戦国万華鏡

別のブログを始めてしまい、なかなか復活できません。

旅の記録

信長の街・岐阜見聞録(3) 信長の道

日本に信長の墓って、一体何箇所あるんだろう?
秀吉主催で葬儀が執り行われた京都の大徳寺をはじめ、同じく京都の阿弥陀寺にも、安土城にも、名古屋の総見寺にも、清洲の総見院にも、さらに岐阜の崇福寺にも、信長の墓がある。
勿論、信長の遺骸の行方は杳として知れず、一説によれば本能寺に備蓄されていた火薬の爆発で吹っ飛んだという話もあるのだが・・・

さて、今回訪れた崇福寺の話に戻ると、寺のパンプレットによれば、本能寺の変直後の6月6日、側室おなべの方の指示で、寺に信長の首を葬ったということになっている。首の件はあまり信憑性ある話とは受け止められていないようなのだが、おなべの方の書状については、次のとおりの具体的な文面が伝わっている。(書状の原本がどうなったかは不明)

「わざとおりかみ(折り紙)にて申候 此そうふく(崇福)寺 うへのいはいしゅ(上の位牌所)にて候まゝ誰々いらん(違乱)と申とも御ことわり被申べく候 かしく」

クーデター直後の切迫した雰囲気が伝わってくる生々しい内容だ。恐らく安土が明智方に占拠されていたため、安土の総見寺ではなく岐阜時代の菩提寺だった崇福寺に頼んだものだろう。

因果なことに、崇福寺はこの年の甲州征伐の際、敵をかくまったとして信長に恵林寺で焼き殺された、快川和尚ゆかりの寺。(死を覚悟した快川和尚の「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」という一言は有名だ。)
また、この寺の中興の功労者と言われるのは斎藤妙椿。本能寺の変で信長を討った斎藤利三の一族である。
この寺に関わった人物たちを眺めるだけでも、加害者と被害者が堂々巡りのように巡っていて、戦国という時代がいかに罪にまみれた時代だったかがよく分かる。

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写真左上が、崇福寺裏手にある信長と信忠2人の墓。2人の法名が並べて刻まれている。右は墓の隣りにある2人の位牌を納めた廟だ。位牌が納められた厨司は、下の写真の通り鮮やかな装飾をほどこしたもの。光の加減で分かりにくいが、扉に織田家の家紋が施されている。

考えてみれば、崇福寺の寺伝に「信長の首を埋葬した」とあるのは、信忠の首なのでは?という気もする。
というのは、信忠は本能寺の変の際二条御所で切腹しているが、介錯をしたと伝えられる鎌田新介は二条御所を脱出しているわけで、信忠の首を運び出すことは十分可能だったはずだからだ。
信長父子の首を政治に利用しようとする者(その最たる人物が秀吉だが)に見つからないようにするために行方不明ということにしただけで、本当は信忠の首はひそかに遺族の手に渡っていたとしてもおかしくない。さすがに信長の首に関しては、光秀にとっても本命だっただけに、本能寺から持ち去るのはかなり困難だったと思うが・・・
もしかしたら本当に、崇福寺のどこかに、信忠か信長の首が葬られているのかもしれない。

実は、名古屋から岐阜へ向かう途中、清洲(現在の表記は「清須」市。ややこしい)の総見院にも立ち寄った。
清洲は江戸初期に町ごと名古屋に移転させられていて(この出来事は「清洲越し」と呼ばれる)、その際、寺社も全て名古屋に移されている。
信長の次男・信雄が父と兄の菩提を弔うために建てた総見寺も例外ではなかったが、後になって、清洲の旧地に総見寺住職の隠居所として、新たに総見院が建てられたらしいのだ。
ここにも信長の墓があるほか、珍しい遺品も残されている。
遺品とは、信雄が本能寺の焼け跡から見つけ出したという、信長の兜だ。

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写真上が、その兜の現物。錆びた鉄鉢のような状態だ。
調査の結果、この兜には焦げた漆が付着していることが分かっており、左下写真の復元模型のような黒の漆塗りの兜だったと考えられているそうだ。
「脚本家の田淵久美子さんも(来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の脚本を書く上で)拝観に来られました」と御住職がおっしゃっていたので、ひょっとするとこの兜のエピソードも大河に登場するかもしれない。

