戦国万華鏡

別のブログを始めてしまい、なかなか復活できません。

江戸時代

徳川家光妾腹疑惑~その答えは竹生島にある(かも?)

久しぶりにブログを再開しようと書き始めたら、丁度、以前に書いた『徳川家光は侍妾の生んだ子?「江の生涯」』にコメントをいただいた。
この話題は「家光は江の実子ではない」というとにかくセンセーショナルな内容だけに、私の記事の中では一番コメントが多い。コメントをいただいたおかげで思い出したのだが、昨年滋賀の竹生島宝厳寺を参拝した際に、この話題に絡む面白いものを見つけたので、そちらを先に書いてみることにした。

◆浅井氏と竹生島信仰

竹生島は琵琶湖に浮かぶ神の島だ。
古来信仰の対象となってきた島で、現在も宝厳寺と竹生島神社の仏殿・社殿が建ち並ぶほかは原生林に覆われ、人が住むことさえ許されない聖域とされている。
島の周囲は削り取られたような険しい断崖絶壁を成しているが、驚いたことにその断崖は湖底まで続いているのだという。島周辺の水深は深く、100メートル前後もあるとか。つまり、湖底から突き出た100メートルにも及ぶ岩の柱・・・それが、竹生島なのだ。まるで深い湖底から神の手で掴み上げられたような、不思議な島。水深が深いだけに、島の周囲の湖水は碧とも蒼ともつかない独特の濃い色合いを湛えていて、それがまたこの島の神々しさを、より一層引き立てているように見える。
信仰が生まれる場所にはそれ相応の理由があるのだとすれば、竹生島にはその理由が十分にあると言えるだろう。

現在竹生島に参拝するには、湖岸のいくつかの港からフェリーが運航されているが、そのうち最もポピュラーなのは長浜港からのルートである。「戦国武将の竹生島信仰」(竹生島宝厳寺・長浜市長浜城歴史博物館編)によれば、長浜(長浜は秀吉が長浜城を築城した際に改名させた名で、それ以前は今浜と呼ばれていた)は「竹生島の門前町」であり、古くから竹生島参拝者で賑わった土地という。
そう言えば、竹生島は琵琶湖の東北岸に近く、現在も長浜市に属している。また、島にある宝厳寺・竹生島神社の位置も、島の南東、すなわち長浜側に配置されている。地理的な面でも、竹生島が、往古から長浜と深い関係にあったことが窺える。
戦国時代、この長浜(今浜)を支配していたのが、徳川秀忠の妻・江の生家である浅井氏だった。
浅井氏は竹生島の領主であるとともに熱心な信仰者でもあり、有力スポンサーでもあった。
毎年六月に行われる蓮華会(れんげえ)と呼ばれる雨乞いの儀式では、浅井氏が幾度となく頭人(祭典の執行者かつスポンサー)を務めていたことが、宝厳寺に残る古文書に記されている。当時、宝厳寺蓮華会の頭人は、浅井郡出身者の中から選ばれるのが慣例であり、そういう意味でも、浅井郡の支配者である浅井氏は最も頭人にふさわしい一族だったわけだ。

◆浅井氏滅亡後、豊臣家・徳川家へと受け継がれた竹生島信仰

しかし、北近江における浅井氏の支配は、長くは続かなかった。
天正元年(1573年)、織田信長の攻撃により浅井氏の居城・小谷城は落城、城主であった浅井久政・長政親子は共に自害し、長政の妻で信長の妹のお市の方は、三人の娘とともに助け出される。
やがて成長した浅井家の三姉妹たちは、豊臣家、京極家、徳川家に嫁ぐが、嫁した後も彼女たちは生家浅井氏の氏神を祀る竹生島への信仰を、決して忘れてはいなかったようだ。
竹生島宝厳寺には、豊臣秀頼が寄進した伽藍(もとは豊国廟の建造物)が残されており、また徳川家の大奥から寄進された品々なども数多くあったことが伝わっている。これらの寄進は、浅井氏から嫁いだ豊臣秀頼生母の淀殿や、徳川秀忠の妻・江の影響によってなされたものと考えて、まず間違いないだろう。

