戦国万華鏡

別のブログを始めてしまい、なかなか復活できません。

時代の街かど

江戸の風景 陰陽師の住む村

◆「村々様子大概書」に記された和泉国舞村のこと 

最近買った古文書の教本(「必修近世古文書演習」(柏書房))に、面白い史料が掲載されていた。
天保三年(1832年)編纂の「村々様子大概書」(一橋徳川家所蔵)。将軍のために作られた地誌だ。
テキストには、和泉国泉郡舞村という村についての記述のみ抜粋されている。
この村が現在の大阪府和泉市舞町付近だということは、地名が変わっていないためすぐに分かる。

大概書によれば、舞村は住人75人ほどの小さな村だという。驚くべきことに、石高は田畑を合わせて31石しかない(その理由は後で判明する)。 牛が一頭。
一見貧しげな村という印象しかないが、面白いのは、この村に陰陽師と舞太夫が住んでいると記されていることだ。以下、解読読み下し文。

「陰陽師                     百姓甚太夫  藤村右京

是は京都土御門殿門派の陰陽師にて、和泉河内両国のうち、前々より旦家之有り、正五九月三度充て家内安全・五穀成就祈祷ニ相廻り、初穂受納致し候由、藤村左内同右京儀者往古より信太暦と申す、旦家江暦出し来候処、享保八卯年売暦の儀に付、京都大経師与出入に及び、土御門家にて裁許の上、信太暦停止に成り候故、南都暦を用い、旦家へ配来り候処、去る未年改暦御用に付、土御門家へ右三人の者相勤候内、信太暦の儀も時々願い候処聞済之有り、去る酉年より前々の通差免じられ、信太暦旦家へ配候所、又々京都大経師より差障り、翌戌年より相止候由

舞太夫                      百姓徳兵衛  松寿太夫

是は越前国幸若八郎より免状貰い、前々より信太大明神祭礼の節、神前にて音曲の舞相勤候由」

◆舞村の陰陽師の蔭に安倍晴明の出生秘話

陰陽師陰陽師の名は藤村右京。土御門家門派を名乗る。
陰陽師と言えば安倍晴明が有名だが、「土御門」は晴明の安倍家が改姓した家だから、要は藤村右京は安倍晴明の流れを汲む陰陽師ということだ。
土御門家は、律令の時代からの天皇の陰陽師。古来暦の知識を持つ。陰陽師の暦作りには、天文学の知識のみならず占いの技術や気象に関する統計データの蓄積も必要で、文字通り神業の世界だったのではないだろうか。
藤村右京も、檀家を年三度廻って祈祷を行うほか、暦を売ることを生業としていたとある。
彼は二つの名前を持ち、陰陽師としては藤村右京を名乗ったが、平素は「百姓甚太夫」として生活していた。

小さな農村に陰陽師。当時としても珍しいことだったのか、大概書は舞村に関する短い記述の中で、「陰陽師」の項に随分行を割いている。
それにしてもなぜ、この村には陰陽師がいたのだろうか?その謎の答えも、上の引用文の中に隠されている。
藤村家が作っていた暦は、「信太暦(しのだごよみ)」
「舞太夫」(陰陽師の一種)が祭礼で舞いを披露していたのが、「信太大明神」
信太暦の「信太」とは、どうやらこの「信太大明神」を指しているらしい。彼らは、信太大明神の祭祀に関わっていたわけだ。


大きな地図で見る

信太大明神社は舞村の近くにあり、現在は聖神社と呼ばれている。舞村はこの神社の社領だった(「陰陽師の末裔たち」(批評社)による)ようだ。
さらに、驚いたことに信太大明神は、陰陽師の土御門家とも非常に縁の深い神だった。
実は、信太大明神の眷属の白狐が安倍家の保名と結ばれ、産み落としたのが安倍晴明だという。この伝説は「信太妻」として人形浄瑠璃や歌舞伎になっており、この地方では広く知られていたようだ。
土御門家に所縁の深い信太大明神に関わっているということ自体、土御門家と藤村家のつながりを思わせる。
江戸時代中期以降、全国の陰陽師は土御門家の管理下におかれることになったが、藤村家はそれ以前から「泉州信太藤村某」と当主の名前を入れた信太暦を発行・販売していた。暦作りのノウハウを持つ陰陽師は陰陽師の中でも特異な存在で、この事実からも、遅くとも暦の発行を始めた時点で、土御門家との関係はスタートしていた可能性が高い。

