戦国万華鏡

別のブログを始めてしまい、なかなか復活できません。

足利義昭が見た戦国乱世

足利義昭が見た戦国乱世(8) 興福寺脱出

◆物語にならなかった覚慶の大逃亡劇

兄に弟、そして母親まで、肉親を一度に殺されたことを知った一乗院覚慶(義昭)が、その瞬間にどんな言葉を発したのか。
本能寺で死を覚悟した信長の「是非に及ばず」という短い一言(実際に本人の言葉かどうかは別として)が多くの人の胸を打ったのと同様に、もしその一言が残っていれば、義昭に降りかかった理不尽な運命に対して、もっと多くの人の共感が得られたかもしれない。
しかし、残念ながらこの時の覚慶の言葉、のみならずその後義昭となってからも、彼自身の言葉は記録に残されていない。
代わりに義昭の人物像を伝えるものとして注目されるのが、彼が全国の有力武将に自分を供奉して上洛せよと促した書状の数々。おかげで、自分は動かずに書状一つで人を動かそうとする無力なクセに尊大な男というイメージを持たれた義昭殿。が、彼の兄・義輝将軍も、書状一つで大名同士の境界争いなどの仲裁をしていた(しかも従わなくても幕府に制裁力はなし)わけで、室町幕府の場合は将軍直属軍が超弱小なのだから仕方がない。他力本願は末期室町幕府のお家芸であって、義昭の個性なわけではないのだが・・・

さて、肉親を一度に失い、当然次は自分が命を狙われることが予想できたにも拘わらず、一乗院から逃げることままならず、そのまま幽閉の身となった覚慶。恐らく、覚慶が京の事件を知った時には、既に一乗院は松永勢に包囲されていたのではないだろうか。
『言継卿記』などの史料には将軍義輝暗殺の現場に松永久秀はいなかったかのように書かれており、現場にいたのは息子の久通のみと見るのが一般的な解釈であるらしい。もしそうだとすれば、当日、久秀は初めから覚慶の身柄を拘束するために、興福寺に向かっていたのかもしれない。
この時期久秀は信貴山城にいたという見方もあるようなのだが、この二年前の永禄六年には多聞山城で茶会を開いているし、多聞山城と信貴山城を行き来していたのではないかと思う。多聞山城にいたのなら、興福寺は目と鼻の先だ。

しかし、覚慶幽閉中の状況や、その後のかなりスリリングであったはずの脱出劇について記した記録は、物語も含めて何もない。
軍記物に分類される『足利季世記』さえも、覚慶の一乗院脱出の詳しい描写はなく、単に脱出した事実が記されているだけだ。頼朝に追われた義経が、山伏に扮して安宅の関を通る『勧進帳』の物語は非常に良くできているのに対して、主役が義昭となると、軍記物の食いつきも良くない。

この時代の興福寺関係の記録と言えば当然『多聞院日記』の名が挙がるのだが、『多聞院日記』にも、どういうわけか覚慶が興福寺にいた時代の大半にあたる天文十九年(1550年)八月から永禄八年(1565年)七月末までの記録が殆ど欠落しており、この件に関しては全く役に立たないのだ。(永禄八年七月から記録は再開されているものの、文面から恐らく覚慶が一乗院を脱出した後に日付を遡って再開されたものと思われる。)
唯一、七月二十八日夜のこととして、
「一乗院、御離寺了、御落所翌日ニモシレス、甲賀ノ和多カ城へ被入了(一乗院覚慶が寺を離れ、逃亡先は翌日になっても分からない。甲賀の和田惟政の城に入ったようだ)」
とあるのみ。
これに続けて、
「去五月十九日将軍御生害、三十歳」
と永禄の変について触れているが、これだけの大事件でありながら首謀者の名さえ記さなかったのは、当時英俊の生家の十市氏が松永方に与していたためだろうか。

◆脱出の蔭に調略あり?

