飯能歴史散歩

埼玉県飯能市を徘徊しつつ、地元の歴史を無責任に妄想中也

加治氏と勝輪寺

飯能市赤沢に勝輪寺という寺院があった。
背後に素戔嗚神社がある。
明治の廃仏毀釈の波を受けて廃寺となり、跡地は小学校になった。
いまはそれも廃校になり、分譲された住宅地である。
跡地にはかつてのものと思われる石積みがあり、あまり広くない墓地が残されている。
勝輪寺 (6)
勝輪寺のものと思われる石積み

飯能には江戸時代に御家人になった家が3家あった。
中山氏、岡部氏、そして加治氏である。
加治氏は蔵米200俵で仕え、のちに50俵の加増を受けて250俵という、まぁまぁの御家人だった。
現在、飯能市では中山氏ばかりが有名になって、岡部氏や加治氏はあまり知られない存在である。
その御家人加治氏の菩提寺が勝輪寺である。

加治氏は武蔵七党丹党の一族で、中山氏は加治氏から分かれた家である。
ただし加治氏の嫡流は豊後国にも所領を持ち、鎌倉幕府の有力な御家人だったが、その滅亡に殉じて勢力を失ってしまった。
『太平記』で新田義貞の軍と激戦を繰り広げた様子が描かれる本家筋の当主加治家貞は、「加治二郎左衛門入道」と出家しており、すでに家督は季貞に譲られていたのではないかと思われる。

平安末期から鎌倉時代に華々しく活躍した本家の加治氏は、現在の元加治駅の北側に館を構え、円照寺を菩提寺としていた。
諱に用いた通字は「家」を主として他に「綱」「貞」「景」「頼」が用いられる。
分家の中山氏は「季」を主として戦国期から突如「季」が消える。

一方、赤沢加治氏の通字は「胤(たね)」である。
本家加治氏や中山氏に「胤」を用いる人物が見られないので系図上の繋がりは解らない。
想像だが妙見菩薩を信仰し、「胤」を通字とする千葉氏系の人物が入婿するなどしたのではとも考えられる。なにより領地内に妙見社が存在することが気に掛かる。

御家人加治氏系図
江戸旗本加治氏系図

戦国時代は赤沢周辺を本拠地としていたようであるが屋敷地は明確ではない。
飯能市中居の宝蔵寺の付近にも加治氏館と伝える土地もあるが、宝蔵寺の創建(1396)は位牌も残る加治貞継と伝えられており、「貞」の文字から加治本家に連なる人物だったのではないかとも思われるが、赤沢加治氏との関係は不明である。

『飯能市史』では中居加治氏と赤沢加治氏を同じ系譜と見ているように書いているが、どちらかといえば私は否定的に考えている。
むしろ平安時代末期に分枝した赤沢氏の系譜を継いでいるのではないかとも思うが、確証が持てない。
星宮神社
星宮神社

近くの妙見社(星宮)にある元亀2年(1571)の棟札に加治修理大輔の名があることから、この頃に加治胤勝は赤沢にいたのだろう。
丹党に関わり深い丹生社は、星宮神社の入り口にある金錫寺本堂裏に小さいながらも確認できる。
以前、方丈様に伺ったところ、中には小さい石が入っているだけだということであった。
金錫寺丹生社 (1)
金錫寺の丹生社

その後、赤沢加治氏は江戸幕府旗本となった。しかし『寛政重修諸家譜』の系図では頼胤から起こしており、それ以前は不明である。加治家自身もその系譜を詳らかにできなかったということであろう。

頼胤は1500年代前半に活躍した人物と思われ、山内上杉憲政に仕えていたとあり、中山家勝とほぼ同時代人で同僚だったことになる。
その子の胤勝は『関東幕注文』に勝沼衆としてその名が見える。
つまり永禄3年(1560)の赤沢加治氏は、青梅勝沼城の三田氏に付属して、関東に進出した長尾景虎の元に参陣していたのである。
その前年の『小田原衆所領役帳』には、他国衆として三田氏が見えるので、北条氏から離反して上杉方に付いたわけである。
しかし翌年関東管領に就任した上杉政虎(改名)が越後に帰ると、北条氏の反撃が始まり、瞬く間に三田氏は滅ぼされてしまった。
こうして加治胤勝も再び北条氏に属することになったのだろう。

加治胤勝の嫡子正胤は天正18年(1590)のものと思われる年時不詳北条氏照書状(秋山断所蔵文書)に「加治左衛門」と記されている人物であろう。
天正18年(1590)に北条氏が滅びると胤勝の子の正胤は八王子から赤沢の地に戻った。
そして徳川家康が関東に入部すると、召し出されて御家人となり、慶長17年(1612)に亡くなって赤沢の勝輪寺に葬られたのである。
現在の勝輪寺跡の墓地に加治氏のものと思われる二基の五輪塔があるが、風化により文字などは読み取れない。
勝輪寺加治氏墓地 (6)
加治氏のものと思われる五輪塔

その横に自然石の墓標もあるが、こちらも肝心な部分が欠落してしまっている。
左の石は、わずかに「弘化二」「十二月十三日」などが読み取れ、江戸後期のもののようである。
勝輪寺加治氏墓地 (5)

勝輪寺加治氏墓地 (4)

またその前には真新しい加治姓の墓もあり、おそらく帰農してこの土地に残った一族のものだろう。
正胤の子の直胤も勝輪寺に葬られているが、その後の則胤、忠胤、忠次の三代は能仁寺に葬られた。

則胤、忠胤の二代は通称を藤兵衛といった。
飯能市東町にある玉宝寺の地が「藤兵衛屋敷」と伝わっていることから、江戸時代に御家人となった加治氏の屋敷が一時期当地に営まれていたと思われる。
『新編武蔵風土記稿』では長禄元年の川越城築城の時に、人馬を差配した褒賞として上杉氏より拝領した土地だという。
しかし長禄元年は確かに川越城築城の年であるが、1457年という加治氏も中山氏も事績が空白の時代の話しで、事実かどうか確かめようもない。

則胤は代官という役職であったが、子の則胤は小普請役から大番役となり、大御所・世子不在時の西ノ丸・二ノ丸御殿の警備に就いたため、おそらく江戸にも屋敷を持つようになったと考えられる。