ところで、竹生島宝厳寺には、あの徳川家光が寄進したと伝えられる蒔絵三重塔も現存している。

◆家光と竹生島を結ぶものは江の血以外にない

家光は江の実子ではないというウワサを耳にしたことがある人間にとっては、この三重塔の存在は驚きだ。
何故、実の母でもない女性の生家が信仰していた寺に、彼は三重塔を寄進したのだろうか。
・・・いや、江が実の母であったからこそ、家光自身にも浅井の血が流れているからこそ、三重塔を寄進した・・・そう考えるのが最も自然だ。
勿論、「家光が寄進したと伝えられる」というだけで、それが事実であるという確証はどこにもない。
ただ、もしこの三重塔が実際に家光が寄進したものであった場合、「江の生涯」(福田千鶴著)に書かれている家光が江の実子ではないとする説は、見事に覆されることになるのではないだろうか。
塔は本来仏陀の舎利を祀る場所。宝厳寺に寄進するにあたって家光が敢えて塔というアイテムを選んだのは、先祖供養の意味があったのではないか・・・と思う。
仮に別の意味があったとしても、自分の生母でもない女性の生家が信仰していた寺に、わざわざ寄進などしない。家光と竹生島を結ぶもの・・・それは、母親のお江の血、すなわち浅井家の血のえにし以外には考えられないはずだ。

もっとも、塔を寄進したのは、実は家光ではなく弟の忠長の間違いではないのかという可能性を指摘する人もいるかもしれない。最近になって、忠長が母・お江の死後、彼女を祀るために厨司(崇源院宮殿)を作らせていたことが厨司の解体修理で見つかった書き付けで証明されてもいるし、忠長が非常に母親思いであったことはよく知られているからだ。
ただ、少なくとも竹生島に残る三重塔の寄進者が忠長であるとは、まず考えられない。
祐天寺にあった崇源院宮殿は、忠長が生前、自らの領地である駿府に安置していたものらしい。彼が独自に母の供養をすることも、彼の領内で行ったものであるからこそ、辛うじて許されたのではないだろうか。
領地を遠く離れた近江の竹生島に忠長が三重塔を寄進するといった、あたかも自身が江の実子の代表であるかのような振舞いは、父や兄が到底許されなかったに違いない。
寄進者が家光ではなく忠長の間違い・・・ということは、まずありえないのではないかと、私には思える。

結局、三重塔について詳しい調査がなされない限りは、全て推論にすぎない話だが、仮に調査がなされた結果三重塔が実際に家光の寄進であることが証明されれば、「秀忠が侍妾に産ませた子」とも「家康と春日局の子」とも言われる家光の出生の謎論争の解明に向けての、大きな一歩となることは間違いない。
長年にわたって物議をかもし続けている家光出生の疑惑に絡む話だけに、ぜひ宝厳寺にも本腰を入れて調査していただきたいものだ。
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徳川家光は侍妾の生んだ子?「江の生涯」

江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)江の生涯―徳川将軍家御台所の役割 (中公新書)
著者:福田 千鶴
中央公論新社(2010-11)


◆「秀忠-江の実子は千・初・忠長のみ」という新説

九州産業大学・福田千鶴教授の著書。
殆ど人物像を知る手掛かりの残されていない徳川秀忠の正室・江の生涯を追いかけた正統派学術本である。
ただし、かなり斬新な説もちりばめられている。その最たる目玉が、徳川家光は秀忠の正室・江(与)の子ではない」という新説の提唱だ。
「家光は秀忠の子ではなく家康(と春日局)の子」という奇説は以前からあるが、「父親は秀忠であっても母親は江ではない」という説は全く新しい。母に愛されない苦悩・両親に溺愛された弟忠長との確執が前半生に暗い影を落とした家光の人物像にまつわる話題だけに、また、徳川将軍は7代までは織田家の血筋という常識を土台から覆す話だけに、本題の「江の生涯」そっちのけで俄然気になるところだ。

もっとも、この本では、「家光の母が江じゃないとすれば、じゃあ一体誰が家光を産んだのか?」という、誰もが抱く当然の疑問については、残念ながら言及していない

なお、福田教授の説によれば、家光のみならず、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、京極家に養女に出した初、長じて家光と骨肉の争いを展開することになった忠長以外の江の子供たちは皆、江ではなく秀忠の侍妾が生んだ子であるという。

◆家光の誕生日を誰にも話さないように命じていた江

さて、江が家光の生母ではないという説の根拠となっているのは、江が「家光の誕生日を誰にも話してはならない」と周囲に命じていたこと。
或る時、金地院崇伝が家光のために祈祷を行う目的で、春日局に家光の誕生日を尋ねたが、江の意向という理由で聞くことができなかったという。
家光の誕生日が慶長9年(1604年)7月17日であることが崇伝に伝えられたのは、江の死後のことだった。

しかし何故、家光の誕生日を江が隠していたことが、家光が江の子ではないという話につながるのか
それは、家光が生まれる前年の慶長8年、江は千姫の婚礼のために大坂にいて、秀忠とは離れて生活していた時期があるため。家光の生まれた日によっては、どう考えても計算が合わなくなる・・・福田説はここに着目している。