ただ、脱出後に覚慶が上杉謙信に送った書状の副(そえ)状の中で、大覚寺義俊(覚慶の叔父)が脱出の事情を少しほのめかしている。
これによれば、覚慶脱出劇には朝倉義景の貢献が大きく、交渉(「直談」)や調略を以て、脱出の手配をしたのだという。
「直談」「調略」と言われると、何となく、久秀も合意の上での脱出劇だったようにも思えるのだが、実際のところどうだったのかは藪の中だ。
一方、『細川家記』には、脱出に同行したのは細川藤孝であると書かれているらしい。
細川藤孝はその後義昭擁立の功労者と見做されているし、この記述は信頼できるのかもしれないが、仮に事実だとしても、和田惟政配下の甲賀者の手引きがなければ、夜間の山中強行軍はなしえなかったのではないだろうか。何しろ、命を狙われている未来の将軍を逃がすという逃亡劇。少なくとも、道中の警護には土地勘のある者をかなりの人数配備する必要があったに違いない。
もっとも、和田惟政は将軍義輝の奉公衆だったようなので、和田惟政が協力者として登場する経緯には、細川藤孝との人間関係が絡んでいた可能性はある。

興福寺から、目指す甲賀の和田屋敷(現在の甲賀市甲賀町和田)までは、直線距離でも45キロ程度はある。曲がりくねった山道だから、実際の距離は1.5倍以上ありそうだ。
覚慶一行がどんなルートを取ったのかは知られていないが、覚慶逃走ルートを推定した論文(財団法人滋賀県文化財保護協会 紀要21号「織豊期の甲賀」)があり、この推定では柳生を通っている。
しかし、当時柳生は松永方に属していたし、もし柳生を通ったのだとすれば、それこそ大覚寺義俊の「調略」という言葉がリアリティーを増してくる、或いは柳生を通らずに、安全に甲賀へ抜けるルートがあった可能性もあるが・・・

5歳で出家の道に入った覚慶が馬に乗れたはずもないし、一行は徒歩で走りに走ったのだろうか。当時は三好政権の時代、それに逆らう逃避行は、まさに命からがらの旅だったに違いない。
辛くも甲賀まで無事に辿りつき、和田惟政の屋敷に入った覚慶は、ここに四カ月近くとどまった。覚慶が逗留した屋敷の跡地は現在も残されており、今も「公方屋敷」と呼ばれている。当時覚慶は「公方様」=将軍ではなかったにもかかわらず、一乗院脱出直後から既に「公方様」と呼ばれていたらしいことが、この事実からもうかがえる。

◆覚慶逃亡と同時期に重なった松永長頼の死

余談だが、覚慶の一乗院脱出直後の八月二日、松永久秀の片腕だった弟の長頼が、丹波の黒井城攻めの最中に死亡している。この件は覚慶の脱出が比較的たやすく実現したことと直接の関係はなさそうだが、少なくとも脱走後の覚慶に対する捜索の手を緩める結果にはなったかもしれない。
ここで立て続けに覚慶を逃し、丹波を失ったことは、三好政権にとって後々ボディーブローのように効いてくる大失態となった。それがいずれも松永家の失態だったことは、この後三好三人衆と松永久秀の関係が悪化していくことと無関係ではなさそうだ。

ところで、(4)で覚慶の話相手として登場させた千手丸という架空の童子を、覚慶脱出に際して同行させるべきかどうか、迷った。
覚慶の弟の周嵩の場合、永禄の変当日に路上で殺された際、まだ少年と呼べる年齢(史料によって年齢はまちまち)の小姓を同行させていたことが分かっている。(この小姓が刺客の平田和泉を殺して主人の仇を討ったらしい。) この例を見ても、緊急事態に際しても若い小姓が付き添っていたようなので、千手丸も覚慶と共に一乗院を脱出し、覚慶改め義秋(還俗後義昭が最初に名乗った名)の小姓になった・・・ということにしておこうと思う。
(どうも千手丸君はあまり評判がよくないので、どうしても義昭にしゃべらせたい時にしか登場しないかもしれないが・・・)
もっとも、千手丸が随行するからといって、二人の男色関係に話が発展する予定はない。むしろ、個人的には一乗院時代も覚慶には女性関係があったのではないかという疑いすら持っているのだが・・・その件に関しては次回で。

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足利義昭が見た戦国乱世(7) 弔い合戦を謙信に押し付ける管領家