『中山村史』によるとその後に飯能から江戸四谷中殿町に移転したという。
しかし江戸時代の地図を調べてみたが、中(仲)殿町に加治氏の屋敷は見当たらなかった。
一方で現在の東京都文京区目白台2丁目付近に加治氏の屋敷が確認でき、神田川を渡ると駛胤(としたね)を葬り菩提寺となった高田の浄泉寺(現在は合併し宗清寺となっている)があるので、おそらく『中山村史』の記載は間違いであろう。
そして飯能前田の屋敷地は玉宝寺となった。

小豪族として厳しい中世・戦国時代を生き抜いた加治氏は徳川御家人、水戸藩士として続いた。
かつて菩提寺だった勝輪寺は絶え、小学校になり多くの子供たちの巣立ちの場であったが、やがてそれも消えてしまった。
いまはただ静かに鄙の日差しの中で、昔を想うだけである。

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御嶽八幡神社


飯能の街を見下ろす多峯主山から南へ降りる尾根筋(字前岩)に御嶽八幡神社がある。
南側に切り立った岩場があり、山岳信仰の依代としては格好の場所である。
地元では「おんたけさん」と呼ばれているらしい。

御嶽八幡神社

創建年代は不明であるが、明治時代の初め御嶽教が盛んになり、丸田開元という人物が中心となり信州御嶽神社の分霊を安置したと伝えられている。
したがってちゃんとした形として社が建てられたのはそれほど古い話では無いようだ。
現在は覆屋が掛けられ風雨から守られている。

御嶽八幡神社
 

御祭神:誉田別命、大山祇命、大巳貴命、少彦名命

誉田別命はすなわち応神天皇であり、八幡神に擬せられた。
大山祇命は山の神、大巳貴命は大国主命、少彦名命は大国主と協力して日本の国土を造り上げた小人神である。

また、一段下に牛頭天王を祀る小社がある。

御嶽八幡神社
 なぜここに?と思ってしまう牛頭天王様

現在は多峯主山の南麓に里宮が分霊されている。
西弁寺の脇にある里宮の説明板によると、永暦元年(1160)に摂津国より八幡神が勧請されて美吉野里(現在の里宮の土地)の鎮守とされたという。
明治40年に前岩の陽雲山御嶽神社に合祀されて旧地は廃された。
しかし八幡神社の氏子等は前岩に参拝するのが不便であることから、大正10年に旧地に仮屋を設け昭和8年には前岩から分霊して里宮とした。

御嶽八幡神社里宮
 多峯主山麓にある里宮


『新編武蔵風土記稿』
「山頂に黒田豊前守直邦の墓碑あり、その右の傍に太宰純が撰し、且書する所の碑あり、又墓地を距ること西南百歩餘に値り、前岩と稱する盤岩あり、是を要するに山中すべて勝概おほく、此岩上なかんづく眺望よし、東西南北渾て一點の遮るものなし、遠邇皆山ありて連山恰も波濤の如く、唯西南間に突兀として聳たるものは富士山なり」

この文からも、『新編武蔵風土記稿』が編まれた文政年間(1818~1830)頃には信仰物が置いてなかったことが判る。
また『新編武蔵風土記稿』には多峯主山の絵も載っており、前岩には三つの人影が描かれているが、やはり社のようなものは描かれていない。

新編武蔵風土記稿
新編武蔵風土記稿より中央が前岩


江戸時代末期に、与平という人物が屋敷内で信仰していた琴平宮を当地に移して祀り、百余段の階段を築いたという。
琴平社は讃岐の金刀比羅宮からの分社で、航海の神として船頭などに信仰されて全国に拡がった。
その琴平社が山の上に祀られたのだから、神様もずいぶんと戸惑ったのではなかろうか。

おそらくこれが御嶽八幡神社の成り立ちなのだろう。
この人物が寄進した石段は社に続く最後の部分なのだろうか。
今は麓の方から新しい石段が作られている。その素材は板碑の原料ともなる緑泥片岩を用いている。

御嶽八幡神社

御嶽八幡神社

御嶽八幡神社

御嶽八幡神社


飯能市を代表するハイキング・ルート上にあり、昔よりも訪れる人は増えたに違いない。
目の前には城跡のある龍崖山が見え、その向こうにはまだ開発されたばかりの大河原工業団地がよく見える。
伝承・伝説の時代はもう遠い昔の話しになったようだ。

御嶽八幡神社
残念ながら富士山は見えなかった


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長光寺と岡部氏


飯能市大字下直竹にある長光寺は集落を流れる直竹川を前面に、日当たりのよく南向きに建てられた曹洞宗の寺院である。
隣接する南高麗中学校からは元気な部活動の声が聞こえてくる。

長光寺の創建は貞治五年(1366)、通海良義による開創と伝えられている。
通海良義は奥州黒石正法寺二世月泉良印の法子という。
弘治二年(1556)に示寂した開山格翁方逸によって中興開山され、開基は岡部小右衛門忠正(後の吉正)とされている。

長光寺総門
県指定有形文化財の惣門

県道沿いに見られる総門から本堂まで直線状の伽藍配置で、本堂の前の中雀門を含め三つの門をくぐる。現在、総門は閉め切ってあるので、その左側から回り込んで寺地に入ってゆくことになる。

総門は江戸時代初期の建築で埼玉県指定の有形文化財である。
中に進むと堂々とした三門(楼門)があり、総門と同じ時代の建築部材が確認されている。
こちらは飯能市指定有形文化財に指定されている。
左右の脇にはおそらく阿吽の金剛力士像が睨みを利かせていたのであろうが、今はなく、更に左右に山廊が付属していたようである。

長光寺三門1
市指定有形文化財の三門

長光寺三門から本堂
 三門から中雀門を見る

本堂は曹洞宗寺院に特有の方丈形式の法堂である。
江戸時代初期の建立で銅鐘とともに県の有形文化財に指定されている。

長光寺に伝えられている雲版は、正和二年(1313)と寺院建立年よりも古い年銘刻印されており、全国でも3番目に古い貴重な物である。
国指定の重要文化財に指定されており、私は埼玉県立歴史と民俗の博物館で実物を拝見した。
『飯能の指定文化財』に写真が掲載されているのでご興味のある方は見て欲しい。

長光寺中雀門
中雀門

長光寺本堂
県有形文化財の本堂

長光寺を開基した岡部忠正という人物は武蔵七党猪俣党岡部氏の一族で、先祖には源義経に従って平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄がいる。
室町時代の岡部氏は鎌倉公方足利持氏に属し、永享の乱で持氏が自害すると、当時の当主岡部景澄もそれに殉じている。
 
