例年にない寒さでございますが、皆様おかわりなくお過ごしでしょうか。上智大学の入試も終了し、あとは春を待つだけですね。文学部2年のKです。

今回は遅ればせながら、去る12月18日に一日かけて行われました、第四回現代世界文学読書会の後半部のご紹介をさせていただきます。扱いました作品は以下の通りです。

『愛・孤独』B part

08. ウラジミール・ナボコフ(ロシア―アメリカ: 1899〜1977)
 『バッハマン』
09. ミラン・クンデラ(チェコ―フランス: 1929〜)
 『老いた死者は若い死者に場所を譲れ』
10. アイザック・バシェビス・シンガー(ポーランド―アメリカ: 1902〜1991) ≪*1978≫
 『ギンプルのてんねん』
11. A.S.バイアット(イギリス: 1936〜)
 『そり返った断崖』
12. ジョン・バース(アメリカ: 1930〜)
 『ドニヤーザード姫物語』
13. ガーダ・アル=サンマーン(シリア・アラブ共和国―レバノン: 1942〜)
 『猫の首を刎ねる』
14. ミルチャ・エリアーデ(ルーマニア: 1907〜1986)
 『ジプシー娘の宿』


それでは、続きを読むより詳細をご覧ください。
・ウラジミール・ナボコフ『バッハマン』
かつてのピアニスト兼作曲家バッハマンの訃報。これを目にした語り手は、バッハマンの友人である興行師ザックから伝え聞いた物語を語る。天才ピアニスト・バッハマンは音楽の才能と同時に、その奇行でも有名であった。バッハマンと知り合ったペローフ夫人は彼を愛するようになる。そして友情とも恋愛ともつかぬ奇妙な関係が続き、バッハマンのコンサートにはいつもペローフ夫人の姿が見られるようになった。だがあるコンサートの日、ペローフ夫人の姿はなく……

この作品では、「信頼できない語り手」の問題が話し合われました。この物語は他人から聞いた話を語り直すという形式が取られていますが、そのどちらもが信頼できない語り手となっています。胡散臭い興行師ザックと、彼の話を元に実際に見たわけでもない状況を細かに説明する語り手。どこまでが事実で、どこからがザックの偏見、あるいは語り手による虚構なのかがぼかされています。ペローフ夫人は何故そこまでバッハマンを気に入ったのか。バッハマンを果たしてバッハマンはペローフ夫人を愛していたのかどうか。こうしたことに対する見解もザックと語り手では異なっており、読者の個々の判断に委ねられているようです。参加者の意見としましては、皆語り手の立場に立って物語を楽しむしかないという結論に達しました。バッハマンとペローフ夫人という不思議な取り合わせは呼んでいても非常に面白く、またバッハマンの書き残した誰にも読むことのできない楽譜には不可解さと同時に何か温かいものが象徴されているように思われます。


・ミラン・クンデラ『老いた死者は若い死者に場所を譲れ』
とあるチェコの小都市にてかつての恋人同士が十五年ぶりに邂逅する。男は近頃目立つようになってきた自分の老いを受け入れまいとしている。女も美的生き方を追求していた当時とは異なり、亡き夫や息子の影に追い立てられて今では節度ある生き方を是としていた。過去の記憶と現在の思いがせめぎ合う。

理屈っぽいけれど、大変テンポがよく読みやすい作品でした。はじめに語られた譲与期限の切れた墓(記念碑)がこの物語の、特に女性の生き方を象徴しています。結局のところ、他人の記憶の中に、つまり自分の外に自分の姿を残す記念碑を建てても仕方がない。自分の好きなように生きるべきだという、ニーチェ的あるいは実存的結論に至るわけですが、実際に世の人々がここまで理論的に自らの行動を規定しているのか疑問だという意見も上がりました。「老いた死者は若い死者に場所を譲らなければならない」という人間味のない管理手続を表現した言葉が、最終的には個人の重視を促す言葉へと転化した点が面白いところでした。この会でも最も人気のある作品でした。同じクンデラの『存在の耐えられない軽さ』は是非とも読むべき作品名作だそうなので、私も含めて、みなさん読むことにしましょう。