いろいろと所用が立て込んでいたので間が空いてしまったが、ひさびさに永禄八年に戻って来た。今回はちょっと(私の)リハビリっぽい内容で。

五月に将軍が殺されたというのに、その後、誰も将軍殺しの逆賊を討つ気配がない。
それどころか、張本人の一人である三好長逸は堂々と禁裏に参内しているし、生き残った奉公衆や奉行衆なども、さっそく三好・松永にしっぽを振ってご機嫌伺いに伺候している(言継卿記)。恐らく、のちに興福寺から覚慶(義昭)を脱出させた一色藤長なども、一旦は三好・松永派を装って三好邸や松永邸を訪れたのだろう。
それにしても、なんとも異常な事態である。
いくら、それまでも政権を牛耳っていた三好-松永一派が相手であるにしろ、将軍殺しともなれば、誰かしら打倒三好-松永に立ち上る者がいそうなものだ。
少なくとも管領家あたりには弔い合戦を呼び掛ける責任がありそうなものなのに・・・
と、思っていたところ、こんな書状が残っていたことが分かった。

天正八年(1565年)六月二十四日に管領家・畠山金吾家の家老(安見宗房)が直江政綱(兼続の義父)ら上杉謙信の家老に書き送った書状だ。
「(前略)三好仕様無念之儀候、善悪被申合、御弔矢被仕度覚悟候
於様躰者、従大御門跡様可被入仰候間
此度其御屋形様於御上洛者、天下御再興可為御名誉候
南方之儀者、此方屋形并同名新次郎被相催候(後略)」
要は、謙信に「此方屋形」(畠山高政のことか)(注)と共に弔い合戦をしないかと打診したものである。
もっとも、一緒に立ち上がる・・・というよりは、文面のニュアンスでは「そちらでどうぞお願いします。挙兵していただければ協力はします」という、消極的な姿勢がビンビン伝わってくる。
書状の別の個所には、「そちらの御屋形様(謙信)が上杉家家督を継いだ御礼に上洛されれば、きっと三好を御成敗されるだろうと巷で噂になっておりますよ」という、おだて文句まで加えられていて、これには、さすがの謙信も苦笑したに違いない。

結果から見ても、この後畠山氏が弔い合戦の旗をかかげて挙兵したという史実はない。当時畠山氏は三好方との戦いで河内を失うなど弱体化しており、また畠山家内の内紛に悩まされていたこともあって、到底単独で挙兵するような力はなかったのだろう。
この書状の使者が、「大御門跡様」、すなわち義輝・義昭の母方の叔父である大覚寺義俊である点からも、畠山氏が主体的に行動を起こそうとしたというよりは、恐らく大覚寺義俊のほうから「管領家が立ちあがってもらわねば・・・」と話を持ちかけられ、義俊の顔を立てて一応ポーズをとっただけだったのではないだろうか。
なお、上の書状の中で「御弔矢(弔い合戦)」とワンセットで語られている「天下御再興」は、この謙信への働きかけに大覚寺門跡が一枚かんでいることを考慮すれば、当然覚慶を将軍に擁立することを意味していると考えて間違いなさそうだ。

この書状からも、五月十九日の将軍暗殺から七月二十八日の覚慶(義昭)の興福寺脱出までの2か月余りの間、大覚寺門跡がアテになりそうな家を駆け回って、弔い合戦に向かわせようとしていた様子と、それに対してどうも積極的に話に乗る者が現れなかった当時の生々しい状況が見えてくる。

さてさて、いい加減そろそろ、松永勢によって興福寺一乗院に幽閉されている覚慶を、脱出させてやらなければならない。

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(注)『歴代古案』では「此方屋形」を六角承禎としているが、畠山高政と解釈するのが有力説であるらしい。

足利義昭が見た戦国乱世(6) 永禄の変と名族の興亡

◆義輝の側近・大舘晴光の死

「猶晴光可申候也(なお晴光申すべくそうろうなり)」
上杉家文書にある将軍義輝から謙信への書状には、最後がこう結ばれているものが何通かある。
この「晴光」とは、幕府内談衆の大舘晴光(おおだちはるみつ)のことである。当時将軍義輝に仕え、特に上杉謙信に対する上洛要請に尽力していた人物として知られる。書状にある通り、しばしば越後まで使者に立ち、義輝の意を謙信に伝える役目をしている。
以前将軍義輝の要請により永禄二年(1559年)上杉謙信(当時長尾景虎)が上洛したことを書いたが、その際にも晴光が謙信の饗応役を務めた。
義輝がしきりに謙信に上洛を促していた背景に、三好-松永勢力の排除という目的があったことを考えると、晴光が担っていた謙信との仲介という役目は、将軍の最重要機密に係る特命任務であり、恐らく三好-松永派には危険人物と目されていたであろうことは想像に難くない。
晴光の幕府内での形式的な地位は高くないが、彼が将軍に重く用いられていたことは、謙信が上洛した永禄二年、彼が従四位下を任官していることからも知れる。三好長慶も松永久秀も、官位は従四位下が打ち止めであり、つまり晴光は、官位の上では長慶や久秀と同格だったということになる。