その子の忠邦は父とは袂を分かち、持氏と戦った上杉憲実に従い家名を伝えたが、孫の憲澄は足利持氏の子成氏に仕え、成氏死後は上杉定正に仕えている。
この時代の関東情勢は岡部家だけでなく、それぞれの家庭事情も複雑で上杉憲実の子憲忠は、また足利成氏に仕えて父憲実を激怒させている。しかし当の憲忠は親の危惧通り足利成氏によって暗殺されている。

戦国時代の岡部氏は扇谷上杉氏に仕え、泰忠の代には我野(吾野)に居城していたが、後北条氏に攻められて討死したと伝えられている。
この我野の城はおそらく吾野駅南側にあるリュウガイ城のことと思われる。麓の坂石小学校跡を中屋敷と呼び、その一つ上の段は岡部屋敷との伝承が残っている。
謎の城として、一説に大築城を比定地とする吾那蜆城というものがあるが、このリュウガイ城が蜆城であることも可能性として留意しておくべきかと思う。
 
その子の忠秀は逃れて、山を越えた高麗郡日影郷(現原市場)に隠棲した。
現在星宮神社の背後の山上にあるリュウガイ城は岡部氏の城とも推測できるが詳細は不明、周辺には現在でも岡部姓が多い。
吾野も原市場も同じ名称のリュウガイ城だが、直線距離にすると5kmに満たない。
また飯能市は現在でも全国で最も岡部姓の密度が濃い自治体である。

旗本岡部氏関係系図(不許転載)
岡部氏系図


忠秀は北条氏家臣松田憲秀に仕え、越後国に出陣して戦死している。
『関東幕注文』には、青梅の三田氏の配下勝沼衆として「岡部 團之内十方(万)」と出てくるが、『関東幕注文』の成立が永禄四年春であることから、これは岡部忠秀のことと考えられる。 
忠秀の子忠吉も北条氏に仕え、小田原の役の時には上総国久保田城を守備し、戦後は小瀬戸に隠棲した。
そして忠吉の子が長光寺を中興開基した岡部忠正(吉正)である。
 
『新編武蔵風土記稿』では飯能市立第二小学校の地が岡部小右衛門忠正の屋敷跡と記されている。
この土地は三代将軍徳川家光の代に引き払い、岡部氏は江戸に移り住んだという。
背後の山には小瀬戸城があるが、その遺構は時代的に合致しないように思える。

岡部吉正は北条氏が滅びると一時浪人となるが、秀吉の朝鮮出兵の際に徳川家康に取り立てられ200石を拝領して旗下となった。
旗本となった忠正は堅実に勤めを果たし、順次加増されて1500石の中級旗本になった。
『寛政重修諸家譜』によれば岡部忠正は正保四年(1647)に没し、長光寺に葬ったと記録されている。

長光寺の岡部氏墓地は、後に杉並区にある天桂寺を建立して移しているが、現在も長光寺には岡部氏の物という宝篋印塔が残っている。

長光寺岡部氏墓地1
旗本岡部氏の宝篋印塔

『南高麗郷土史 資料集1 地誌・村誌』には、中央の一番大きな宝篋印塔が岡部忠正(吉正)、右が岡部忠勝、左が岡部忠義と解説されている。
左の宝篋印塔にははっきりと忠義と刻まれた文字が読めるので間違いがない。
岡部彦右衛門忠義は長光寺開基岡部忠正の弟忠房の孫である。
そして右側の忠勝の物と伝えられる宝篋印塔は、刻字から没年が同じ六之助吉房(忠義の父)のものであることが判る。
この家系は吉正の弟忠房の家系で、忠房は大坂の両陣に出陣し、兄吉忠とは別に400石を賜って別家を立てた。

しかし吉房、忠義父子の間に立つ一番大きな宝篋印塔の主は上記したように岡部忠正であるということだが、どうも怪しい。
中央の宝篋印塔は風化が激しく文字を読みとることはできないが、『飯能の石塔』によれば「岡部忠繕」「元和元年霜月二十五日」と刻字されていたようで、これは開基者忠正の養子岡部吉次のものと理解できる。
つまり『南高麗郷土史 資料集1 地誌・村誌』の記述は三基のうち左側の忠義だけ正しいが、他の二基は間違っている。

他に長光寺には禄米250俵で分家した岡部正次(寛文7年没)が葬られていた。
だが正次は青梅の海禅寺に改葬したと『寛政重修諸家譜』にあり、海禅寺に足を運んでみたが岡部氏の墓は確認できなかった。

長光寺岡部氏墓地2
中央の宝篋印塔は岡部忠吉の娘で酒依昌吉の正室となった女性のもの 
一番左の五輪塔の横に青石塔婆の破片が見える

長光寺では岡部氏の宝篋印塔の右斜め後ろにも古い墓碑が並んでいる。
その中央の宝篋印塔は岡部忠吉の娘で酒依昌吉の正室のものである。
この女性が酒依昌吉との間に生んだ三男吉次が、岡部忠正の養子となり岡部家を継いでおり、上記したように、3つ並んだ宝篋印塔の一番大きなものの人物である。
 
つまり母子の宝篋印塔が長光寺にあるのだが、現在の配列のせいで、それが分かりづらい。
本来ならば酒依昌吉室とその子岡部吉次の二基を並べ、分家である岡部吉房、忠義父子の二基も並べる方が歴史的な因果関係がはっきりする。
 
本堂前にも二基の宝篋印塔があるが、これは何かの工事中に溝から見つかったものとのことで岡部氏との関係は不明である。
また、青石塔婆の欠片なども岡部氏墓地に転がっている。

岡部吉次の生家酒依家は甲斐国武田信玄の家臣として名高い板垣信方の子孫という(疑義有りだが)。
徳川家に仕えてからは高麗郷を領しており、吉次の兄弟の墓地は能仁寺にあった。しかし平成の時代になってから日高市馬引沢の常円寺に移されている。

現在の長光寺の姿は、長く飯能に本拠を置き旗本となった岡部氏が大檀家となり整えられたと考えられる。
寺紋として本堂の屋根上に輝いている丸に十の字紋は岡部氏の家紋である。

