紀尾井文学会

上智大学紀尾井文学会の公式ブログです。日々の活動報告から書評なぞまで。

角野栄子

新・魔女図鑑

 ひと風ごとに秋が深まって、床を出るのがますますつらい時期になってまいりましたね。こんばんは、1年のSと申します。
 突然ですが、皆さんは小さいころ、だれも見ていないところで、こっそりほうきにまたがってみたことはありませんか?あるいは、ふとんのなかでそっと両手を突き出して、「出でよ」と言ってみたり……。ふしぎな力に憧れる子は古今東西多いものです。
 私もそのひとりでした。でもいつの間にか、ものを生み出すのも、空を飛ぶのも、ふしぎな力ではなくて知識とお金が必要だと思うようになっていました。
 本日のブックレビュー『新・魔女図鑑』(角野栄子 著/下田智美 絵)は、読み終えたとき、そんな私にもかつての気持ちを思い出させてくれるような、そんな一冊です。

 この本は全71ページの物語仕立てで、図鑑というよりは絵本に近い内容です。“エイコ”さんはある日図書館に行くと、ふしぎな本に誘われて魔女の世界へ入ってしまいます。そこで出会った魔女のゾゾさんのお話を、もとの世界に戻って来たエイコさんがツヤちゃんという女の子に話して聞かせていく――という形式となっています。
 平易な言葉で書かれていて、下田智美さんの挿絵も非常にわかりやすく、おそらく小学校中〜高学年から読めるでしょう。しかし、内容はなかなか本格的です。おとぎ話の悪役とは違う、実際にこの世界に存在した「魔女」のなりたちや暮らし、その苦難からお祭りにいたるまでがコンパクトに説明されています。さらに、ほうきの作り方やさまざまなレシピの紹介もあり、読むだけでなく実践しても魔女の世界を楽しめます。とても味わい深い一冊です。

 この本が教えてくれること、その一つは「魔女の世界はすぐそばにある」ことでしょう。
 「魔女」とは、もともとは魔力を持った特別な存在などではなく、お産をスムーズに行ったり、家族の病気を治したりするためにさまざまな知恵をつけた女性のことを指しました。つまり魔女はもともと、ごくふつうの女性たちだったのです。
 ですから彼女たちも、私たちと同じように、ほうきひとつで空を飛べるようなふしぎな力は持っていませんでした。ほんとうの魔女たちが持っていたものは、たとえば自分だけの配合でお茶を作ったり、いたずらをしてみたり、といった「明日を今日よりちょっと楽しく生きていくための工夫」でした。それこそが「魔法」と呼ばれたものの正体なのではないでしょうか?

 この魔法は私たちも使えます。指先ひとつで身支度を済ませ、ほうきを飛ばしてラッシュ回避、なんてことはできなくても、いつもの道具に細工をしたり、好きなおかずばかり詰め込んだお弁当を作ったり、そんな小さな「魔法」はたくさん使いどころがあるはずです。
 かつて魔法に憧れた方も、そうでない方も、この週末「魔法」について、ちょっぴり考えてみてはいかがでしょうか。

 それではみなさまの明日がちょっとでもよりよいものになりますよう、魔法をかけて……。

魔女のひきだし

こんばんは。四年のNです。最近寒いですね。急激に寒いですね。そろそろ、布団の中での生活に心惹かれる季節ですね。でも寝坊は程々に致しましょうね。でないと一日ぐだぐだと徒らに時間を過ごして虚しさだけを残して一日が過ぎ去ってしまいますよ。今日の私のように。

さて、今週ご紹介しますのは、角野栄子さんの初のエッセイ集である『魔女のひきだし』です。これまでのブックレビューは何れも児童文学らしいほのぼのとした魅力のある物語たちでしたが、実際の作者・角野栄子さんについては多く言及されていなかったように思われます。そんな、長く愛され続ける多くの作品を魔法のように生み出してきた、角野さんが、どのような人であり、何を思い、何を描こうとしたのか……。そんな魔女たちの舞台裏について、今回の『魔女のひきだし』のブックレビューを通して想いを馳せて頂ければと思います。

