北海道知床の羅臼町で環境教育に関わる仕事をしています。 最近は、ESD(持続可能な発展のための教育)の基盤としての環境教育について考えています。

ピョートルのつぶやき

根釧原野で暮らすネコのピョートル(愛称「ペーチャ」) 世の中を寝ながら眺め、ニンゲンを観察して書こう と思って始めたのですが、毎日書くのは面倒で(ネ コだから)ついつい親方に書かせている。ま、発表 前に僕が目を通しているから、僕のブログであるこ とに変わりないのだが。 あ、でもたまには、自分で書くよ。

変な日本

なんか変/Japanese politics/японские политики/การเมืองญี่ปุ่น/Japansk politikk

 「TPP反対。ぶれない」と堂々とポスターに書いていた政権党が今やTPPを推進している。
 現政権与党は言葉を軽んずることが体質として染みついてしまっているから気にするほどのことではないのだが、先日のニュースを見ていて岸田外相のことばに思わず声を上げて笑ってしまった。
 たしか、南沙諸島で中国が浅瀬を埋め立て、滑走路を建設し民間機で試験飛行を行ったことへのコメントだったと思う。
 彼は、差し出されたマイクに向かってこう言った。
 「力によって現状を変更し、既成事実を作って変更した状態を固定するやり方は許されない」というようなことを言ったのだ。

 南沙諸島の問題はさておき、与党に所属するこのヒトの口から吐き出されたこの言葉はあの安保法制=戦争法案を委員会で強行採決した騒ぎにもそっくり当てはまると思ったのだ。
 その前の集団的自衛権の容認を閣議だけで決めてしまったことにも当てはまる。あれは、まさに力による現状変更であり国内外で緊張を高める一方的な行動だったではないか。

 要するに、議論を重ねて合意形成をはかって物事を決めるという民主的な手続きを無視した行動が「力による現状変更」であろう。
 そもそも自衛隊そのものが誕生し、既成事実を積み重ねながら時間をかけて規模拡大されてきた。
 消費税も同様だ。日本の政治の場では既成事実を積み重ねる「なし崩し方式」が多すぎる。
 原発の再稼働もそうだ。
 大事故が起こって、一旦は一斉に首を引っ込めたが、国民が忘れた頃にソロソロを動き出す。
 安全性や被害の多きに対する真剣な議論は置き去りにされたままだ。

 悲しいことではないか。

「おもてなし」の胡散臭さ/"OMOTENASHI" is dubious /"ОМОТЭНАСИ" сомнительна

 2020年のオリンピックが東京に決まった時、「おもてなし」という言葉が注目されて世間に溢れた。
 盗用ではないかという疑惑がもたれてエンブレムのデザインが白紙に戻された。
 少し前のことだが、メイン会場となる国立競技場のデザインが白紙撤回された。
 安倍総理大臣(当時・・・あ、今もまだか!)は東電の福島第一原発の事故は完全にコントロール下にあると大見得を切ったが、その後も汚染水漏れや原因不明の空間放射線量増加などが続き全くコントロールなどされていないことが次第に明らかになってきた。
  とにかくこれほどケチが付き続ける五輪というのも珍しいのではないか。 

 スポーツを通して国際交流が盛んになることは喜ばしいと思う。文化としてのスポーツが盛んになることもいいことだ。
  だがオリンピックが回を追うごとに派手になり、巨額のお金が動くイベントになるにつれてそれはスポーツと言うより大規模なショーに変わっていき、スポーツとは無関係に利潤だけを求めるような企業や団体が群がってくるのではないだろうか。
 同じような構造は観光業にも言えるような気がする。
 観光は楽しみの提供であると同時にその地域の風土に根ざした文化を伝えることで訪れに人を啓発する役割も担っていると思う。
 しかし、実際に観光客と接する現場はできるだけ観光客の要望に応じなければという強迫されているような気持ちになることもあるらしい。
 「お客の要望」「お客を楽しませたい」という思いが暴走して自然環境へのインパクトや野生生物の生息条件への配慮がつい軽視されがちになる。
 公平な立場からの助言や忠告なされる機関が整備されていればまだ良い。しかし、本当は観光業者自身がもう少し高い自制的な意識を持つことが望ましい。

 観光業者の倫理感の高まりを妨げる原因の一つにあの「おもてなし」があるような気がしてならない。
 言うまでもなく五輪招致の時にどこかの誰かが言った言葉だ。
 もともとは素朴な温かい気持ちから発せられたもののはずだが、観光客が押し寄せてたくさんのお金を落としていくのを目の当たりにして、自制が外れてしまうのだろう。
 「おもてなし」と言えば少しの無理は通ってしまうと思ってしまうのだろう。
 観光客の方もカネを払っているのだから思い通りにさせてもらいたいという傲慢な感覚で訪れてくる。
 それではカネだけで結びつく不毛な人間関係しか生まれないだろう。