大舘晴光が最後に謙信の元へ義輝の書状を届けたのは、永禄八年(1565年)三月の終わり、永禄の変の一カ月半ほど前のことだった。太陽暦では4月、越後の雪がようやく消えた頃を見計らって京を発ったのだろうか。
この書状の内容は、前々から進めていた謙信と北条氏康との和睦を促すもので、晴光の口上では、和睦を固め、早々に上洛を、という要旨のことが伝えられたのではないかと思われる。
しかし、その後両者の和睦は成らず、しかも越後から帰京した直後と思われる同年四月二十七日に、晴光は突然死んでいる。死因に関する記録はないが、越後まで使者に立ったほどだから、長患いの末とは考えにくい。半月後には将軍義輝も殺されていることを考えると、将軍周辺に緊迫感が高まる中での他殺だった可能性も十分に考えられるのではないだろうか。

◆永禄の変で消えた人々

大舘氏は新田源氏で、『太平記』にも名の登場する旧家である。新田義貞が足利尊氏に敗れた後、大舘氏は室町幕府に仕えるようになり、一族から多くの奉公衆を出している。
また、大舘氏の女性が将軍側室として閨房に入った例も少なくなく、八代将軍義政の乳母かつ側室(!)として権勢を誇ったと言われるかの今参局(いままいりのつぼね)や、同じく義政の側室佐子も大舘氏の女性だ。
三管四職のような重臣を出す家柄ではないが、大舘氏のような、将軍に近侍する役職を担う家柄の者が、時として将軍と強く結びつき思いがけず力を持つことは、古今東西を通じてよくある例である。
晴光の姉妹の一人もまた十二代将軍義晴の閨房に入っており、彼はその縁で義晴の子の義輝の側近として仕え、特命任務に尽力することになったと思われる。

しかし、永禄の変を境に、大舘氏は衰亡した。
『足利季世記』には、永禄の変当日の戦闘で落命した武士たちの名前を一部挙げているが、その中にも大舘岩千世丸という名の少年がいる。フロイス『日本史』には、三好-松永勢は御所を襲撃した後、「公方様の家臣なり友人は、どこで見つかろうとただちに殺され、その家財が没収された」とあり、御所で落命した者以外にも、自宅を襲撃されるなどして、命を落とした者が多かったのだろうか。

進士氏(この家がどういう家なのか、私はよく知らないのだが)も、大舘氏と同様に、永禄の変で没落または滅亡したのではないかと思われる一族だ。
『日本史』に「公方様の政庁の最高の貴人たち」の一人として「美作殿」という人物が登場するが、これは進士美作守晴舎を指している。彼の娘は将軍義輝の閨房に入っており、将軍との間に子供(女子)ももうけていた。つまり、進士晴舎は将軍の外戚ということになる。彼の娘は殊に将軍の寵愛が深かったようで、寵姫の父である晴舎も、当時御所内で勢いを持つ人物の一人だったのではないだろうか。
が、進士晴舎は永禄の変の当日御所で自害、義輝の側室だった娘も殺された。その後、進士一族がどういう顛末を辿ったのか・・・少なくとも歴史の表舞台からは姿を消している。

◆人材空洞化の中で台頭してきた人々

要は、この日まで将軍の側近として力を振るっていた人々、およびその一族の多くが殺戮にあったということであり、それまで幕府の中枢部にいた人々は、三好-松永派の者を除いて一掃されたと言っていい。
結果、三好-松永派にとって風通しのいい状況が作られたわけだが、この殺戮の結果として道が開けた人々は他にもいる。
一乗院で義昭(覚慶)が幽閉されていると聞き、彼を阿波公方義栄の対抗馬として担ぎ出すべく救出に向かったのは、細川藤孝、三淵藤英(藤孝の異母兄)、一色藤長らだが、もし大舘晴光や進士晴舎などが生きていたとしたら、この場面にいたのは彼らであって、細川藤孝らではなかったかもしれない。
細川藤孝らにしてみれば、図らずも(だったのかどうかは全く分からないが)、永禄の変という陰惨な事件の結果、自分たちにチャンスが巡って来たというわけだ。

