紀尾井文学会

上智大学紀尾井文学会の公式ブログです。日々の活動報告から書評なぞまで。

日本文学

『海潮音』上田敏(新潮社-新潮文庫)

海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫)
海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫)
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私が国文の道を志すきっかけになった本。上田敏の訳詩集である。今からおよそ100年以上前の1905年に初版刊行された。言文一致体や散文詩などが日本で普及して間もないころだ。その時代に外国の詩を日本語に訳するのは難しかったことだろうと思う。それを上田敏は、外国語の詩が持つ音のリズムを日本の五七音に合わせるなど、日本人の感覚にあった訳をした。『海潮音』は「山のあなたの空遠く『幸(さいわい)』住むと人のいふ。」(山のあなた・カール=ブッセ)や「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し」(落葉・ヴォードレール)が有名である。上田敏は、日本文化にはまだ存在しなかった修辞法で詠まれた西欧の近代詩を、まるでもともと日本語で詠まれた詩のように生まれ変わらせた。そこで描かれている世界はまるっきり西欧のものであるが、上田敏の日本語によって、西洋と東洋の世界観の入り混じった幻想的な雰囲気を醸し出している。(A)

『二十億光年の孤独』谷川俊太郎(集英社-集英社文庫)

二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
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谷川俊太郎のデビュー詩集。内気な少年は言葉と戯れ、宇宙を見つめ、何かを得て、一冊のノートに書き表した。「生長」という詩には、まだ十代だった彼が、大人になるにつれて、自分の生きている時間だけが歴史ではなく、また教科書に載っている事柄だけでもなく、無限の過去が広がっていることを知るという。表題作「二十億光年の孤独」は、「万有引力とは ひきあう孤独の力である」というフレーズで有名だ。小さな地球の上でひしめきあう人間たちが、宇宙に仲間を欲しがる。宇宙のどこかで生きている生命もまた、どこかの星で生きている仲間に出会いたがっているかもしれない。無限の時間の中に、無限の宇宙の中にぽつんと横たわる自分という存在。それは微弱な一つの生命体でしかない。一人きりで眠る夜などにこの詩集を読むと、「永遠」に抗おうとする孤独な人間の非力さをはかなんでしまう。(A)

『宮沢賢治詩集』(新潮社-新潮文庫)

新編宮沢賢治詩集 (新潮文庫)
新編宮沢賢治詩集 (新潮文庫)
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童話作家として名を知られる宮沢賢治の詩集。彼の代表的な口語詩集「春と修羅」も収録されている。この詩集に人間はほとんど出てこない。主な登場人物は賢治と、草や花、石(鉱石)、そして取るに足らないような小さな虫たちである。賢治はそれらと人間のように対話する。彼にとっては、石ころは意思を持っているし、ボウフラはダンスをするように水の中を漂うのだ。草や花に生命があるということを、私たちはいつの日からか忘れてしまった。空に浮かぶ雲や、星の存在も時々見失いがちになる。そしてどんどん、大切なものを失っていく。我々も彼のように、水面に浮いたボウフラを一個の意思を持つ生命体として見つめてみることが必要ではないか。――赤い蠕蟲舞手〈アンネリダタンツエーリン〉は/とがった二つの耳をもち/燐光珊瑚の環節に/正しく飾る眞珠のぼたん/くるりくるりと廻ってゐます(えゝ、8 γ e 6 α ことにもアラベスクの飾り文字)――(A)

『小野茂樹歌集』小野茂樹(国文社-現代歌人文庫)

小野茂樹歌集 (現代歌人文庫 21)
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記憶に残るのは総体ではなく部分で、それだから思い出されるのはいつだって断片である。時おり急に鋭さを持ったまなざし、やや猫背の後姿、振り向くときの少し首をかしげた様子。声色。指の丸められた華奢な手。小野茂樹はまぎれもない天才であったが、彼の天才たる所以の大きなひとつはそのような断片の切り取り方の見事さと美しさにあるだろう。僕たちが共感し何かを思い起こすと同時に、そのような切り取り方があったかと新鮮な気持ちにさせられる歌の数々。彼の短歌は現実と不思議な距離と透明感をもって隔てられており、それはもしかしたら彼が夭逝したこととも関係があるかもしれない。「髪いぢる/手に光あり/わが前に/きみただ明日の/ひととして立つ」。瞬間を結晶化させたような彼の歌は定型詩たる必然性も同時に持ち合わせており、瑞々しく愛唱性のある作品群は永遠の若さとして今日も尚、そしてこれからも僕たちの前に立ち続けることだろう。(O)

『カナシヤル』三角みづ紀(思潮社)

カナシヤル (新しい詩人)
カナシヤル (新しい詩人)
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なぜ生きなくてはならないのか。生まれてしまったことを幸せに思い、無条件に生きることの善さを讃えるだけの人間精神の幼年期とは、とうに訣別して久しい。ひとに傷つけられ自分も誰かを酷く傷つけ、醜いエゴとエゴのぶつかり合いを目の当たりにして、思うようにならない自分の身体を抱えたまま、双の腕をだらりとさげて人は立ち尽くしてしまう。愛なぞと呼ばれるものの不確かさとそれに比して僕たちを嘲笑うようにして聳え立つ裏切りと欺瞞と不実の確かさと。三角はそのような極限の地点からの言葉を通じて、僕たちに語りかける。それだから、その姿は痛ましく、彼女は傷だらけである。「わたし/もう傷なんてつけん/あなたまで切りつけてしまうから/だから/もう、せんよ」「わたしたち/本当は/おらんひとなのかもしれんけど/それでも/このひとが大好きだ」。しかし、絶望の果てには一筋の光が見える。彼方の欠片ほどの希望。まだ生きて、いける。(O)
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