久しぶりにブログを再開しようと書き始めたら、丁度、以前に書いた『徳川家光は侍妾の生んだ子?「江の生涯」』にコメントをいただいた。
この話題は「家光は江の実子ではない」というとにかくセンセーショナルな内容だけに、私の記事の中では一番コメントが多い。コメントをいただいたおかげで思い出したのだが、昨年滋賀の竹生島宝厳寺を参拝した際に、この話題に絡む面白いものを見つけたので、そちらを先に書いてみることにした。
◆浅井氏と竹生島信仰
竹生島は琵琶湖に浮かぶ神の島だ。
古来信仰の対象となってきた島で、現在も宝厳寺と竹生島神社の仏殿・社殿が建ち並ぶほかは原生林に覆われ、人が住むことさえ許されない聖域とされている。
島の周囲は削り取られたような険しい断崖絶壁を成しているが、驚いたことにその断崖は湖底まで続いているのだという。島周辺の水深は深く、100メートル前後もあるとか。つまり、湖底から突き出た100メートルにも及ぶ岩の柱・・・それが、竹生島なのだ。まるで深い湖底から神の手で掴み上げられたような、不思議な島。水深が深いだけに、島の周囲の湖水は碧とも蒼ともつかない独特の濃い色合いを湛えていて、それがまたこの島の神々しさを、より一層引き立てているように見える。
信仰が生まれる場所にはそれ相応の理由があるのだとすれば、竹生島にはその理由が十分にあると言えるだろう。
現在竹生島に参拝するには、湖岸のいくつかの港からフェリーが運航されているが、そのうち最もポピュラーなのは長浜港からのルートである。「戦国武将の竹生島信仰」(竹生島宝厳寺・長浜市長浜城歴史博物館編)によれば、長浜(長浜は秀吉が長浜城を築城した際に改名させた名で、それ以前は今浜と呼ばれていた)は「竹生島の門前町」であり、古くから竹生島参拝者で賑わった土地という。
そう言えば、竹生島は琵琶湖の東北岸に近く、現在も長浜市に属している。また、島にある宝厳寺・竹生島神社の位置も、島の南東、すなわち長浜側に配置されている。地理的な面でも、竹生島が、往古から長浜と深い関係にあったことが窺える。
戦国時代、この長浜(今浜)を支配していたのが、徳川秀忠の妻・江の生家である浅井氏だった。
浅井氏は竹生島の領主であるとともに熱心な信仰者でもあり、有力スポンサーでもあった。
毎年六月に行われる蓮華会(れんげえ)と呼ばれる雨乞いの儀式では、浅井氏が幾度となく頭人(祭典の執行者かつスポンサー)を務めていたことが、宝厳寺に残る古文書に記されている。当時、宝厳寺蓮華会の頭人は、浅井郡出身者の中から選ばれるのが慣例であり、そういう意味でも、浅井郡の支配者である浅井氏は最も頭人にふさわしい一族だったわけだ。
◆浅井氏滅亡後、豊臣家・徳川家へと受け継がれた竹生島信仰
しかし、北近江における浅井氏の支配は、長くは続かなかった。
天正元年(1573年)、織田信長の攻撃により浅井氏の居城・小谷城は落城、城主であった浅井久政・長政親子は共に自害し、長政の妻で信長の妹のお市の方は、三人の娘とともに助け出される。
やがて成長した浅井家の三姉妹たちは、豊臣家、京極家、徳川家に嫁ぐが、嫁した後も彼女たちは生家浅井氏の氏神を祀る竹生島への信仰を、決して忘れてはいなかったようだ。
竹生島宝厳寺には、豊臣秀頼が寄進した伽藍(もとは豊国廟の建造物)が残されており、また徳川家の大奥から寄進された品々なども数多くあったことが伝わっている。これらの寄進は、浅井氏から嫁いだ豊臣秀頼生母の淀殿や、徳川秀忠の妻・江の影響によってなされたものと考えて、まず間違いないだろう。
ところで、竹生島宝厳寺には、あの徳川家光が寄進したと伝えられる蒔絵三重塔も現存している。
◆家光と竹生島を結ぶものは江の血以外にない
家光は江の実子ではないというウワサを耳にしたことがある人間にとっては、この三重塔の存在は驚きだ。
何故、実の母でもない女性の生家が信仰していた寺に、彼は三重塔を寄進したのだろうか。
・・・いや、江が実の母であったからこそ、家光自身にも浅井の血が流れているからこそ、三重塔を寄進した・・・そう考えるのが最も自然だ。
勿論、「家光が寄進したと伝えられる」というだけで、それが事実であるという確証はどこにもない。
