実には秀次は何ら抵抗せず秀吉の言うままに死を選んだが、必ずしもそういう波風の立たない顛末が最初から予想されていたわけではないはずだ。

波乱の事態に発展することを避けるには、事前にできるだけ大物を味方につけておく必要がある・・・そんな中で秀忠と江の縁組が強力に推し進められたことは、想像に難くない。この結婚が公表されれば、秀吉と家康との関係強化のアピールになるし、抵抗勢力の勢いを削ぐのに大いに役立っただろう。
事件の後、秀吉はすばやく諸大名に秀頼に対して忠誠を誓う旨の誓紙を書かせている(もっとも晩年の秀吉はかなりの誓紙好きで、何度となくこのテの誓紙を集めているのだが)が、秀吉の中で、こうした事件の後始末までの一連のシナリオが事前に組み立てられていたのだとしたら、秀忠と江の結婚も、そのシナリオの一環として進められたものではないだろうか。
もしかすると、結婚後江が女子を産み、その子を豊臣-徳川のかすがいとして秀頼に娶せることまでもが、既に想定されていたのかもしれない。
だとすれば、結婚の2年後に生まれた秀忠と江の最初の子(千姫)が女子であり、千姫と秀頼の婚約が成立したことは、まさに江の結婚に期待された成果だ。これこそ江の豊臣家に対する最大の貢献として、秀吉を満足させたに違いない。
江は秀吉にとって非常に協力的な義妹、かつ期待を裏切らない女性だった・・・と言えるだろう。勿論、江にしてみれば、秀吉のためではなく全て姉と甥のため、という思いだったのだろうが。
ドラマの中で江は、
「(秀次事件も、自分に徳川へ嫁に行けというのも)全ては拾(秀頼)のためですか」
と秀吉を責めているが、実際の江は、
「それが姉上と拾君のためになるのでしたら」
と模範回答で秀吉に従い、秀吉を喜ばせたのでは・・・浅井江は昔からそんな人物像で語られてきた人であり、恐らくそれが実像に近い彼女の姿なのではないかと思う。
もっとも、彼女の行動原理には常に三姉妹の絆を何よりも重んじるという基本線が貫かれていたように見える。姉妹の絆という心の支えがあったからこそ、天下人たちに翻弄される人生を、強くしなやかに生き抜くことができたのではないだろうか。

◆伏見での新婚生活

義兄の秀次とその一族が凄惨な最期を遂げた直後、江は伏見城下にある秀忠の屋敷に嫁いだ
一人娘を淀殿(当時西の丸殿)に託しての輿入れだったが、淀殿は伏見城にいたわけで、時には姉に会うという名目で伏見城を訪れ、娘の顔を見ることもできたのではないかと思う。
姉の全面的なバックアップを受けて、江は亡夫との思い出に区切りをつけ、徳川と豊臣の縁を盤石なものにするという新たな使命へと踏み出した。

新しい夫・秀忠は当時16歳。しかも、結婚当初は病気がちだったらしい(参考「江の生涯」福田千鶴著)。6歳年上の姉さん女房でもあり、すでに一児の母でもあった江の眼には、そんな秀忠がやや頼りない夫と映ったかもしれない。
が、その後二人が7人(福田千鶴説では3人)の子宝に恵まれたところを見ると、夫婦関係は総じて円満だったようだ。恐妻家で知られる秀忠だが、恐妻家は愛妻家の裏返しでもある。妻としての江は、恐らく幸せだったのだと思う。
周囲に流されて生きているようで、その実女の王道を手堅く歩んだ人生・・・江という女性の生涯を総括するとすれば、やはりその一言に尽きる気がする。

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【殺生関白】秀次事件は秀頼が生まれたから起きたのか?【豊臣秀次】

◆弟に見張られているドラマの中の秀次

「江~姫たちの戦国」の数回前の回で、江の夫・秀勝が、兄の秀次を監視するよう秀吉に命じられた・・・と江に語るシーンがあった。そのために、秀勝は聚楽第の秀次の屋敷の向いに住むことになったらしい。
一体弟に兄の監視役が務まるのか・・・はともかく、岸谷秀吉はどうやら北村秀次を信用していないらしいということは確かだ。この伏線が次回あたりに放送される(と思われる)秀次事件につながっていくことになるのだろう。