  互いに人間同士として尊重し合う対等な関係の中から風土を理解し、新たな知との出会いを楽しむ観光が生まれるのではないだろうか。
 だから僕は五輪招致の場面で使われた「おもてなし」はどこか胡散臭いと感じている。

「自然」をめぐる大きな課題/It's not nature/Это не природа

 地震や噴火の時は別だがテレビはあまり見ない。ほとんど見ないと言って良い。
 特にNHKなどは見ない。
 しかし、たまに見ると面白いことを見つけるものだ。

 先日、何かの理由でニュースを見ていた。その続きで北海道のローカルニュースが流れていた。
 旭川市で園芸植物の展示会のようなものが開かれていて、たくさんの人が訪れて好評だというような内容だった。
 美しい花の映像が次々に映し出されていた。園芸種の植物にはあまり興味を覚えないが、「きれいだなあ」と感じながらぼんやりと眺めていた。
 しかし、そこに登場した一頭のマルハナバチを見て僕の瞳孔がカッと見開かれた(はずだ)。
 そう。そこには腹部末端が純白である大型のマルハナバチが嬉しそうに飛び回っているところが映し出されていたのだ。
 セイヨウオオマルハナバチである。
 「特定外来生物」のセイヨウオオマルハナバチである。

 この映像を撮影したカメラマンはおそらくNHKの職員であろう。ニュースの映像を取材するのだからジャーナリストとしての自覚もあるだろう。
 取材したのは記者だろうか。編集したのはニュースに責任を持つ立場の人物に間違いなかろう。
 要するにこの映像は、放映する前に何人かの「プロ」のチェックを受けているはずだ。
 にもかかわらずこのハチが「花の美しさを引き立てる重要な脇役」として全く配慮されることなく電波に乗せられている事実に直面して、僕は少々腹立たしく感じた。
 ニュースを作って放送する立場としてもう少し配慮してほしかった。
 このハチが環境問題の一つとしてニュースに登場することもあったはずだ。

 毎日あまりにも多くの出来事が入ってきて出ていくのだから、それらの99パーセントは単なる素材として扱われ、まるで使い捨てのティッシュペーパーのようにどんどん忘れられる存在なのかも知れない。
 そんな姿勢こそ「プロっぽい」と感じているのかも知れない。
 ましてこの相手は単なる虫けらである。いちいちそんなものに関心を持つようなオタクではないんだよ、僕らは、という声が聞こえてきそうだ。

 その言い分はわからないでもないのだが、そのような細かな配慮の行き届いた報道姿勢を求めている人もいるのではないだろうか。
 そして、僕がその無関心さから感じる危機感は自然と人間の距離の遠さなのである。
 おまけにその展示会に来たお客が、インタビューに応えて口にした言葉がその思いを一層強めた。
 マイクを向けられた道外からの観光客らしい中高年の女性は、
「こんな自然の豊かで美しい場所で、このような展示会を見ることができて、とても嬉しい」と答えていたのだ。

 園芸植物は美しいに違いないが自然ではない。そして、そこを飛び回っているハチも在来種ではない。
 人工的な育種で作り出された園芸植物の間をヨーロッパからはるばる連れてこられたハチが飛び回り、それを「自然」と勘違いする現代人。

 これが貧困な自然観の現実なのである。
  さて、この状況をどのように正していくべきか。

「日本劇場」の悲喜劇/The Tragicomedy of "Theater Japan" /Трагикомедия "Театр Японии"

 薪割りから学べることって多いと思う。

 一定以上の太さの樹は斧がなければ割れない。
 しかし、斧の大きさによって限界もある。小さな斧では歯が立たないという場合もある。
 細かで複雑な形を作る場合は斧ではできない。
 鋸や鉋、鑿などが必要になる。


  昨年、木曽御嶽山が噴火して、多数の犠牲者が出た時、火山防災を進めなければならないということで、にわかに噴火時の対策を立てたり、避難施設の建設を計画したりしたあげく、噴火予知に関する研究をすすめるために専門家の養成を行うことまで唐突に検討された。
 こういうのを「場当たり的」と言う。それまで全然重要視していなかった学問の分野に急に注目したのだ。
 数千年、数万年、あるいはそれ以上の時間目盛りで変化する自然のテンポを考えもせず人間社会の都合だけで対応しようとするとこのような結果になる。愚かだ。

 こんな例は他にもある。
 大地震直後には地震対策だとか津波対策だと騒ぐが、時が経つと忘れてしまう。
 歴史に類を見ないような原発事故を経験すると、放射線とは何かだとか原子力のしくみなどに熱心だった人々も原発再稼働はやむを得ない、などと言い出す。
 朝鮮半島や中国を侵略するための戦争を行い、残虐な行為をしてきた事実に変わりはないはずなのに、時間が経つとそんな事実は全くなかったかのように信じる。
 事実の認識と願望が融合していくのだ。
 沖縄の普天間基地でヘリコプターの墜落事故があり、その後何度も危険な状態が放置されてきた。それを解消するためという口実で辺野古に新基地を作ろうとしている。
 「普天間の危険を取り除くためには、辺野古新基地以外に方法はない」という理屈がいつの間にか既成事実のように言われている。
 米軍基地の存在という本質の議論は、おそらく意図的なのだろうが、いつの間にか覆い隠されている。