ただ、もしこの三重塔が実際に家光が寄進したものであった場合、「江の生涯」(福田千鶴著)に書かれている家光が江の実子ではないとする説は、見事に覆されることになるのではないだろうか。
塔は本来仏陀の舎利を祀る場所。宝厳寺に寄進するにあたって家光が敢えて塔というアイテムを選んだのは、先祖供養の意味があったのではないか・・・と思う。
仮に別の意味があったとしても、自分の生母でもない女性の生家が信仰していた寺に、わざわざ寄進などしない。家光と竹生島を結ぶもの・・・それは、母親のお江の血、すなわち浅井家の血のえにし以外には考えられないはずだ。
もっとも、塔を寄進したのは、実は家光ではなく弟の忠長の間違いではないのかという可能性を指摘する人もいるかもしれない。最近になって、忠長が母・お江の死後、彼女を祀るために厨司(崇源院宮殿)を作らせていたことが厨司の解体修理で見つかった書き付けで証明されてもいるし、忠長が非常に母親思いであったことはよく知られているからだ。
ただ、少なくとも竹生島に残る三重塔の寄進者が忠長であるとは、まず考えられない。
祐天寺にあった崇源院宮殿は、忠長が生前、自らの領地である駿府に安置していたものらしい。彼が独自に母の供養をすることも、彼の領内で行ったものであるからこそ、辛うじて許されたのではないだろうか。
領地を遠く離れた近江の竹生島に忠長が三重塔を寄進するといった、あたかも自身が江の実子の代表であるかのような振舞いは、父や兄が到底許されなかったに違いない。
寄進者が家光ではなく忠長の間違い・・・ということは、まずありえないのではないかと、私には思える。
結局、三重塔について詳しい調査がなされない限りは、全て推論にすぎない話だが、仮に調査がなされた結果三重塔が実際に家光の寄進であることが証明されれば、「秀忠が侍妾に産ませた子」とも「家康と春日局の子」とも言われる家光の出生の謎論争の解明に向けての、大きな一歩となることは間違いない。
長年にわたって物議をかもし続けている家光出生の疑惑に絡む話だけに、ぜひ宝厳寺にも本腰を入れて調査していただきたいものだ。

にほんブログ村続きを読む
この話題は「家光は江の実子ではない」というとにかくセンセーショナルな内容だけに、私の記事の中では一番コメントが多い。コメントをいただいたおかげで思い出したのだが、昨年滋賀の竹生島宝厳寺を参拝した際に、この話題に絡む面白いものを見つけたので、そちらを先に書いてみることにした。
◆浅井氏と竹生島信仰
竹生島は琵琶湖に浮かぶ神の島だ。
古来信仰の対象となってきた島で、現在も宝厳寺と竹生島神社の仏殿・社殿が建ち並ぶほかは原生林に覆われ、人が住むことさえ許されない聖域とされている。
島の周囲は削り取られたような険しい断崖絶壁を成しているが、驚いたことにその断崖は湖底まで続いているのだという。島周辺の水深は深く、100メートル前後もあるとか。つまり、湖底から突き出た100メートルにも及ぶ岩の柱・・・それが、竹生島なのだ。まるで深い湖底から神の手で掴み上げられたような、不思議な島。水深が深いだけに、島の周囲の湖水は碧とも蒼ともつかない独特の濃い色合いを湛えていて、それがまたこの島の神々しさを、より一層引き立てているように見える。
信仰が生まれる場所にはそれ相応の理由があるのだとすれば、竹生島にはその理由が十分にあると言えるだろう。
現在竹生島に参拝するには、湖岸のいくつかの港からフェリーが運航されているが、そのうち最もポピュラーなのは長浜港からのルートである。「戦国武将の竹生島信仰」(竹生島宝厳寺・長浜市長浜城歴史博物館編)によれば、長浜(長浜は秀吉が長浜城を築城した際に改名させた名で、それ以前は今浜と呼ばれていた)は「竹生島の門前町」であり、古くから竹生島参拝者で賑わった土地という。
そう言えば、竹生島は琵琶湖の東北岸に近く、現在も長浜市に属している。また、島にある宝厳寺・竹生島神社の位置も、島の南東、すなわち長浜側に配置されている。地理的な面でも、竹生島が、往古から長浜と深い関係にあったことが窺える。
戦国時代、この長浜(今浜)を支配していたのが、徳川秀忠の妻・江の生家である浅井氏だった。
浅井氏は竹生島の領主であるとともに熱心な信仰者でもあり、有力スポンサーでもあった。
