2015年03月13日

一族の歴史を形にする

千鹿野家系譜考察 (1)


『千鹿野家 系譜考察』なる小冊子が出来上がりました。

千鹿野は私の旧姓です。
以前、私が書いておいた自分の家系についての原稿が、ちょうど出版例の見本にピッタリということ作って頂きました。

上質な作りで写真はカラー。30ページです。
思ったよりボリュームあります。

千鹿野家系譜考察 (2)

家や一族の歴史など、ちょっとしたものを記録しておくにはよいのではないでしょうか。
自分の作品集なども、こうした形にしておけば、生きた証しとして残しておけます。

お店の歴史も懐かしい写真と一緒にまとめておくというのも良いのでは。
値段的にも名刺代わりに人にあげたりもできますし。

ちょっとしたパーティーや同窓会、愛車の記録、旅行記などもこうした形で取っておけます。

原稿のやり取りや校正もメールのやり取りだけでできるようです。
また自分では書けない人も、インタビュー形式で作るという方法もあるようです。

作って下さったのは千代田区にある有限会社シリトリア様です。
詳しくは以下のバナーから(^^)

シリトリア





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2014年10月03日

南部氏の家紋についての一考察

河北新報社の報道によると、国指定史跡聖寿寺館(青森県三戸郡南部町小向字聖寿寺)から青銅製の刀装具とみられる金具が出土し、その文様が南部家の鶴紋らしい文様であるとしている。

同町の教育委員会の見解として「南部氏は中世ころから向鶴紋を家紋にしていたと江戸時代の文献に記されているが、江戸期より前の実物は見つかっていなかった」とし、「重要な史料」であるとしている。

南部聖寿寺館出土刀装具

南部聖寿寺館出土刀装具


江戸時代以前で家紋が用いられたのはすべて中世なので「中世ころから」とはあまりに曖昧すぎるが、「重要な史料」であるということについては全く異存がない。

南部氏は甲斐国巨摩郡南部郷を発祥地としており、甲斐源氏加賀美氏から出た一族である。
初代とされる南部光行は加賀美二郎遠光の三男という。
その南部光行の肖像画(南部家所蔵)では、幟に甲斐源氏らしく割り菱紋が描かれている。
この肖像画が描かれた年代は分からないので、どれだけ史料的な裏付けとなるかは分からないが、一つの参考として注意しておきたい。

南部光行

南部家初代光行の肖像画


今回出土した刀装具は、鶴の丸紋を二つ並べたような形をしている。
右側の鶴の丸は、通常の鶴の丸紋にも見えるが、胴体部分を注意してみると背中を向けている図柄であることがわかる。
一方、左側の鶴の丸紋は、右側と向かい合わせになるように、鶴の顔が右を向くようにアレンジしたものである。
これは鶴の求愛行動を意識してデザインされたものと想像できる。
現代の一つの円形で描かれる家紋デザインを見慣れている方は、このように二つの円形を並べたような家紋はあまり目にしないだろうし、家紋ととしてはどうかと思われるであろうが、室町時代の家紋としてならば特別異質なものではない。

よく見ると左側の鶴の胸には、数個の星が付けられているように見える。
この刀装具が雄雌の求愛をモチーフにしていると考えるなら、この数個の星は抱卵を意味しているのではなかろうか(実際は2個産むらしい)。
この数個の星は、元々九つではないようで、九曜とは言い難いが、江戸時代以降の南部氏の家紋では、鶴の胸に九曜紋が付けられているので、その原形と云えるのではなかろうか。


南部家の九曜について以下のような家伝がある。

13代南部守行が秋田を攻めた時、先陣の将南部光経が重臣を出羽湯殿山、月山へ遣わして戦勝を祈願した。すると光経は7日目の夜に月山から二羽の鶴が飛来する夢を見た。さらに天空から9つの星が食膳に落ち、拾い集めて懐中へ入れたところで目が覚めたという。その夢を見たのち、南部氏は秋田安東氏を打ち破り、この戦勝を記念して胸に九曜の星をつけた対い鶴を家紋と定めた。

以上のことは後付の伝説に過ぎないのであろうが、そうしたことを考慮しなくとも、この刀装具が南部氏が用いた家紋を忠実に描いているというのであれば、星の数は重要なはずであり、この点は釈然としない部分である。
あるいは特に意味のない星を付けていたものが、後世に至って軍神妙見菩薩にあやかり、九曜へと変化させたということも考えられる。

南部鶴2

南部鶴紋

さて、今回出土した刀装具の鶴のデザインが、そのまま南部氏の家紋であったかと云えば、それは疑問である。
なぜならば江戸時代以前は武家が用いた家紋はそれほど厳格に形を定めていなかったからである。

例えば、大河ドラマでも登場する黒田家の家紋は、一般に足が左方向へ流れる「藤巴」であるが、軍旗の類には逆方向に巻いているものも見られる。
また黒田長政の肖像画には、藤巴紋ではなく下り藤紋が描かれており、かなりその描き方は自由である。
まして調度品などに描かれるものは意匠文様化されるので変化しやすい。