室町幕府も江戸幕府同様に、開幕当初功労のあった家が中枢を占める硬直的な階層社会だが、応仁の乱以降は淘汰された家も多い。
その応仁の乱で衰亡していた一色家の藤長が、永禄の変では義昭救出の功労者の一人に名を連ねているというのも、面白い。藤孝が当主である細川(和泉上守護)家も、和泉半国守護ではあったが、この時代は衰退していた。
彼らにとって義昭救出は、勿論忠義心もあったにせよ、家名再浮上のチャンスという一面も間違いなくあり、彼らのモチベーションとしては恐らくそちらの比重の方が大きかったのではないだろうか。

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足利義昭が見た戦国乱世(5) 将軍謀殺(永禄の変)

◆義昭にとっての永禄の変

兄・13代将軍義輝が殺されるという凶事が、皮肉にも足利義昭を歴史の表舞台へと導くきっかけになったことは、よく知られている。永禄の変と呼ばれるこの事件がなければ、義昭は還俗して「義昭」と名乗ることも、歴史に名を残すことも、なかったに違いない。
だが、思いがけず光の当たる場所に引き出されたことが、果たして彼にとって幸運であったかどうかは、また別の話である。
この事件を境に、義昭の人生は文字通り一変した。
将軍家の次男として生まれおちた瞬間から、武家としての人生など決して望んではならない、ひたすら仏道に生きるべしと諭されて生きてきた彼が、突如、今まで遠ざけられてきた武家の世界で将軍を目指すことを求められたのだ。
もはや、彼に一乗院門跡として生涯を終えるという選択肢はない。将軍になるか、新将軍のライバルとして消されるか。そのどちらかしか、彼の前に道はなかったのではないだろうか。
将軍になりたいばかりに人を振り回し続けた人のように捉えられがちな義昭だが、彼こそ周囲に振り回され続けた、時代の犠牲者だったのではないか・・・そんな気がする。

◆当日の状況

永禄八年(1565年)五月十九日。
白昼堂々1万2千の兵を率いて将軍の御所を襲った三好三人衆らは、一気に室町幕府十三代将軍義輝を自害に追い込み、御所に火をかけた。
将軍謀殺という史上稀に見る事件・・・と言いたいところだが、足利将軍の謀殺はこれが二度目。途方もなく荒れすさんだ時代だった、という見方もあるし、この時代、将軍とは決して絶対的な存在ではなかったことの証とも言えるかもしれない。
この日、将軍とともに御所にいた生母の慶寿院も死に、また義輝の末弟で相国寺塔頭鹿苑院で出家していた周暠(16歳)も、三好らの命令を受けた平田和泉守(『年代記』に「阿波衆」とあるらしいが、どういう人物か不明)に誘い出されて殺害されている。

義輝は剣術家であった(来週から始まるNHKのBS時代劇『塚原卜伝』の主人公・剣豪塚原卜伝に奥義「一の太刀」を伝授されたとも言われる)といい、押し入ってきた敵方に自ら剣を抜いて立ち向かった。足利家秘蔵の刀を数本畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った様子が、『足利季世記』に記されている。
しかし、敵方1万2千に対して御所に詰めていた奉公衆らはわずかに2百人足らず、多勢に無勢で到底力及ばず、正午前には義輝は自害して果てたと言われる(なお、『足利季世記』では殺されたことになっている)。29歳の生涯、後継者となる男子はなかったようだ。

余談だが、足利家秘宝の剣と言えば、松永久秀が後年織田信長に贈ったとされる名刀・不動国行も、足利将軍家に伝わるものだったらしい。あまり気分のいい話ではないが、久秀が不動国行を手に入れたのは、もしかするとこの時だったのかもしれない。