今回の旅行でたびたび遭遇したのが、美濃路と呼ばれる道。
名古屋から岐阜までの東海道本線はほぼ美濃路に沿って敷かれているため、清洲でも、岐阜でも、さらに墨俣でも大垣でも、美濃路に遭遇した。

美濃路は、東海道の宮宿(熱田)と、中山道の垂井宿を結ぶ道。尾張と美濃を結ぶこの道は、信長の足跡をたどる道筋でもある。
下の写真は、清洲崇福寺近くの美濃路。この道の行く手に木曽川があり、戦国時代はここが国境になっていて、河を渡れば美濃だった。

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信長が桶狭間の戦いに出撃する際に参拝し、戦勝を祈念したという熱田神宮、家康と同盟を結んだ清洲城、岐阜城攻略のための砦となった墨俣城・・・これらの場所は、すべて美濃路の途上にある。
また、関ヶ原の戦いに勝利した後、家康が凱旋した道でもあるという。
いろんな意味で、美濃路には戦国のエッセンスが詰まっている。美濃路を辿る旅というのも、尾張-岐阜の楽しみ方の一つだと思う。

岐阜旅行のこと、まだまだ書きたいことがたくさんあるのだが、そうこうしているうちに話がどんどん江戸から遠ざかっていきそうなので、この辺で。
今回春日局絡みで収穫だったのは、岐阜には元守護代の斎藤家や、稲葉家の人々が残した文化財が至るところにあるということだ。上の崇福寺にも、斎藤妙椿のコネクションで五摂家の一条兼良から贈られた中門が残っているし、一条兼良の娘は斎藤家に嫁したという話もあり、全盛期の斎藤家が公家との間に太いパイプを持っていたことにも驚かされる。
こういう事実も、春日局という人物を見ていく上で、何かのヒントになるのではないか・・・という気がする。春日局=本能寺の変の斎藤利三の娘という見方一辺倒になりがちだが、それは現代人から見たイメージであって、戦国をリアルタイムに生きた人たちは、彼女を別の切り口から見ていたのかもしれない。

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信長の街・岐阜見聞録(2) 岐阜市民は織田びいき?


岐阜という地名の名付け親が信長だということは、よく知られている。
岐阜には、「道三が礎を築き、信長が完成させた美濃最大の城下町」というイメージが強い。
が、徳川幕府の時代になると、城下町としての岐阜の歴史は、有無を言わさず強制終了に至る。
というのは、岐阜城は完全に破却され、一帯は尾張藩直轄領に組み込まれたからだ。

一方、現在の岐阜駅周辺には、新たな城下町が形成された。
城が築城されたのは、加納。中山道の宿場町だ。加納城は、岐阜城の廃材を利用して建設されたという。
と言っても、絢爛豪華な城として名を馳せた岐阜城と違って、加納城はロケーション的にも街道の監視機能が役目といった感じの、地味な平城だ。初代藩主の奥平氏も、三河以来の家臣で家康の娘婿という、まさに街道の番人にうってつけの手堅い人選。
一時は日本の中枢都市だった岐阜が、江戸時代にはすっかり「中山道の一宿場町」「尾張の辺境地」に格下げされてしまった感がある。

現在、金華山=稲葉山の峰にそびえる岐阜城天守閣は、明治になって再建されたものらしい。
徳川幕府が抹殺した岐阜城は、徳川の時代が終わった途端に、地元の人々の手で再建されたというわけだ。
江戸期を通じて一地域名に過ぎなかった岐阜という地名も勢いを盛り返し、またたく間に県名にまでなってしまった。
その一方で、忘れ去られた加納城は再建されることもなく、今は住宅街の中の公園と化している。
地元の人の想いは、明らかに加納城より岐阜城、「加納」よりも「岐阜」、さらに言えば徳川よりも織田にあったように見える。
何故なのか? まあ岐阜人じゃない私には知るすべもない話だが、金華山上に燦然と輝く天守閣は、岐阜のシンボルとしてふさわしいし、そもそも「岐阜城がない「岐阜」なんて」という感覚は理解できる。さらに想像をたくましくすれば、岐阜発日本統一という信長の夢に、美濃黄金時代の再来の夢を重ね合わせて、「あの繁栄をもう一度」と願う地元の人の想いも込められているのかもしれない。

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標高300メートル以上ある山の上に天守閣(ちょっと見えにくいが)、麓の街には日常の人の暮らし・・・山×城がランドマークの、岐阜ならではの光景だ。