長光寺寺紋
寺紋は岡部氏の家紋「丸に十の字」

しかし結局、中興開基者の岡部忠正(吉正)の墓はよく分からない。
墓石等は天桂寺に移されているか、もしくは判別できない他の小さな宝篋印塔や五輪塔がそうなのかもしれない。
岡部氏が長光寺から離れて新たに天桂寺を建立した経緯もご住職様から伺った。
戦国の世が終わっても世の転変には終わりはない。
天桂寺の建立は寛永十年(1633)と伝えられており、ご住職の話ではこの時に岡部氏と長光寺との関係は無くなったとのことである。
しかし宝篋印塔が残る岡部忠義は寛文十年(1670)に赴任先の大坂城で死去しているので、少なくともその時代まで岡部氏との縁は切れていないはずである。

戦国時代の岡部氏の事績はそれほど多くは残っていない。
基本的には旗本になった岡部氏の家譜に頼るしかない。
しかし『寛政重修諸家譜』による同家の系図では始祖の岡部忠澄から戦国時代末期の忠秀まで嫡流を一直線に繋げてあるだけで、途中でどのような分家が出たのかはまるで記録されていない。

『飯能の石塔』によれば、唐竹にある個人蔵の宝篋印塔には「岡部図書藤原円信墓 嫡子岡部重右衛門信定」と刻まれている。
この人物の没年月日は天正十八年(1590)六月二十三日で、この日付は八王子城が落城した当日で、おそらく八王子城に赴き戦死したのであろう。
しかし、この人物は『寛政重修諸家譜』の系図上では嫡子信定共にどこにも記載されていない。

江戸幕府が成立し、その家臣となれる当落線上にあった家々は多少なりとも系図・事績を装飾・改変している。
長光寺を開基した忠正の事績で松田憲秀の最後についての記述も事実と違い創作されたもののようである。
戦国時代に戦場を駆け抜けた岡部一族の中には、旗本に取り立てられず帰農し、歴史の間に埋没していった者もいたことは唐竹の宝篋印塔で明らかである。

飯能を本拠として活躍した岡部氏の一家は戦国期を戦い抜き旗本に取り立てられた。
しかし平和な時代となると、故あって先祖伝来の土地からは離れてゆくことになる。
岡部氏は多摩郡田畑村(現在の杉並区成田西付近)を領し、領地の境界に植えた杉の並木が、現在の杉並区の名称の元になった。
 
飯能市に多くの足跡を残しながら去っていった郷土武人岡部氏について、いま飯能市で顕彰することがほとんど無いのは誠に残念なことである。

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神明神社


神明神社は川寺にある大光寺の東方にあり、周辺からも大きなケヤキが目印になる。
境内には川寺自治会館があり、南北に長い川寺では今でも中心地的な位置にある。

御祭神:天照大御神、大山祇命、大物主命、崇神天皇、保食命、軻具突智命、天御中主命、神倭盤礼彦命、倉稲魂命、伊邪那美命、速玉男命、事解男命

創建年代:不明だが鰐口の刻印から明徳四年(1393)以前と考えられる。

神明神社
参道は川寺自治会館の脇にある
 
神明神社 (1)
まだ新しい狛犬と拝殿を見る
 
川寺の字一本杉にある。古くから飯能から青梅へ向かう道筋で、それは今も変わらない。
川寺村の鎮守として今も大切にされている。

『新編武蔵風土記稿』には
「奥ヶ谷にあり、神主松本伊豆吉田の配下なり、神木の樫圍一丈七尺餘、古鰐口あり、圖上にのす」
と記されている。

「奥ヶ谷」という地名はすでになく、大字川寺字一本松になっている。
古くは奥ヶ谷神社と呼ばれたが、明治41年に神明社を合祀してから奥ヶ谷神明社と呼ばれ、現在は単に神明神社と呼ばれている。

他に合祀したのは山神神社、琴平神社、軍太利神社、稲荷神社、稲荷神社(無格)、御嶽神社、地神社、熊坂神社、熊野神社である。

神明神社 (4)

神明神社 (2)

『新編武蔵風土記稿』に「神木の樫」とあるが、大ケヤキのことであろう。
境内にある大ケヤキは、樹齢7~800年と言われ、昭和25年に県指定天然記念物に指定された。
お姿が端正なケヤキで、その根元にある石碑は、他の石碑と一風異なった文体で、大変面白い。
ここでは文章として紹介しないが、是非現地で読んで頂きたい。

神明神社 (8)
大ケヤキの根元に立つ石碑(これでは読みにくいので現地でどうぞ)

当社には古い鰐口が伝えられている。
その鰐口には「明徳四年癸酉十一月五日加治奥谷神明」と刻まれている。
およそ620年前の物で、市の指定文化財である。

鰐口とは社殿の正面軒下に吊り下げられた鈴を潰したような形をした金属音具で、参拝者は垂らされた緒を振って鳴らして誓約する。

神明神社 (10)
『新編武蔵風土記稿』に掲載されている鰐口
「利」となっている部分は「神」であろう 
『飯能の指定文化財』には写真が掲載されている

天文十六年(1547)十一月十九日付けの『六所宮祭事ニ付参集覚写』には「賀次之 おくかひ之神主」と記されており、これは当社のことと考えられる。

また当社の東側にあった畑からは、飯能戦争で使われたらしい四斤山砲と呼ばれる大砲の榴弾の不発弾が出土している。
当地も振武軍と新政府軍の戦場となった可能性を示す貴重な資料であろう。

神明神社 (3)

当社は、平成十五年(2003)に、理不尽な不審火で火災にあい、いまは再建後の新しい本殿となっている。

当時は職場が青梅だったので、出勤は飯能大橋から岩井堂を抜け、帰り道は金子坂からこの道を通っていた。
帰宅する時には何も変化が無かったが、家に着いてからサイレンが鳴り、当社が火災にあったことを知った。
大ケヤキが被害を免れたのはせめてもの幸運であった。

新しい本殿は以前のものよりも立派で、屋根には千木と堅魚木も加えられた。
まだ新しく貫禄はないが、端正な神明造の社殿で清々しい。
どうかこのまま大ケヤキとともに、長く歴史を刻んでいって欲しいと願うばかりである。 