千姫が大坂城に入ったのは、慶長8年の7月。これに先立つ5月頃、江と千姫は江戸から伏見に上った。
福田教授によれば、この婚礼の直前に江は伏見で四女の初を産んでいる。(初は伏見から直接江の姉の嫁ぎ先・京極家に養女に出される)
初に関しては慶長7年生まれとする史料(「幕府祚胤伝」・「徳川幕府家譜」)があるにもかかわらず、これを敢えて「誤り」と断言した上での慶長8年説だが、その根拠は何故か記されていない。
どうもその辺がすんなりと読みにくい本なのだが、とにかくこの説を前提とすれば、江は家光が生まれる丁度一年前に初を生んでいる上、さらに福田説によると、江は慶長8年10月頃まで伏見にとどまっていたのだという。
一方、この間秀忠が大坂方面へ上った形跡はない。
こうした中での翌慶長9年7月の家光誕生・・・日程的には、不可能とも言い切れない微妙なラインだ。
が、当時、秀頼と千姫の婚礼に大坂に出向かなかった諸大名は、江が江戸へ戻り次第秀忠夫妻への挨拶に伺候することとされており、江が江戸へ戻った時期は人々の記憶に強く印象づけられていた、だから家光の誕生日が分かればすぐに江の子かどうかが露見したはず・・・という流れで、本説は展開されていく。

◆慶長8年10月まで江が伏見に留まっていたという根拠

ここで、家光が江の産んだ子ではないとする根拠を再度箇条書きで整理してみよう。
①家光が生まれる丁度一年前の同月(慶長8年7月)に初が生まれている
②江が千姫の婚礼のために伏見に滞在していた期間、秀忠は大坂・伏見へは行っていない
③江は慶長8年10月までは少なくとも伏見にいた
④江がいつ江戸に戻ったかは誰もが知っていた。したがって、家光の誕生が計算が合わないことを悟られないために、彼女は家光の誕生日を秘密にしていた

このうち①については、世の中に年子の兄弟姉妹は珍しくないから、家光が江の子ではないという根拠として単独で成り立つものではない。
②④については、将軍と御台所の所在が周囲に正確に把握されているであろうことに関して、否定する要素はない。
ただ、②は③と対になって初めてこの説の根拠として成立しうるのだが、③に関してはどうか?

もし千姫の婚礼後すぐに江が江戸に戻ったとすれば、家光が翌年の7月に生まれたとしても何ら疑問はない。福田教授いわく江にはファーストレディとして重要な役割もあったのだから、できるだけ早く江戸に戻る必要があっただろう。
にもかかわらず、福田教授が「江は10月まで伏見にいた」とするのは、次の二つの史料に基づくものである

ひとつは、東寺長者の義演が日記に、この年の10月6日に江(「江戸の女中」)から杉原紙(すいばらがみ)を贈られたと書き残していること、もう一つは「言経卿記」の10月9日の条に、「本願寺光昭の正室の乳人が江に奉公することになり、近々江戸へ下向する予定とのこと」と書かれていることだ。
乳人の件について、福田教授は、「江とは別々に下る可能性もあるが、付き添って江戸に下ると考えるほうが自然」としている。

しかし、江は江戸に戻って義演に杉原紙を贈った可能性もあるし、乳人についても、江が乳飲み子を連れて江戸へ帰るのならともかく、伏見で産んだ初はそのまま京極家に預けているのだし、新しい乳人が江一行とは別に江戸へ下向したとしても何ら不自然ではないはずだ

こうして見ると、いずれも根拠としては弱いものでしかない。

◆子の誕生日を秘す母の愛情

江が家光の誕生日を隠したのは、果たして家光の出生の秘密を知られないためなのだろうか? 
それとも、別の理由があったのか? だとすれば、一体江は何故、そのような行動をとったのだろうか。
理由はさまざまに考えられると思うが、本書の中にそのヒントを見つけるとすれば、金地院崇伝が「祈祷をするために誕生日を聞いた」という部分にもひとつ手掛かりがありそうだ。
名前と誕生日は、現代でも当人を特定するための重要なキー情報。当時もその点は同様だろう。
だから、名前と誕生日が分かれば、その人物のために祈祷ができた。つまり裏を返せば、その人物を呪詛することも可能だったわけだ。

家光は未来の将軍という選ばれし者。命を狙われる可能性は当然ある。しかも夫・秀忠には幸松(のちの保科正之)という庶子もあり、家光(や忠長)の死が幸運につながる人間も現に存在していた。
我が子の身を案じる母親が、息子が呪詛される可能性に過敏になっていたとしても、不思議はない。
実際、家光の弟・忠長の誕生日も諸説があるらしく(本書による)、彼の誕生日も兄同様に伏せられていた可能性は高いのではないだろうか。

