2012年01月31日

坂の上の雲

テレビドラマ化された『坂の上の雲』を最初から観なおした。
原作はファンも多く詩情豊かな名作小説である。

テレビドラマ化された作品も、金銭的な意気込みだけではなく、俳優人も良く、また実像によく似ており、細部にわたって丁寧な作りだ。素直にすばらしい完成度にあると思う。

小さな日本人が国際社会に打って出てゆく過程で掴んだ勝利を描き、いい歳をして心が躍る楽しい気持ちになってしまった作品でもある。
軍人秋山真之と文人正岡子規が幼少よりの親友であったというのだから、題材としてこれほど恵まれたものもないに違いない。

坂の上の雲


司馬遼太郎氏は晩年にはほとんど歴史小説を書かなくなった。書けなくなったのか書かなくなったのかは意見の分かれるところだろうが、私は「書けなくなった」のだろうと思う。

その司馬氏は『坂の上の雲』であえて「明治時代人は楽天的」と断じている。私は到底そうは思えない。
もちろん司馬氏もそれだけを描こうと思ったわけではなく、その後ろにあるものに言及せずに隠し描いているに違いない。
『坂の上の雲』の最終回でも触れているが、当時の世相は決して明るくはない。

折りしもEテレ(NHK教育)では、『日本人は何を考えてきたのか』という番組で、足尾銅山事件や幸徳事件を採り上げ、『坂の上の雲』とは全く違うベクトルで明治時代を俯瞰している。

司馬氏がその晩年に創作物が激減したのは、氏自身が持つ小説的手法では多面的なものを捉え難いと感じていたからではなかろうか。
司馬氏が歴史小説を書くことをやめたのは、書き手として、また人として成熟してゆく時間に社会の多様性を認め、自身が歩く道を選別した結果なのだろう。

多面的な視点は大切である。一つの時代の瞬間を鋭く抉る切り口は瞬間的に熱狂させる力はあるが、決して普遍的な正解とは成り得ない。
社会のすべての階層を遍く網羅しようと云う考え方は、それだけですでに歪であり傲慢である。
もちろんそれは社会の指針となる政策でも同じである。つまり政治は歪であることをはじめから定められた支点として動かざるを得ないのである。平たく云えば万民に平等な政策など一つとしてないということでもある。それでも我々は決断しながら進まなければならない。

『坂の上の雲』の登場人物たちと私は、ちょうど100年の世代差がある。その100年の間に起きた出来事を思うと、彼等が生きた明治という時代を一言で言い表すのはやはり難しいと感じる。

私と同世代なら祖父母が明治時代生まれという方も少なくないのではなかろうか。
だから全く明治時代に触れなかったと言うわけでもない。
でも明治という時代も連綿と続く時間軸の中の一時代に過ぎない。

戦国の世は気風を残しながらも江戸時代となり、やがて弾けるように明治時代となり、足早に戦争に向かい昭和となった。
日露戦争戦没者は両軍で11万人以上、その後に起きた両大戦の死者は軍民あわせて5千万人以上。銃後の不幸は無限と言える。

「意味のあることだった」と思わなければ生きてゆけぬという気持ちのすべてを否定しようとは思わない。
そして現代の平和がそれらの犠牲の上に成り立っているという言葉は、ある一面で見れば正しいに違いない。しかしそれを素直に受け入れられぬという気持ちは、どうしても消し難いのである。

男の本能なのか戦いの場面はやはり気分を高揚させる。
しかし歪んでいようと腐っていようと戦争のない世は、やはりかけがえのない時代だと思うのだ。
99%満足な作品でも、その一点で『坂の上の雲』にどうしても釈然としない気持ちも残るのである。



坂の上のさらにその向こうにある雲を見つめ続けることは、美しい夢ではあるが、一方無智・無謀無くしては出来ないことだ。
現代の氾濫し続ける情報の中に生きる者達に、坂の上に浮かぶ雲を追えと言うのは酔狂な話であり、また残酷な要求だろうと思う。勝つか負けるか解らない戦いに突き進むならいざ知らず、負け戦必至の戦場に追い立てるようなイタイ夢想だろう。
人々の未来も天気予報の発達のように少しずつ正確に予測される時代になっているのである。

しかし楽天的な私はその「坂」も「雲」も、全く違った形で現代の若者たちにも存在しているのではないかと思うのである。
ただし、それは過去の夢のように具現化できるものではなく、もはや内省的なものとならざるを得なくなっているのではなかろうか。