・アイザック・バシェビス・シンガー『ギンプルのてんねん』
ユダヤ人の村に生まれ住むギンプルは、周囲の人間に散々からかわれながらも人を信じて疑わない。学校でも職場でも、妻にも果ては徒弟にすらも馬鹿にされるが、あまり頼りにならないラビの言葉を信じて愚か者であり続ける。あるとき悪魔にそそのかされて悪事を働きかけるが、自分をずっとだまし続けてきた亡き妻の言葉を聞き思いとどまる。人を信じていれば必ず報われるということを説く教訓的物語。

最初に少し触れられましたが、『イワンのばか』を意識して読むこともできるようです。しかし、今回はA Partの『狂おしい愛』と対になる話としてこの作品を見ていくことにしました。『狂おしい愛』が夢見がちの少女に現実の厳しさを突き付ける教訓話であるならば、『ギンプルのてんねん』のほうはどんなにひどい仕打ちを受けようとも人を信じ続けなさいという理想主義的なお話です。どちらの作品も世の中の醜悪さを描いたものですが、『ギンプル』のように全てを受け入れるというのもまた一つの解答なのかもしれませんね。ただ、この理想像が少し押しつけがましいという批判の声も見受けられました。あまりにも教訓めいているところがやや難ではありますが、それを除けばギンプルを中心にして次々と繰り広げられるコミカルな展開を純粋に楽しむことのできる物語です。


・A.S.バイアット『そり返った断崖』
ある学者が肖像画に描かれた婦人の物語を構想するところから始まる。物語は婦人の描写から彼女が敬愛していた詩人ブラウニング、さらにブラウニングが滞在予定だった別荘地の若者たちへと移り変わっていく。これまで光を当てられることのなかった歴史上の人物を取り上げ、彼女を起点として様々な人物の人生を辿っていくメタ構造の物語。

この作品には読書会メンバー一同頭を悩ませました。伝記小説を描こうとしている学者、ヒロインとして構想されている婦人、詩人ブラウニング、画家の青年と次々と物語の主役が変わっていきます。そして、ブラウニングや青年ジョシュアを描いた部分ではさらにデカルトやラスキンなどの古典的学者が引用され、物語の時間的厚みを増していました。この作品のテーマは何かということに関しては、人間の人生の普遍性ではないか、あるいは芸術論ではないかという憶測がなされました。恋愛の部分だけ浮いているので、そこに何か作者の意図があるようだとの指摘もありました。なんにせよ、あまりにも難解なので一時保留という決定がなされました。また機会を見て再読することにいたします。


・ジョン・バース『ドニヤーザード姫物語』
『千夜一夜物語』の枠構造を下敷きにした作品。シェヘラザードの妹であるドニヤーザードの語りから物語は始まる。シャハリヤール王は妻に裏切られて以来狂気に陥っていた。故国を救うため王の傷心を癒す方法を探っていた才女シェヘラザードは、この問題を解決する鍵は他のどこでもなく文学作品の中にあるという結論に達する。そのとき鷲ペンの先から魔神が現れ、彼が未来の人間であることを明かす……

引き続きメタフィクションですね、わあい。この作品は普段扱っている短編よりも分量は多かったものの、ストーリー性が強く読みやすいものでした。もともと入れ子構造を成している『千夜一夜物語』をもとに、さらに作者本人まで登場して時空を混乱させたこのメタっぷりには驚きを隠せません。この作品ではフェミニズムや文学作品の書き手と読み手の関係性といった様々な論点が挙げられました。語るということは聞き手がいなければ成り立たないという点についてはなるほどと思わされるところがあります。第二章からは後日譚が描かれ、オリジナルにはない話となっていますが、アメリカ人の作家らしい奇抜な展開が非常に面白い作品です。


