皆々様、ご無沙汰致しております。未だ理系ではあるものの、最早会計ではない二年のAでございます。
 先日の講演会では多くの方々にご来場いただき、誠にありがとうございました。

 さて本日はそれとは別件、去る12月18日に行われた第四回世界文学読書会につきまして、この度どういう訳か私が前半部のレポートを書く運びとなってしまいました。
 卒業を間近に控えても精力的に会を開催している主催者とは対照的に、初回のレポートを皮切りに様々な方面で奔走している同期の会長を尻目に、新体制以降早くもビバノンノンの楽隠居気分でおりますこの私。これまでのレポートやこの後に続く(はずがうっかり先を越されてしまった)B Partの担当と比しましても適当さ加減を隠せませんが、どうぞご笑覧いただけましたら幸いに存じます。


 ……と、前置きで字数を稼いだ所で以下作品リスト。

vol.4 『愛・孤独』A Part

01. アリス・マンロー(カナダ: 1931〜)
『次元』
02.張愛玲(チャン・アイリン)(中国: 1920〜1995)
『色、戒』
03. ターハル・ベン=ジェルーン(モロッコ−フランス: 1944〜)
『狂おしい愛』
04. ニール・ジョーダン(アイルランド: 1950〜)
『チュニジアの夜』
05. ルイサ・バレンスエラ(アルゼンチン−アメリカ: 1938〜)
『夜、わたしはあなたの馬になる』
06. レイナルド・アレナス(キューバ−アメリカ: 1943〜1990)
『エバ、怒って』
07. 村上春樹(日本: 1949〜)
『蛍』

 ところでこれ、一々扱った作家全部タグつけなきゃダメなん?

『次元』
 ドーリーは今日も彼に会いに行く。カウンセラーのミセス・サンズには内緒で。
 彼女が彼―ロイドと出合ったのは七年前。結婚した二人は新天地での生活を始める。常に敵を持たずにはいられないタイプの彼は彼女に対しても粗暴であったが、それでも彼女は自分は隣人のマギーの考える様な不幸な状態には決してないと実感していた。
 ドーリーはロイドがマギーに対してだけは敵意を持たないようにと祈るが、果たして彼は彼女を批判し出し、ドーリーが彼女と友人付合いをする事に対して文句を言い始める。"あの女はな、俺がどれほどひどい男かおまえがわあわあ泣きながら愚痴るように仕向けるぞ。そのうちな"
 ある夜彼と喧嘩して思わず家を飛び出し、マギーの家で泊めてもらった晩―少なくともロイドにとっては、自分の言った通りになってしまった様に見えた晩―夜が明け戻ると、ロイドが玄関の前に座り込んでいる。子供たちはどこにいるのかと尋ねるドーリーに、彼は聞かれたくなかったという様な顔をして答えた。"昨日の晩電話した時には、もうこうなってたんだ。何もかも、おまえが招いたことだ――"
 そしてドーリーは今日も施設へロイドと面会しに行く。ミセス・サンズは嫌な記憶を思い出さないためにもこれ以上彼に会うべきではないと考えいたが、何となく足が向いてしまうのだった。ある日彼女の職場にロイドから大きな封筒が届く。その中で彼は、自分が子供たちと今生きているのとは異なる"次元"で会っていると言うのだ――。


 慣習により物語の筋をまとめる事になっているのですが、やってみると中々難しいものですね……。
 愛・孤独という今回のテーマにおけるオープニングとしての本作品。最初に取り沙汰されたのはその結末についてですが、これについてはドーリーがロイドからの手紙により新たな心の支えとなる考え方を得て、悲しみの淵から自立して生きられるようになったという事で、前向きな終わり方ととらえる見方が大勢を占めました。この様に雰囲気を一度沈ませてから回復させるという物語の流れは、著者アリス・マンローの一つの特徴でもあるそうです。
 かつての夫婦生活等に見られるドーリーの生き方、考え方についても、(このあたり自分で言った事なのか全体で成された意見なのか記憶が曖昧ですが)マギーやミセス・サンズ等いわゆる世間一般の目から見れば好ましくないのではないかと思える状態でも、当事者たる本人が良いと考えているのならば(特に個人と個人の関係においては)それで構わないのではないかという思いを見てとる事が出来ました。
 この様に主人公であるドーリーの視点から見ると、この物語は彼女が周囲(特にロイド)の様々な影響を受けて変化して行くある種の成長物語として考えることが出来ますが、それではこの話、展開は彼女と共に強力にキャラクター付けをされているロイドの立場としてはどのような意味を持って成されたのか。飽くまで主人公はドーリーであるので、彼は彼女が影響を受けるための環境の一部にすぎないとの見方もありましたが、これについては彼の行動原理(あるいはその成因)に不明な点が多く、如何とも結論付け難い状況にありました。