◆暦の販売権争い

ところが、霊元天皇(将軍は綱吉)の時代に800年ぶりの改暦が行われたのを機に、暦の販売権も仕切り直され、京の大経師始め特定の業者のみが土御門家の出す暦の販売を行えることになった。
暦の販売を生業としてきた藤村家にとっては、大きな打撃である。
そ知らぬふりで販売を続けていたものの、やがて大経師が騒ぎ出して販売を差止められ、ほとぼりの冷めた頃を見計らって再び信太暦の販売を始めるが、またまた大経師に見とがめられて販売禁止となった・・・といういきさつが、大概書には長々と書かれている。

「陰陽師の末裔たち」(批評社)によれば、大概書の記述にある「去る未年」とはどうやら1751年で、「改暦御用」は宝暦暦の話。大経師との二度目のトラブルは、この文書が編纂された天保3年より80年ほど前の話だ。
役人の怠慢なのか、要は随分長いこと情報が更新されていないわけだが、問題は、何故このいきさつを幕府が細かく把握していたのか、だ。
実は藤村家では、最初幕府に大経師とのトラブルの仲裁を訴えたが、幕府では取り合わなかった・・・のかもしれない。
京のことにはお奉行様でもそうやすやすとは手が出せぬ故、土御門殿の御考え次第じゃ。まあ、土御門殿に嘆願書でも出してみたらどうかのう?
と代官所の役人が言ったかどうかは分からないが、土御門家に宛てて藤村家が出した嘆願書が現存するらしい。いずれにしろ、幕府がこの問題に何ら介入しなかったのは確かである。

◆「百姓」に括られた陰陽師

古来暦は為政者の権威の象徴だった。天皇を頂点とする律令組織が完全に形骸化した江戸時代にあっても、土御門家が陰陽寮の長として実際に暦作りを行っていた・・・という事実は、暦がいかに天皇にとって権威の根幹に関わるものであったかを端的に物語っている。
ところが、頂点は天皇でも、暦産業の末端に関わる陰陽師は、武家が支配する社会の住人だった。
幕府の統治機構では、陰陽師は寺社奉行の管轄に入れられたようだが、武家社会に棲みながら公家社会にも根っこを持つ陰陽師は、日本特有の二重構造社会の諸々の矛盾やしわ寄せをもろにかぶった人々だったのではないだろうか。

大概書で陰陽師の藤村右京を「百姓 甚太夫」としていることも、当時の陰陽師の微妙な立ち位置を表しているように見える。
「百姓」という肩書きには、「職業」という以外に「身分」という側面もあるが、それにしても、何かが違う。藤村右京本人のアイデンティティーは、多分陰陽師にあったはずだ。
(ちなみに、大概書に農村のように書かれている舞村だが、実際は恐らく陰陽師とその周辺の職能の住人が大半であろうことは、冒頭に書いた「人別75人・石高31石」という、一人当たり生産高の少なさからも推察できる。)
しかし、封建領主の組織である幕府にとっては、土地と結びついているかどうかが被支配者に係る最大の関心事で、土地を持っていれば陰陽師と雖も「百姓」、逆に陰陽師という職能自体は評価の埒外なのだ。恐ろしく違和感はあるが、そういう尺度を持った社会なのである。
そう考えると、朝廷を中心とした律令社会が崩壊して以降ずっと、陰陽師にとっては社会にまともに評価されない不遇な時代が長く続いた・・・のかもしれない。(安倍晴明だけはスーパーヒーローであり続けたものの・・・)

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画像は映画「陰陽師」で安倍晴明を演じる野村萬斎。晴明というとすっかり彼のイメージが定着してしまった。(信太妻伝説を彷彿とさせるキツネ顔という点も、ハマリ役になったポイントかもしれない)

塔頭の役割と学校の怪談

◆将軍家菩提寺は、将軍以外の弔いはしなかったのか?