たぶん日本はバブル期のような経済的充足が再び訪れることは、もうほとんど無いだろう。
それでもきっと失してゆくものの替わりに得てゆくものがたくさんあり、時に大きな試練に直面しつつも、それは日本民族にとって前進であり、きっと宝物でもあり、また幸せなのだと思うのである。

創作物としてテレビドラマ『坂の上の雲』は本当にすばらしいと思う。ナレーションも主題歌も良かった。

最終話で子規の妹律を演じる菅野美穂さんが、真之らしき人が来たと母に告げられる。
真之は坂を登って子規の墓を訪ねて行く。しかし律は坂の手前で追うのをやめて戻るのである。

律は手に茶椀を持ちながら雨の降る玄関先を見つめる。
そして律が母に視線を戻した後に見せた表情こそが、私がこの作品で最も感動した場面だった。
明治も昭和も現代も、ずっと変わらぬ人の想いが、菅野美穂さんが作り出したその表情にあるように思えた。

真之の兄秋山好古は昭和の時代まで生きた。
好古が息を引き取った病院の廊下の窓の向こうに、いつもと変わらぬ蒼い空と雲が描かれ、そしてドラマは終わる。

現代が春なのか秋なのか、はたまた冬の時代か、遙か後世に至って振り返ると夏だったと解釈されるのか、それはまだ解らない。
それでも坂の上にある一朶の雲は、きっといつの時代も消えることなく止めどもなく流れ来るに違いない。


一本気新聞様「坂の上の雲 主要登場人物家紋一覧」へ




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日々録 

2012年01月22日

北条綱成の家系を探る

戦国時代のファンならばファンも多い北条綱成(1515〜1587)という部将がいる。

北条家の軍装で五色の備えがあり、綱成の軍勢は黄色に染めた軍装を用い、黄染の練絹に八幡の二字を大書した旗を背標として戦ったことから「地黄八幡」と呼ばれて恐れられたという。

最も著名な活躍は、天文15年(1546)の河越の戦いで、河越城に籠もって大軍を引きつけ、半年間も耐え抜き勝利に導いたことであろうか。
墓は鎌倉龍寶寺にあるが、これは綱成が玉縄に創建した香花院を、孫の氏勝が父祖の菩提を弔う為に現在地に移し龍寶寺に改名したものである。綱成の戒名は「瑞光院殿実州宗心大居士」。

黄地八幡

元は福島(クシマ)姓であり、主君北条氏綱の娘を妻としたことから北条姓に替えたと伝わっており、その出自は今川氏の家臣福島上総介正成の子というのが定説である。
しかしながら、小和田哲男氏や黒田基樹氏など研究家が今川家中で「上総介正成」という人物は存在しないと指摘したことから、その出自は未詳ということになってしまっている。
北条姓を与えられた時に、おそらく三つ鱗紋も用いるようになったと考えられるが、福島姓の頃に用いた家紋は定かではない。
綱成の子孫は江戸時代に数家が旗本となっており、その内で綱成の血を継いでいる家では三つ鱗紋と菱蝶紋を用いている。

家系を調べる上でまず念頭に置いておかなければならないことは、系図の不確かさであろう。簡単に云えば家に伝承される家系のほとんどは信用が置けないのである。従って系図は一次史料としては認められていない。
極論すれば家系研究の面白さは、そうしたウソを見破るところにあり、また「本当はどのような家系だったのか」という推論を行うところにある。

明確な答えが出るものは多くはないものの、努力次第では朧気ながら霧の向こうにある真実が見え、そうした曖昧な部分にロマンを感じる者も多いに違いない。
調べてゆくと「これは偶然か?」と思うような事実に出くわすこともよくあり、こうした発見も家系研究の面白さの一つである。ただし、出会った偶然を必然として証明しようにも、その肝心な部分を埋める史料が失われているということが多いのが家系研究なのである。


さて北条綱成の元の名字である「福島」が戦国時代に武蔵国の記録に出てくるかを調べてみたい。参考文献は『新編埼玉県史 資料編』と『新編武蔵風土記稿』を主に用いる。

まず『豊島宮城文書』に「天正五年七月十三日、岩付の鑓奉行福島四郎右衛門尉」、同文書に「天正十三年七月十日、太田氏房祝言の行列次第、宮城美作守と福島出羽守の両人は惣奉行なり」などとあり、岩付太田氏の家臣に福島氏がいたことが判る。
また『天正庚寅松山合戦図』に「黒岩・長谷・田甲方面城方・福島隼人」と武蔵国松山城士に福島氏がいた。『成田家分限帳』には「五十七貫文・福島主計、二十五貫文・福島伊勢、十三貫文・福島平太左衛門」とあり、忍城成田氏の家臣にも多く見えている。こうして見ると武蔵国には実に多くの福島氏が存在したことが解る。