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天覧山駅


東飯能駅と高麗駅の間に天覧山駅があった。
 
西武鉄道の前身である武蔵野鉄道により昭和6年(1931)に開設され、第二次世界大戦中(1941~1945)に実質廃止となったという。

武蔵野鉄道路線図
天覧山駅の名前が記されている

旧天覧山駅の駅舎は西武鉄道に引き継がれた後の昭和29年(1954)頃まで社宅として利用され、その後取り壊された。
期間にして10余年ほど存在していた駅である。
短命に終わった駅と云うこともあり、想い出は風化し、静かに忘れ去られようとしている。
 
天覧山駅 (11)
今は通りすぎるだけの西武線

冷静に考えれば飯能駅、東飯能駅からでも天覧山まで歩くにはそれほど無理のない距離である。
つまり新駅を設けるほどのこともなかったのかも知れないが、当時はそれだけ観光地として期待されていたということなのであろう。
 
戦前に東雲亭の敷地内に住んでいた平山廬江も『続飯能随筆』の中で、

「果は飯能駅へ電車を下り、天覧山を向ふに見る心持がさながら故郷の山を見るといふ心持にさへなった。」

と書いており、あまり天覧山駅を利用していなかったようである。
 
天覧山駅 (14)
北側から見た天覧山駅跡地

昭和時代になり、東飯能~高麗間に宮沢湖駅開設の構想もあったと記憶しているが、いまのところ実現していない。

天覧山駅という名称でも想像が付くが、これは天覧山周辺へ観光客を誘導するために設けられたもので、観光駅だったことから規模も小さかったようだ。

現在も駅の敷地はほぼそのまま残されている。

残念ながら当時の施設等は何も残されていない。
ただ傍らにあった桜の木は、現在も保存されている。
また現在は金網で区画されて中には入れないものの古い石垣状の構築物が見える(ただし駅に関係する物かは不明)。

天覧山駅 (13)
天覧山駅跡地に残る桜の木

天覧山駅 (3)
この石積は駅にかかわる物かは不明 
 
古い航空写真を見ると駅舎という建物は敷地の中央付近にあったことがわかる。
線路が複線化され、また高架嵩上げ工事により旧観は変り、残されていたホームに登る階段等も撤去された。

天覧山の麓は明治時代に公園化計画が持ち上がり、大正4年(1915)に武蔵野鉄道が開業し、ニコニコ池が造成されるなど、いまも飯能市にとってシンボル的な憩いの土地である。

そして今年、2015年がその100年目である。
 
東雲橋付近2
天覧山駅から歩いてくるとこの風景に行き着いた

天覧山駅からニコニコ池までは、それまでの直線道路とは別に高台を通る見晴らしのよい円弧状の遊歩道も引かれた。
昭和5年(1930)の地図を見ると新設道は描かれていないので、まさしく天覧山駅の開設に併せて引かれた遊歩道だったようだ。
いまは住宅地となり見晴らしも利かなくなったが、現在の地名「山手町」にふさわしい眺めが当時はあったのだろう。
現在でもその道は大部分が利用されているが、残念ながら一部分は消滅し繋がっていない。
 
天覧山駅遊歩道 (1)
遊歩道の出発点、道の向こうに天覧山の頂きが見える

天覧山駅遊歩道 (7)
遊歩道は近年出来た道が横切り、ニコニコ池に向かって下ってゆく

100年が経ち、天覧山駅も象徴的だった東雲亭も消え、観光誘致は成功したとは云えそうもない。
 
天覧山の遊覧を終えて、夕陽を背に遊歩道を駅に向かう人々の記憶も今はない。
それでも今も天覧山周辺はのどかな憩いの場として、ゆるやかに愛され続けている。

※ 現在、一般社団法人奥武蔵天覧山周辺再生の会の皆様が周辺活性化のために尽力されています。


天覧山駅とニコニコ池1946-2
昭和21年(1946)当時の航空写真

天覧山駅とニコニコ池2
 平成23年(2011)頃の航空写真

場所はこちら



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久須美・白鬚神社


久須美の白鬚神社は名栗に向かう県道70号線が永田台へ上がる交差点を直進し、名栗川と共に大きく曲がるカーブを過ぎると右側に見えてくる。

簡素な両部鳥居をくぐると正面に入妻作の拝殿がある。

久須美白鬚神社 (23)

久須美白鬚神社 (8)

主祭神は猿田彦命で、他に素盞鳴尊、菊理媛命、宇迦之御魂神を祀る。
久須美村の天台修験教順坊が、延文年間(1356~1360)に勧請したと云う。
江戸時代の天明2年(1782)に焼失し、2年後に再建された。

久須美白鬚神社 (12)

久須美白鬚神社 (18)
拝殿の前には水を溜める平らな巨石がある

久須美の白鬚神社の境内には、巨石が複数鎮座している。
拝殿の前には手水鉢のように水を溜める平らな巨石があり、その右側には高さが4~5mほどもある巨石を筆頭に数個の巨石が身を寄せている。
現在は寄り集まった巨石の中心にイチョウの木があるが、まだ若木である。
狭まったところは、まるで胎内のようにも感じられる。

久須美白鬚神社 (17)

久須美白鬚神社 (14)

鳥居が密教で云う金胎両部伝法灌頂(こんたいでりょうぶ・でんぽうかんぢょう)を表しており、修験者はこの巨石群に胎蔵界を重ね見たのかも知れない。

巨石は神の宿る磐座(いわくら)である。
古代より巨石は人々の目を引き神聖視され、やがて神祀る場となった。
いわゆる象徴的なアニミズムをここに見ることができる。
久須美の白鬚神社の境内は、常世(とこよ)と現世(うつしよ)を隔てる神奈備の領域である。

周辺は前に名栗川が流れ、背後は山に囲まれるが、神社の鎮座地一帯は南斜面のなだらかな傾斜地ではあるが、近くに巨石と繋がりそうな地形は見あたらない。つまり巨石は忽然とそこにある。
神社としては最も古い景観であろうと思う。

久須美白鬚神社 (21)
磐座の前にある小社は本殿とは違う方向を向く


勧請されたのは延文年間とされているが、おそらく古代より人々の信仰を集めた場であったのではなかろうか。

北西200mほどのところには縄文時代の遺跡として長割間遺跡がある。
むろん確認されているというだけで、周囲にはまだ未確認の遺跡もあるのだろう。

また、真西の方向には岡部氏が拠ったという小瀬戸城もよく見える。


白鬚神社の本社は滋賀県高島市鵜川の琵琶湖畔に建つ白鬚神社で、近江国最古の神社とされている。
謡曲『白鬚』の舞台であり、勅使の道行が白鬚神社に参拝すると明神・天女・竜神が現れて、比叡山の縁起を語るという物語である。
そしてここで登場する琵琶湖に釣り糸を垂らす翁こそ白鬚明神である。

