最近買った古文書の教本(「必修近世古文書演習」(柏書房))に、面白い史料が掲載されていた。
天保三年(1832年)編纂の「村々様子大概書」(一橋徳川家所蔵)。将軍のために作られた地誌だ。
テキストには、和泉国泉郡舞村という村についての記述のみ抜粋されている。
この村が現在の大阪府和泉市舞町付近だということは、地名が変わっていないためすぐに分かる。
大概書によれば、舞村は住人75人ほどの小さな村だという。驚くべきことに、石高は田畑を合わせて31石しかない(その理由は後で判明する)。 牛が一頭。
一見貧しげな村という印象しかないが、面白いのは、この村に陰陽師と舞太夫が住んでいると記されていることだ。以下、解読読み下し文。
「陰陽師 百姓甚太夫 藤村右京
是は京都土御門殿門派の陰陽師にて、和泉河内両国のうち、前々より旦家之有り、正五九月三度充て家内安全・五穀成就祈祷ニ相廻り、初穂受納致し候由、藤村左内同右京儀者往古より信太暦と申す、旦家江暦出し来候処、享保八卯年売暦の儀に付、京都大経師与出入に及び、土御門家にて裁許の上、信太暦停止に成り候故、南都暦を用い、旦家へ配来り候処、去る未年改暦御用に付、土御門家へ右三人の者相勤候内、信太暦の儀も時々願い候処聞済之有り、去る酉年より前々の通差免じられ、信太暦旦家へ配候所、又々京都大経師より差障り、翌戌年より相止候由
舞太夫 百姓徳兵衛 松寿太夫
是は越前国幸若八郎より免状貰い、前々より信太大明神祭礼の節、神前にて音曲の舞相勤候由」
◆舞村の陰陽師の蔭に安倍晴明の出生秘話
陰陽師の名は藤村右京。土御門家門派を名乗る。陰陽師と言えば安倍晴明が有名だが、「土御門」は晴明の安倍家が改姓した家だから、要は藤村右京は安倍晴明の流れを汲む陰陽師ということだ。
土御門家は、律令の時代からの天皇の陰陽師。古来暦の知識を持つ。陰陽師の暦作りには、天文学の知識のみならず占いの技術や気象に関する統計データの蓄積も必要で、文字通り神業の世界だったのではないだろうか。
藤村右京も、檀家を年三度廻って祈祷を行うほか、暦を売ることを生業としていたとある。
彼は二つの名前を持ち、陰陽師としては藤村右京を名乗ったが、平素は「百姓甚太夫」として生活していた。
小さな農村に陰陽師。当時としても珍しいことだったのか、大概書は舞村に関する短い記述の中で、「陰陽師」の項に随分行を割いている。
それにしてもなぜ、この村には陰陽師がいたのだろうか?その謎の答えも、上の引用文の中に隠されている。
藤村家が作っていた暦は、「信太暦(しのだごよみ)」。
「舞太夫」(陰陽師の一種)が祭礼で舞いを披露していたのが、「信太大明神」。
信太暦の「信太」とは、どうやらこの「信太大明神」を指しているらしい。彼らは、信太大明神の祭祀に関わっていたわけだ。
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信太大明神社は舞村の近くにあり、現在は聖神社と呼ばれている。舞村はこの神社の社領だった(「陰陽師の末裔たち」(批評社)による)ようだ。
さらに、驚いたことに信太大明神は、陰陽師の土御門家とも非常に縁の深い神だった。
実は、信太大明神の眷属の白狐が安倍家の保名と結ばれ、産み落としたのが安倍晴明だという。この伝説は「信太妻」として人形浄瑠璃や歌舞伎になっており、この地方では広く知られていたようだ。
土御門家に所縁の深い信太大明神に関わっているということ自体、土御門家と藤村家のつながりを思わせる。
江戸時代中期以降、全国の陰陽師は土御門家の管理下におかれることになったが、藤村家はそれ以前から「泉州信太藤村某」と当主の名前を入れた信太暦を発行・販売していた。暦作りのノウハウを持つ陰陽師は陰陽師の中でも特異な存在で、この事実からも、遅くとも暦の発行を始めた時点で、土御門家との関係はスタートしていた可能性が高い。