先日、岡崎にある徳川家菩提寺・大樹寺を訪ねた時のこと。境内で、ふと疑問に思ったことがある。
現在の大樹寺の敷地の西半分ほどは、「大樹寺霊園」という墓苑になっている。
ところが、江戸時代の大樹寺の鳥瞰図には、この墓苑はなく、この部分には家康と秀忠の御霊屋があったようなのだ。
つまりこの霊園は、明治以降に作られたものということになる。
実際、明治になるまで大樹寺には、徳川家以外の檀家はなかったようだ。徳川幕府が健在な時代なら、大樹寺の経営は将軍家菩提寺さえやっていれば十分成り立ったのだろう。逆に、将軍家菩提寺だけに、他の檀家をとることは遠慮しなければならなかったのかもしれない。

しかし一方で、江戸時代までの大樹寺は寺の周辺に寺領を所有しており、寺領の住民たちが頻繁に寺の清掃などに駆り出されていたことが「大樹寺の歴史」(大樹寺発行)には記されている。現在も、岡崎には「大樹寺町」「鴨田町」という地名が残っているが、この辺りが昔の大樹寺領だった地域だ。
こうした寺領の農民たちの葬儀は、一体どうしていたのだろうか?
寺領の農民の葬儀も将軍の葬儀同様に大樹寺の住職が行うというのは、江戸時代という厳格な身分社会ではまず考えられない。かといって、大樹寺の寺領の住民が、葬儀は別の寺の世話になるというのも、妙な話だ。

◆本寺と塔頭の分業システム

この疑問は、「大樹寺の歴史」を読み進むうちに解消した。こういう身分社会のニーズに対応していたのが、塔頭という別動隊だった。
塔頭とは、広辞苑では「一山内にある小寺院。大寺にある別坊。寺中。子院。わきでら。」とある。通常は隠居した住職などが住むために、境内に建てられた寺である。
「大樹寺の歴史」によれば、寺領の住民たちの葬儀は、どうやら塔頭が行っていたらしい。
なるほど。
たしかに、同じ敷地内にあるとは言え形式的には別の寺なのだし、こういう形で一つの寺をセグメンテーション化すれば、人は死んでからも身分別に弔われねばならないという当時の社会のニーズに対応できる上、収入源も無駄なく確保できる。

なんとなく以前から、歴史のある大きな寺が必ずといっていいほど塔頭に取り囲まれていることに、引っかかっていたのだが、この大樹寺のケースを見て、本寺と塔頭の間には、こういう分業関係が成り立っていたのだということに初めて気づいた。

もっとも、本寺と塔頭が同じ境内に寄り添っているのは、そういう理由だけでもなさそうだ。
大樹寺の記録では本寺と各塔頭は、それぞれ石高を持っている。与えられた石高の総額は通常は増えることはないだろうから、住職が引退して独立する度に、石高が分散してはたまらない。そうした財産の分散を防止する意図もあったのかもしれない。(あるいは、石高を分散させることが認められていなかったのかもしれない。)

◆分業・共存関係から競合関係へ。そして塔頭の跡地には学校が・・・

江戸末期まで、大樹寺の三門と総門の間には3つの塔頭寺があったが、現在はそのスペースは岡崎市立大樹寺小学校の敷地になっている。
明治維新で徳川幕府というスポンサーが倒産、寺領を失うことになった大樹寺は、一般の檀家の存在なしには立ち行かなくなってしまう。そこで、今まで塔頭の職域だった一般信徒の募集にも乗り出すことになり、結果として今度は塔頭寺のほうが立ち行かなくなることに・・・大樹寺小学校敷地にあった3寺は移転して現存しているものの、この過程で多くの塔頭が消滅したようだ。

大樹寺の霊園と旧敷地内に建てられた学校は、明治維新後の大樹寺の経営転換の証と言える。
明治維新によって、本寺と塔頭の分業関係や相互を結びつけていた禄高の縛りもなくなり、お互いに寄り添う理由がなくなってしまっただけでなく、むしろお互いが競合関係になってしまったことが、塔頭を本寺から引き離し、そこに小学校が建設される・・・という流れに向かわせたのだろう。