逆に、もし家光が江の子ではなく、しかもなんとしても江の子に見せかける必要があったとすれば、江一人で誕生日を隠すのではなく、組織的に「計算の合う」誕生日が捏造されたのではないだろうか。そうでなければ、余計不審に思われるだけだ。
江自身にしても、実の子でもなく養育も乳母任せの義理の息子であれば、誕生日を捏造することへの抵抗感は薄かったのではないかと思う。
頑なに誕生日を隠すという行動自体、実母ならではの深い愛情に裏打ちされたものにほかならないように思える。
福田説、事実だとすれば非常に面白いのだが、根拠の弱さもあって、すんなりとは受け入れがたい。今後の専門家の反論を待ちたいところだ。

それにしても、「江の生涯」というテーマの本でありながら、読後は家光の出生に関する新説ばかりが記憶に残ってしまった。
こんなところにも、素顔や肉声を感じさせるエピソードが殆ど伝わっていない江という女性の存在感の薄さが、図らずも表れているのかもしれない。

この記事の補足記事
徳川家光妾腹疑惑~その答えは竹生島にある(かも?)

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「護国女太平記」 徳川綱吉殺害事件

◆綱吉は正室に殺されたというまことしやかなスキャンダル

護国女太平記2三代家光以降、徳川将軍の正室は、幕末の例外を除いて公家・皇族から迎えられるようになった。
政略結婚の上に、異文化コミュニケーション(?)という二重苦ゆえか、将軍と正室の仲は不仲あるいは疎遠だったと伝えられる。

綱吉とその正室・鷹司信子の場合も、御多聞に漏れず不仲をささやかれた。
もっとも、夫人が将軍を殺したというフィクション作品まで作られてしまったのは、この夫婦だけだ。
信子の墓には死後も赦されない罪人の印として金網がかけられていた・・・という話までもまことしやかに流れているのだから、随分念が入っている。
金網の件についての事実確認はできていないが、仮にそれが事実であったとしても、そのことと綱吉殺害事件の真偽との関係は、再考してみる必要がありそうだ。

◆「護国女太平記」に書かれた信子による綱吉退治

綱吉は正室信子に殺された・・・という「ウワサ」を織り込んだ物語はいくつかあるようで、「護国女太平記」(作者不詳 江戸時代)もその一つ。
内容的には、漢文でいかにも真実らしくゴシップを記した「三王外記」(筆者訊洋子は太宰春台とされている。「三王」とは綱吉・家宣・家継のこと)が下敷きになっているように見えるのだが、少なくとも「護国~」はどこから見ても正統派の娯楽読み物である。
この話、なかなかの人気作品だったらしく、明治になってからも綺麗な挿絵入りで出版されたり、歌舞伎になったりした。

「護国女太平記」と銘打たれてはいるものの、この話の柱はいわゆる「柳沢騒動」で、実質的な主人公は柳沢吉保だ。
護国女太平記策略家の柳沢吉保は、読書が趣味の生真面目な綱吉に、自分の妻(!)おさめをはじめ次々に美女を献上して次第に酒色に溺れさせ、政治から遠ざけて、まんまと自らが実権を握っていく。
一方、おさめは首尾よく綱吉の子・吉里を出産。形の上では柳沢家の長男である吉里を将軍職につけ、さらに権勢をほしいままにしようと、吉保は画策する。
そんな彼の陰謀の犠牲になった者は数知れず・・・とまあ、こんな具合に話は進む。

「護国~」は柳沢の妻の名前をはじめほぼ完全なフィクションで、柳沢吉里が綱吉の子ということに関しても、信憑性は限りなくゼロに近い。ただ、登場人物が殆ど実在の人物であるだけに、史実と虚構がためらいもなく捏ね合わされた結果、まるで全てが真実であるかのようにも見える・・・というタチの悪い代物だ。
情報化社会の現代なら、TBSの某ドラマを観て水戸黄門こと徳川光圀が世直しの諸国行脚をしていたと信じ込む人はさすがにいないと思うが、江戸や明治の頃には、柳沢吉保を「護国~」に書かれた通りの悪人と誤解する人も少なくなかったのではないだろうか。

さて、「護国~」のクライマックスは、柳沢の陰謀がついに実を結び、綱吉が(甥の綱豊の次の)後継者として柳沢吉里を西の丸に入れる決意を正室信子に打ち明ける場面。
話を聞いた信子は驚き、そんなことが現実になったら国が乱れるのは必須と、事態を未然に防ぐため、持っていた短刀で将軍の胸をグサリ・・・
御台所による将軍殺害事件という、衝撃の顛末だ。
綱吉の後を追って信子も自害。
かくして柳沢吉保の陰謀は水泡に帰し、賢女剣をもって国を護る、あっぱれなり・・・というわけで、柳沢騒動に始まった物語の結末は、「護国女太平記」というタイトルにうまく帳尻が合うわけである。
かすかにひっかかるのは、何故柳沢吉保は無事で綱吉だけが成敗されねばならなかったのかだが・・・