飯能にある白子神社や他の白鬚神社のほとんどが、近江国白鬚神社と同じく猿田彦命を祭神としており、当社も同様である。
猿田彦は天孫降臨の時に道案内として登場する国津神で、元は伊勢国五十鈴川の川上が故郷であるという。
猿田彦は豊穣の神だが、天孫降臨で道案内をしたことから、後に道の分岐で集落を守る道祖神・岐の神(ふなどのかみ)とも同一視され、隣村との境界にあってその土地を守る鎮守と考えられていた。

修験者が巨石を聖域と見て開いた当社は、長く久須美の鎮守として大切に祀られ、いまも周辺自治の拠り所となっている。

場所はこちら



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第17回飯能市小・中学校社会科研究展


2014年9月13日(土)~28日(日)まで、飯能市郷土館で、第17回飯能市小・中学校社会科研究展が開催されています。


社会科研究 (31)



社会科研究展は始めて拝見しましたが、いずれ劣らぬ力作が並んでいます。
郷土の研究から、世界へ目を向けた研究まで、夏休みに頑張った成果の結晶です。

地元密着・郷土の関係では、神社や名字(ルーツ)、古い飯能の街並みや学校、郷土料理まで、あらゆる角度で調べられています。

それでは、その一部をご紹介!

社会科研究 (7)
郷土館長賞は身近な広場にあった廃校・中藤小学校を調べたものでした。
身近な疑問を調べてゆくことは様々な研究の原点&基本ですね。

社会科研究 (16)
黒部ダムは日本の建設業の技術の結晶です。
私も初めて見た時は感動しました。こちらも郷土館長賞です。

社会科研究 (33)
学芸員賞は市内の神社を網羅した力作です。
私たちの住む地域に根ざした信仰に着眼したことに感動です。

社会科研究 (32)
んー、私も高麗川の源流について何も知りませんでした。感動!

社会科研究 (6)
飯能の市街地はかつて高麗郡だったですし、高麗神社は特別な存在ですね。

社会科研究 (8)
私の本職にも関係する名字の研究です。
先日私の家にもご挨拶にいらしたM先生の御著書なども参考にされているようです。
 


他にも私も大好きな土器・土偶や古墳の研究もあり、個人的に大好きな戦国時代の研究もありました。
私自身、全国の城を巡った経験もあり、城の研究は興味深いものです。

織田信長や黒田官兵衛の研究もありましたね。相変わらず戦国時代では人気が高いようです。
私も一信長ファンからスタートし、『新・信長公記』という本を出版してしまったくらいですから、ひょっとすると将来は有名な信長研究家さんや作家さんになったりするかもしれません。

普段の暮らしの中に見ることができる職業や道具、お米やお金の研究もありました。
他にもプロ野球から女子サッカー、世界遺産、温泉、道路、鉄道、国旗、チョコレートなどなど、ここでそのすべてを紹介できないのが残念です。
是非足を運び素晴らしい成果をご覧下さい。

社会科研究 (23)

社会科研究 (24)

社会科研究 (30)

社会科研究 (27)

社会科研究 (26)

社会科研究 (25)




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中山の千日堂(観音堂)

飯能駅北口から中山に伸びる道路を北上し、国道299号線中山陸橋西交差点のすぐ手前に小径がある。
バイパスが出来るまでは私も良く利用した道だった。
東側に数メートル上がると二叉の分岐点に「右江戸街道、左日光街道」の小さな標と馬頭観音があり、中央に石橋供養塔が建っている。

馬頭観音付近
榎の古木に寄り添うように道標と石橋供養塔、馬頭観音が立つ
 
一方、西側に向かったところには、かつて千日堂(観音堂)という小堂が営まれていた。

千日堂は加治神社の南西側にある真福寺の所有で、開基は元禄15年(1702)と伝えられている。
高麗坂東三十三観音札所の第一番であったということから、盛時は訪れる人も多かったのではなかろうか。

いまは住宅地となっており、まったく跡形もなく消えてしまっている。
ご近所の方に伺ったところ子供の頃に良く遊んだ場所だったとのことで、昭和30年代までは存在していたようである。

中山陸橋西交差点より千日堂
 国道299号線中山陸橋西交差点から見た千日堂付近(中央)
 
どのような経緯で取り壊されたのかは解らない。
学問であれば詳しくも調べ公にもするのだが、この様なブログですべてを明らかにする必要も無かろう。
まして何かが消えてゆくというシチュエーションの場合、踏み込んではいけないようなこともある。

千日堂が取り壊されて後は、本尊の十一面観世音菩薩も智観寺に収蔵されており、高麗坂東三十三観音札所の第一番は智観寺とみなされている。
十一面観世音菩薩は行基の作と伝えられているがもちろん伝説に過ぎないであろう。
そして残念ながら第一番を示す 巡礼道標塔の所在は不明になっているようだ。
ただ当時の扁額は智観寺の収蔵庫に保管されている。
 
北野天神縁起』では「さても、本地申せば、観世音のすいじゃく、十一面の尊容なり」としるされていることから、十一面観世音菩薩とは即ち天神(菅原道真)を意味していると思われ、本来は吾妻天満宮(加治神社)に近接した真福寺にあったものではないかと私は考える。
 
聖望付近1960-2
1960年の航空写真では、まだ千日堂が写っている

この千日堂は享保年間に大久保加賀守の姫が小石に大乗経を記して埋石し、3年籠もって祈願したと云う。ゆえに本来は観音堂と云われたものが千日堂と称されるようになったのであろう。
だが大久保加賀守とは、いったい誰のことであろうか。
時代的には加賀守を称していた小田原藩主大久保忠増の時代と合致する。
確かに大久保忠増には数人の女児はいるが、しかし幕府でも要職を歴任する大久保家の姫が飯能のような土地で3年も籠もるということが本当にあったか、いささか疑問である。
一部、中山氏に嫁いできた姫とも言われるが、小田原大久保、中山両家ともに該当する女子は確認できず、婚姻も確認できない。