DSC00103この寺の場合には、塔頭の敷地内に墓地があったのかどうかは分からないが、ここに墓地があったとすれば、墓地の跡に学校建設⇒学校の怪談という話の典型例だ。
(昔は土葬が主流だったため、寺が移転しても墓地の「中身」まではちゃんと持って行かなかったらしい。)

写真は大樹寺小学校敷地内にある大樹寺総門(写真中央)を写したもの。
三代将軍家光の意向による寛永の大改築の際、大樹寺の三門の中に総門が、総門の中に岡崎城が見えるように設計されたという。(ちょっと遠くて分からないが、多分写真の総門の中にも岡崎城が見えているはず・・・)

ちなみに、寺の西南には「大門」という地名が残っており、そこに寛永の大改築以前には大樹寺の門があったのかどうかとても気になったのだが、今回は調べられなかった。残念。
岡崎と安城には心残りがたくさんあるので、是非もう一度、今度は腰をすえて行ってみたい。

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番町皿屋敷~番町と井戸と怪談

◆怪談・番町皿屋敷

番町皿屋敷と言えば、即「お菊さん!」と答えが返ってくるほど、日本の代表的な怪談話だ。
一種の都市伝説であり、筋立てにもいろんなバリエーションがあるようなのだが、最もポピュラーなのは吉宗の時代の講釈師・馬場文耕の「皿屋敷辮疑禄」によるものという。
物語のあらすじについては、下にwikipediaからの引用を掲載する。

『牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。承応二年(1653年)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。
その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。』

◆千姫と皿屋敷

馬場文耕の皿屋敷で目を引くのが、「番町皿屋敷」の導入部として吉田屋敷、さらにその跡地に建てられたという千姫の吉田御殿の話を持ってきた点だ。
吉田屋敷の跡地は更地の意味で「更屋敷」と呼ばれていたという。「更屋敷」→「皿屋敷」と転じたという解釈でもって、皿屋敷に関連づけられたのだろう。
更屋敷に建てられた吉田御殿の千姫とは、言うまでもなく豊臣秀頼に嫁した徳川秀忠の娘だ。
婚家が実家に攻め滅ぼされるという悲劇に見舞われた千姫は、大阪城落城の間際に徳川方へと引き渡され、その後半世紀を生きることになる。
大阪城落城の時、千姫は19歳。この後姫路新田藩主・本多忠刻に嫁して第二の人生のスタートを切るものの、長男が夭折した後、結婚後9年で夫に先立たれ、再び江戸に戻っている。
こうしたいきさつから、千姫に関わる男は命を落とす、と世間でウワサされるようになったのか、吉田御殿にまつわる話として、千姫が男を引きずりこんでは関係を持ち、事の後は殺して井戸に放り込んだらしい、という話がまことしやかに伝わっている。上のwikiのあらすじでは触れられていないが、文耕の「皿屋敷辮疑禄」にも、千姫が殺した者たちを古井戸に投げ込む話が登場する。

吉田御殿の千姫の物語は「番町皿屋敷」の怪談とは直接の結びつきはないものの、番町という場所にそこはかとない薄気味悪さを漂わせる効果を持つという意味で、皿屋敷の枕としては絶好のエピソードと言える。
もっとも、千姫の吉田御殿の話と皿屋敷の怪談には、全く共通点がないのかというとそうでもない。
一つ目の共通点は、いずれの話にも井戸の中の骸(むくろ)が登場すること。
もう一つは、「播州」というキーワードだ。
豊臣家から出戻った千姫が二度目に嫁した本多家は、翌年桑名藩から播州姫路に移封されるのだが、この播州には「播州皿屋敷」という「番町皿屋敷」に似た話が伝わっており、こちらは浄瑠璃になっているようだ。
二つの皿屋敷の関連性も興味深いが、ここでは、前者の共通点、井戸と骸について考えてみたい。