毎年六月に行われる蓮華会(れんげえ)と呼ばれる雨乞いの儀式では、浅井氏が幾度となく頭人(祭典の執行者かつスポンサー)を務めていたことが、宝厳寺に残る古文書に記されている。当時、宝厳寺蓮華会の頭人は、浅井郡出身者の中から選ばれるのが慣例であり、そういう意味でも、浅井郡の支配者である浅井氏は最も頭人にふさわしい一族だったわけだ。
◆浅井氏滅亡後、豊臣家・徳川家へと受け継がれた竹生島信仰
しかし、北近江における浅井氏の支配は、長くは続かなかった。
天正元年(1573年)、織田信長の攻撃により浅井氏の居城・小谷城は落城、城主であった浅井久政・長政親子は共に自害し、長政の妻で信長の妹のお市の方は、三人の娘とともに助け出される。
やがて成長した浅井家の三姉妹たちは、豊臣家、京極家、徳川家に嫁ぐが、嫁した後も彼女たちは生家浅井氏の氏神を祀る竹生島への信仰を、決して忘れてはいなかったようだ。
竹生島宝厳寺には、豊臣秀頼が寄進した伽藍(もとは豊国廟の建造物)が残されており、また徳川家の大奥から寄進された品々なども数多くあったことが伝わっている。これらの寄進は、浅井氏から嫁いだ豊臣秀頼生母の淀殿や、徳川秀忠の妻・江の影響によってなされたものと考えて、まず間違いないだろう。
ところで、竹生島宝厳寺には、あの徳川家光が寄進したと伝えられる蒔絵三重塔も現存している。
◆家光と竹生島を結ぶものは江の血以外にない
家光は江の実子ではないというウワサを耳にしたことがある人間にとっては、この三重塔の存在は驚きだ。
何故、実の母でもない女性の生家が信仰していた寺に、彼は三重塔を寄進したのだろうか。
・・・いや、江が実の母であったからこそ、家光自身にも浅井の血が流れているからこそ、三重塔を寄進した・・・そう考えるのが最も自然だ。
勿論、「家光が寄進したと伝えられる」というだけで、それが事実であるという確証はどこにもない。
ただ、もしこの三重塔が実際に家光が寄進したものであった場合、「江の生涯」(福田千鶴著)に書かれている家光が江の実子ではないとする説は、見事に覆されることになるのではないだろうか。
塔は本来仏陀の舎利を祀る場所。宝厳寺に寄進するにあたって家光が敢えて塔というアイテムを選んだのは、先祖供養の意味があったのではないか・・・と思う。
仮に別の意味があったとしても、自分の生母でもない女性の生家が信仰していた寺に、わざわざ寄進などしない。家光と竹生島を結ぶもの・・・それは、母親のお江の血、すなわち浅井家の血のえにし以外には考えられないはずだ。
もっとも、塔を寄進したのは、実は家光ではなく弟の忠長の間違いではないのかという可能性を指摘する人もいるかもしれない。最近になって、忠長が母・お江の死後、彼女を祀るために厨司(崇源院宮殿)を作らせていたことが厨司の解体修理で見つかった書き付けで証明されてもいるし、忠長が非常に母親思いであったことはよく知られているからだ。
ただ、少なくとも竹生島に残る三重塔の寄進者が忠長であるとは、まず考えられない。
祐天寺にあった崇源院宮殿は、忠長が生前、自らの領地である駿府に安置していたものらしい。彼が独自に母の供養をすることも、彼の領内で行ったものであるからこそ、辛うじて許されたのではないだろうか。
領地を遠く離れた近江の竹生島に忠長が三重塔を寄進するといった、あたかも自身が江の実子の代表であるかのような振舞いは、父や兄が到底許されなかったに違いない。
寄進者が家光ではなく忠長の間違い・・・ということは、まずありえないのではないかと、私には思える。
結局、三重塔について詳しい調査がなされない限りは、全て推論にすぎない話だが、仮に調査がなされた結果三重塔が実際に家光の寄進であることが証明されれば、「秀忠が侍妾に産ませた子」とも「家康と春日局の子」とも言われる家光の出生の謎論争の解明に向けての、大きな一歩となることは間違いない。
長年にわたって物議をかもし続けている家光出生の疑惑に絡む話だけに、ぜひ宝厳寺にも本腰を入れて調査していただきたいものだ。
にほんブログ村続きを読む




」と突っ込みが入りそうなところだが、当時誰の目にも日の出の勢いだった柳沢サマのこと、いつぞや「俺はビッグだ」と発言して大バッシングを受けたT原T彦とは、ちょっとばかり事情も違う。