◆永禄の変の謎1 何故覚慶(義昭)は殺されなかったのか

永禄の変については、恐らく多くの謎が残されていると思うのだが、永禄の変最大の謎として、ここでは興福寺一乗院にいた覚慶(義昭)が殺されなかったことを挙げたい。
三人衆らは、将軍義輝と末弟の周暠を殺したが、どういうわけか三兄弟の一人・覚慶だけは殺さずに、一乗院に幽閉するにとどめた。
この件について、『人物叢書足利義昭』(奥野高広著)では「一乗院門跡という権威が身の安全を保証してくれたのであろう」としているが、果たしてそれだけだろうか。
なにしろ、三人衆と松永親子は、将軍謀殺さえも厭わない人物である。将軍の母も、弟の一人も殺している。権威を怖れるような人種ではない。覚慶も周暠と同様に、誘い出して殺すという計画もあったはずだ。
覚慶を生かしておいたことが、後々反対勢力に勢いを与える結果になったことを考えると、何故覚慶を生かし、しかも2ヶ月後には簡単に脱出させてしまったのか、不思議に思えてならない。

『興福寺諸記録抜粋』には、覚慶を幽閉したのは、「松永方」と書かれている。一乗院の見張りは、三好ではなく松永久秀の手勢の者が行っていたと思われる。もしかすると、松永久秀には、当初から阿波公方義栄の対立候補として覚慶を立てる構想もあったのかもしれない。
実際、久秀は、将軍謀殺の半年後には既に三好三人衆+義栄と不和になっており、義栄が久秀討伐令を出す事態に至っている。覚慶の救出に動いていた細川藤孝らにあっさり覚慶を奪われたのは、藤孝らと久秀との間に、何らかの取引が行われたためだった可能性は、全く考えられないわけではない。

三好三人衆が、五月の義輝暗殺からすぐに義栄擁立に動いたわけではなく、十二月になって漸く義栄が四国から堺にやって来たというタイムラグも気になる。
この後、義継が松永方に付いて内紛が続くなど、状況はさらに混迷を極める。一体、彼らは何をしたかったのか、どうもスッキリと話をほどいていく糸口が見つからない。
単に非常に無計画に事が進められていたのか、それとも、いまだに知られていない事情が何かあるのか・・・ここでは疑問を提示するにとどめておく。

◆永禄の変の謎2 近衛前久は永禄の変に協力していたのか

永禄の変には、近衛前久も絡んでいたのではないかという説がある。前久は、後年起きた本能寺の変の黒幕候補としても名前が挙げられる人物で、、関白という立場にあったせいか、以前書いたような行動的な人物だったせいか、何かとスキャンダルに巻き込まれやすい体質の人だったようだ。
ただ、本能寺の変はともかく、永禄の変に関しては、前久は多少グレーなようにも見える。
というのは、変の当日、二条御所に押し入った三好三人衆(のうち三好長逸)は、将軍や将軍生母、側室(小侍従)は殺しているものの、前久の妹である将軍正室は救出して近衛邸まで送り届けている上、その後の義栄擁立に際しても、前久が積極的に尽力しているからだ。
この疑惑と関係しているのかどうか分からないが、後に義昭が将軍職に就いた直後、前久は義昭によって京都を追われている。

以前にも書いた通り、義輝・義昭兄弟と前久とは、従兄弟でもあり、義理の兄弟でもあるという親密な間柄であり、また義輝と前久は親しく酒を酌み交わす関係でもあったわけだから、普通に考えれば、前久が義輝謀殺に関わるなどありえない。
しかし、三好-松永サイドとしては、新将軍に朝廷から将軍宣下を受けさせるには、どうしても関白である前久の協力が不可欠であり、その下相談として、将軍は襲うが、妹に危害は及ぼさない旨の交換条件を前久に提示していた可能性はある。
いずれにしろ、一時期までは非常に親密なように見えた義輝と前久の関係が、こんな形で引き裂かれたのだとしたら哀しいことだが・・・

ところで、永禄の変の直前に、義輝周辺の或る人物が死んでいる。
この人物の死は永禄の変と恐らく関係していると思われるので、次回この点について書きたいと思う。

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足利義昭が見た戦国乱世(4) 多聞山城と義昭

◆大和の覇者・松永久秀

永禄の始め頃、興福寺一乗院の覚慶(義昭)はどうしていたのだろうか。
この時期の覚慶の動向については殆ど記録がなく、永禄五年(1562年)に一乗院門跡となっていたことが分かっているくらいだ。
ただ、この頃から松永久秀が大和に侵攻しており、興福寺もその戦に巻き込まれていたことは知られている。覚慶もその間、人馬の駆け抜ける音や、鬨の声、馬のいななき、銃声など、緊迫した戦の気配を間近に感じながら、眠れない夜を過ごしていたのではないだろうか。