◆番町と井戸と幽霊を結びつけた地中の忘れ物

江戸時代、番町界隈には、しばしば幽霊が出たらしい。
江戸後期に書かれた随筆・「耳嚢」にも、雨の夜番町で道端にうずくまる女を見たが、気になって戻ってみると誰もいなかった、という話が掲載されている。
皿屋敷の影響で、「この辺りは出るらしい」という話が広まっていたせいかもしれないが、実は、番町周辺はそもそも幽霊が出やすい土地柄のようだ。
江戸開府前、二番町の辺りは千鳥ケ淵川の谷筋で、処刑された者や病死した者の遺体を捨てる場所だったらしい。屍が累々と転がる地だったためか、この一帯は「地獄谷」と呼ばれていたという。
要するに当時は、この辺は江戸の市街地から遠く離れた町はずれだった。埋葬施設を伴うため市街地では敬遠される寺も、この辺りに多かったようだ。
が、江戸開府後江戸城の拡張工事が始まると、付近の寺は一斉に移転させられ、谷は埋め立てられて、番町周辺は屋敷町へと変化を遂げる。その際、谷筋に累々と積み重なった屍は、そのまま地中深くに残された。
やがて、ここがかつては人捨て場だったことを知る人も少なくなり、地獄谷という呼称も音だけに名残りを残して「樹木谷」と変化していくことになる。
しかし、屋敷町になり、人々の生活の場になった番町で、唯一地中深くを掘り下げる必要が出てくるのが、井戸掘りの場面だ。このあたりで井戸を掘れば、当然のように人骨をいくつも掘り当てることになっただろう。
そうした事実は、住人達に配慮してあまりおおっぴらに語られることはなかったに違いない。が、だからこそ逆に、地中から現れた人骨は、千姫が古井戸に投げ込んだ男たちになったり、主人に折檻されて井戸に身を投げた女中になったり、さまざまな身の上を与えられて、怪談話の主人公として語り継がれることになったのではないだろうか。

江戸のような大都市は、町はずれの埋葬施設だった場所が次第に市街地に飲み込まれ、地中深くに埋められた人骨だけが置き土産に残されていく・・・といったことを繰り返しながら、日々膨張し、巨大な人口を養ってきたのだろう。
が、人捨て場や墓場だったというその土地の過去は忘れ去られても、「なんとなく薄気味悪い場所」というその土地に染みついたイメージは、人々の記憶に残っていくことになる。(しかも、時々地中から証拠物件が掘り出されることもある。) その「薄気味悪さ」という土壌の上に、怪談が育っていったのではないか・・・と思う。
番町皿屋敷のような怪談話も、或る意味で、当時世界一と言われた大都市・江戸のめまぐるしい発展の副産物と言えるのかもしれない。

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海と増上寺(2)

増上寺や寛永寺のロケーションについては、江戸城の鬼門封じという以外に、江戸から各地への幹線道となる東海道・奥州街道との関係が指摘されることがある。
増上寺は寛永寺よりも早く、1598年から芝の現在地に移転しているが、たしかに、その場所はまさに東海道の道筋にあたっている。

現在増上寺大門の建つ交差点・芝大門交差点で参道と交差しているのは日比谷通りだが、芝大門交差点から海岸方向へ参道を戻った一つ目の交差点は第一京浜道、すなわち旧東海道と交わる。
つまり、増上寺が海側を向いているのは、東海道の街道筋に向かって建てられているため、という解釈も成り立つわけだ。
現在のロケーションで見ると増上寺から旧東海道までは少し距離がある感じがするが、江戸期の地図では、東海道道筋までは増上寺の付属施設で固められており、実質的に増上寺は東海道に面しているような格好になっていた。

東海道を江戸方面へ下ってきて最後の宿場となるのが品川宿。品川を出ていよいよ江戸市街に入るという丁度江戸の入口のあたりに、芝は位置している。
そういう意味で、東海道沿いに有事には砦に早変わりする寺というハコ物を配置することは、江戸を防御する上で必要な措置だったのかもしれない。