さて北条綱成の家系を探る上で、福島を「くしま」と読ませる特異な名字は一つの傍証になるだろう。
「くしま」という読み方から、久島や九島という文字を用いたのではないかとも考えられている。
『新編武蔵風土記稿』の新座郡上白子村(和光市)項に「古蹟白子原。天正年中〔年代記〕に、大永五年乙酉八月廿三日、此原に於て合戦あり、其頃櫛間九郎などいへる人討死せしことを載たり、按に大永の頃は上杉北條両家の戦争やむ時なし、…中略… 此櫛間は九島にて上総介綱成が一族ならんか、されど大永の頃の記録に此事未だ所見なし」と考察されており、後にほど近い河越城を任されるなど、確かに櫛間を称する一族であったことも考えられる。

ではこの「櫛間」という姓を端緒として考えてみたい。
現在、櫛間姓の8割弱が宮崎県に集住しているが、これは串間市にあった櫛間院に因む名字だからである。状況的に見て他県にある櫛間姓は近代になってから移住したものと見るべきであろう。
では、なぜ櫛間九郎と称される人物が遠く武蔵国にいたのであろうか?

櫛間氏を調べてみると、『宮崎県史資料編』に載る『野辺文書』に日向国櫛間院地頭職として野辺六郎左衛門尉久盛という人物が登場する。
この野辺久盛という人物は武蔵国榛沢郡野辺郷(埼玉県深谷市榛沢新田、二柱大神社の南付近)を本貫地とし、同地の地頭職である。現在この土地は20軒ほどの小集落がある以外は一面の耕作地であり、小字野辺という地名が残っている。また少し東方の西龍ヶ谷遺跡(岡部中央公園から新神戸電機埼玉工場付近)は野辺氏に関連した遺跡と考えられている。
「龍ヶ谷」とは城地を表す「要害」の転訛であり、この土地に城館があった証左にもなるだろう。
文献では『吾妻鏡』文應2年(1261)正月の椀飯の饗応で野部五郎左衛門尉を確認できる。

野辺氏はこの後に8kmほど南方の深谷市永田周辺に移ったとされ、旧地の野辺郷には野辺姓は残っていない。
野辺氏のいた館跡は深谷市永田の長楽寺付近とされているが確証はない。
長楽寺には野辺氏が文応元年(1260)に寄進した十二神将像が現存し、境内にある薬師堂改築記念の石碑(昭和62年)に刻まれた8人の世話人の中に、野辺姓が2人、福島姓が1人確認できる。長楽寺のすぐ裏手には武の神である八幡神社がある。

この周辺は現在独特な立ち葵紋を用いる長島姓の家が支配的であり、野辺姓はこの長楽寺から国道140号線を挟んだ所に多く残っている。農地に所々ある小墓地を見ると野辺姓を簡単に確認できる。

永田から荒川を渡ると畠山重忠の館跡や墓という五輪塔が残る故地であり、周辺は畠山氏を初めとして藤田、用土、男衾など、その一族の名字となった地名も多い。

長楽寺

              長楽寺

この野辺氏から、久盛が建武元年三月廿一日の勲功により櫛間院の地頭職を与えられたとされている。つまり櫛間とは野辺氏がその櫛間院を名字の地として発生したか、あるいは櫛間を通称とした者であろう。しかし、この日向国野辺氏が武蔵国野辺氏の一族というのは仮冒であり、本来は日下部氏の一族とする説もある。

白子原で戦死したという櫛間九郎という人物は、この野辺氏の一族と考えて良いだろう。
では福島姓であった綱成は、この野辺氏の一族なのであろうか。

櫛間院の地頭であった野辺久盛の子盛忠は、史料から本姓小野氏を称していたことがわかる。つまりこの点が仮冒なのであろう。
しかし日向国野辺氏は小野氏族を称する武蔵七党猪俣党の一族と称したのは間違いない。
では現在の野辺姓の分布はどうであろうか。調べてみると野辺姓は現在宮崎県串間市が全国最多となっている。そして第2位が前記した埼玉県深谷市で、野辺氏の館跡周辺に集住する。
野辺姓分布

          野辺姓の分布(写録宝夢巣)


福島姓分布

          福島姓の分布(写録宝夢巣)

