秋の訪問者(完結)

帰ると、ママが夕飯の支度をしていた。
「ママ、」
ママが静かに振り向く。
「涼矢たち、行ってしまったんだ…。」
例によって、僕の下らない空想に付き合わされてうんざりしているんだろうと思いながも、誰かに話してしまわずにはいられなかった。
僕には重要なことだったのだ。
彼らが僕の前に現れたのには理由があるのだと思っていた。なにかしらの訳が。
しかし、そんなものはなかった。あったとしても僕にはもう分からない。
ママにも分かりっこないことは承知だった。
だが、ママはその名前を聞くと、瞬時に顔色を変えた。
まるで恐ろしい話を聞いたみたいに手で口を覆って、ワナワナと震えだし、両目には涙が溢れだした。
「涼矢…」
何度もその名前を繰り返して、そしてワッと机に突っ伏した。
「ママ?」
驚いたのは僕の方だ。
そんなに弱いママを見たのは初めてだった。

そしてママは話し始めた。
彼女に「涼矢」という同じ年のいとこがいたこと。彼が15歳のとき、青い目の吸血鬼にさらわれてしまったこと。ママだけが、その目の色の違う少年を吸血鬼だと信じていたこと。(あのママが!)それから音沙汰のなかったこと。
「もう死んでしまったと思っていた…」長い間ずっと…。
そして一枚の写真を見せてくれた。
幻想や空想がママの心の奥底に仕舞われていたのと同様、その写真も押し入れの奥の古いアルバムの間にひっそりと仕舞われていた。
ママの言う青い目の吸血鬼は、日の光の中で微笑んでいた。
どうしてそんな風に思ったりしたのだろう、僕もママも。こうして見ると、彼はとても吸血鬼なぞには見えない。

**********

彼らが吸血鬼だったのかどうか、誰にも分からない。
いずれにしても、その秋の体験は興味深いものだったことに代わりはない。
結局、僕がこうして涼矢の家である和坂家を継いでいるも奇妙な偶然だ。
僕はこの話を物語にまとめようと思っている。ママも応援してくれている。

涼矢はきっとまた会いにくる。
秋の、
金木犀の、
満月の夜、
涼矢と彼の青い目の友人は、僕らにまた会いに来てくれる。
薔薇の生け垣の向こう、
あの時の姿のままでーー

(了)

「ごめん。」
ケトルが鳴くと、音に紛れて涼矢が言った。
「君は君の母さんにあまりに似ているよ。」
…僕がママに?
キッチンの入口で所在なげに立っている僕に背を向けまままの涼矢からは、その真意は伺えなかった。
だけどどうしてママのことなんか?
「彼女は幸せなのかな?」
涼矢は平静を保とうとして声を落として言った。
幸せ?
ママが幸せそうに見えたことなど一度だってない。声を立てて笑うのを見たことがない。
でも、「どうして?」
涼矢は顔をあげて僕を見たが、その目はもう赤くなかった。
僕に言わせれば涼矢のほうがママに似ている。
そうだ、彼はママに似ている。一重の切れ長の、その茶色がかった瞳といい、尖った顎といい…。
「聞いてみただけだよ。」
涼矢ははぐらかして話題が変わるのを待った。
「ママは、」
だが僕は変えなかった。
きっと誰かに聞いてもらいたかったんだ。ずっとの間。
そしてそれはもう誰でも良かった。もしかしたら人間じゃない涼矢でも、あの人形でさえも。
「ママは忙しいんだ。僕とは違う。」
僕はあのまま追い返されずに済んで良かったなと思いながら、テーブルに腰を下ろした。
「忙しいのは良いことだ。考えなくても良いことを思い出さずに済む。」
涼矢は抽象的な言葉で、まるで未来を予言する占い師みたいに言った。
考えなくても良いこと?思い出さずに済むことーー?
それはどんなことを指すのだろうか?
「ママが考えるのは、僕がちゃんと勉強しているかどうかや、留学中の姉さんの生活や、デザインのことだよ。」
涼矢は僕の話を懐かしそうな顔をして聞いていた。
でも紅茶を一杯飲み終わると、「もう帰ったほうが良いな。」と窓の外を指して言った。
夕暮れに染まった湖はローズティーのようだった。