さらに、品川宿-江戸間でも特に芝という場所が選ばれたことについて、ひとつ考えられる理由がある。それは、愛宕山の存在だ。

現在も、虎ノ門から愛宕山下を通り、増上寺に続く道があるが、虎ノ門からこの道を南に向かって歩き始めると、じきに大きな東京タワーが見えてくる。東京タワーは増上寺の境内だった場所に建てられた東京のランドマーク。とても分かりやすい増上寺の目印でもある。
東京タワーが近くに見えるということは、増上寺が近いということだ。虎ノ門から増上寺までは、直線距離にして約2キロ程度しかない。

そして、その途上にあるのが、愛宕山。江戸市街で最も高く見晴らしのいい場所として知られ、江戸城にも近い。
陸上戦では、見晴らしのいい高台は必ず陣地になる。戦争を知らない私にはあまりピンと来ない話だが、恐らく愛宕山のような場所は、軍事上要注意地点だったに違いない。
にもかかわらず、東海道を増上寺のあたりで脇道に入ると、愛宕山まではすぐの距離だ。そして、愛宕山から江戸城も、また至近距離にある。

何故増上寺は芝にあるのか・・・という問題を考える時、愛宕山の存在はひとつの大きな手がかりになる気がする。

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愛宕山に注目しながら1860年の江戸の地図を眺めると、ちょっと面白いことが分かる。
愛宕山の山頂には愛宕神社があるわけだが、これは江戸開府の時家康が京都の愛宕神社を勧請したものだ。
江戸市街の防火祈願のためと言われるが、勿論それだけではなく、この丘陵を管理下に置くことが大きな目的のひとつだったのだろう。
さらに、まるで愛宕山の周囲を取り囲むように、寺が立ち並ぶ。
愛宕山の裏手を守るように細長い構えを持つのが天徳寺。そして、愛宕山と増上寺との間をつなぐような位置に、青松寺。
このほかにもいくつかの寺が、愛宕山の周囲を固めている。
地図上で寺は赤く表示されている(青松寺は何故か白だが)のだが、愛宕山の周囲から増上寺までは、真っ赤だ。この辺りは、いわゆる寺町なのである。

ところで何故この場所に寺が多いのか?・・・それは、ここに寺町を作る意図をもって寺が集められたからである。
天徳寺・青松寺とも、増上寺と同じく家康の時代にこの場所に移転させられた寺だという。移転の発端は江戸城の拡張のためだが、敢えてこの地が移転先に選ばれたのは理由があってのことだろう。
また、両寺とも、増上寺同様徳川幕府に厚遇された寺でもある。
こうした事実を見ても、東海道から江戸城へのアプローチ、特にその中継地点で江戸を見渡せる場所にある愛宕山へのアプローチを阻む目的で、この一帯に寺が重点配備されたという事情が見えてくる。
寺は江戸時代地域住人の宗教・身元の管理にも利用されていたことは知られているが、軍事的にも幕府機構に深く組み込まれていたのだと思う。
増上寺が芝に置かれたのも、愛宕山周辺を寺=有事のための要塞で固める計画の一環としてのことだったのではないだろうか。

ちなみに虎ノ門付近から愛宕山下を通り、増上寺に向かう道は、将軍の御成り道でもあったようだ。
この道に面して愛宕神社の鳥居があり、神社へは急斜面に設けられた険しい石段を登らなければならない。
この石段を、別名「出世の石段」という。
この名の由来は、将軍家光が増上寺に参詣する途上、家臣に馬に乗ったまま石段を駆け上がる競争をさせたという逸話から来たものだという。
将軍が増上寺に参詣する際には、虎ノ門が使われたのだろうか?