◆綱吉は麻疹(はしか)養生中に食べ物を喉につまらせ死亡、鷹司信子は天然痘が死因

江戸城の奥深くで営まれる将軍の私生活、真相は知るすべもないが、こんなウワサが流れたのは、一つには綱吉が急死し、その翌月に信子も亡くなるという、一見因果関係ありげに見える二人の死のタイミングも影響していると思われる。

しかし、護持院隆光や柳沢吉保側室の日記によれば、綱吉は麻疹養生中に食物を喉に詰まらせて急死、信子は痘瘡(天然痘)が死因とのこと。二人の相次ぐ死について、特に不審気な表現はされていない。

◆鷹司信子の実像

信子の生家である鷹司家は、五摂家のひとつで公家でも最高の家柄。父は左大臣、兄は関白、そして妹は霊元天皇の中宮という、文字通り華麗なる一族だ。
信子自身は、1664年、13歳で舘林宰相綱吉の妻となった。(一説に当時22歳だったともいう)
綱吉の父家光の正室である鷹司孝子は信子の大叔母にあたる人で、結婚当時存命だったから、信子にとっては心強い味方だったに違いない。
ただし、孝子は家光に冷遇された人だっただけに、信子も将軍正室という立場に夢を持って嫁いできたというよりは、家のため、朝廷と幕府の橋渡しのため、という義務感のほうが強かったのではないだろうか。

良好な関係だったと伝えられる霊元天皇と綱吉との交流にも、信子はじめ鷹司家が一役買った可能性は高い。
正親町町子の「松蔭日記」によれば、吉保は「護国~」で綱吉の落胤とされている息子の吉里ともども、霊元院(退位後の霊元天皇)の和歌の添削指導を受けていた。

また、同じく「松蔭日記」には、信子が、柳沢吉保の正室・定子を江戸城に招いて饗応したこと、その場には綱吉と別途参内していた吉保も顔を出したことが記されている。
「松蔭日記」の正親町町子を吉保の側室に斡旋したのも、信子だという説もあり、これらが事実だとすれば、信子はファーストレディーとしての社交も卒なくこなしているわけで、夫綱吉と特別不仲だったとは思えない。
少なくとも、将軍御台所として夫を立てようと努力していた人ではなかったか。
まして、名家の出である信子が、重い職にある家族の立場を考えずに夫を刺殺するなど、考えられない。古今東西を問わず「お嬢様」の行動原理を考える時、ここははずしてはいけないポイントだと思う。
綱吉の死後、鷹司家に何ら類が及んだ形跡がないことを見ても、信子による将軍刺殺は根も葉もない妄説と断定してよさそうだ。

◆「柳沢騒動」話が生まれる原因を作った綱吉の自業自得

結局、柳沢騒動にしても、信子の綱吉刺殺にしても、まるで根拠のないウソ八百なのだが、柳沢騒動については、どうも綱吉が柳沢家に徳川一門の姓である「松平」を名乗ることを許し、吉保のみならずその息子たちにも「吉」という偏諱を与えるという大サービスを行ったことが、噂の火種を作る結果になったように見える。
しかも吉保が綱吉に拝領し、吉保引退後吉里が藩主となった甲府藩は、開幕以来徳川家が治めた土地で、前藩主は6代将軍家宣だ。
「まるで徳川一門のような扱い・・・御落胤でもあるまいに」とささやかれたのが、悪意たっぷりの人々の口にかかって「実は御落胤なのでは?」と話をすりかえられた可能性は高い。
要は、柳沢吉保が可愛くてたまらず、無邪気に特別扱いしてしまった綱吉の、将軍としての配慮の無さが元凶でもあるわけだ。
後世芝居の舞台の上では、綱吉は毎度妻に刺し殺される役回りを演じることになるわけだが、元を辿ればそれも身から出た錆なのかもしれない。

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(注)画像は明治19年に文泉堂から発刊された「護国女太平記」の表紙と挿絵。

将軍綱吉を不安にしたもの~カミナリから違反に煽られる「生類憐みの令」まで

◆雷を恐がる将軍

最近あまり聞かれなくなったが、少し前の時代には「(恐いもの)地震雷火事親父」という言葉をよく耳にした。
この言葉が死語になった理由があるとすれば、「カミナリ親父」が幻の絶滅種と化したせいだろうか。
もっとも、地震や雷・火事のような自然現象や災害については、古今東西を通じて人間の畏怖・恐怖の対象であることに変わりはないと思う。

徳川五代将軍綱吉と言う人は、地震雷火事・・・の中でも特にカミナリを大変恐がったことが知られている。
子供の頃、母親の桂昌院に「おヘソを取られまするぞ」と脅されたのがトラウマになったのかどうかは知らないが、34歳で将軍になって以降も、それは変わらなかった。

