大嶽丸は、伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたと伝わる鬼神です。
文献によっては単に悪鬼であったり、大だけ丸、大竹丸などとも記されています。

陸奥国岩手山の大武丸と同一視されることもありますが、鈴鹿山の大嶽丸は鈴鹿峠の本地譚が伝説化したものであり、岩手山の大武丸は東北の本地譚が伝説化したもののためルーツが異なります。

また伊能嘉矩は、各地の伝承に見える大嶽丸、大竹丸、大武丸、大猛丸の名はみな転訛であり、大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じるので、つまりは本来ひとつの対象を指していたとの説を提唱していますが、 しかし大嶽丸の名前は「鈴鹿の草子(田村の草子)」より以前の例がみられない事から、東北各地に残る大嶽丸の伝説は「田村の草子」が東北地方に持ち込まれて以降に社寺縁起として採り込まれたものであり、現在では伊能説は否定されています。

平安時代初期に創建された鈴鹿峠の近江国側に位置する田村神社の由緒では、坂上田村麻呂が鈴鹿山の悪鬼を平定したとされています。
善勝寺には大嶽丸の首塚が残り、櫟野寺には平定の報恩のために毘沙門天を祀ったといいます。

室町時代初期に成立した世阿弥作とも伝えられる勝修羅三番のひとつ能「田村」では、東国の僧に京都清水寺の縁起が語られますが、その中で田村麻呂が黒雲鉄火をふらし数千騎に身を変じて山の如き勢州鈴鹿の鬼神を千手観音の加護で鎮めたと語られています。
能「田村」が後に鈴鹿山の立烏帽子(鈴鹿御前)の伝承と融合して、お伽草子「鈴鹿の草子(田村の草子)」が作られました。
「鈴鹿の草子(田村の草子)」では鈴鹿山の大だけ丸として登場し、大嶽丸の名前を確認することが出来ます。



「田村の草子」の諸本は大きく2つの系統に分類されます。
「田村系」と呼ばれる田村丸の元に鈴鹿御前が天下って婚姻し、共に鬼退治をする流布本の系統と、「鈴鹿系」と呼ばれる田村丸と鈴鹿御前が戦いを経て婚姻し、共に鬼退治をする古写本の系統です。
大雑把に言うと、鈴鹿御前が大嶽丸から顕明連、大通連、小通連の3振りから成る三明の剣を奪うなどして田村丸を助ける物語が「田村系」で、鈴鹿御前が最初から所持している三明の剣を用いて田村丸と共に大嶽丸と戦う物語が「鈴鹿系」となります。

「田村の草子」によるあらすじは概ね次のとおりです。
桓武天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れ、鈴鹿峠を往来する民を襲い、都への貢物を略奪しました。
帝は坂上田村丸に大嶽丸の討伐を命じました。
田村丸は三万騎の軍を率いて鈴鹿山へ向かいましたが、大嶽丸は飛行自在で、悪知恵を働かせて峰の黒雲に紛れて姿を隠し、暴風雨を起こして雷電を鳴らし、火の雨を降らせて田村丸の軍を数年に渡って足止めしました。

一方、鈴鹿山には天下った天女である鈴鹿御前も住んでいました。
大嶽丸は、鈴鹿御前の美貌に惚れて一夜の契りを交わしたいと心を悩ませ、美しい童子や公家などに変化しては夜な夜な鈴鹿御前の館へと赴くものの、その思いは叶いませんでした。

大嶽丸の居場所を掴めずにいた田村丸は観世音菩薩に祈願すると、その夜に老人が現れて「大嶽丸を討伐するために鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられました。
田村丸は討伐軍を都へと帰して一人で鈴鹿山を進みます。
すると見目麗しい女性が現れ、誘われるまま館へと入って、そのまま閨で一夜の契りを交わします。
この女性こそ鈴鹿御前で「私は鈴鹿山の鬼神を討伐する貴方を助けるために日本へ天下りました。私が謀をして大嶽丸を討ち取らせましょう」と助力を申し出ました。