時代を遡ると、家康が駿府と江戸を行き来するのに使っていたと言われる中原街道は、現在の桜田通り。増上寺御成り道の一本西側にある通りで、その起点はやはり虎ノ門だ。
江戸初期には、虎ノ門界隈は主要街道の突き当りだったわけだ。

虎ノ門が、何故虎の方角(東北東)ではないのに「虎ノ門」なのかについては謎とされているようだが、街道との関係などを見ると、この門は江戸城防御の上で何か重要な意味を持っていたように思える。(ただ、何故「虎」なのかという問題とは、結びつかないが・・・)

さて、肝心の海と増上寺。
この問題について、次回考えてみたいと思う。

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海と増上寺(1)

仕事絡みで時々JR浜松町駅を利用することがあるが、夏の暑い時期など、ホームに降りた瞬間、湿気を含んだ海風の気配と、潮の香りを感じることがある。浜松町という場所は、それほど海が近い。
JR浜松町駅北口から竹芝ふ頭(伊豆・小笠原諸島への定期便が出ているほか、東京湾遊覧船などにもここから乗れる)までは歩いて数分の距離だ。

この竹芝ふ頭に続く道を何度も歩くうちに、遅まきながらこの道の起点が増上寺だということに気付いた。
この道は増上寺の参道だ。しかも、はっきりと増上寺と海を結ぶ意図を持って作られた道なのである。

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写真左は増上寺本堂。右は、増上寺参道の芝大門交差点から増上寺大門を写したもの。大門越しに三門と本堂の屋根が見える。

1680年製の古地図で確認してみたところ、増上寺の向きも、この道の道筋も、江戸初期から変わっていないことが分かった。ただ、芝大門交差点から間近い浜松町駅の辺りからは、江戸時代には海岸だったようだから、増上寺から海までの距離は当時500メートル程度しかなかったのではないだろうか。
海と増上寺を結ぶ道、何か意味がありそうだ。

下に1858年の古地図を使って、増上寺と海を結ぶ道を示してみた。
それにしてもこの地図を眺めるにつけ、増上寺の寺域の広大さには驚かされる。
この地図で赤く塗られているのは寺および寺の関連施設だ。増上寺の周囲を取り囲むように立ち並ぶ赤色の建物は、全て僧の宿舎・学寮と「坊中寺院」と呼ばれる塔頭(西の金地院や、北側の愛宕山周辺の寺は除く)。なにしろ、増上寺には修学僧が常時3000人も学んでいたというのだから、関連施設の数もハンパじゃない。
これらの関連施設を含む境内の広さは、なんと25万坪にも及ぶものだったという。
建物の広さに関して、メディアなどではよく「東京ドーム〇個分」と表現されることがあるが、その物差しで言えば「東京ドーム18個分」ということになる。・・・多分そう言われても全くイメージが湧かないと思うが、とりあえず、「途方もない広さ」であることは間違いない。

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ところで、増上寺に関してよく言われるのが、江戸城の裏鬼門に位置する鬼門封じスポットにあたるということだ。
徳川家の菩提寺である寛永寺と増上寺は、各々江戸城の鬼門・裏鬼門を護るべくロケーションされたとか・・・江戸市街の建設に風水の概念を取り入れることは、家康~家光のアドバイザーであった天海和尚の発案とも言われる。
実際、増上寺は、もともと紀尾井町辺りにあったものを、1598年にわざわざ芝に移転させられている。移転先が芝でなければならない何らかの事情があったことは確かだ。
ただ、家康(寛永寺については家康の死後、家光の時代に建立された)ほどの百戦錬磨の武士が、陰陽道の呪術的なセキュリティーバリア理論を優先して街づくりを進めたとは、到底考えられない。

それに、以前から気になっていることだが、増上寺は江戸城の裏鬼門というには若干東に偏りすぎている気がする。
純粋に裏鬼門の護りという機能を求めるのであれば、もっと西側に造られるべきだったのではないだろうか。あるいは、増上寺のロケーションにはもともと、裏鬼門の鬼門封じという意図はなかったのでは・・・?

仮に増上寺が江戸城裏鬼門を護る意味で芝に配されたのだとしても、家康が天海の案を取り入れたのは、それが呪術的な方位学に適っていただけでなく、現実の要請に重ね合わせた結果から芝が最適なロケーションと判断したからだろう。
その「現実の必要性」の上で、増上寺の位置は、江戸城の裏鬼門=南西よりも少し東よりでなければならなかったのだと思う。
では、その必要性とは何なのか?

寛永寺と増上寺のロケーションの必然性に関しては、もうひとつのポピュラーな説がある。こちらは、軍事面からのアプローチだ。
(以下次回)

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