◆雷の日は寝所につきそう側用人・雷鎮めの祈祷をする護持僧

綱吉の雷嫌いに関連して、驚きのエピソードが残っている。
綱吉が雷を恐れていることを知った側用人の柳沢吉保は、雷が鳴ると、深夜早朝かまわず、すぐに綱吉の寝室に駆けつけて、下がってよいと言われるまで綱吉の相手をしたという。一度鳴り止んでまた鳴り始めれば、一晩に二度登城することもあったとか。
吉保のこの行動は、彼自身が「楽只堂年禄」に書き残しているらしいから、恐らく事実だろう。
気が遠くなるような滅私奉公。柳沢吉保が何故異例の出世を遂げたのか、この一事を見てもよく分かる。
にしても・・・まるで子供をあやすような仕え方には、驚かされる。
綱吉を知らずにこの話を聞いた人は、てっきり柳沢吉保の主人は幼児なのかと誤解してしまうに違いない。

ちなみに、護持院隆光も、綱吉に雷を鎮める祈祷を頼まれることがあったようだ。これも、隆光自身の日記に書かれているというから、情報の信憑性は高い。
藁をもすがる気持ちだったのだろうが、果たして効果はあったのだろうか。

◆「天井が落ちる心配」「堀田正俊の霊に祟られる心配」不安のタネは続々と・・・

綱吉を不安にさせたのは、雷だけではない。
貞享元年(1684年)11月のある日、どこかで宇都宮釣り天井事件の話でも聞いたのか、天井が落ちるのではないかということが急に心配になり始めた綱吉は、江戸城の天井を造作し直し始めた。不安になったら、とことん不安の原因を取り除かなければ気が済まないひとなのである。
その改修は大変な念の入れようで、万に一つにも棟木を吊る苧縄をネズミが食いちぎるような心配がないようにと、30センチ以上の太さのこの上もなく丈夫に作られた苧縄を、さらに銅で包ませるほどだったらしい。
もっとも、こちらは当時市井の出家者だった戸田茂睡の「御当代記」に書かれているエピソードなので、根も葉もない風聞という可能性もないわけではないが、事実だとしたら天井よりも御当人のほうがだいぶアブナイ。

また、先の記事にも書いたように、綱吉は堀田正俊の霊にもひどく怯えていて、わざわざ堀田正俊の墓を掘り返し、彼の棺をさらに2メートルほど深いところに埋め直させたというほどだ。
これも「御当代記」の貞享二年の記事からの引用だが、墓を掘り返してまで霊障を予防しようという潔癖症ぶり、上の天井の話にも通じるものがある。

◆町から犬を消し去ることで違反の根を絶とうとした「生類憐みの令」

「生類憐みの令」・・・この、「仁心の育成」という理想に燃えて綱吉が編み出した法がどうにも徹底されず、逆に挑戦的な動物虐待さえしばしば発生した現実もまた、綱吉を恐ろしく不安にしたであろうことは、彼のとったヒステリックな違反対策にも如実に表れている。

元禄八年(1695年)、中野に犬10万匹を収容する巨大な「犬屋敷」が作られた。最初「人に荒き犬」だけを四谷に収容していたものが、この時はなんと江戸中の犬がここに集められる。
獰猛であろうがなかろうが、とにかく犬がいる限り「生類憐みの令」を妨害しようとする輩が犬に危害を加える事件が続き、このままでは将軍の沽券にかかわる、禍根を絶つには町から犬を消すしかない・・・というわけだ。
ここでも、不安にかられた綱吉の、禍の原因を神経質なまでにこそげとってしまおうとする姿が見えてくる。

恐らく同様の発想で、鳶や烏の島流しということも行われた。
害鳥と忌み嫌われる鳥がいなくなれば、「生類憐みの令」に違反する理由もなくなるということなのか、数百匹捕まえては新島や神津島あたりまで運んで放す・・・という途方もない作業が繰り返された。

まるでおとぎ話の世界のような珍騒動だ。この辺までくると、もはや常軌を逸している。しかも、その軌道の外れ方が、不安に対して耐性のない綱吉の一面に、驚くほど重なり合う気がするのは、私だけだろうか。

◆綱吉の二面性

綱吉という人は自分なりの理想を持って政治に臨んだ頭脳明晰な人だと思うが、一方で、常に何かに怯え、その不安の根を断ち切ることに奔走した人のようにも見える。
晩年は、護持院隆光の祈祷が生活に欠かせなくなった。
徳川歴代将軍の中でも特に評価の低い綱吉に関して、その事績を再評価しようという流れが昨今のトレンドらしいが、一部偉大な事績を残したことは間違いないものの、どこか心に脆い面を孕んだ将軍だったことは否めないのではないだろうか。
特に「生類憐みの令」と一連の違反対策には、そんな綱吉の負の一面が色濃く表れているような・・・「生類憐みの令」を再評価した書である「黄門様と犬公方」(山室恭子著)を読んでみたものの、逆に、綱吉の施策の中でもこればっかりはNG・・・という確信を深める結果になってしまった。