◆秀次事件 語られない秀次の罪状

秀次事件の全貌は、wikipediaに詳しい。1595年、秀吉は秀次に謀反の疑いありとして、関白の座を剥奪した上、切腹を命じる。秀吉の養子に迎えられてから4年足らず、二人の関係は最悪の形で破綻を迎えた。
この事件で特に凄惨なのは、京・三条河原で行われた秀次の妻子の処刑だ。三十数名に及ぶ妻子の遺骸はその場に堀った大穴に投げ込まれ、土を盛って塚にした上、「秀次悪逆塚」と刻んだ石塔が建てられた。
わざわざ「秀次悪逆」の文字を石に刻むという行為に、秀吉の執拗なまでの憎悪が窺い知れる。何かもう、常軌を逸した仕打ちだ。
これだけ苛烈な処分が行われたにも拘わらず、事件の発端となった秀次の「謀反」については、具体的にどんな行為があり、どんな証拠があったのかを伝える記録が全く残っていない。それもあって、現在では冤罪事件とする説が多数派のようだ。
ただ、個人的に気になるのは、冤罪かどうか・・・よりも、この事件と秀頼(拾)の誕生の関係のほうである。

◆秀頼誕生によって秀次が邪魔になる奇妙さ

一般には、天正19年(1591年)愛児鶴松に死なれ実子をあきらめた秀吉が、秀次に関白を譲ったことが事の発端と言われる。ところがその後、秀吉には新たに男子(のちの秀頼)が誕生し、秀頼の将来のために秀次が邪魔になりはじめた・・・というのが、ドラマなどではよく採用される流れだ。
しかし、秀次の関白叙任当時、秀吉・54歳、鶴松の生母・淀殿は20代前半。まだ十分第二子が望めるように見える。この2年後、56才の秀吉がお拾こと後の秀頼を授かるのは、決して想定の範囲外の話ではない
秀吉が鶴松の葬儀で相当錯乱していたことは当時の記録にも記されているところだが、そんな中で後先考えず秀次を後継にしたのだろうか。

ただ、将来実子を授かるにしろ、この親子の年齢差を考えれば、いずれにしても中継ぎ的な存在は必要だったと思う。秀吉は、秀次にそういう役割を求めて、彼を養子とし、関白の職を譲ったという可能性も考えられる。
当時、彼に或る程度冷静な判断力があったとすれば、次の男子誕生の可能性も視野に入れた上で秀次を後継に据えたはずで、秀頼誕生によってただちに秀次が邪魔になるということは考えにくい

◆秀次を殺しても、秀頼は関白にはなれない

第一、1595年時点で秀次を殺しても、秀頼がただちに関白を任官することはできない。関白は天皇の代理を務める職掌であり、慣例として成人でなければならないからである。実際、秀次の死後関白は空位のまま据え置かれ、関ヶ原合戦後、漸く九条兼孝が任官している。
少なくとも秀頼を関白のポストに据える上では、この時点での秀次の死はあまりタイミングがいいとは言えない
にも拘わらず、敢えてこのタイミングで秀吉は秀次を殺した。となると、秀吉が自らの死期をこの時悟っていたということでもない限り、秀頼の将来のためだけだけではなく、何かマイナス面を承知で秀吉に秀次殺害を決意させた別の要因があったように思えてくる。

◆秀吉と秀次 二頭体制が生んだ悲劇?

ところで、「多聞院日記」には、鶴松の葬儀の記事に秀吉が「天下ヲ中納言(秀次)殿へ御譲云々」と書かれている。「天下を譲る」とは、非常に意味の捉え方に幅のある表現だ。この言葉を聞いて、文字通り全ての権限を秀次に譲った、と捉えた人もいるだろう。
一方、「太閤さま軍記のうち」(太田牛一)などでは、秀次事件に関して、秀次の「謀反」という言葉を使っている。当時秀次に全権が譲られていたとしたら、天下人が引退した太閤に「謀反」はありえない
しかし、こういう表現になったのは、「太閤さま軍記のうち」が秀吉におもねった書だからというだけではないと思う。というのは、実際に秀次はあっという間に捕らえられ、切腹させられているからだ。この措置に対して抗議しようとした秀次の家臣たちも、連座させられている。
秀吉の力は、圧倒的に秀次の力を凌いでいた・・・ということは、この一事からも明らかである。