鈴鹿御前に案内されて大嶽丸の棲む鈴鹿山の鬼が城へと辿り着いたものの「大嶽丸は阿修羅王より贈られた三明の剣に守護されているうちは倒せない」と告げられて鈴鹿御前の館へと戻ります。
すると、その夜も童子に変化した大嶽丸がやってきたので、鈴鹿御前は誘いに乗るふりをして一計を案じ「田村丸という将軍が私の命を狙っている。守り刀として貴方の三明の剣を預からせてほしい」と返歌すると、大嶽丸から大通連と小通連の2振りを手に入れました。

次の夜、田村丸は鈴鹿御前の館で待ち構え、そこに現れた大嶽丸と激戦を繰り広げます。
正体を現した大嶽丸は身の丈十丈の鬼神となり、日月の様に煌めく眼で睨みつけ、天地を響かせ、氷のような剣や矛を三百ほど投げつけますが、田村丸を加護する千手観音と毘沙門天が剣や矛をすべて払い落としました。
大嶽丸が数千もの鬼に分身すると田村丸が角突弓で神通の鏑矢を放ち、一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に分裂して数千もの鬼の顔をすべて射ました。
大嶽丸は抵抗するものの、最後は田村丸が投げたソハヤノツルギに首を落とされました。

大嶽丸の首は都へと運ばれて帝が叡覧したのち、田村丸は武功で賜った伊賀国で鈴鹿御前と暮らし、娘の小りんも生まれました。

田村丸は大嶽丸に続いて近江国の高丸も退治しましたが、魂魄となって天竺へと戻った大嶽丸が三明の剣のうち三面鬼に預けていた顕明連の力で再び生き返り、陸奥国霧山に立て籠って日本を乱し始めました。
田村丸は200歳にもなんなんとする翁から与えられた名馬に乗り陸奥へと向かいました。
大嶽丸は霧山に難攻不落の鬼が城を築いていたが、田村丸はかつて鈴鹿山の鬼が城を見ていたため搦め手から鬼が城へと入ることができました。
大嶽丸から顕明連を取り上げ、三面鬼を鏑矢で討ち取った田村丸のソハヤノツルギによって大嶽丸は二度目の首を落とされました。
大嶽丸の首は天へと舞い上がって田村丸の兜に食らいつきますが、兜を重ねて被っていたため難を脱し、大嶽丸の首はそのまま死にました。
大嶽丸の首は宇治の宝蔵に納められたといいます。

「鈴鹿の草子」では、大嶽丸は三明の剣を持たないため天竺から黄泉還ることはなく、一度しか戦いませんが、大嶽丸の前に討伐した近江国蒲生山の高丸が1000人がかりでも敵わないほどの鬼神として描かれています。



江戸時代の奥浄瑠璃「田村三代記」のあらすじは、室町時代の京都で生まれた「鈴鹿の草子(田村の草子)」をベースに、それが東北に伝わって、近世の伊達藩を中心に奥浄瑠璃として拡大再生したものとなっています。
「達谷窟が岩屋に御堂を建立して毘沙門天を納めた」など、「吾妻鑑」をはじめ東北での坂上田村麻呂伝説に準えた内容がふんだんに取り入れられ、東北に即した改変がなされているのが特徴です。

仁明天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に天降った立烏帽子が日本を覆そうとし、さらには日本には立烏帽子に劣らぬ鬼神もいました。
二人が協力すると日本は全滅するため、帝は田村丸利仁に立烏帽子征伐を命じました。
立烏帽子は日本を魔国にするため、大嶽丸に度々協力の手紙を出したが返事がなく、立烏帽子を討つのに心迷った田村丸と夫婦となって子ももうけ、悪心を改めて日本の悪魔を静めることとしました。

田村丸に近江国鎌ヶ原の悪事の高丸討伐が命じられると、常陸国鹿島の浦、ちくらが沖の大りんが窟へと追い詰め、立烏帽子の加勢で高丸を打ち、死骸を海中から引き上げて備前国に葬って供養し、塚の上に木ひつの宮の大明神を勧請しました。

田村丸夫婦は伊勢国へと帰りますが、田村丸と夫婦となり、共に高丸を討ったことを怨んだ大嶽丸が立烏帽子を拐いにきました。
奥州達谷窟が岩屋の大嶽丸は三丈二寸で二面四足、身体は鉄石のように鍛えられて剣も通じません。
5年あれば日本から人を絶やせるほどの力を持っていました。
立烏帽子は神通力で大嶽丸の力を弱くするために自ら捕らわれて田村丸に討ちとらせると教え、二人は泣く泣く別れました。