DSC00215中部地方以外では殆ど見かけることがないコメダ珈琲店(本社は名古屋。メニューも関東人から見るとかなり地域色あふれている)の上に岐阜城天守閣という絵を撮りたかったのだが、位置関係的にムリだった。コメダ珈琲店の後ろの山は、金華山に続く山並み。

余談だが、コメダ珈琲のみならず、岐阜には人口密度の割に喫茶店が多い。その多くはチェーン展開されていない個人商店で、それぞれ個性があり、ちょっと入ってみたくなるような洗練された雰囲気の店も少なくない。
東京ではチェーン店に押されて成り立たなくなっている喫茶店という商売だが、岐阜の文化には馴染むらしい。

ところで、上のコメダ珈琲店の向かいには、岐阜大仏の寺・正法寺の裏門がある。
岐阜大仏は江戸時代に作られたもので、奈良の大仏・鎌倉の大仏と並ぶ日本三大仏を自称しているものの、第三の大仏として名乗りを挙げている大仏は各地にあり、「三大仏」は残念ながら公認の地位ではないようだ。

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DSC00210この正法寺、道沿いに塀もなくいきなり大仏殿が据えられている。不思議な寺だ。奈良にある黄檗宗万福寺の末寺らしいが、万福寺ともかなり趣が違う。しかも、大仏殿の外観はかなり傷んでいて、一見したところは正直、入るのもちょっと躊躇してしまう感じ。
しかし、せっかくだからということで思い切って入ってみると、意外なことに岐阜大仏そのものは期待以上に感動的だった。
何より驚いたのは、この大仏が紙で作られているということ。
木材・竹材の骨組みに経文を貼り合わせるという、和傘の産地・岐阜独自の製法が用いられているのだ。想像するだけで気の遠くなるような作業だが、実際発願から完成まで38年の年月を要したという。
製作に携わった地元の人々の願いが全身に凝縮されたような大仏だ。

もう一つ面白いのは、この像を拝する時、同時に金華山山頂方向を拝する形になること。もしかすると正法寺建立の際、それを意識してロケーションが選ばれたのかもしれない。
もしそうだとしたら、やはり金華山は岐阜の人々にとって、長年心のよりどころになっていたのでは・・・そんな気がする。
ちなみに、この大仏の胎内には薬師如来が納められているのだが、この薬師如来は土岐氏の氏寺だった正法寺の本尊という。

土岐氏と言えば、室町後期、金華山周辺が斎藤氏など新興勢力の支配下におかれるに伴って、土岐氏は長良川の対岸である福光あたりに拠点を移していたらしい。
現在は土岐氏の居館跡などは残っていないものの、福光には土岐氏を開基とし、信長が菩提寺としていた崇福寺という寺がある。しかもこの寺、信長だけでなく春日局にゆかりを持つ寺でもあるのだ。
これは、行かないわけにはいかない。
というわけで、次回に続く。

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追記
岐阜大仏の堂内には「撮影禁止」の注意書きがどこにもなかったので、お言葉に甘えて撮影させていただいた。

信長の街・岐阜見聞録(1) カルチャーショック編


岐阜と言えば信長の野望のシンボル・岐阜城の城下町。信長の足跡を訪ねて、岐阜見物にやってきた。
地元の人の認識としてもやはり岐阜は信長が売りということのようで、岐阜駅に降り立つなり、駅前広場に聳え立つ金の信長像が目に飛び込んでくる。

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さすがは、最近観光都市化にも気合い十分の岐阜市。
普段なら、「金の信長? 趣味ワル~」と素通りしてしまいそうだが、
「コレでしょ? オタクが岐阜に期待してるのは。ささ、ここで記念写真どーぞ♪」
とばかりにお誂え向きに用意されてると、なんだかんだ言ってやっぱり撮影。
これも旅先ならではの盛り上がり・・・?