秀吉は秀次に関白の座を譲ったものの、意外に冷静に自分の力を温存していた。フロイスの「日本史」に、秀吉は秀次に天下を譲ったと言っても、「自らは権限、人々から受ける尊敬、支配力、所領等において何一つ譲ることも失うこともな」かった、と記されている通り、秀吉は決して秀次に「天下」を全て譲ったりはしていないのである。
秀吉にしてみれば、秀次は彼の傀儡に過ぎない・・・という感覚であり、だから、
「秀次めが謀反じゃ!関白を捕らえよ!」
と秀吉が叫んだとしても、周囲の者たちは何ら違和感を感じなかったのではないだろうか。
だが、一方の秀次は、自分の立場をどう見ていたのだろう。
関白という地位にある以上、自分は通常の関白の権限を有するものと考えるのではないか。本人のみならず、現関白である秀次こそ天下人と見て、秀次に擦り寄ってくる者も多かったと思う。
権限の境目が曖昧なこのテの二頭体制は、いつの時代にも、非常に脆く、亀裂が生じやすい。二人の間に亀裂を作って豊臣家を弱体化させようとする人間がいたとしたら、いともたやすく目的は達せられたのではないだろうか

もしも秀頼が生まれなければ、恐らく秀次は殺されることはなかったかもしれない。が、本来秀頼と秀次は並び立たない存在ではなく、共存する道はあったように思う。いや、むしろ秀頼にとって秀次は必要な存在であったと言っていい。なにしろ、秀吉の三人の甥のうち、この時生き残っていたのは秀次だけで、秀次とその子供たちだけが、秀頼にとって豊臣家の身内だったのだから。その二者共存の可能性を塞いでしまったのは、この秀吉と秀次の曖昧な二頭体制にも一因があったのではないか・・・と思う。

◆秀次事件を予見していた家康

事件前夜、諸大名たちの中にも、二人の間の不穏な空気を嗅ぎ取っていた者がいたようだ。
徳川家では、家康も秀忠も、事件直前まで聚楽第にいた。事件の2か月前に家康だけが江戸へ戻ることになった際、家康は秀忠の家臣である大久保忠隣に、
「秀吉と秀次が争うようになったら、迷うことなく秀吉の方に付け」
と言い残している。(「徳川秀忠」(小和田哲男著)による)

こういう話が出るということは、秀次サイドでも秀吉に対する何らかの動きがあったのかもしれない。
たとえその発端を作ったのが秀吉だったとしても、二人の力関係からすれば、秀次が動いた時点でそれは「謀反」と定義される。そういう受け身な形での「謀反」は、実際にあった可能性はある。

◆それだけではないものを感じさせる「秀次悪逆塚」の文字

それにしてもこの事件、上に書いたような二頭体制による亀裂がその一因であるとしても、そういう理屈で説明のつく話だけではない、何かもっと、どろどろした不条理な怒りが根底に渦巻いている気がする。秀吉を、秀次の妻子までも皆殺しにした上、その墓に「秀次悪逆塚」と刻みつけるほどの凶行に駆り立てた決定打となる事件が、別にあったように思えてならない。

一説に、秀次が「秀頼は太閤の子ではない」と周囲に漏らしたことが秀吉の耳に入り、これが秀次事件の原因になったという。
秀次のこの発言については、残念ながら全く史料的な裏付けはない。ただ、フロイスの「日本史」にも、多くの者は鶴松は秀吉の子供ではないと秘かに信じていたという記述があり、当時から巷でそういう噂があったことは確かだ。鶴松がそう思われていたのであれば、秀頼も同様だろう。
この噂は秀吉を非常に苦しめたに違いない。もし誰かが秀次を陥れるために「関白殿下がそのように申されておるとか・・・」と秀吉に囁いたとすれば、秀吉はどれほど怒り狂っただろうか。
秀吉の異常なまでに執拗で残虐な仕打ちは、何かそういう種類の怒りに裏打ちされたもののようにも思える。
勿論、全て憶測にすぎないが。

秀次事件の結果、豊臣の名を継ぐ男子は、秀頼とその子国松だけになり、その秀頼と国松も大坂の陣で落命して、豊臣家は完全に滅亡した。
もしも秀吉が蘇ってこの結末を知ったとしたら、自ら身内を根絶やしにしてしまったことに、どんな思いを抱くだろうか。

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「江~姫たちの戦国」 江は何故秀勝に嫁すことになったのか?