近いところでは高麗本郷が大久保長安の領地だったことがある。
しかし大久保長安は「石見守」で「加賀守」ではない。
大久保姓は飯能でも吾野周辺に多い名字なので、あるいは話が誇大に伝わったものだろうか。
それとも失脚した大久保長安の息女で、連座を恐れて出自を意図的に隠したのかも知れない。 

御詠歌として以下のものが伝わている。

  にこらしな 神のうてなの 水の面 
 
          かげをうつせる 人の心に

周辺は変貌著しい。
古い街道は閑散とした小径となり、新たに人々の動脈となる幹線道路が引かれた。
そして一つの信仰の場が消え、やがて人の記憶からも消えてゆくのだろう。


千日堂はこちら




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平山蘆江と飯能随筆

飯能に在住した文学者として、平山蘆江(ひらやまろこう)は決して有名であるとは云えない。
飯能に住む人々も、その名前さえ聞いたことがない方も多いのではなかろうか。
それは飯能人との関わりの濃淡によるものでもあろう。
もちろん日頃から『文藝飯能』を読むほど飯能文学に造詣がある方々なら話しは別である。
飯能の図書館でも郷土の棚には蘆江に関するものはなかった。

また、日本文学史の中でもなぜか忘れられた存在となってしまっている。
蘆江は当時名の知られた文士とも交流があり、そここに名を見出すことが出来る。
だが大衆小説や随筆、都々逸、怪談など幅広く世に送り出しはしたが、誰もが知るというような代表作には恵まれなかった。
おそらくそうしたことから、やがて人々の記憶から少しずつ遠ざかっていったのであろう。
しかし世間で忘れ去られても、ひょっとすると飯能という土地では、蘆江という存在が息を吹き返し、大切に扱われることもあるのではないかと微かな願いを持ちつつ、こうしてブログに書き残しておこうと思ったのである。
 
耽綺社(たんきしゃ)
耽綺社(たんきしゃ)のメンバー
一番右が蘆江、左から3番目が江戸川乱歩

蘆江(本名は壮太郎)は明治15年に神戸(元は代々長崎の家だったらしい)の田中家に生まれ、養子となった長崎の平山家で幼少時代を育った。
平山家では義父と上手くいかず、勘当となり、日露戦争の末期頃に満州へ渡り新聞記者となる。
2年後に帰国してからは都新聞(みやこしんぶん・現在の東京新聞)に入社し、花柳演芸欄を担当した。
この頃から都々逸や小説なども書き始めたようである。

渓山緑風図
蘆江筆「渓山緑風図」(ブログ主所有) 

蘆江の作品中、世評では『唐人船』、『西南戦争』が代表作なのだろうか(いずれも未読)。
また都々逸に見るべきものが多いと云われる。
私は都々逸に知識が無く、何が優れているのか判断する素養も持たないため正直よく解らない。
また怪談はその筋では今でも高く評価されているようだ。
1994年には和田誠を監督に映画化された『怖がる人々』という作品の中の、第4話目に蘆江の「火焔つつじ」が入れられている。主演は黒木瞳、小林薫である。

怖がる人々
映画『怖がる人々』のポスター
 
ともあれ蘆江についてネット上では、「こちら」より詳しいものはないと思うので興味がある方はご覧になって頂きたい。
私は文学的な評価を述べられる才もないので、当ブログでは、まずなにより飯能においての平山蘆江を紹介したいと思う。
蘆江が飯能と関わりを持ったのは、都新聞記者時代である。それは天覧山麓にあった東雲亭が都新聞に広告を出したことが縁であったという。
昭和2~3年頃から、蘆江は頻繁に飯能を訪れるようになった。
当時の飯能は武蔵野鉄道が敷かれ、まさに武蔵の奥座敷として歓楽街が栄えた時代である。
花柳演芸を担当していた蘆江が飯能と出会うことは必然的であったように思う。
昭和10年頃には執筆のために逗留するようになった。
そして都新聞を退社してから飯能に移り住むことになる。

『続飯能随筆』で、この頃のことについて触れている。
 
「私が東雲亭に来はじめたのは昭和三年か二年頃であつたらう、その時分は、ほんの日がへりか、一泊ぐらゐの程度だつたが、だんだん居心がよくなるにつれて、五六日乃至十日ぐらゐも落ちついて仕事を持込むやうになったのは昭和十年頃の事だと思ふ。昭和十一年十二年と経つ中にだんだんなじんで、果は飯能駅へ電車を下り、天覧山を向ふに見る心持がさながら故郷の山を見るといふ心持にさへなった。」
 
東雲亭跡 (1)
現在の東雲亭跡

東雲亭に滞留していた蘆江は大病にかかり敷地内にあった離れを病室のように改造して静養した。
病が癒えると、敷地内の一屋を改造し、山小屋と名付けて自炊生活に入った。
『飯能戦争』、『飯能随筆』、『勅使下向』など数多くの作品がこの場所で生み出されている。

『飯能随筆』、『続飯能随筆』は大戦直前の重苦しい雰囲気の中に書かれた作品だ。
この時代に書かれた物は、蘆江自身も全く意識はしていないのだろうが、時代の空気に染まっている部分があるように感じる(少なからず国粋主義に傾倒していった部分もあったと後日知る)。
それは極端に走るようなものではなく、是でもなければ非でもない。その程度のものである。
翻ってみれば今を生きている我々も前後の時代とは異質な色彩を纏っているのだろうと思う。
もちろんそれは後世の人が語ることで、我々には気付きようがない。
 
DSCN5219
『飯能随筆』・『続飯能随筆』と挟まれていた新聞記事の切り抜き

『飯能随筆』、『続飯能随筆』を読むと、蘆江を包んでいたもの、蘆江がそっと包んでいたものが、まるで古い天然色の映画のように蘇る。
とくに東雲亭の若い女中「お静さん」とのやり取りは活き活きとしている。

この「お静さん」という女性は名郷の奥、白岩という土地の人で、病床の蘆江の世話などもしていた人だ。

「名栗ゆきのバスに乗つて名郷といふところまで行つて、それから一里半ぐらゐ山ごししてゆくんだよ。甲州の山つづきだ。先生なんぞとてもあるけないから」
口をおつぴろげてお静さんは我家の事を説明した。
「それぢや熊と一緒に生まれたんだね。」
私がわざとさう云つたら、
「バカ」
お静さんは軽くうけながした。