◆暦の販売権争い
ところが、霊元天皇(将軍は綱吉)の時代に800年ぶりの改暦が行われたのを機に、暦の販売権も仕切り直され、京の大経師始め特定の業者のみが土御門家の出す暦の販売を行えることになった。
暦の販売を生業としてきた藤村家にとっては、大きな打撃である。
そ知らぬふりで販売を続けていたものの、やがて大経師が騒ぎ出して販売を差止められ、ほとぼりの冷めた頃を見計らって再び信太暦の販売を始めるが、またまた大経師に見とがめられて販売禁止となった・・・といういきさつが、大概書には長々と書かれている。
「陰陽師の末裔たち」(批評社)によれば、大概書の記述にある「去る未年」とはどうやら1751年で、「改暦御用」は宝暦暦の話。大経師との二度目のトラブルは、この文書が編纂された天保3年より80年ほど前の話だ。
役人の怠慢なのか、要は随分長いこと情報が更新されていないわけだが、問題は、何故このいきさつを幕府が細かく把握していたのか、だ。
実は藤村家では、最初幕府に大経師とのトラブルの仲裁を訴えたが、幕府では取り合わなかった・・・のかもしれない。
「京のことにはお奉行様でもそうやすやすとは手が出せぬ故、土御門殿の御考え次第じゃ。まあ、土御門殿に嘆願書でも出してみたらどうかのう?」
と代官所の役人が言ったかどうかは分からないが、土御門家に宛てて藤村家が出した嘆願書が現存するらしい。いずれにしろ、幕府がこの問題に何ら介入しなかったのは確かである。
◆「百姓」に括られた陰陽師
古来暦は為政者の権威の象徴だった。天皇を頂点とする律令組織が完全に形骸化した江戸時代にあっても、土御門家が陰陽寮の長として実際に暦作りを行っていた・・・という事実は、暦がいかに天皇にとって権威の根幹に関わるものであったかを端的に物語っている。
ところが、頂点は天皇でも、暦産業の末端に関わる陰陽師は、武家が支配する社会の住人だった。
幕府の統治機構では、陰陽師は寺社奉行の管轄に入れられたようだが、武家社会に棲みながら公家社会にも根っこを持つ陰陽師は、日本特有の二重構造社会の諸々の矛盾やしわ寄せをもろにかぶった人々だったのではないだろうか。
大概書で陰陽師の藤村右京を「百姓 甚太夫」としていることも、当時の陰陽師の微妙な立ち位置を表しているように見える。
「百姓」という肩書きには、「職業」という以外に「身分」という側面もあるが、それにしても、何かが違う。藤村右京本人のアイデンティティーは、多分陰陽師にあったはずだ。
(ちなみに、大概書に農村のように書かれている舞村だが、実際は恐らく陰陽師とその周辺の職能の住人が大半であろうことは、冒頭に書いた「人別75人・石高31石」という、一人当たり生産高の少なさからも推察できる。)
しかし、封建領主の組織である幕府にとっては、土地と結びついているかどうかが被支配者に係る最大の関心事で、土地を持っていれば陰陽師と雖も「百姓」、逆に陰陽師という職能自体は評価の埒外なのだ。恐ろしく違和感はあるが、そういう尺度を持った社会なのである。
そう考えると、朝廷を中心とした律令社会が崩壊して以降ずっと、陰陽師にとっては社会にまともに評価されない不遇な時代が長く続いた・・・のかもしれない。(安倍晴明だけはスーパーヒーローであり続けたものの・・・)
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画像は映画「陰陽師」で安倍晴明を演じる野村萬斎。晴明というとすっかり彼のイメージが定着してしまった。(信太妻伝説を彷彿とさせるキツネ顔という点も、ハマリ役になったポイントかもしれない)