このエッセイ集に収められている18編のエッセイは、何れも雑誌「MOE」に連載されていた、一つ一つの短いものであり、また全編に共通する話題は、言わずもがな、「魔女」です。
それは、作者の若かりし頃の旅の中で出会った「魔女」たちとの出会い、交流の話や海外文学の「魔女」の話、海外で見られる「魔女」ゆかりの様々な伝統あるお祭りの話に始まり、作者自身の「魔女」観についてまで、これまでの物語作品では表に顔を出さなかった話題にまで言及されており、作者の価値観や執筆意図を窺い知るのには勿論の事、民俗学的な視点から「魔女」という存在を考えるのにも非常に面白い内容でした。

特に印象的だったのは魔女と猫の関わり合いについても語られる、ベルギーで行われる「猫祭り」の体験について語った「魔女と猫」の章と、これは特定の章という訳ではないのですが、全編を通して垣間見られる「魔女とは二つの世界のあわいに存在するもの」という作者の「魔女」観です。
特に後者は、しばしば、魔法の世界の存在だとか、現実世界とは全く別の世界の住人だというようなイメージを抱きがちな「魔女」という存在の認識を改めさせるような視点であると言えるでしょう。そもそもの「魔女」という存在が果たしてきた役割についてや、実際に作者が出会った「魔女」たちの姿を通して、「魔女」とは決して我々の生きている世界と全く別のところに存在しているのではなく、あくまでも、別の世界との間にいる存在なのだという、魔女のマージナル性を示しています。この、マージナル的な存在に対して畏怖の念や軽蔑の念、そこまでいかなくとも、自分たちと異なった存在と認識する心理というのは、妖怪や幽霊といった存在や、古く、夕暮れという時間帯を「降魔ヶ刻」と呼び怖れていた事象と通ずるところがあるようにも思われ、とても面白かったです。

「魔女」と聞くと、創作に於いて酷く使い勝手のいい存在となっているように思われます。魔女っ子や魔法少女といった表現や、それをテーマ、主人公とした作品も星の数程あるでしょう。私個人としてはそれもそれで好きなのですが、本来の「魔女」とはどういった存在なのか、どういった歴史を持っているのか、そしてその歴史の中で、如何に惨い待遇を受けた時代があったのか……。そういった、我々が一般に抱く想像の中の「魔女」ではなく、実際の「魔女」について知り、それを踏まえた上で作品に臨んでいるのだという作者の姿勢、そして「魔女」観が印象的でした。作者の事を知るのに、また、作者の作品をより深く味わうのにもお勧めのエッセイ集なのではないでしょうか。(作者本人とは少し話題がずれますが、東逸子さんの幻想的なタッチの挿絵も一見の価値ありです。)

それにしても、今では作者の代表作である「魔女の宅急便」を始め、作者の象徴のようにすらなっている「魔女」との付き合いが、偶然にも娘さんが魔女の絵を描いていて「この魔女を主人公にした物語を書いてみよう」と思ったからというのには驚かされました。娘さんの魔女の絵がなければ、もしかしたら、「魔女の宅急便」という作品は、キキは、ジジは、生れていなかったのかもしれません。このエッセイの中でも語られますが、魔女とは本来は薬草などを用いて病気を治したり、人々の相談に乗ったり、或いはお産の手伝いをしたりするという、人に近いところで生き、また人の生活、生死に携わっていた存在でもあるそうです。それを思うと、この日常の中に潜む創作の種を、枯らす事なく、見事に花咲かせた角野さんは、本当に今に生きる魔女なのかも、知れませんね。

魔女の宅急便その6 それぞれの旅立ち

 だんたんと秋めいてきました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
 立田姫手向くる神のあればこそ 秋の木の葉の幣と散らめ (古今298/兼覧王)
 まもなく紅葉の季節がやってきます。秋の女神・立田姫はその美しい裳裾を山から山へと広げ、惜しげもなく綾錦を振りまいていきます。都心に住む身ながらも、山の紅葉をまだかまだかと日待ちにしております。
 芸術の秋です。読書の秋です。皆様の秋の読書がたわわに実を結ぶことを願っております。

***

 さて、角野栄子先生の「魔女の宅急便 その6」のブックレビューです。「魔女の宅急便」シリーズは現在その1からその6まで、現在、六巻が発行されております。今回はその最後の巻「魔女の宅急便 その6 それぞれの旅立ち」のレビューです。読者の皆様には、レビュー順序が少々前後しておりますことをお詫び申し上げます。

