2年のLです。いつもながらなんと分かり易いイニシャルだこと。

ソフィア祭講演会ブックレビュー企画、遅くなりましたが第二弾です。

『何もかも憂鬱な夜に』

中村作品の主人公は宿命的に世界から拒絶された存在として生まれ、成長している。読んでいるとそう思うはずです。本作品の主人公も施設に生まれ、常に世界との隔たりを否応なく意識させられながら社会人となり、未だに苦しんでいる。

しかし、この作品を通読してみると、それは少し違うのではないかなと思えてきました。詭弁のように見えるかも知れませんが、これは本質的な違いのように思えるので、このブックレビューのメインテーマとして書いてみたいと思います。

前提として、中村文則氏という方は一般に純文学作家と呼ばれるカテゴリーに含まれる作家であり、そのカテゴリーの中でも特に日本的な意味合いの強い、私小説と言ってしまうと語弊がありますが、個人的な問題を常に作品の核として創作される作家であると云う断定をしておきます。つまり、氏の作品の現在は氏の現在と連動しており、過去もまた然りということになります。

先ほど「宿命」という言葉を使いましたが、この言葉を最も明確に作品の中核となして創作を行った小説家は、おそらく中上健次であり、またこれはなかなか西洋の小説には見られない問題意識であるのですが、中村氏の作品の中核にある問題意識も、言語化すればこの「宿命」そして「運命」ということになると思います。
「人間と、その人間の命は、別のように感じるから。......殺したお前に全部責任はあるけど、そのお前の命には、責任はないと思ってるから」
本作品の終盤で、刑務官である主人公が、死刑囚に対して語る言葉です。この下りを読んだときに「おや?」と思いました。中村作品の主人公が感じている「拒絶」は、「宿命」ではないのではないかと。

つまり、作品の主人公が感じている世界からの拒絶、或は現実世界に於ける異物感というものは、作品の中では宿命的なもの、所与的なものとして設定されてはいますが、作者の意識としては、「拒絶」というのはあくまで作品(作者)の現在に「のみ」関わるものであり、宿命的なもの(つまり現在完了形としての拒絶)というのはその現在から逆算して作られた「物語」なのではないだろうか、ということです。「物語と云えば作品自体物語だろう」と思われるかも知れませんが、前提としてある作者と作品の関連性から考えれば「物語」のここでの意味合いもお分かり戴けると思います。

この作品に関して云えば、その解釈から導きだされるのは「存在(生命)の絶対肯定」ですが、別の作品では違う出口があるようにも思えます。なにか、作者自身手探りをしているような。抗っているような。

講演会の際に、差し支えがなければ是非聞いてみたいと思います。