◆大河ドラマでは秀勝との結婚は朝鮮出兵直前だが・・・

「江~姫たちの戦国」では、文禄元年(1592年)に婚礼を挙げた江と秀勝。
結婚直後、秀勝は朝鮮出兵九番隊の大将として遠征に出ることになり、そのまま異国で病に倒れて帰らぬ人となる。
若干23歳の短い生涯、江との夫婦の縁も浅かった。
ただ、短い結婚生活にもかかわらず、お江は秀勝の子供を授かるため、秀勝の血は後世に受け継がれることになる。

しかし、実際にこの2人がいつ結婚したのかはっきり分かっておらず、1586年には結婚していたとする説と、大河ドラマのように1592年に結婚したとする説があるようだ。
もし、1586年に結婚していたとすれば、二人の間には比較的長い夫婦生活があったことになる。一体どちらが真相に近いのだろうか。

◆何故お江は秀勝に嫁ぐことになったのかが鍵

大河ドラマでは秀勝がお江の「面白きおなご」ぶりに惚れ、江も次第に秀勝に惹かれていくわけだが、現実の江と秀勝の場合は、どうだったのだろう。
江にしてみれば、何度も嫁に行かされることもさることながら、秀勝に嫁すということ自体に内心抵抗があった・・・という可能性はある。
というのは、よく知られている通り、秀勝は秀吉の姉の子で、当時こそ関白の養子として押しも押されぬ立場にあったが、出自は賤しい青年だ。さらに、秀勝は隻眼であったとも(誤伝ともいう)伝えられている。
最初の結婚相手の佐治一成のほうがはるかにいい・・・江がそう思ったとしても、不思議はない。
「何故、あのようなお人に嫁がねばならないのですか」
さすがに秀吉に対しては物申せないにしろ、姉たちにだけはこっそりと、不平を洩らしていたかもしれない。
さて、この時姉たちはどう答えただろうか? 
何故、江は秀勝と結婚することになったのか・・・ここに、結婚の時期の謎を解くカギがあるように思える。

◆茶々は秀吉が関白になった直後にはすでに秀吉の側室だった

ところで、本題に入る前に、これも長年謎とされていた茶々が秀吉の女性になった時期について触れておきたい。この問題も、江の結婚の時期と深く関連しているように思えるからだ。
以前は、長子鶴松の誕生時期から1588年頃という説が有力だったため、司馬遼の小説などでは、二人の妹たちが先に嫁に出されて茶々だけが後に残り周囲が心配していたところ、実は・・・という筋立てになっていた記憶がある。
ところが、最近の研究で、秀吉が関白に叙せられた翌年・1586年頃には茶々は「茶々の御方」と呼ばれていたことが分かった。この頃までには既に秀吉の女性と周囲にも認知されていたわけだ。

茶々が秀吉に嫁すことになった発端については、秀吉は信長の妹・お市の方に長年憧れを抱いていて、その娘である茶々を我が物にする機会を狙っていた・・・というのが物語の世界では通説のようになっている。が、実際にはそういう話とは思えない
秀吉の家臣の多くは旧浅井家の家臣と旧織田家の家臣だ。そのどちらにとってもかつての主筋にあたる茶々を娶ることは、秀吉の組織運営にとって非常にプラスに作用したのではないだろうか。
秀吉自身が信長の後継者として擁立したはずの三法師をさしおいて天下人となるにあたっても、茶々との関係は大きな意味があったと思う。
彼が新たに配下に組み入れた武将の身内を次々に側室に加えていったことはよく知られており、京極殿(京極高次の姉)しかり、宇喜多秀家の母お福しかりである。豊臣家に茶々を迎えたことは、それと全く同一の思考回路に基づくものと考えてよいと思う。
側室の多さから、秀吉は無類の女好きと言われているが、果たして本当にそうだろうか。彼の閨房を覗き見る限り、そこには政治が充満している。そういう意味で、三傑の中で唯一、自らの閨房に積極的に政治を持ち込んだ人でもある
さぞかしプライベートでも気の休まらない人生だったのではないだろうか。

◆すべて秀吉のエクスキューズのためのシナリオ?