一方の野部姓は深谷の隣である熊谷市、茨城県の下妻市に多く残る。
福島姓の分布を見ると全国で埼玉県が最多である。そして埼玉県でも野辺氏のいた深谷市が全国一の集住地で、野辺氏のいたという永田に隣接する田中という土地に特に多い。これは果たして偶然なのであろうか?現在、当地にある応正寺の墓地には夥しい福島姓の墓が並んでいる。その家紋を見ると「丸に七枚根笹」という珍しいものである。

福島氏家紋

              福島氏家紋

しかし、周辺にはクシマ&フクシマという土地は見あたらない。つまり福島姓の語源は武蔵国以外の外来であった可能性が高い。

そして「クシマ」という音で読まれたと云うことは、やはり日向国櫛間院にその語源を求めるべきなのであろう。つまり「櫛間氏」という名字ではなく、日向国櫛間院地頭職という由緒による「櫛間殿」という通称だったのではないかと考えられる。
ここで流れとして考えてみると、名字の変換は野部→野辺→櫛間(通称か)→福島(くしま)→福島(ふくしま)ということになるだろう。
武蔵国各所に福島姓を名乗る武士が確認できるのは発祥地の関係で、藤田氏、成田氏、深谷上杉氏、太田氏などに使える者が出たためと考えられる。

『新編埼玉県史』には御堂村(埼玉県東秩父村)浄蓮寺過去帳が載っているが、ここには武蔵国松山城主滅亡の時にその家臣大河原某(本姓福島という)が秩父に落ち、福島氏譜代家臣栗島氏と共に妙圓寺を建立したと記してある。

妙圓寺

               妙圓寺

実際に妙圓寺に行くと、現在も栗島姓の檀家が残っている。家紋は偶然にも深谷の福島氏と共通する「丸に根笹」である。
そしてこの栗島姓の分布を見ると『浄蓮寺過去帳』を裏付けるように秩父市、東秩父村、深谷市に多くあり、また不思議なことに野部姓が多く残る茨城県下妻市にも栗島姓が極端に多いことが解る。これも偶然だろうか。
また妙圓寺鬼子母尊神像造立の浄財寄進者の名にも栗島氏はもちろん、多くの福島姓が確認できる。

しかし、「櫛間」が直接的に「福島」という名字に変換したと考えていいのであろうか?あるいは櫛間殿と呼ばれていた時も、すでに福島という氏を名乗っていたのではなかろうか?
前述したように埼玉県深谷近辺には福島という地名はない。
野辺氏が日向国で地頭となった櫛間院はかつて福島院とも書かれたという。現在も野辺氏が拠った櫛間城がある宮崎県串間市上町は、その中心に福島川が流れている。

したがって野辺氏が地頭であった串間市では、「櫛間」と「福島」は同義であり、関東の福島姓は日向国櫛間院(福島院)から移住した野辺氏ということになるだろう。
もし日向国野辺氏の出自が武蔵国であるとするのが仮冒であったとしても、少なくとも後世に至って同族と認識されていたのである。でなければ武蔵国榛沢郡に福島姓が集住し、その中に櫛間氏と称される者がいたことの説明が付かない。さらに云えば日向国周辺に野部、野辺という地名も見あたらない。

そして「くしま」と読まれたことから、遠江国の「九島」や甲斐国の「久島」と混同されたと考えられる。

以上のことを総合的に考えあわせ、北条綱成の旧姓「福島・くしま」は日向国櫛間院にその語源があり、綱成の出自は武蔵七党猪俣党野辺氏、あるいは日向国野辺氏であろうと考える。
大永五年(1525)白子原の戦いで戦死した櫛間九郎が綱成の父であるかは特定しようもないが、状況的に見てその血縁者であった可能性は高く、『新編武蔵風土記稿』の筆者は慧眼であると思う。

綱成が北条氏綱の娘を娶った時期がいつの頃かは解らないが、北条氏綱の娘を母とする嫡子氏繁は天文五年(1536)生まれとされているので、それ以前には婚姻していたはずである。因みに妻となった氏綱の娘は永禄元年(1558)に死去して大長寺(鎌倉市岩瀬)に葬られている。

北条家内で特に有力であったわけではない綱成が主君の姫を娶ると云うことには、その前に動気となる大きな出来事があったに違いない。やはり北条氏が関東に進出する段階の重要な時期に、敵対勢力から北条方に転身したことが考えられる。
時期的には古河公方足利高基の死去に重なり、その家臣であったかまたは、白子原で戦死した櫛間氏の縁者ならば岩附太田氏の家臣だったのではないかと考える。太田氏家臣福島氏は道祖土氏とも縁者であったとされているが、道祖土と白子原もそれほど離れていない。