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側室は見た!柳沢吉保の栄華物語「松蔭日記」

松蔭日記 (岩波文庫)松蔭日記 (岩波文庫)
岩波書店(2004-07-16)

◆柳沢吉保の栄華物語

異例の出世を遂げた歴史上の人物と言えばなんといっても豊臣秀吉が代表格だが、昇りつめた身分の高低差では劣るものの、柳沢吉保の人生というのも、間違いなく第一級のサクセス・ストーリーであることは間違いない。
そのことは吉保本人も認識していたらしく、ある時、あなたの先祖は?という話題を振られた吉保は、
「私はこれから先祖と呼ばれる側になる人間ですから」
と答えたという。

柳沢家は、吉保の父親の代から綱吉に仕えたが、当初は知行160石の舘林藩士だった。
それが吉保の代になると異例の加増が続き、ついには実質22万石と言われる甲府藩15万石、のみならず、松平姓も、大老格という幕僚最高位の肩書をも与えられる。
一族の出世頭などというささやかなものではなく、もはや時代の出世頭と言うべき突出ぶりだ。

上の吉保の発言は、そんな彼のポジションを表すに非常に的を射た言葉と言える。
ハンパな人物なら「自分で言うか?」と突っ込みが入りそうなところだが、当時誰の目にも日の出の勢いだった柳沢サマのこと、いつぞや「俺はビッグだ」と発言して大バッシングを受けたT原T彦とは、ちょっとばかり事情も違う。

自らが築いた一代の繁栄の記録を子孫に残したいという思いからか、吉保は、柳沢家の歴史と自身の業績を「楽只堂年禄」として編纂している。
吉保の意向もあったのか、側室の正親町町子も、柳沢家全盛期の思い出を王朝文学風の筆致で綴った「松蔭日記」を書き残した

◆「松蔭日記」の作者・正親町町子

生年は知られていないが、吉保とは少なくとも一回り以上年齢差があったようだ。
公家でも有数の名家に生まれ、16歳(かぞえ年)の時、綱吉の側室である右衛門佐(えもんのすけ)の勧めで大奥に(部屋子として?)入った後、まもなく柳沢吉保の側室になる
右衛門佐は綱吉の側室随一の才媛として知られた人だが、町子もかなりの教養を身につけた女性だったことは、「松蔭日記」執筆によっても証明されるところだ。
才媛を好んだ綱吉は、お気に入りの吉保にも才媛を、あわせて公家とのコネクションを・・・と考えたのかもしれない。

◆将軍や親王などVIPのサロンだった柳沢家

綱吉と柳沢吉保と言うと、綱吉は側室染子を吉保に下げ渡した、染子の産んだ吉里は綱吉の子・・・などという、スキャンダラスな噂ばかりがとかく先行しがち。
が、ウワサの真偽はともかく、二人が当時の通常の主従関係を超えた親密な付き合いだったことは確かだ。
綱吉が足しげく柳沢邸を訪れたことは、「松蔭日記」にも記されている。
もっとも、綱吉が柳沢邸で恒例行事としていたのは、儒学の講義をすること。決して昔の愛妾(だったかどうかも分からないが)に会いに行っていたわけではない。
また、時には実際の裁判を柳沢邸で見物するなどという仰天のイベントも催された。
勿論、能好きの綱吉のために、御成り御殿には能舞台もしつらえてあり、能や猿楽、仕舞なども楽しんだし、歌を詠み交わしたりもした。
後年吉保が駒込の下屋敷を六義園として天下の名園に仕立てたのも、御成りを前提としたものだ。この庭、単に金をかけただけの散漫な庭ではなく、歌枕の地紀州和歌浦の情景をイメージしたテーマパークになっていた。四季折々の風情を楽しみ、歌の題材とするのに最適の遊び場だ。

造園の凝り様にも表れているように、吉保の接待は非常に細やかだった。将軍と共に訪れる女性客たちにも、毎回新しい趣向を企画して、退屈させない工夫を凝らしている。
或る時は綱吉の側室・お伝の方を招き贅を尽くした調度品などで美しく飾り立てた部屋で饗応した後、帰りには部屋の中の物をまるごとみやげとして献上したり、また或る時は六義園を訪れた桂昌院(綱吉の母)のために、園内に町の市を再現して、女性の喜びそうなこまごまとした物を置き、バーチャル・ショッピングを楽しませたりということも・・・
綱吉は実に58回も柳沢邸を訪れたと言われるが、この渾身の接待ぶりを知れば、それもうなずける。