ところが、信長の岐阜を満喫する以前に、ふと目をやった岐阜駅前の街並みに目が釘付けになってしまった。
DSC00196狭い日本、しかも結構長く生きてるのに、本当に知らないことだらけ・・・岐阜が衣料品問屋の街だったなんて。
どこまでも「〇〇繊維街」という看板が続く。予想していなかっただけに、これは新鮮な驚きだった。
この巨大な衣料品問屋街は、戦後大陸からの引揚者たちが形成したものらしい。
この問屋街が繁盛していた頃の岐阜は、中部・北陸全域(あるいは全国?)から買付けに集まってくる小売店のバイヤーでひきも切らない賑わいだったのだろう。

ところで、岐阜は大きな歓楽街があることでも有名だ。美川憲一の数少ない(?!)ヒット曲「柳ケ瀬ブルース」(「さそり座の女」だけじゃなかったんですね~この人)で全国的に名を馳せた柳ケ瀬。
それと・・・これも今回初耳だったのだが、岐阜はソープランドのメッカという一面も持っている。岐阜駅南側には、金津園という歴史と伝統ある(?)大ソープ街があるらしい。
オトコの遊び場も、かなり充実している。
昭和の高度成長期には、羽振りのいい商店主がそこら中にウヨウヨいて、従業員にもいい給料を払い、会社ぐるみで柳ケ瀬や金津園に小金をバンバン落としてくれたに違いない。
職場・遊び場全て完備で、地域の中でいい塩梅に金が循環し、街が潤っていた時代が確かにここにはあった・・・そんな古き良き昭和の賑わいが浮かんでくるような問屋街の光景だ。

しかし。
一体、進化はどの辺で止まったのだろう。まさに昭和に置き去りにされたような商店街。ファッションの街という華やぎは、どこにも見当たらない。小売店街じゃなくて問屋街ということを割り引いても、いかにもさびれた風情は繕いようがない。

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この商店街、表通りに面している店々の間には細い路地があって、かつては路地の奥まで商店がひしめいていたようだが、ちょっと覗いてみた限りでは奥はガラガラ。表通りに面した店先だけに商品が並べられている状況だ。

「柳ケ瀬ブルース」も、考えてみれば半世紀近く前のヒット曲。美川憲一は芸能界の荒波を半世紀見事に泳ぎきったが(今年はついに紅白歌合戦には落選したけど)、今の柳ケ瀬界隈はこんな感じ。

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レトロな風情という言い方もあるが・・・変わり身の鮮やかさ(いや、変わらないしたたかさか)は美川憲一のほうが一段上かもしれない。

岐阜市内唯一という百貨店の高島屋も、柳ケ瀬の入り口にある。
ちょっと入ってみたが、一階の通りに面した菓子売り場以外は、休日というのに人影がまばらだ。
もっとも、JR東海道本線の岐阜-名古屋間は、特別快速を利用すれば20分程度という近さ。買い物は名古屋で、という人が殆どなのだろう。
岐阜にデパートは必要なのか?・・・そんなそもそも論さえ飛び出しそうなさびしい光景だ。

岐阜駅からメインストリートを北へ。高島屋前を過ぎてさらに歩くと、やがて官庁街に出る。ここで、いきなり表通りに面した巨大な空地にでくわした。堂々メインストリートに面した空白地帯、しかも空地というにはあまりにだだっ広い異様なスペースだ。
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奥に見える建物は、岐阜市合同庁舎。
空地の周りには建設計画などの看板もなく、ただ「立入禁止 岐阜市」という看板が威圧的に立てられているだけ。
一体何事かと思ったら、6年前に移転した岐阜大学附属病院の跡地らしい。今もって売却予定も代替施設の建設計画も立たないということだろうか。

しかし、このテのカルチャーショックで今回一番ショッキングだったのは、大垣の駅ビルだった。
駅前商店街のさびれ方は言うに及ばずだが、駅ビルの惨状には、さすがに「日本、ホントに大丈夫?」という不安を肌で感じた。
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上の写真は、駅ビル1階の食料品売り場。奥に小さく見えているのが売り場で、売り場面積よりはるかに広い手前の空きスペースは、テナント不在の状態。
何しろ駅ビルのスペースの半分近くが、テナント募集中(下の写真はフロア案内パネル。半分近くが”coming soon”になっている)・・・大垣と言えばJR東海道本線の主要駅の一つ。その大垣の、さして大きくない駅ビルでさえテナントが埋まらないのが、今の日本の現実なのだろうか。

・・・のっけから岐阜の負のカルチャーショックの一面を書いてしまったが、実際のところ私個人としては、今回初めて訪れてみて、岐阜がかなり好きになった。
とにかく日本史ファンにとって魅力的な観光スポットが多い。しかも駅前からのバス便が超便利。
今岐阜市としては観光都市として街を再生中らしいのだが、実際観光都市としての潜在能力はかなり高い街だと思う。
次回は岐阜の素晴らしさとか、私が感じた「岐阜っぽさ」について。

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