鍼灸治療に本治法と標治法という用語がある。
本治法とは病の本質を治す法で、標治法は表に現れた種々の症状を治す法のこと。

一般に身体の具合が悪いときは、“痛い”とか“気持ちが悪い”といった不快な症状によって不調を認識するものだが、だからといって不快な症状=病気というわけではない。
病の本質は身体の内側の矛盾にあり、それが表面化したのが症状だと考えている。

身体の内部(五臓六腑とか氣とか)の矛盾を解消して、本来のバランスを回復すれば自ずと症状も治まる。症状が激しいときは標治法によって対応するけれど、それは本質的な治療ではない。

表面化した症状を身体全体の矛盾としてとらえ(証をたてる)、治め癒すことが治療の意味だと思う。

こうした東洋医学的見地からすると、都合の悪いものは切り捨ててしまえというような排除の論理には違和感がある。

例えば犯罪のような社会の問題でも、背景や経緯があるはずで、なにがしかの矛盾が事件の形をとって表面化したのではないかと考えることが多い。
事件の背後にある社会の矛盾をきちんと見据えることが大切だと思っている。

とはいえ、怒りを禁じえないようなひどい事件もある。
「社会が悪いから」などととても言えないような。

それでも我々が事件に接するのはマスコミの報道を通じてでしかないということは頭に入れておきたいと思っている。
情報には誰かの意図や嘘、間違いなどが含まれていることも多々あるからだ。

また極端な事例をもって一般化するのは危険なことだ。
今時の若者は、とか、現代の日本人は、とか。

こうした考え方がきれい事だとは思わないが、少数派なのではないかと心配になることがある。

日曜の午後なんかに家にいて、ののしり合いをしているテレビ番組をうっかり観てしまったりすると気持ちが暗くなる。
多くの日本人がこんな番組を好んで観ているのかと。

排除の論理が横行する社会が住みやすいとは思えない。


ところでこの「排除の論理」というのは1996年の流行語大賞だったのだとか。
全く知らなかったのでびっくりした。
鳩山由紀夫氏がこんな言葉で賞をもらうとはなんとも皮肉な気もする。