中学生たちは生態系学習で川に入ることをたいそう毎年楽しみにしているようだ。 
 僕たち大人が考える以上に、彼らは川から引き離されているらしく、自分の足で川に入ることが一大イベントなのであろう。最高水準の興奮度で授業に臨んでくれる。
 
 今の5〜60代より上の世代は、酔っ払って川を渡って帰宅したとか長靴よりも深い場所をバシャバシャと歩き回ったなどの経験の一つや二つは誰でも持っているに違いないのに、子どもたちはいつから皆こんな「よい子」になってしまったのだろう。
 そんなノスタルジーで話が済むならよいが事態はもっと深刻かも知れないと今回ふっと感じた。

 
  裸足になり川に入った瞬間にほぼ全生徒の口から
「イターイ」
「冷たーい」という悲鳴が上がったのだ。
 まあ、冷たいのは間違いない。上流にはまだ雪が大量に残っていて、それらの融けた水が勢いよく流れ下ってくる。水温は測定していないが、たしかに切れるような冷たさが感じられた。
 気になったのは同時に発せられた「痛い」という叫びである。それは、川底の石の上を裸足で歩く痛さなのである。
 
 スナック菓子を好きなだけ食べ、ゲームに興じてあまり動き回らず、通学も買い物もクルマで移動している彼らの体重はほぼ標準的かそれ以上だが、それを支える足の裏の皮は、つきたてのお餅のような軟らかさなのかも知れない。そしてその足の裏に河床の固い石が容赦なく食い込むわけだ。
  川から上がる時の様子にその極めつけが現れた。川岸の石の上にタオルを敷き、その上を歩こうとしているのだ。足の裏への刺激を少しでも和らげるためにそこまで努力するものか、と逆に感心した。

 彼らは、きっとその生育過程でトコトン不快さから遠ざけられて育ってきたに違いない。そう感じたとき、それが本当に良かったのかという疑問が兆した。

 痛みは危険の前兆として感じられ、危険を回避するシステムへの信号となる。「痛み」の強さから危険の度合いを判断し、瞬時にそれが生命に関わる回避すべき痛みか、我慢してもよい痛みかを判断する力を野生動物たちは身につけている。
 だから野生動物は、重大な危険に至らない些末な不快感を問題することはなく、黙って耐えている。イヌやネコを飼っているとそれがよくわかるはずだ。
 
 不快感が生命に影響するか否かの判断ができず、あらゆる不快感を忌避しようとする態度は野性の喪失以外のなにものでもない。
 これは生き物としての力の衰弱であり、生命力の喪失ではないだろうか。

 生徒たちが川ではしゃぎ回る姿は微笑ましい。その様子を見ているとこちらも嬉しくなってくるのだけれど、その一方でだんだんと野性を失っていく生物としてのヒトが衰退していく姿が見えるようで不安な気持ちになってくるというのが正直な感想なのである。