桂昌院お伝の方、綱吉とお伝の娘の鶴姫など綱吉の家族たちは勿論のこと、当代きってのVIPたちが綱吉に付き従って柳沢邸を訪れた。
あの護持院隆光も来たし、大久保忠朝阿部正武など老中の面々、また意外なことに、綱吉の養子・綱豊(のちの6代将軍家宣)も、綱吉と連れだって柳沢邸を訪れている。物語の世界では柳沢との不和が強調される綱豊だが、親しく付き合っていた時代もあったようだ。

「松蔭日記」には、もう一人意外な人として、霊元院上皇も登場する。武家嫌いで知られる人だが、綱吉との関係は悪くなかったらしく、吉保も息子の吉里ともども霊元院の和歌の添削を受けていたようだ。
寛永寺輪王寺宮の公弁親王もしばしば柳沢邸を訪れていたことと考え合わせると、当時吉保が、朝廷関係者との交流に積極的だったことが窺える。

◆将軍家との豪華絢爛な贈答品の応酬

「松蔭日記」の一つの目玉は、将軍が来訪する度に行われる高価な贈答品の応酬の場面だ。
来訪した将軍からのあふれんばかりの手土産に対して、柳沢家からはまた贅を尽くした歓迎の品々を献上。そして将軍が帰った後は再びお礼の品が届き、それに対して吉保父子が返礼の品を持って登城・・・と、終わりなきプレゼント攻撃が続く。
贈りあった品々は記載を省略されている部分が多いが、奥州や甲斐産の名馬、馬具、名工に打たせた刀、唐渡りの書物、酒や肴、女性たちには伽羅や唐織物、帯など、ほかにも雪舟作などの名画や、いわゆる現ナマである白銀まで、一回の訪問ごとに現在の価値で言えば数千万円ではきかないのではと思うほどの高価な品々が飛び交った。

異例の出世を遂げたとは言え、親の代からの蓄積もない柳沢家が、天下の将軍と付き合って果たして金が続いたのか・・・?非常に気になるところだが、残念ながら柳沢家の「武士の家計簿」は残されておらず、御成り御殿建設費や調度品・贈答品の購入資金がどう賄われたのかは分からない。
まあ、当時の柳沢吉保は権力者でもあるし、恐らく正規の家計簿には書けない類いの収入で賄われていた部分も大きそうだが・・・

もっとも、「松蔭日記」には、金の話など無粋な話題は一切出てこない。そもそも、生活臭とは無縁の作品だ。
この作品は、「わが御かた」吉保の活躍、当代一流の人々とのきらびやかで豪華な付き合いなどを「いみじうをかし」の王朝文学の世界で語る、言わば柳沢家版「栄花物語」と考えると分かりやすい。

◆綱吉の死後の逆風 手のひらを返したお伝の方

1709年、吉保51歳の時に綱吉は世を去る。
綱吉の突出した寵臣であっただけに、綱吉の死=引退の時と覚悟していた吉保は、即座に自ら隠居を願い出たが、その後の彼に対する世間の風当たりは相当厳しいものだった。

室鳩巣の「兼山秘策」に、こんなエピソードが紹介されているらしい。
或る時お伝の方改め瑞春院を訪ねた吉保が、最近綱吉の代に生類あわれみの令に違反して流刑になった者が赦免された、しかもその者はさっそく幕府の業務に復職している、あまりに先代を無視した話だ、と嘆いたところ、お伝は気色ばんで、
「すべてお前たちがやったことであろうが。それをせっかく良い方へ改めようとしているのをそのように批判がましく言うのは承知できぬぞ」cast_oden
と叱り、以後呼ばない限り来ること無用と言い渡したという。(このシーンは是非右の写真、小池栄子のコワ面お伝でイメージしていただきたい)
この辺り、お伝の処世術の鮮やかなところだ。未亡人になったお伝が、綱吉政権への批判が渦巻く中、懸命に自分を守ろうとした姿が目に浮かぶ。

お伝の前には、ひたすら主君の望むところを行い、主君の死とともに淡々と舞台を去った柳沢吉保の生き方が、俄然すがすがしく思えてくる。
生類憐みの令や財政逼迫への批判に対して、彼は一切言い訳は残さなかった。彼なりのゆるぎない思いがあったのだろう。

勿論、「松蔭日記」にも、綱吉の死後に吉保が晒された轟々たる非難については、何一つ記されていない。
隠居後、吉保は正室と6人の側室たちを引き連れて六義園に移り住み、世間の批判などどこ吹く風と、優雅な余生を過ごした。
「松蔭日記」は、六義園の四季折々の美しさを愛で、客人たちと吉保が詠み交わした歌の数々などを書き記して、終わっている。

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※小池栄子扮するお伝の画像は、フジテレビ「大奥~華の乱~」公式サイトより転載。
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