永禄二年(1559年)、筒井順慶の拠点・筒井城を落とした松永勢は、勢いに乗って一気に大和侵攻を推し進めた。一時は南都の街も騒然としたはずだが、興福寺が直接攻撃に晒されることはなく、永禄四・五年頃には松永方が大和全域を掌握したものと思われる。
この頃、大和は興福寺のものと言われた時代はとうに終わっていた。赤沢朝経・柳本賢治・木沢長政等国外から侵攻してくる戦国武将が後を絶たなかったし、衆徒たちも次第に独立領主としての色彩を強めてはいたが、ただ、それでも松永久秀ほど目に見える形で興福寺による大和支配に楔を打ち込んだ者はいない。
久秀は、まず南都の景色を変えることから始めた。彼は、南都の人々が一日たりとも「霜台」(弾正台の唐名 久秀のこと)の名を忘れることのないよう、南都を見下ろす眉間寺山に、新たな城を築いたのだ。彼はこの城を、多聞山城と名付けた。

眉間寺山に築いたこの城が、何故「多聞山城」なのか。そこには、久秀の或るメッセージが込められているように思えてならない。
眉間寺山は、興福寺の真北に位置している。「多聞山」の「多聞」とは、明らかに多聞天(毘沙門天の別称)からとった名であるが、多聞天は北方を守護する戦神だ。つまり、彼は「我こそは興福寺の、いや興福寺に代わる南都の守護神」であることをこの名に込めて宣言したかったのではないだろうか。
さらに、眉間寺山に隣接する聖武天皇陵などの陵の上に出城を築いたことも、注目に値する。聖武帝は言うまでもなく東大寺の発願者であり、帝の御陵がその場所にあるのも、死後なお東大寺や南都を守護する意味合いがあったのではないか。その場所に足を踏み入れることは、長く南都の人々にとってタブーであったに違いない。
その禁忌を久秀はこれ見よがしに犯したが、誰一人抗議する者はいなかった。
多聞山城の築城によって、久秀は、彼が興福寺や東大寺を彼の足下に組み敷いた事実を、実に分かりやすい形で見せつけたのだ。

もう一つ、久秀は自らの大和支配の開始を印象付ける事業を行った。
永禄五年(1562年)八月、多聞山城のシンボル・四層櫓の上棟式を大々的に行ったのと前後して、彼は大和全域を対象に、徳政令を発布している。
その内容は、春日大社の収入の一部を放棄させ、寺が貸主になっている借金も(別当が貸している分を除き)例外なく棒引きにするなど、興福寺や興福寺と実質一体である春日大社にも大きな犠牲を強いるものだった。
徳政令は、しばしば「代替わりの世直し施策」として実施されることがあったようだ(『百姓から見た戦国大名』黒田基樹著)が、これはまさにそのタイプの徳政令と言えそうである。

もっとも、まだこの時点では、松永久秀の大和支配は確立したとまでは言えない状況だったようだ。
しかし、もし、この後織田信長さえ現れなければ、松永久秀が興福寺の大和支配に終止符を打っていたかもしれない。
のちに久秀自慢の多聞山城を破却することになる信長は、この時まだ濃尾平野を出ていない。

◆覚慶登場(フィクション篇)

永禄五年、初秋の日の昼下がり。
興福寺の五重塔の周囲に、長刀の柄を地面に突き立て、腰には刀という物々しいいでたちの僧兵が、四方の面に一人ずつ、二対の仁王のように立ちつくしている。
塔の守衛か・・・と思いきや、時折チラリと塔を見上げるそぶりから、どうやら塔に登っている貴人を護衛しているらしい。
花の乱義尋1その貴人とは・・・言うまでもなく、一乗院門跡・覚慶である。興福寺に入って20年、彼は25歳になっていた。
「で、城はどのようであったと?」
覚慶は、塔の北面から、完成したばかりの多聞山城を眺めながら、後ろに控えている千手丸に、多聞山城の噂話を聞いていた。千手丸は、二年前から覚慶の側で雑用を務めている童子である。
「はい。祝いの酒を届けた了俊殿のお話では、信じられぬのですが、多聞山城の城の石積みには、もとあの山にあった寺の五輪塔やら墓石まで無残に立ち割られて使われておるそうでございます。皆、霜台は人ではない、天魔じゃ、と申しておりまする」
興奮気味に話しながら、千手丸は端正な顔をしかめた。本当は、もっと多くの話を聞いていた。城内の壁には全て黄金が塗られており、柱は美しい牡丹の彫刻が施されている上にやはり塗金されていること、その黄金の放つ輝きで、城の中は灯りがなくても人の顔がはっきりと見えるほどだということ、床は驚くほど滑らかで節一つないこと・・・など。しかし、僧坊で皆が眼を丸くしながら聞いていたその肝心な部分を、千手丸は覚慶には話さなかった。子供心に、それは主人の機嫌を損ねる話であることを察していた。

