人の記憶はどれくらい保存されるのだろう。
寺社は人々の想いが凝縮することで営まれた場所である。
数十年、数百年という長い時間も絶えることなく人はそうした土地に手をあわせてきた。
しかし中には人々の想いの流れが変わってゆく土地もある。
人々を支えた生業も替わり、土地に根ざした人も去ってゆく。
やがて祭祀も滞り、数代後には人も訪れることもなくなり、人々の記憶からも消えてゆく。
そんな土地が飯能にもある。
美杉台5丁目の北にある山中に神社と寺院があった。
第2防災倉庫が置かれている脇から山の中に入っていく。
中央に見える小径から山に入って行く。
大河原からも登れる道があるのかも知れない。
しばらくすると右に戻るような登り道があり、その先には小さな社が一つある。
表札や神社額もなく名前も解らない。
社前には、まだ新しい榊の枝が左右に添えられていた。
のんびり☆☆飯能☆☆さんにお聞きしたところ「摩利支天」ではないかとお答え下さった。
飯能河原にある蕎麦屋さん櫟庵のご主人にお聞きしたところ、やはり「摩利支天」とのことだった。
元来た道をそのまま北に向かって進むと道は二つに分かれ、右にゆけば三吉稲荷に続くはずである。
ここで左に進路を取り尾根の先端まで行くと、そこにはあまり広いとは云えない平場に行き当たる。
そこにあるのは、すでに埋もれ始めている積まれた屋根瓦と、積まれた廃材である。
その背後の岩場の上には忘れ去られたような小さな祠が佇んでいる。
位置としては岩根橋や本郷配水場の真南にあたる。
古い地図にはこの土地に神社と寺院の印がある。
このすぐ下に住んでいた友人に聞いたが寺名は失念したらしい、惜しい…。
また市内の寺院で僧侶をしている友人は写真を見て「へぇ~」とのことである(^^;
ひょっとすると、いま美杉台5丁目にある朝日山平等院(旧善通寺)の故地なのかなぁ。
次に行く時、尋ねてみよう。
昭和35年頃にはまだ屋根が確認できる。
『写真集 明治・大正・昭和 飯能』に以下の写真を発見しました。昭和7年に写したものということです。
正面に見える天覧山と水道山、そして岩の形などから、廃社となっている山から写したものと思います。
現在祠がある場所は、この写真の「子持岩」の立て札の3mほど右側ではないかと思います。
色々な方に聞いても「子持岩」という言葉を一度も聞きませんでした。
この岩の名称も人々の記憶から消えてしまっているようです。
場所はこちら
※ 櫟庵のご主人のお話だと、それほど古いものではなく善通寺の別院として無名戦士などを供養していたという。大変詳しく御存知だった。
摩利支天に関しては、リンクして頂いている「好日 奥武蔵」の奥むさしの山人さんから、社殿内に摩利支天尊と刻まれた石版のようなものがあったと御教示頂きました。
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