 魔女になる決心をし、様々な困難を乗り越えてきたキキ。そのことについては本にして五冊分の出来事です。
本当に様々なことがありました。そしてついにキキはとんぼさんとの恋を実らせます。キキはとんぼさんと結婚します。そうして双子の子どもに恵まれます。名前はトトとニニ。トトは物静かな男の子、ニニはおてんばな(そして少々飽きっぽい)女の子。この巻の主人公彼らトトとニニなのです。すっかりお母さんが板に付いたキキは可愛い我が子たちの成長を影で応援する立場です。
 過去のレビューにて>これは将来旦那を尻に敷くタイプだなぁ……。とのつぶやきがありました。さてさてこれはどうだったのでしょうか。とんぼさんとの家庭事情を少し覗いてみましょう。彼女はたしかに芯の強い女の子です。しっかりとした自分の意志を持っています。ですが、我が子のこととなると、すこし戸惑うことも多いようです。かつて自分が歩いた道、魔女となる決心をした道、ですがその道をトトとニニが全く同じに歩くわけではないのです。我が子たちの成長を楽しくもあると同時に心配もいっぱいなキキ、そして、そんな可愛い奥さんを見守るとんぼさん…。この巻のメインはトトとニニですが、キキととんぼさんの夫婦模様にも是非注目してみてくださいね。

 魔女の子として生まれたトトとニニ。魔というのですから、魔女になれるのは女の子のニニなのです。男の子のトトには魔女になるという道は用意されていません。トトは飽きっぽい性格の姉のニニよりも、自分の方が魔女にふさわしいのではないかと思い始めます。自分の方がしっかりしてるし、姉よりも魔女としての自覚もあると思っているのに、ただ自分は男というそれだけで、魔女への道さえ開かれていないというのは不公平じゃないか――そう思わずにはいられないのです。そして、かつてとんぼさんがためしたように、夜中にこっそりほうきで空を飛ぼうとするのです。
 一方、ニニにだって悩みはあります。祖母から母へ、そして娘へと受け継がれてきた魔女の血。自分は本当に魔女になれるのか、まわりの友達が進路を見つけていく中でだんだんと焦りが出てきます。ニニは空を飛べます。ですが、その飛び方はキキが颯爽とほうきにまたがって飛ぶ姿とは全然違い、まるで自転車を漕ぐようにしか飛べないのです。ニニはおしゃれしたい年頃。友達にも素敵に思われたいのです。可愛い魔女をめざしたいのに上手くいかず……。自分はかわいい魔女になりたい、そう思うニニと魔女の伝統を気にするキキ。

 悩む子ども達に、それまた悩む新米母さんのキキ。魔女猫たちも悩んだり喧嘩したりお説教したりと、キキの家庭は何かと大騒動です。それでも最後は「それぞれの旅立ち」を迎えます。冒頭では少し頼りないトトに、おてんばが過ぎるニニ。様々な人に出会い、いろいろの冒険をして、そして両親の愛情たっぷりと注いでもらって、一回りも二回りも大きくなって「旅立ち」を迎えました。
 是非皆様も、彼らの物語を見守ってあげてください。

***

 「魔女の宅急便」は全六巻です。六冊分の物語を読み終える頃には、心はすっかりコリコに飛んでいることと思います。
 児童文学とは何でしょうか。<大人の物語>を単に平易な文章に換骨奪胎しただけのものではありません。時々こういった勘違いをされる方がいらっしゃって悲しいのですが、児童文学はそれ自体が素敵な魅力を持った分野です。感受性の豊かな子どもたちに響くメッセージもあります。多くの方にとって、年を重ねるごとに遠ざかっていってしまうのが児童文学かと思います。それでも、皆様の心の中には昔読んだ懐かしい本たちの記憶があることと思います。キキにとってのコリコの出会いのように、皆様にとっての素敵な出会いがたくさんあるここと思います。忙しい日々に忙殺されることなく、心の片隅に思い出していきたいものです。きっと彼らは少し年を取ったあなたのことを暖かく迎えてくれるでしょう。
 それでは、皆様のもとにこれからも素敵な本たちとの出会いがたくさんありますように。

(文章:一年S)