ただし遠江国の九島(福島氏)も本来武蔵国野辺氏の一族であった可能性は否定できないのでは無かろうか。また綱成が遠江国福島氏の一族だったことも完全に否定されたわけではない。
遠江国福島氏は土方城に拠ったとされるが、遠江国にはまた南北朝以来野部郷が見え、仲明城に野部氏がいた。
しかし遠江国野部氏は滅んだとは云えあまりにも現代にきれいに消えすぎている。ならばこの野部氏は元々他地から移り住んだものなのかも知れない。

北条綱成の出自を考えると、こうして武蔵国、日向国、遠江国の間で数百年の間に人が移動し、また仮冒や忘却され、時に本来別氏ながら同族意識を作り上げた茫洋とした歴史が浮かび上がるのである。


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日々録 

2012年01月13日

富士山 −fujisan−


新年を迎え関東では連日晴天が続いている
乾燥し澄み切った空気となると
関東平野の所々で富士山が遠望できる季節だ

美しく整ったなだらかな円錐状の富士山は
泰然と佇み、辺りを睥睨するその姿は神々しい

『更級日記』には
「こむじゃうをぬりたるやうなるに、ゆきのきゆる世もなくつもりたれば、いろこききぬに、しろきあこめきたらむやうにも見えて、山のいたゞきのすこしたひらぎたるより、けぶりはたちのぼる。ゆふぐれは火のもえ立も見ゆ」
と記され、火を噴く富士の様子を知ることができる

宝永四年(1707)の大噴火では周囲に大被害を与え
江戸でも4cmの火山灰が降ったという
自然は我々を包み込みながら、
時に天地を震わせる激情を見せる

日本人にとって、
人智でははるかに及ばぬ自然こそが神なのである
霊山富士はその象徴的存在として信仰の対象となった

富士は不二とも書き、また不死にも通じた

『竹取物語』には
「駿河の國にあなる山の頂にもてつくべきよし仰給。嶺にてすべきやう教へさせ給。御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけて燃やすべきよし仰せ給。そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山を「ふじの山」とは名づけゝる。その煙、いまだ雲のなかへたち上るとぞ、言ひ傳へたる」
と、その名の由来にも触れている

富士紋は丹治姓青木氏の家紋として有名である
その発祥地となる埼玉県飯能市青木の地からは
多摩丘陵の彼方に富士山を望むことができる

爽やかな朝に白銀に輝き、
また夕焼けの中に浮かぶ富士のシルエットは本当に美しい

飯能の富士


世中を こゝろたかくも いとふかな
 
        ふじのけぶりを 身のおもひにて



富士紋

 富士山に霞1    富士山に霞2 丸に富士山に帆掛け船 







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自然の家紋 

2011年11月12日

家紋歳時記 −kamon saijiki−


11月11日、洋泉社より『家紋歳時記』が発売となりました。



家紋歳時記



単行本 四六版ソフトカバー 302頁
価格:  本体1,800円+税
出版社: 洋泉社
ISBN-10: 4862488404
ISBN-13: 978-4862488404



平成21年(2009)に時事通信社を通じ、全国の地方紙で連載された『家紋歳時記』を元に大幅に加筆・修正した内容となっています。

日本という起伏のある風土の中で生まれた家紋を導入にして日本に息づいてきた様々な事象や文化や出来事を採り上げて、日本人が見つめてきたものを四季を通したかたちで探求することに主眼を置いて書き上げました。
採り上げている題材は歴史的な事象や、文学、日本各地の風習などを、一年を通した形でまとめています。

折りしも日本は大変な苦境の年となってしまいましたが、あらためて美しくかけがえのない日本を再認識する書となれれば幸いです。

新聞紙で連載を愛読下さった方も、また連載紙のなかった地域の方も、是非御一読願えれば嬉しく思います。







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日々録 

2011年11月01日

イラスト図解 家紋

少し遅くなりましたが出版の御案内です。

日東書院より出版されました『イラスト図解 家紋』を監修させて頂きました。
人気のあるイラスト図解シリーズです。





内容紹介

家紋には、時代の歴史や逸話などがあります。皇族、貴族、武将が使い始めた家紋を知ることによって、自分の祖先を知るきっかけになります。また、家紋には植物、花、動物、魚類、羽、日用品、漢字などを使用しており、見るだけでも楽しいための多くの家紋マニアがいます。本書では、家紋のはじまり、鎌倉・室町時代、戦国時代、江戸時代を代表する家紋をはじめ、世界の名家の家紋も紹介していきます。




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