そんな秀吉が、かつては織田家や浅井家に仕えていた家臣たちが注視している中、茶々の妹たちにはどんな縁談を考えただろう?

まず、茶々の妹で江の姉のお初のケースから見てみよう。
彼女は1587年頃に、京極高次に嫁ぐ。高次の母は浅井氏、初にとって高次は従兄だったが、それだけの縁ではない。この前年、高次は近江高島郡を秀吉にもらっていた。ここはかつて信長の甥・津田信澄の領地で、本能寺の変後は織田家の中心勢力だった丹羽長秀が支配したところだ。
この織田色の強い土地を、秀吉が本能寺の変では明智方に付いた高次に与えた時、旧織田方の諸将からは、「殿下は側室の京極殿に惑わされておるのでは」と不満の声があがったかもしれない。その不満を和らげるには、織田の血筋の姫を高次に娶せるのが一番効果的な解決方法だったのではないだろうか。

では、江の場合はどうか?
最初の佐治一成との結婚に関しては、秀吉ではなく信長の意向という説もあり、実際変則的に感じるため、ここでは除いて考えることにする。
ただ、二度目の秀勝との結婚については、茶々や初のケースと全く同じ発想に基づいていると言うことができる。
というのは、1585年に秀勝は丹波亀山城主となったわけだが、この領地も、秀勝という名も、同年に死んだ信長の四男で秀吉の養子に入っていた於次丸秀勝から受け継いだものだからだ。
この時秀勝は秀吉の養子に入ったばかりで家臣もろくにいなかっただろうから、彼は恐らく於次丸秀勝の家臣をも引き継いだのではないか。その家臣たちに反感を持たれず、円滑に「秀勝」を引き継ぐための手立てとして、秀勝と江の結婚は大いに役立ったのではないかと思う。
そう考えると、二人の結婚が1586年であればこそ、その必然性がくっきりと浮かび上がってくるように思える。
1586~7年頃と言えば豊臣政権発足当初であり、まだまだ秀吉としては織田家をケアしておく必要があった。たまたまこの時期に適齢期を迎えていた浅井三姉妹が、この秀吉の旧織田家対策にフルに利用されたことは想像に難くない

・・・以上の推測が正しいとすれば、上の場面で、茶々は嫌がる江をこんなふうに諭しただろう。
「そのように嘆くでない。今度は天下の豊臣ぞ。佐治のように名家でないのは口惜しかろうが、権勢は日の本一じゃ。それに・・・」
「それに?」
「それに、丹波はもとは我らが従兄の丹波少将殿がもの・・・織田のものじゃ。これから先も織田のものでなければならぬ、と殿下は仰せられておる。いずれそなたの子があるじとなれば、一族の者も家臣も喜ぶであろう、とな。どうじゃ、良いお方であろう、我が殿は」(ドヤッ
「あ、姉上・・・お幸せなのでございますね、姉上のそのようなどや顔、江は初めて見ました・・・」

◆江と秀勝の夫婦の絆は・・・

しかし、結婚が1592年か、それとも1586年かでは、二人の夫婦関係の濃度には大きな違いが出てくる。
1586年の結婚であれば、結婚後、秀勝が九州征伐の恩賞が少ないとゴネて所領を没収されるという大事件が起きることになるが、さすがにこの時は江も相当心を痛めたに違いない。この危機を夫婦でどう乗り切ったのか、ドラマ的には二人が絆を深める格好のチャンスでもある。

今回の大河ドラマで敢えて1592年結婚説を採用しているのは、恐らく茶々と秀吉のラブロマンスに重心を置くために江の再婚時期は遅いほうが好都合だったからなのだろうが(あるいは単に小和田説だから?)、そのために江の二度目の結婚の描写も、一度目同様かなり淡白なものになってしまったことは否めない。
江の生涯のひとつの大きな特色は、男の政治のために三度も結婚させられたという部分にあることを考えると、それぞれの夫とどう関わったのか、夫婦関係を見せるエピソードがもう少しほしいような気もする。

そうでなくても、最近ドラマの中で江は脇へ押しやられ、豊臣家内情の目撃者のポジションに固まりつつあるような・・・この先果たして江は主人公に返り咲けるのか? ちょっと心配な最近の展開ではある。
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