-続飯能随筆より-

この微笑ましいやり取りが、今はただ空き地となっている東雲亭のあった土地で現実に交わされたのだ。
 
「お静さん」は、その後に現在も人気店として続く「こくや(古久や)」へ嫁いでいる。
「こくや」は東雲亭とは親戚筋であり、それだけ「お静さん」は東雲亭でも大切に扱われていたのだろうと想像できる。

蘆江もその若女将ぶりを拝見しようと、こくやへ足を運んだが、あいにく病気で伏せっていた。
そしてそのわずか六日後の雪の降り積もった日に「お静さん」は亡くなっている。
嫁いで45日目、享年29歳だったという。
 
こくや (2)
いまでも繁盛している「こくや」

今は蘆江が出会った喧騒も消え、関わり合った人々も消え、交わされた言葉も飯能の空に溶けて消えた。
そしてその記憶を記したいくつかの本だけが残っている。

「お静さん」の話は『続飯能随筆』に一項を設けて記されている。
戦局が暗転してゆく時代に出版された、一冊2円20銭のこの本が、どれほどの人の目に触れたか解らない。
私が手に入れた『飯能随筆』には昭和17年1月の北海新聞の切れ端が挟まれていた。
まさに大戦が始まった直後のもので、その内容もマレーシア侵攻の経過を描いた地図である。
世捨て人のように飯能に住んだ平山蘆江が書いた随筆本を、日本軍の侵攻に心を躍らせた誰かが読んでいたのである。
 
畑屋 (1)
畑屋さんに現在も掲げられている蘆江筆の看板

いずれにしろ新刊としてこの本を読んだ人も、もう多くは鬼籍に入っている。
そして蘆江と「お静さん」との交流は時代を超えて心温まり、そして悲しい。

蘆江がいつ飯能を離れたのか、色々と調べたが解らなかった。
ある書では死ぬまで飯能にいたとも記されていたが信用できなかった。

以下はご遺族様から直接うかがったお話である。
蘆江は昭和19年に東雲亭が陸軍に接収されたがしばらく飯能に留まり、その年の内に飯能を後にした。
その後は東京都四谷区荒木町(現新宿区荒木町)27番地に移って小林利子との同棲生活に入る。
そして戦局が厳しくなり、昭和20年4月に空襲によってその家を焼け出されてからは、杉並区高円寺駅前、また中野区野方町に移って終戦を迎え、昭和28年にこの世を去った。

蘆江が過ごした東雲亭は消え、その寓居を見つめたニコニコ池の土地には蔵原伸二郎の大きな碑が建っている。
せめて蘆江をしのぶ石碑なりとも飯能に欲しいと思う。 

惜しいかな 飯能人 蔵原を云いて 蘆江を云わず



東雲亭跡はこちら

にこにこ池周辺1974書込




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500年の先祖を思う

さて身内に不幸があり、楽しみにしていた飯能郷土史研究会の例会の日が本葬になり、本ブログも間が空いてしまった。
しかもちょうど複数の仕事依頼も重なってしまい、身動きがとれない状況である。
仕事が詰まっているときにはブログも書かないことにしているのだけど、身内の不幸と云うことで、自分の血筋について改めて考えることもあったので少し書いておきたい。

私自身は婿入りしているので苗字を変えているが、血筋は高麗の日和田山南側に代々居住する一族である。
そして日和田山のロッククライミングのポイントに向かう山道の左側に一族の墓地がある。
神式の墓地で桜の大木があり、桜の季節に高麗駅から日和田山を見ると、最も目立つ桜の木が一族の墓地のあるところだ。
 
日和田山遠景 (4)
日和田山遠景。下の方にポツンと見える大きな桜の木が先祖代々の墓地
 
以前、本家(すでに断絶)にあった家系図も見せて頂いたが、残念ながら創作された系図と判断できた。
仕事柄、家系図を見ることは多いが、多くは(いや、ほとんどが)江戸時代初期に系図屋に作ってもらったものだ。自分の家系図も、その類であった。

因みにその家系図では近年『のぼうの城』で有名になった成田氏の当主長泰から出たことになっている。
そうすると高麗の地に移り住んで来たのは早くとも16世紀後半ということになる。
ところが先祖伝来の墓地からは明応九年(1500)の板碑が出ているので、実はもっと古くから当地に居住していた一族ということになる。つまり成田氏の子孫というのは創作と云うことだ。

先祖の土地は日和田山の南斜面の日当たりの良い好立地の場所にある。それだけ古くからこの土地では開拓者に近い存在だったことが想像できる。
 
千鹿野家墓地
日和田山南麓にある一族の墓地
 
先祖を思うときに、土地柄からひょっとすると帰化人の子孫かと考えたこともあったが、どうもハッキリしない。
ところが最近、太田資武(1570~1643)が書き残した『太田安房守資武状』には我が家の墓地の板碑をやや下った時代の日和田山周辺の状況に触れている部分があることがわかった。

「上田闇礫斎(案独斎朝直)之筋は、檜皮山(日和田山)の上田とて庶子にて候。惣領をば上田左衛門と申す。武州松山の近所石山と申し候の城主にて候‥」と出てくる。
そして武州小川周辺に勢力を持っていた上田氏の惣領は絶えてしまい、日和田山上田氏がその後に惣領のようになったと書かれている。
日和田山上田氏から出た案独斎朝直は、その後に扇谷上杉氏に仕えた。
扇谷上杉氏が滅ぶと北条氏康や上杉謙信に仕えて戦国の名城松山城主となり勇名を馳せている。
 
浄蓮寺上田朝直墓2
埼玉県秩父郡東秩父村御堂の浄蓮寺にある上田朝直の墓所

この上田朝直の父上田政広(案独斎蓮好)が支配していた頃(つまり先祖墓地にあった板碑が建立された時期)の日和田山南裾に我が先祖はいたのである。
先祖が居を構えた立地が好地であることも考慮すると、私の家系は少なからず上田氏と関係を持った一族であった可能性があろうかと思う。

本家は絶えているし、そこに残されていた系図も信用できないので、家系については詳しいことは解らない。
おそらく今後も明らかに出来るということはないのではないかと思う。
ただ、なんとなく機会があり約500年という血の歴史を考える機会があり、飯能の歴史とは関係ないが記して置きたいと思った。



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ウメゾウ

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もし御存知のことがありましたら御教示下さい。また間違い等ありましたらご指摘頂けると有り難いです。
常に追記&訂正を重ねて参ります。

by 貴石


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