『色、戒』
  佳芝(チアチー)は易夫人の自宅で、彼女の友人たちと共に麻雀卓を囲んでいる。佳芝を除く面子は皆、高級な金やダイヤで身を着飾っている。
 やがてこの家の主人たる易先生が帰宅する。夫人たちと何気ない会話をしながら、佳芝に目配せをする易氏。それをみた佳芝は所要を思い出したと言って、引きとめる夫人達をなだめてその場を後にする。
 喫茶店で易氏を待つ佳芝。待ち合わせの前に彼女は、カウンターの電話から仲間に連絡を入れる。彼女は学生劇団の女優―易氏の暗殺を目論むナショナリストグループの一員なのだ。
 商売人の若妻を装いこれまで密会を重ねてきた彼女は、贈り物をしたいと言う易氏を誘いうらぶれた宝石店へと連れ込む。もうすぐ仲間たちがここを襲撃し、易氏は殺されるはずだ。しかし出された宝石を前に易氏と語り合う、その雰囲気の中で佳芝は――。

 特に読書会で扱われる様な海外文学は絵画的というか、明確なストーリーラインをあまり持たないものが多く見受けられますが、この作品は山場もはっきりとしており単純に物語として楽しむ事が可能でありました。
 そのまま計画を完遂出来たならば単なるサスペンス、エンターテイメントで終わるところを、宝石店の場面においてお互いがお互いを想い合っているのだと(それぞれ独立にではあれ)認識している状態を作り出す事で、一種の愛の形態の成立を描いている事が読み取れ、作品に面白みが加えられている様に感じました。もう少し解った風な物言いをするのなら、世の中には相手が自分を本当に愛しているか100%信じられないと言った様な事がままある様ですが、愛においてはお互いにそれを確認しあうというプロセスは必ずしも必要ないのだ、という事でしょうかね。
 計画の成功、失敗に関わらず、どの道この状態は一瞬しか持続しないという所も、これにさらなる美しさを添えている様に感じられました。
 

『狂おしい愛』
 イスラム圏のある国にある歓楽街、サキナは素晴らしい歌姫だった。彼女はこの職業には珍しい、清らかな魂を持っており、それをもって金と権力にまみれた大公の下劣な誘いをも撥ねつけるのであった。
 着実にスターへの道を歩む彼女にとって、足りないのは愛すべき男性の存在だった。そんな彼女の前に、ファワズという名の一人の男が現れる。
 ハンサムで教養溢れる彼の愛の言葉に、彼女は強く惹かれて行く。しかしサキナの母親は、熱情的にファワズを愛する彼女に対しこう警告する。"人生は私にひとつのことだけを教えてくれた。それは警戒するということなんだよ。本物の愛、大事な愛というのは、日常生活の愛なんだ――"

 話の筋を途中で切り上げようとするとどうしてもダッシュを使いたくなってしまいますね……。
 急転直下の幕切れは、相手を信じいわば盲目的に愛する事に対する戒めとして、母親の言葉と相まって非常に教訓的な意図が見て取れました。ファワズの行っている事は本質的には序盤の大公と同じであるとの指摘の中、権力者に虐げられる民衆といった社会的構造にも結び付きうるとの見方も示されました。B Partにて登場するある作品とは、位置づけ上対を成しているとも言えるでしょう。
 私自身は著者が冒頭でこの作品はフィクションであるとことさらに強調している事から、ともすれば著者の意図は物語から読み取れる事とは正反対であるのかもしれないとも考えましたが、これについては同様に冒頭で"虚構(フィクション)とはどれも現実から盗まれたものである"との記述がある事から、やはりこの物語はその教訓的意義が主であろうとの結論に至りました。
 またサキナのたどる運命に対しては同情的な意見が多く出される中、このままありきたりの筋書き通りに事が運んでも結局はファワズに対して幻滅する結果となるのだから、いっそこの方が良かったのではないかとの見解も成され、その様な点がこの作品の斬新さを醸し出してもいるのだと納得する次第でもありました。


『チュニジアの夜』
 その夏も、彼はその街でまた彼女に会った。彼の一家はその年もトタン張りの緑色の家を借りたが、彼女はその街の同じような小屋に一年中住んでいた。彼女に会った瞬間、彼は三年前の午後の事を思い出す。あの夏の暑さを、姉と三人で寝転がった芝生を思い出す。しかし彼の姉は彼女に会っても反応を示さない。「どうして呼び止めないんだい?」「どうしてって――どうしてもよ」
 