アッチのオムレツぽぽぽぽぽ〜ん

私はおばけが怖い。
一体、彼らは何者なのか。
私に危害を加えるのか、加えないのか。
よく考えてみれば、今までにおばけから加えられた危害は全くないが、人間から加えられた危害ならある。
経験から言えば、おばけより人間の方が怖いはずだ。
しかし、やっぱり何故だか、おばけがこわい。

おばけが怖い4年のA(9/30のエントリーとは別人)が、今回は「小さなおばけ」シリーズの『アッチのオムレツぽぽぽぽぽ〜ん』を紹介します。

「小さなおばけ」シリーズは、おばけのアッチやコッチやソッチの物語です(前にも紹介しています「角野栄子のちいさなどうわたち1」)。
これを読んだら、おばけが可愛いものに思えてきました。


アッチはレストランのコックをしている食いしん坊のおばけの男の子です。
でも、アッチのうちの隣に住んでいる双子のネズミのチとキは、アッチの料理にいたずらばかり。
アッチはかんかんに怒ってしまいます。
一方ネズミたちも負けじと、アッチだって威張りすぎで食いしん坊だと言い返します。
ついには、「僕たちはお月様を二つにしちゃうんだよ。アッチにできる?」なんて突拍子もないことを言って挑発する始末。
アッチは悔しくて「ぼくにだって、そのぐらいできるさ」と言ってしまうけど……



子ども同士のかわいいケンカを通した成長の物語という説明でうまく表せているでしょうか。
子どもの頃って、何故だか、わざと人にいたずらをして困らせるのが楽しい時がありますよね(今でもか……)。

とにかく、チとキのいたずらも、それに対してかんかんになるアッチもかわいい。
大人が介入してこない子ども同士の世界って、本人たちは真剣に悩んでいるけれども、外から見ると可愛くて素敵な世界だな、なんて思いました。

角野栄子のちいさなどうわたち5

夏休み最終日。皆さん、いかがお過ごしだったでしょうか?
人生最後の学生の夏休みをDSのやり過ぎで半分は無駄にしてしまった4年のAです。
これもある意味、思い出かしら。。。


『角野栄子のちいさなどうわたち5』には、「ぼくは おにいちゃん」「ぼくのおとうと」「おばあちゃんのおみやげ」「いすうまくん」「おしりを チクンと ささないで」の5編が収録されています。
どれもが優しいユーモアとのびやかな想像力に包まれており、自分が幼かった頃、こうした物語の世界の中に自分自身を見つけていたことを思い出しました。


特に印象的だったのは「ぼくは おにいちゃん」「ぼくのおとうと」の2編です。
4歳のぼくが語る、0歳のおとうととの物語です。
ぼくはおとうとにジャンケンを教えてあげたり、ボール投げを教えて一緒に遊んであげたりと、とっても優しくて良いお兄ちゃんなのですが、時々おとうとにいじわるをしてしまいます。
おとうとがジャンケンでグーしか出せないのを知っていて、毎回パーを出してずるをしたり、おとうととのボール投げに飽きて途中でやめてしまったり……。
そして、そんな風にわるいことをしてしまった夜はおばけが出てきちゃうんです。
ぼくは、おとうとを必死で守り、おばけをやっつけます。そのやっつけ方というのが、おとうととのジャンケンだったり、ボール投げ勝負だったりするんですよね。
そうして、おばけをやっつけて、おとうとと仲直り。


ところで、わたくしAにも8歳年下の弟がいるんですが、生まれたばかりの頃、本当に本当に可愛くて大好きだったのを思い出しました。よく遊んでいたなあ。懐かしい。
とはいえ、わたしはこの物語のおにいちゃん程、弟に優しい姉ではなかったのですが(よくいじめて泣かせてたしね)、今でも帰省すると二人で一緒に夜更かししてテレビゲームをしています。
いつの間にかすっかり身長も高くなって、わたしをおんぶできるようになっていました。
8歳離れていても、ある程度成長してしまうと、おねえちゃんらしいことがなかなかできなくなってしまうものです。弟の方が頼り甲斐があったり、物知りだったりしちゃって。
わたしが「おねえちゃん」だったのは、幼少期のほんの一瞬の時期だけでした。
その頃の思い出をよみがえらせてくれた優しい物語でした。


角野栄子のちいさなどうわたち〈5〉
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