北海道知床の羅臼町で環境教育に関わる仕事をしています。 最近は、ESD(持続可能な発展のための教育)の基盤としての環境教育について考えています。

ピョートルのつぶやき

根釧原野で暮らすネコのピョートル(愛称「ペーチャ」) 世の中を寝ながら眺め、ニンゲンを観察して書こう と思って始めたのですが、毎日書くのは面倒で(ネ コだから)ついつい親方に書かせている。ま、発表 前に僕が目を通しているから、僕のブログであるこ とに変わりないのだが。 あ、でもたまには、自分で書くよ。

ナマズとの邂逅。そして再会

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 「ジンガロ」という劇団がある。フランスを拠点に世界中で公演している。「劇団」と書いたが正確ではない。「舞踏」と呼ぶ人もいるし「バレエ」と呼ぶ人もいる。実態はサーカスに近いと僕は思うのだが。
 その公演は、ぐるりと観客席から見下ろされる円形の舞台で馬の動きを観せるものだ。
馬は全力で疾走したり、ゆったりと歩いたり、速歩になったりとあらゆる動きをする。人は、馬と共に跳んだり逆立ちしたり後ろ向きに乗ったりする。
 それだけを見ていると曲芸とも言えるかも知れないが、公演の最初から最後までを貫くストーリーがあり、衣装や音楽、照明や舞台装置も加わって、高い芸術性を持っている。
 これまでに2回の公演を観た。
 最初に観たのは日本初公演だったが、「ルンタ」というタイトルだった。チベット語で「風」という意味だとのことで、本物のラマ僧の読経がBGMになっていた。ラマ僧たちは劇団と行動を共にしているとのことだった。
 2度目の来日は、「BATTUTA( バトゥータ)」というタイトルだった。
 「前作の『ルンタ』を終えて、生から死、静と動というひとつのサイクルが終わったように思う。常に直感的に作品を練り上げるにあたり、原点に立ち返り、表現したかった。ジンガロにとって、原点とは何か?―自分で問いかけた時、“自由”、国境を越えての旅というものだった。ただ、自由というのは、常に危険とも隣り合わせにあり、その両面を描きたかった」とジンガロの主宰者であるバルタバスの言葉どおり、ダイナミックな動感に満ちた公演だった。

音楽は、ルーマニアの2つの楽団、モルドヴァ地方のブラスバンドと、トランシルヴァニア地方のストリングスによるもので、いずれもロマ(ジプシー)の人々だ。
 バルタバスが創り出す魔術的な幻想の世界、馬と人が織りなす、極限の舞台芸術に酔って東京の深川、木場公園に作られた仮設劇場を後にした。
 ジンガロの説明が長くなってしまったが本題ではない。
 実は、ジンガロの公演にはもう一つの楽しみがあった。それは最寄り駅である清澄白河のすぐ近くにあるどじょう屋「伊せ喜」でどじょう鍋を食べて軽く一杯やることだった。
 この店は昔ながらの建物でかなりの歴史を感じさせる。泥鰌の料理も柳川鍋、丸鍋、唐揚げ、蒲焼きなど多彩であり、酒も吟味されたものが置かれていて「どじょう舞」などという銘柄が印象的だった。
 この店のメニューでもう一つ美味しかったのはナマズ鍋だった。(やっと本題が出てきた)
 ナマズは一口大の切り身で、すき焼き風の味付けで食べる。他の具材もすき焼きと同じようにネギ、豆腐、しらたきなどである。川魚っぽい臭みが無く、食感も牛肉のように感じられ、美味しものだった。
 その後、何度か「伊せ喜」を訪れ、泥鰌や鯰を楽しんだものだった。
 ところが、一昨年の暮れ、この店が休業したことを知った。久々に上京した晩だった。今、まさに伊せ喜に行こうと、地下鉄に乗り込んだ時だったのでショックは大きかった。
 泥鰌を食べさせる店は他にも少なくないが鯰を出す店は多くないと思う。鯰との縁も切れたかと落胆した。

 ところが、先日、東京で「泥鰌だけでも」と思って訪ねた店にナマズ鍋があったのだ。再会を喜び早速注文した。
 「伊せ喜」のナマズ鍋とは微妙に違っていたが、ナマズであることに違いはなく、十分に楽しむことができた。
 ジンガロ→泥鰌→鯰、という図式は脳内で強固な条件反射経路となっているようで、ナマズ鍋を味わいながら「ジンガロ」の公演が文字通り走馬燈のように脳内を駆け巡っていた。
 実は、ジンガロの日本公演を主催していた会社も経営上の問題で立ちゆかなくなり、その後の日本公演の話が停滞していると聞く。
 なんとか「ジンガロ」とも再会したいものなのだが。

薪が無くなった!/Looking for firewood!/Глядя на дрова!/มองหาฟืน!/Leter du etter fyringsved !

장작을 찾고 있습니다!
түлээ хайж байна!