翌年、奥州霧山の天上に大嶽丸が現れて日本から人種が絶滅すると加茂明神の神勅が出たため、田村丸に大嶽丸征伐の宣旨が下りました。
田村丸は都の数々の神仏に祈願、家来の霞野忠太とともに龍馬に乗って大空を天翔けて奥州へ出立しました。

神通力で田村丸の奥州への到着を知った立烏帽子が、大嶽丸は天竺のかんひら天王と協力して日本を覆すため留守であることを教え、大嶽丸の500の眷属を神通の縄にかけて縛り、達谷窟の門を開けて田村丸を奥へと案内し、その夜を2人で過ごしました。

天竺から帰ったきた大嶽丸は立烏帽子が田村丸を誘き入れ、眷属どもを縛ってることに気付いて怒り、門を打ち破ってはっしと横手を合わすと眷属の縄が残らず解けました。
大嶽丸は「田村丸主従と立烏帽子を木っ端微塵にするのは容易いが、大望を思い立つ身で賤しき者の死屍を見ては成就せぬ。霧山禅定に籠って、立烏帽子に溺れて失った三明六明の神通力を取り戻し、都で帝を微塵してやる」と飛び出し、霧山に籠ってしまいました。
田村丸と立烏帽子は顕明連、大通連、小通連、ソハヤノツルギを虚空へ投げ掛けて大嶽丸の眷属の鬼神を残らず討ち取りました。

大嶽丸が霧山に3日籠れば三明六明の神通力を得て都へ上がってしまいますが、山に籠ってる間に人に会うと成就しません。
田村丸と立烏帽子は霧山へ急ぎ、田村丸が尋常に顕れて勝負を遂げんと大声で叫ぶと、仁王立ちで現れた大嶽丸がからからとうち笑い「己らを微塵にするのは容易いが、賤しき者の死屍を見ては我の大望の妨げになるゆえ、此処も許す。後に思いしらせん」と叫んで姿を消しました。
立烏帽子は神通力を改めるには遠くまで行かない、箟嶽山の麒麟が窟であろうと教え、主従3人は箟嶽山を目指し急いだのです。

箟嶽山に着いたものの立烏帽子の神通力も通じず、麒麟が窟の戸口を見つけることは出来ませんでした。
そこで、3人は仏神に祈ると窟の扉は鉄でつなぎとめられ、大嶽丸は身動きできず、動くのは両目ばかり。
大嶽丸は霧山で微塵にしていればと怒り嘆きます。
田村丸は顕明連、大通連、小通連、ソハヤノツルギを投げて観音に祈ると、剣は虚空を切って廻り、大嶽丸の骸を4つ切りにしました。
大嶽丸の首は天に舞い上がり「この無念を田村丸利仁で晴らす」と火焔を吹いて5度飛び回って田村丸の甲のてっぺんを喰い切り、奥州と出羽の境に飛んでいき、その地はのちに鬼首(おにこうべ)と呼ばれるようになりました。
大嶽丸の死骸は土地の人たちと佐沼の郷へ運び、死骸を守るために霞野忠太を残して、田村丸夫婦は伊勢の御殿へと帰ったのです。

立烏帽子は数日後に天命が尽きると言い、田村丸は泣く泣く都へ参内して鬼神を封じる宣旨が下りました。
田村丸は比叡山の座主・慈覚僧正と吉田社家を伴って奥州へと向かいました。
達谷窟では慈覚僧正が7日7夜の護摩を焚き、吉田社家が108体の毘沙門天を造立しました。
箟嶽山では麒麟が窟を平らにして大嶽丸の首を築きこめて塚に観音堂を建て、無夷山箟峰寺の額をかけました。
牧山には胴を築きこめて塚を造り、観音堂を建立しました。
富山にも足を築きこめて観音堂を建て、佐沼の郷の大嶽丸の死骸を置いたところにも手を入れて塚を築き地名を大嶽として観音堂を建立しました。
箟嶽山、牧山、富山、大嶽には慈覚僧正が自ら造った観音が祀られたといいます。

「田村三代記」は、鈴鹿山の大嶽丸から達谷窟の大嶽丸へと変化していますが、 大嶽丸は三明の剣を所有していないことなどから、ベースは「鈴鹿系」とみられています。

関連記事

悪路王