もっとも、その城の素晴らしさは遠目にもよく分かった。陽の光を受けて輝く外壁の白さは、くすんだ色合いの南都の街には不相応なほど鮮やかだったし、何と言っても、これまで誰も見たことの無い四層櫓には、防御機能もさることながら、人の目を奪い畏敬の念を催させる構造美が尽くされていた。
内部もきっと贅を極め趣をこらしたものに違いない・・・覚慶はそう思ったが、彼もまたそれを口にはしなかった。
「天魔か・・・しかし、私が一番恐れているのは、あの城の近さよ」
覚慶は千手丸に目で合図して、彼にも窓のそばへ来るように促した。
「こう近うては、あの城を攻める者があれば、必ず興福寺も東大寺も巻き込まれる。火をかけられるやもしれぬ」
「興福寺を焼くのですか? そのようなこと・・・」
神仏が許しましょうか、と言いたげな眼で、千手丸は覚慶を見上げる。
「現に一向一揆に焼かれたこともある。しかも、今度は天魔が相手じゃからな」
「もし興福寺がのうなったら・・・」
「ハハハ、たとえ全て灰になっても、興福寺がのうなることなどあり得ぬよ」
そう言いながら、覚慶はふと、心の奥底から、自由になりたい、という渇望が強く湧きあがるのを感じた。類い稀なほど恵まれた境遇に暮らしているにもかかわらず、彼は時々、自分が美しい駕籠に閉じ込められた鳥に過ぎないように思えて、息苦しさに叫びたくなることがある。
「もし興福寺がのうなったら、どこぞの山里に庵を結んで、気ままに暮らすのもよいな。都からは遠いほどよい」
「私は・・・興福寺の他には、もう行くところはありませぬ」
覚慶の言葉に、千手丸は顔を曇らせた。千手丸の両親は戦乱で行方不明になっており、彼は12歳にして天涯孤独だった。
「そうであったな・・・では、その時は、身も私と一緒に来るか」
「まことにございますか?」
覚慶も千手丸は、少しの間はしゃいで田舎暮らしをあれこれ思いめぐらした。しかし、千手丸には覚慶が何故楽しげなのか、不思議に思えた。
田舎暮らしなど、今の覚慶の暮らしに比べたら、一つもいいことはない。しかも、京に帰れば将軍の弟であるというのに・・・
「しかし、ご門跡様は公方様の御弟君ゆえ、興福寺がのうなれば、武家にお戻りあそばすのでは・・・」
千手丸にしてみれば、殆ど無意識に口をついて出た言葉だったが、次の瞬間、覚慶の眼がかつて見たこともないほど暗く沈んだ色を帯びたのを見て、背筋を凍らせた。
「そのようなこと、私に許されると思うか」
何か、余計なことを口走ってしまったのだろうか・・・怯えている千手丸を見て、覚慶は、安心させるように笑顔になると、身をかがめて千手丸の手を取り、こう言った。
「よいか千手丸。身と私自身のために言っておく。今後二度と、私が武家になるなどと口にしてはならぬぞ。たとえ戯言であってもな」
千手丸は、この時誰も知らない覚慶の孤独を垣間見たような気がした。

(覚慶は一時期を除いて基本的に歴史の傍観者なので、彼がどんな眼で歴史を見ていたかは、フィクションで補うしかないのかな・・・という結論に至りました。千手丸は覚慶の本音を引き出すための架空の人物です。)

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画像は「花の乱」の足利義視(佐野史郎)。義昭役ではないので遠目でだけ使わせていただいた。
どちらかと言えば義昭として登場する人物よりも、このドラマの義視あたりの人物像が私のイメージしている義昭像に近い。
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