 著者のニール・ジョーダンは作家というよりもむしろ映画監督や脚本家として有名だそうです。それを聞くと確かにこの作品は小説でありながら、構成は幾つかのシーンをつなぎ合わせ、最後まで通じて鑑賞する事でテーマや主人公の変化の様子が浮かび上がってくると言った様な、ある種の映画に近い印象を感じさせるものでした……ですので筋をまとめるのも非常にやりにくいorz
 後半主人公の少年が、"彼女"と主人公の姉と共に過ごした幼い頃を思い返す場面が登場しますが、彼は"彼女"に対し当時の面影を未だ引きずっている様子がその言動の節々に見受けられました。実際には"彼女"は十七になり随分不節操な人間へと変化してしまったのですが、彼自身は頑なに"彼女"に対する(いわば)幻影を持ち続けている様が冷静な彼の姉との対比により浮き彫りとなっています。
 しかしそのような彼も父親の強い勧めによりサックスを習い始める事で(この辺りサックスの稽古が彼自身の成長のきっかけとなったのか、あるいは彼の成長を暗示するものとしてサックスの上達があったのかは若干意見の分かれる所でしたが)彼自身の内面にも変化を来し、最後には"彼女"の開いた口が現在どこに向けられているのかを察知する様になる。"彼女"自身そっと彼のピアノに耳を傾ける事などから分かる様に完全にかつての面影を失ってしまった訳ではないにしろ、それでもやはり全てのものが移り変わってゆく中で彼自身もこれまでのあり方を失い成長して行く、そういったテーマの取り方からもこの作品の映画的な特徴を読み取ることが出来るのでしょう。

『夜、わたしはあなたの馬になる』
 呼び鈴の合図が鳴る。ドアを開けるとそこには彼がいた。彼はまずドアの錠をかけてから、私を腕に抱く。再会の喜びが身体からあふれていた。
 ベート、彼を見て言う。ほんとうの名前じゃないけれど、大きな声で呼べるのはこの名前しかない。そのほうがいい。いまはふたりっきりでやろうとしている事の素晴らしさを壊さない方がいいのだ。
 レコードプレイヤーが歌い出す。わたしはそれをゆっくりと口にした。「夜、わたしはあなたの馬になる――」

 わずか5ページ半の中に様々な広がりを含んでおり、非常によく出来た作品であるとの評価が会においては多く成されました。
 革命の戦士として描かれた彼―ベートのあり様から当時の社会的情勢を読み取れるのみならず、"いつの日かできることについては、いましゃべらないほうがいい"といった様な、たとえ束の間であってもお互いの存在を確かめあう事に全神経を傾ける美しさ、あるいは後に彼女が夢であると確信する事にしたベートとの時間について実際にはどこまでが空想でどこまでが実際に起こった事であったか、等々。
 同時に扱った『エバ、怒って』の様に枚数を割いて謳い上げることも可能であろう内容をごく短い描写に込め、なおかつ抒情的表現を失っていないその構造には感心させられるばかりでありました。

『エバ、怒って』
 編み物が終わっても、あたしはあなたの事を考え続けている。あたしが誰より編み針のこつを知っているのもみんなあなたのせいよ、リカルド。あたしはあなたのために昼も夜もこの部屋に閉じこもって、たった一人編み物をしているのだから。
 あなたと出合った時、あたしはあなたの手編みのソックス――それもとってもうまく編んであるソックスがみえ、目を奪われてしまった。あなたは言った。「きみは世界一きれいな目をしてる」結婚した後、あたしたちは色々な衣装を着て町を歩いたわ。あたしたちを見ずにいられた人なんかいなかった。でもあなたはいつも言っていた。「パレードで俺達を見なかったやつがきっといるんだ――」

 この作品で浮き彫りとなっているのは、やはり主人公エバとその夫リチャード(リカルド)との齟齬なのでしょう。
 派手な格好を見せびらかす事はエバにとっては正に夫婦愛の証とも言えるものなのでしょうが、リチャードは常にそれが否定される可能性を疑っている。そして国中を巡る旅の最果てで遂に彼らに見向きもしない少年の現れた時、彼は自分をどこまでも受け入れようと努め旅を続けて来たエバをあっさり捨ててしまう。この事から結局彼が"君は世界一きれいな目をしている"と言っている対象は彼女ではなく、自分自身であったのだろう、自分の美しさに興味を示さない、自分の敵わない相手を目の当たりにして(著者が男色をどこまで作品に持ち込もうとしたのかは推測し兼ねますが)彼に関心をすべて奪われてしまったのだろうとの推測が出来ました。
 他方エバに関しては作中リチャードの"自分たちを見ていない者がいるに違いない"という考えに影響されていた事もあって、最終盤最高の喪服を編んで立派な未亡人となって見せようと言う態度はリチャード同様のナルシズムではないかとの見方も成されました。ただこれについては(何らかの採択が成された訳ではないのですけれど)個人的には、エバは飽くまで自分の夫婦における妻としての役割を貫こうとしたのではないかとの見方を推したいところ。