薪の備蓄が少なくなってきたので、森に木を切りに出かけた。
トドマツの林があり、強風で倒れた樹がたくさんある。
倒木や立ち枯れた樹は伐って使わせてもらえることになっている。
春先や秋口に一冬分を備蓄しておけば良いのだが、生まれ持っての計画性の無さに加え、とにかく多忙であったためにだんだん備蓄量が減ってきて危険な状態になりつつあった。
そこで正月返上というヤツで、この四~五日、「木樵」になりきることにした。

すでに倒れている樹は雪を被って湿り放題になっているので、「即戦力」の薪には向いていない。おまけに地面に凍りついていて動かしにくい。
と言うわけで、立ち枯れている樹に的を絞った。
例年に無い早い降雪で、膝上まで雪が積もってしまったのでクルマで近づくことは出来ない。スノーシューを履き、橇にチェーンソーとガソリン、オイルなどを積み込んで林に入った。
風倒木が何本も折り重なっている所に手頃(に見えたんだけど)なトドマツが一本立っていた。幹が途中から折れて立ち枯れている。
「よし!これだ」というので早速根元にチェーンソーで切れ目を入れて倒した。
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倒してみて驚いた。立っている時には5~6メートルくらいの長さに感じられたのだが、軽く15メートルはある。ひょっとすると20メートル近いかも知れない。
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薪にする時は0.4メートルくらいに切るから玉切りした丸太で40個くらいは採れる。おまけに太さ60センチメートルはあるので、丸太2個で一日分の薪になる。
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つまりこれ一本で20日分の薪が採れることになる。
ただし、玉切りにする作業も大変なのだが。

単調な作業をしながらいろいろなことを考える。
この樹は、何年くらいでこれくらいに育ったのだろう。 
この森にはいるもオジロワシが来ている。営巣していはいないが、少し離れた所にある林に巣があって、毎日この場所を訪れる。
巣立った若ワシの訓練場になっている。
かつてはこのトドマツもそんなワシたちの休憩場所になっていたかも知れない。
森の前の原野にはタンチョウも来る。このトドマツの上をタンチョウが飛んだ日もあったにちがいない。春と秋に渡るヒシクイやハクチョウも見守ってきただろう。エゾシカたちが走り回るのも眺めていただろうか。
どんな原因かはわからないが幹が途中から折れ、やがて立ち枯れていったのに違いない。 
そして、最後に僕の手で伐り倒されわが家を暖めてくれる。
ちょっと感傷的な気分も混ざりながら、厳粛な気持ちで玉切り作業を続けた。

切った丸太を一度に全部を運ぶのは困難で、数日に分けて運ばなければならない。それも橇に載せ人力で曳くのだ。
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運んだ丸太は斧で割って薪にする。
一本一本斧で割りながらあらためてこのトドマツの来し方を考えた。

こんな作業をしていると、樹の一本に対しても心からの感謝の気持ちが湧いてくる。



 

羅臼を救う魚 /Can Dolphinfish Save Rausu-town? /Может помочь Dolphinfish Раусу-город?

◎สามารถช่วยโลมา Rausu เมือง?
◎Kan dolphin hjelpe Rausu-byen?
◎만새 라우스 마을을 도와 드릴까요?

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 これは今日の朝食だ。焼き魚はフライパンに油をひいて焼いた。表面はカリッと焼き締め、内部に旨みがタップリ溶け込んだ水分を閉じ込めてある。
 美味しそうに見えるだろうか?
 この魚はシイラである。

 羅臼の漁獲が低迷している。
 ホッケ、スルメイカ、シロザケ(秋サケ)、どれも水揚げが少ない。漁業者からは嘆息しか聞こえてこない。
 秋サケを獲るための定置網ではシイラやブリが獲れているという。この傾向は数年前から続いている。
 ブリはともかくとして羅臼の人の間ではシイラの人気がない。
「ウマくないから絶対に食べない」という人もいる。

 マヒマヒという名をご存じの方も多いだろう。スズキ科の高級魚なのである。ただし、一般に日本では不人気な傾向があるらしい。
 わが家では、ずいぶん前からシイラをハワイ風の焼き方で調理し、楽しんでいる。
 フライパンに油をひき生姜やニンニクなどで香りを付ける。
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 温度を上げておいて三枚に下ろした切り身の両面を手早く焼く。
 軽く焦げ目がついたら火を引いて蓋をし、10~15分間余熱で蒸す。
 これで出来上がりだ。
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 手早い。そして美味しい。本当に美味しい。
 大きなシイラを時々頂くのだが、こんな美味しい食材を山のように頂ける幸せをつくづく感じている。

 羅臼沖の根室海峡でブリやシイラが獲れるようになった原因は海水温の上昇だと言われている。僕は専門家ではないが、どうやらこのことは本当のようだ。
 今まで獲れていたシロザケの漁獲が減り、シイラやブリが増えている。ひょっとしたら魚種交代(レジームシフト)が起きているのかも知れない。

 だとすれば、羅臼の水産業界も素早くこれに対応しなければならない。今まで獲れていた魚種にいつまでも執着しているのではなく、新たに獲れだして今後さらに漁獲高の増加が見込まれる魚種をどう売り込んでいくかを探る必要があるだろう。
 シイラの食べ方を開発して普及することも当然これに含まれる。
 「ウマくないから食わない」などと言っていられる事態ではないかもしれないのだ。

 シイラの商品価値が上がって、今のように大量に頂くことが出来なくなるのは、個人的にはちょっと残念なのだが、町の持続のためにはしかたがないと思うことにしよう。
 まあ、そうなるまでにせいぜいたくさん食べておこう、と考えている僕なのである。

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