  先日、何か別のことをしながら聞き流していたので、ラジオ番組だったのかテレビだったのかさえ覚えていないのだが、面白いことを言っている人がいた。
  「家電製品などは細かな改良を積み重ねて、実に使いやすい、良いモノを作る日本人なのだが、高速道路の渋滞箇所は何十年経ってもまったく改善されていない。これってオカシイでしょ」というような意味のことだった。

 そうなのだ。どこかオカシイのだ。
 太い薪を割ろうとしてナイフを突き立てているようなおかしさかも知れない。

 愚かしい受け取り方と悪意ある政治的意図が結びつき、滑稽な悲劇が続く日本劇場。

 だがいつまでも笑っているわけにもいかない。
 劇場そのものが崩壊し始めているかも知れない。

 あちこちの火山活動や中規模の地震の頻発がその開幕のベルかも知れない。 

「ジャポニカ学習帳問題」への高校生の反応/Critical thinking of high school students /Критическое мышление старшеклассников

 数日前からインターネットのあちこちで話題になっているジャポニカ学習帳の表紙から昆虫の写真が消えたと言う問題だが、マトモに論じるのもバカバカしい。
 今さら何も論じたくないのだが、高校生がこれをどう受け止めているかを知りたくなった。
 そこで、本日の「野外観察」の授業の終わりの部分で少々余ったので、問いかけてみた。羅臼高校の2年生の感想である。
 なるべく原文通りに載せたが、一部あきらかな漢字の誤り、個人情報が推測されそうな部分については最小限の加除を行った。

① 生徒は、その花や虫を観て知識として役に立つと思うから先生は我慢するしかない。 大人なんだから。

② 虫が気持ち悪いのはわかるが、大人がそういうふうに子どもの知識を奪ってしまうと 思う。
  虫がキモイと思うなら先生をやらなくていいと思う。

③ 虫のことを教える側の先生がそういうことを言っていたら子ども達を気持ち悪がって 虫の事を知りたくなくなる。

④ 子どもが使っているものに対して気持ち悪というのは教師としてどうかと思う。
  確かに自分も虫は苦手だがそれで使っている物に対しての批判は良くないような気が する。自分も小学生の頃使っていたが、ただの写真であるわけだからそこまで気持ち悪 いとは思わなかった。

⑤ 先生が子どもに見える。

⑥ 教師としての品格を疑う。
 教師なら我慢ということも常識だろう。
  そもそも、その発言をした後の回りの反応を本人は全く意識していないのではないだ ろうか。
  気持ち悪いというのも一理あるが、一時の感情での発言は控えていただくという大人 を見たいです。

⑦ 虫が気持ち悪いと先生方から出ているけれど、自分はなんで気持ち悪いからって載せ ないで、と言うの人のことがわかりません。
  虫のことを勉強(主に虫のことが細かくわかる)できると思う。
  デザインがいやだからと言って、会社に変えろと子どもみたいなことを言っているよ うな感じかなと自分は思います。

⑧ 子どもが気持ち悪いと思うのは多少はわかりますが、教師がそんなのではこの先色々 とこわいです。
  自分は、同じクラスの友人から最近の社会人は虫をさわれないらしいということを聞 いたのでおかしいなと思っています。

⑨ 子どもがやるものだし、別に大人はわからないから関係ない。
  あんまり虫との出会いが少ないならこういうものを見てわかった方がいい。

⑩ 子どもの時により多くの知識を見てさわるべきだ。
  教師が口にしていいわけがない。それが嫌なら買ったり見たりしなければいい。


 圧倒的に、教師や保護者の要求が子供じみたもので理不尽だという意見が多かった。
 虫への嫌悪感には一定の理解を示しているところに相手の立場に立ってものを考えようとする姿勢が表れていて、こちらが考えているよりも彼らが成長しているのだと感じて嬉しかった。
 ⑥のように「品格を疑う」という表現まで飛び出すとは思ってもいなかった。


 とにかく彼らは健全に育っている。そんな彼らとともに授業ができることの嬉しさをあらためて強く感じた。

 ちなみに今日の授業はどんぐりクッキーを最終的に試食し、まとめと感想を書くというものだった。

  もう一つ断っておきたい。
 このような「調査」を実施すると生徒は、しばしば先生に迎合して気に入ってもらえそうな回答をすることがある。
 だが、日頃から異なる意見も堂々と述べることを推奨しているし、彼らと僕との関係から考えて、これらの意見は、何ものにも制限されない自由な意志の表明であると信じるに足るものと考えられる。
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