それはまるで奇跡のように突然だった。
いてもたってもいられなくなって訪れた火曜日の放課後。
屋敷へと続く煉瓦の小道は雨に濡れていた。
いつもは開け放たれていたテラスのガラス窓も、激しく降る雨の中、この日ばかりは固く閉じられていた。
僕はガラス窓に額をくっ付けて中をうかがった。
相変わらず何にもない部屋が見えた。
テラスを開けて中に入ると、薔薇の濃厚な香りが鼻をついた。
その香りはやがて見えない糸のように僕の体を取り巻いて、きつく縛り上げ、しまいには動けなくなってしまいそうだった。
「涼矢?」
何度か呼ぶうち、僕の声はいつかか細く頼りなげになっていった。
どこへ行ったのだろうか、こんな雨の中?それとも…?
僕は声を喉の奥で震わせた。
「ああ、」と、小さな叫び声が口から漏れる。
それはこの広い屋敷の壁や天井や家具に反射して、僕の耳に返ってきた。それはこの屋敷のあらゆるものに触れただろうが、自分以外の誰の耳にも届かなかったのだ。
僕はとっさにこの家にはもう誰もいないのだと悟った。
あるいは、
あるいは、彼らは最初からいなかったのかもしれない。全ては僕の幻だったのだ。
実際に僕は現実と夢とをごちゃまぜにしてしまうことがある。
(ママにもよく言われていたっけ、「いい加減、窓を開けて寝るのはやめなさい」。でも吸血鬼は寝ている間に窓から入ってくるものと相場が決まっている。)
これが夢ではなかったという証拠はどこにもないのだ。
雨に濡れて重たくなった靴と、それが床に作る染み。それらもいつか乾いて跡形もなくなってしまうのだろう。
そしてこの香り!髪にまで染み付いてしまった。
僕はテラスを飛び出した。
白いレースのカーテンの向こうに、まるで真っ赤な海のように波打っている薔薇の花。風に香りを撒き散らして。
それは庭一面に広がっていた。
紅茶の香りだ。
僕は目一杯その香りを吸い込んだ。
風に含まれた香りはきつく、少し目眩がした。

そうして立ち去ろうとした時、涼矢の鋭い声が聞こえた。
「ジェリエル!」
僕が振り返ると、涼矢は傍らの友人の肩を掴んで抱き上げるところだった。
気を失ったようにぐったりとした少年の体を階上へ運ぼうと書斎を出てきた涼矢と目が合うと、涼矢はいつになく驚いた顔を見せた。
そのまま階段を上っていく彼らの後を、僕はおずおずと追った。
僕が開いたままのドアにたどり着く頃には、涼矢は友人をベッドに寝かせ、ブランケットを彼の胸の辺りで丁寧に折り返しているところだった。
金髪の、まるで蝋人形のように青白い少年の顔を目の当たりにして、僕は口もきけずにただドアの入り口に突っ立ったままだった。
彼は本当に生きているのだろうか?人形じゃないのか?息をしていないように見える。
涼矢は振り返らずとも僕の存在を察していた。
そのせいで躊躇したのか、僕を制するためか、一度小さく息を吐き、それからそのまま病人の顔を覗きこむように、ゆっくりと口づけた。
眠る白雪姫を起こす王子様の魔法のキス。
まるで映画で見るような、それは儀式だった。
涼矢が身を起こすのと同じ速度で、人形は目を細めに開けた。
青いビー玉のような瞳が覗いていた。
僕はそれを見てゾッとした。彼はあまりに美しすぎて、まさに魂を持たない人形が目を開けたように思えたからだ。
涼矢は今まで息を止めていたかのように、一つ長いため息をついた。
だけど次には真剣な顔をして口を開いた。しかし、それはベッドに寝ている人形への言葉であって、僕には囁きほども聞こえなかった。
そして少し間を開けてから立ち上がり、「紅茶を持ってくるよ。」と言った。
涼矢は後ろ手にドアを閉めながら肩越しに僕を見やり、「見世物じゃないぜ。」と冷ややかに呟いた。
まるで別人みたいだ。こんな涼矢を僕は見たことがない。
あれは秘密の儀式だったんだ。涼矢と人形の。だから僕は見てはいけなかったんだ。
階段を下りていく肩を追いながら、僕は何か言わなけりゃと口を開いた。
「邪魔をするつもりはなかったんだ。ただ、大丈夫かなって思って…」
早口で言い訳しながら、それが涼矢の神経を逆撫でしたことを知った。
「当たり前だろう!」
次の瞬間、涼矢は振り返って僕の目を一直線に射抜いた。
「邪魔などさせるもんか。」
涼矢の目は一瞬赤く光ったように見えた。あるいは夕日の照り返しのせいか。
すぐに顔をそらした涼矢の耳から血の気が引いていくのを見ながら、僕は思った。
そんな風にして彼を隠してきたのだろうか?誰から?そして何のために?

このページのトップヘ