秀吉主催で葬儀が執り行われた京都の大徳寺をはじめ、同じく京都の阿弥陀寺にも、安土城にも、名古屋の総見寺にも、清洲の総見院にも、さらに岐阜の崇福寺にも、信長の墓がある。
勿論、信長の遺骸の行方は杳として知れず、一説によれば本能寺に備蓄されていた火薬の爆発で吹っ飛んだという話もあるのだが・・・
さて、今回訪れた崇福寺の話に戻ると、寺のパンプレットによれば、本能寺の変直後の6月6日、側室おなべの方の指示で、寺に信長の首を葬ったということになっている。首の件はあまり信憑性ある話とは受け止められていないようなのだが、おなべの方の書状については、次のとおりの具体的な文面が伝わっている。(書状の原本がどうなったかは不明)
「わざとおりかみ(折り紙)にて申候 此そうふく(崇福)寺 うへのいはいしゅ(上の位牌所)にて候まゝ誰々いらん(違乱)と申とも御ことわり被申べく候 かしく」
クーデター直後の切迫した雰囲気が伝わってくる生々しい内容だ。恐らく安土が明智方に占拠されていたため、安土の総見寺ではなく岐阜時代の菩提寺だった崇福寺に頼んだものだろう。
因果なことに、崇福寺はこの年の甲州征伐の際、敵をかくまったとして信長に恵林寺で焼き殺された、快川和尚ゆかりの寺。(死を覚悟した快川和尚の「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」という一言は有名だ。)
また、この寺の中興の功労者と言われるのは斎藤妙椿。本能寺の変で信長を討った斎藤利三の一族である。
この寺に関わった人物たちを眺めるだけでも、加害者と被害者が堂々巡りのように巡っていて、戦国という時代がいかに罪にまみれた時代だったかがよく分かる。



写真左上が、崇福寺裏手にある信長と信忠2人の墓。2人の法名が並べて刻まれている。右は墓の隣りにある2人の位牌を納めた廟だ。位牌が納められた厨司は、下の写真の通り鮮やかな装飾をほどこしたもの。光の加減で分かりにくいが、扉に織田家の家紋が施されている。
考えてみれば、崇福寺の寺伝に「信長の首を埋葬した」とあるのは、信忠の首なのでは?という気もする。
というのは、信忠は本能寺の変の際二条御所で切腹しているが、介錯をしたと伝えられる鎌田新介は二条御所を脱出しているわけで、信忠の首を運び出すことは十分可能だったはずだからだ。
信長父子の首を政治に利用しようとする者(その最たる人物が秀吉だが)に見つからないようにするために行方不明ということにしただけで、本当は信忠の首はひそかに遺族の手に渡っていたとしてもおかしくない。さすがに信長の首に関しては、光秀にとっても本命だっただけに、本能寺から持ち去るのはかなり困難だったと思うが・・・
もしかしたら本当に、崇福寺のどこかに、信忠か信長の首が葬られているのかもしれない。
実は、名古屋から岐阜へ向かう途中、清洲(現在の表記は「清須」市。ややこしい)の総見院にも立ち寄った。
清洲は江戸初期に町ごと名古屋に移転させられていて(この出来事は「清洲越し」と呼ばれる)、その際、寺社も全て名古屋に移されている。
信長の次男・信雄が父と兄の菩提を弔うために建てた総見寺も例外ではなかったが、後になって、清洲の旧地に総見寺住職の隠居所として、新たに総見院が建てられたらしいのだ。
ここにも信長の墓があるほか、珍しい遺品も残されている。
遺品とは、信雄が本能寺の焼け跡から見つけ出したという、信長の兜だ。



写真上が、その兜の現物。錆びた鉄鉢のような状態だ。
調査の結果、この兜には焦げた漆が付着していることが分かっており、左下写真の復元模型のような黒の漆塗りの兜だったと考えられているそうだ。
「脚本家の田淵久美子さんも(来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の脚本を書く上で)拝観に来られました」と御住職がおっしゃっていたので、ひょっとするとこの兜のエピソードも大河に登場するかもしれない。
今回の旅行でたびたび遭遇したのが、美濃路と呼ばれる道。
名古屋から岐阜までの東海道本線はほぼ美濃路に沿って敷かれているため、清洲でも、岐阜でも、さらに墨俣でも大垣でも、美濃路に遭遇した。
美濃路は、東海道の宮宿(熱田)と、中山道の垂井宿を結ぶ道。尾張と美濃を結ぶこの道は、信長の足跡をたどる道筋でもある。
下の写真は、清洲崇福寺近くの美濃路。この道の行く手に木曽川があり、戦国時代はここが国境になっていて、河を渡れば美濃だった。

信長が桶狭間の戦いに出撃する際に参拝し、戦勝を祈念したという熱田神宮、家康と同盟を結んだ清洲城、岐阜城攻略のための砦となった墨俣城・・・これらの場所は、すべて美濃路の途上にある。
また、関ヶ原の戦いに勝利した後、家康が凱旋した道でもあるという。
いろんな意味で、美濃路には戦国のエッセンスが詰まっている。美濃路を辿る旅というのも、尾張-岐阜の楽しみ方の一つだと思う。
岐阜旅行のこと、まだまだ書きたいことがたくさんあるのだが、そうこうしているうちに話がどんどん江戸から遠ざかっていきそうなので、この辺で。
今回春日局絡みで収穫だったのは、岐阜には元守護代の斎藤家や、稲葉家の人々が残した文化財が至るところにあるということだ。上の崇福寺にも、斎藤妙椿のコネクションで五摂家の一条兼良から贈られた中門が残っているし、一条兼良の娘は斎藤家に嫁したという話もあり、全盛期の斎藤家が公家との間に太いパイプを持っていたことにも驚かされる。
こういう事実も、春日局という人物を見ていく上で、何かのヒントになるのではないか・・・という気がする。春日局=本能寺の変の斎藤利三の娘という見方一辺倒になりがちだが、それは現代人から見たイメージであって、戦国をリアルタイムに生きた人たちは、彼女を別の切り口から見ていたのかもしれない。
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