・ガーダ・アル=サンマーン『猫の首を刎ねる』
フランスで暮らすアブドゥルは、母国レバノンの女性と同じ格好をした不思議な婦人に出会う。その婦人はアブドゥルに、夫に服従する理想の花嫁を紹介しようと言う。だが、彼はフランスの自由な環境で奔放に育った女性ナディーンに心惹かれており、ちょうどその日、結婚を申し込もうとしていたのだった。

これもやはりフェミニズムを扱った作品と言って良いでしょう。女性からはナディーンのような自由な生き方に憧れるという感想が出ました。男性の意見としても、婦人の挙げた花嫁像があまりにも非現実的でかえって不気味だというのがありました。また、現代日本においてはこのようなアラブ的な女性の抑圧は考えにくいという意見も出されました。ジェンダーという観点から離れて、時代の新旧の狭間に立たされている状態と見ることもできるかもしれません。自分がずっと抜け出したいと思っていた伝統社会の因習にとらわれていて、そこに安らぎすら見出しているということに気付いた時のジレンマが描かれているように思われます。結婚しようと思っているものの、いざその時になってみると踏みとどまってしまう。新しいものに惹かれるけれども、なかなか踏み出すことができない。そういったことはナディーンがアブドゥルを「ハムレット」と呼ぶこの表現にも著されているように、近代的な人間の悩みという感じがします。


・ミルチャ・エリアーデ『ジプシー娘の宿』
芸術家ガヴリレスクはある猛暑の日にバスに乗っている。このバスではいつもジプシー娘の宿が話題となるのだ。ふとしたことからバスを降りたガヴリレスクは、ジプシー娘の宿へと導かれる。そこで彼はどの娘がジプシーなのかを当てるゲームをしなければならないのだが彼は正解することができず……

これも解釈の非常に難しい作品でした。宿から帰ってきたら何年もの時が過ぎていたという浦島太郎のようなお話ですが、よくよく読んでみると時間の流れがさらに加速していっているということが指摘されました。このことから、ガヴリレスクはジプシー娘の宿に入った時点で死んでいたのではないかという解釈がなされました。ゲームの途中で被せられたカーテンや元霊柩車の御者といった表現からしても彼の死は間違いないようです。また全体としては、ガヴリレスクは死の瞬間に青春を取り戻すことができた、つまり永遠の美の対象であるヒルデガルトと再び巡り合うことができたと考えることができます。世界的な宗教学者であるエリアーデの作品であることから、ひとつひとつの表現に象徴的な意味が込められていることが推測されますが、それらを読み解くことはできませんでした。ジプシー娘とは何を意味するのか、ゲームの意味とは、7番目のドアとは……。これがあのエリアーデかと思わせるような、寓意に満ちていて捉えどころのない、そして幻想的で美しい物語でした。


今回のテーマは『愛・孤独』、そしてこのB Partでは幻想的な物語が多く集められていました。愛の形についてはA Partで語っていただいたので、こちらは幻想文学についてちょこっと個人的感想を述べたいと思います。執筆者Kは普段特定の国、時代の寓話を主食として生きていますが、今回の作品群はこれまでに食べてきたものとは違ったタイプのものでなかなか歯ごたえがありました。ナボコフの『バッハマン』の虚構に虚構を重ねる技法や、エリアーデの『ジプシー娘の宿』のような各国の民話をふんだんに取り入れた作品、そしてポストモダン文学!時間を跳躍するメタ構造の作品、バイアット『そり返った断崖』とバース『ドニヤーザード姫物語』。これらは、常に現代文学のぱっとしない領域に身をひそめており、アメリカ等の新しい文学に慣れていない私にとっては難関でした。作品の中で作者自身が意識させられたり、書くということ、もっと広く言えば芸術を創造することそのものにまで言及するという、これらの作家の態度はなかなか興味深いものです。現代文学のあり方を考えさせられました。

最後に、全体的に話としては楽しく読めるものの、解釈が難しいものが多いというのが参加者の感想です。会の途中、一体何度天使が通りぬけていったことでしょう。そして執筆担当者Kの怠慢も相まって、当ブログが黙して語らぬ日々が続いたことを深くお詫び申し上げます。