『蛍』
 僕が彼女と会ったのは半年ぶりだった。彼女と最初に会ったのは高校二年生の春、彼女は友人と恋人同士だった。当時は何となく僕と友人と彼女の三人で遊ぶのが一番気楽だった。その五月の午後、僕と高校の帰りにビリヤード場によって玉を突いた夜、彼はガレージの中で死んだ。
 卒業して東京に出てきた時、僕のやるべきことはあらゆる物事を深刻に考えすぎないよう資する事だった。しかし後になっても僕の中には何かしらぼんやりした空気の様なものが残った。僕はその形を言葉に置き換える事ができる。こういうことだ。
 "死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。"

 以前当会で行われた日本近代文学読書会でもそうだったのですが、どういう訳か読書会で村上春樹の作品が扱われると作品そのものよりも村上の作風全体の話題が盛り上がる傾向がある様です。会員の中でも好きな作家の筆頭に彼を上げる方がいらっしゃる一方で、彼の作風を嫌っていらっしゃる方も結構おります。本読書会の主催者も後者の一人の様で、曰く"背景に世界の広がりが感じられない"との事。先輩に対して偉そうに評価する事など出来ませんが、これまでの現代世界文学読書会のラインナップを見るとこれが主催者の作品選びの一つの基準になっている様にも思われます。私自身も村上の持って回った様な表現には少々鼻につく所もあってそれほど好きではないのですが、ともあれこれは村上春樹という人がそれだけ存在感のある作家であるという事を表わしているのでしょう。
 当作品自体は彼の作品の中でも比較的解りやすく、読みやすいものでありました。後半の議論はやはりキーワードであろう"死は生の対極〜"というフレーズの意味についてとなり、最終盤に登場する蛍(これは友人の魂を表わしたものだろうとの見方が多くなされました)との関連等が述べられました。


 一部の会員の方はお気づきかと思われますが、この部分を含め記事の一部はその他の部分が書かれてから一カ月以上、読書会自体からは実に二カ月に及ぶ空白の期間を経て書かれております。以前書かれた部分についても後で修正する事を念頭にしておりましたので相当いい加減ですが……まぁおそらく他人のブログの長文記事を最後までちゃんと読む人なんてそうそういないでしょうし、増してこんな存在感の薄いサークルの更に存在感の薄い会員の書いた記事などなおさらでしょうし、長い人生いつかは本気でこの記事を手直ししようと思い立つ日も来ないとも限りませんから……これでいいですよね?

 そうしたら記事の最後だけチェックする人対策に、おしまいに少し会全体について記憶を振り絞りつつ私見を述べるとしましょう。正直な話個々の作品の技巧的相違だとか、その作品の筆者や当時の歴史とのかかわりだとか、私そういう事については本当に"色々あった。"ぐらいのことしか言えませんし、それ以上追及する意欲もないのでこの辺で堪忍して頂きたい。で、今回のテーマは"愛・孤独"という事でそれこそ色々な作品を取り扱った訳ですが、本来愛というものは誰しもそれが性欲に基づいているものだとすぐに思い浮かべる事の出来る様に、本能に近い非常に単純なものであるのではないでしょうか。相手に対して惹かれる理由をリストアップする事は後からいくらでも出来るでしょうが、自分が誰かに対して魅力を感じる瞬間、あるいはそれを感じている自分に気づく瞬間というのは思考の果てに思い当たる理屈というより、いわば体の底から湧きあがってくる感覚であるはずです。孤独についてもそれを愛と対置してとらえるならば、また然り。
 しかしその単純な感覚一つとっても今回の読書会で触れた様な様々な表出の仕方が存在すると言う所が、人間の本能だけに終わらない所なのでしょう。人間は思考し、それぞれ(全体としてどこか似たような傾向はもち得るとしても)てんで異なった事を思いついては、時に行動します。それが何千人、何万人分と集まってある地域での文化、環境を形成し、それがまた次の世代の個人の考え方に影響する。そういった繰り返しによってこれだけ多様な考えやその呈し方が生まれ、さらに現代おいてはその表現方法がより自由となり、自分とは隔絶されたところにあるそれらに触れる事も可能となった訳です。まぁそれは私個人としては見物すべき面白いものが世の中に溢れ返っているという事で大変喜ばしい以外の何物でもないのですが、もう少し穿った風な事を言うのなら、このなんでもござれな世の中で"愛"をテーマにした"文学"という昔からのものが今なお存在しているという事は、それだけこの感情や文字という存在が人間の中で普遍的な、何か根幹を成している存在であるからと言えるのでしょうね、な〜んて。