こうした例は他家でもまま見られることで、紋形が厳格になるのは江戸時代以降のことである。
上杉家の紋も伊達家の仙台笹も現代に見る形になったのは江戸時代に入ってからで、謙信や政宗が使っていた物とは形が違う。豊臣の桐紋も徳川家の葵紋ですら様々にアレンジされている。

したがって、今回出土した刀装具についても、この形状そのものが南部氏が用いた紋形とするのは早計である。
南部家の家紋を連想できるようなデザインで刀装具を作ったという考え方も捨てきれない。
ただし冒頭で申したように、南部家の家紋の変遷を考える上で重要な史料であることは間違いない。

永享七年(1435)10月、足利持氏が佐々木氏の一族の常陸国佐竹郡長倉遠江国守義政を追討した時、これに参加した120の諸将の家紋を列記した『羽継原合戦記(長倉追罰記)』に、当時の南部家の使用紋も記載されている。
そこには「ひすつるは南部かもん」と記されている。
菱鶴

菱鶴紋


「ひす」は「菱」のことと考えられ、武田氏族の菱紋のシルエットを残した形の菱鶴紋になり、さらに現代に見るような向鶴(対い鶴)紋になったと考えられる。
具体的な変遷や、その時期については今後の新資料の発見によるが、今回発掘された刀装具の鶴紋は、「ひすつる」と「南部鶴」の間を埋める史料であろうと思う。



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2014年06月25日

芥川龍之介の墓

先日、久しぶりに東京巣鴨の慈眼寺にある芥川龍之介の墓所を訪れた。

慈眼寺は都内有数の霊園として有名な染井霊園のすぐ西側にある。
掃苔愛好者にとってはポピュラーな訪問地ではなかろうか。

龍之介はこの慈眼寺について『本所両国』で以下のように書いている。
「昔は本所にあった家の菩提寺を思い出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚も建っていたものである。」

また龍之介は同書内で、「あのじめじめした猿江の墓地は未だに僕の記憶に残っている。」と、慈眼寺が現在地へ移る以前に自家の墓地を訪れた記憶にも触れている。

芥川龍之介の墓

数多くの墓を巡る家紋・掃苔愛好者にとっても、芥川龍之介の墓石は非常に珍しいものであろう。
低い平面を持つ土台の上に、高い台石が置かれ、ほぼ正六面体のズングリとした墓標が乗る。

墓石は龍之介の遺言により、生前愛用した座布団と寸法で作られている。
つまり龍之介は、いまもここに座り、腕を組んで思索しているのであろう。

見慣れた場所に家紋はなく、墓石の天面になだらかな脹らみを持たせて、大きく、そしてふくよかに五七桐紋が刻み出されている。

芥川龍之介

桐紋は五三桐よりも五七桐の方が格式が上である。
芥川家が、いつ頃、どのような経緯でこの家紋を用いたかは解らないが、今となっては相応しい家紋と感じる。

著名人は自己への際立ったこだわりを持つ人も多く、「家」に属する家紋を用いない人物も少なくない。
また一方で立脚する土台として家を大事にする偉人も少なくない。
家紋を見て歩くと、そうした個人が持つ考え方も見えてくるのである。

自ら命を絶つ作家や芸術家は少なくない。
その是非について凡人たる自分が的確なことを云えるとは到底思えない。
ただ私のような凡人は、ひょっとしてその先にあったかもしれない作品も想像してしまうのである。


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2014年05月15日

ご報告とご挨拶

千鹿野茂


長年家紋研究に携わってまいりました前会長千鹿野は2014年4月に永眠致しました。
本人の希望で公にせず、別れの儀も子や孫などごく近親だけで執り行いました。
生前、出版等でお世話になった方々へは、このような形でご報告となりますことを何卒お許し下さいますようお願い申し上げます。
また、この場をお借りして生前の御厚情を深く感謝致します。

晩年に至り、ある席上で親族に向かい私について「もう俺を超えた」と漏らしました。少し離れたところで別の会話をしていた私もその会話が聞こえたのですが、親族からも改めてその言葉を伝え聞きました。
それ以後、千鹿野は研究からも全く離れました。

千鹿野は車の運転をしなかったことから、私は免許を取ると全国の史跡や寺社を一緒に巡るようになりました。
家紋の採集はそうしたことから始まりました。
現在はデジタルカメラが普及し、いくらでも記録が残せる時代となりましたが、当時はフィルムカメラで、現像にもコストが掛かりました。
ですから半紙を墓石に当てて、釣鐘墨を使い拓本を採る形で紋帳にない家紋を集めていました。
雨や風の強い日などは苦労致しましたが、写真では墓石の柄によってハッキリ見えない部分も、拓本なら明確になるということもあり、今から考えれば良い選択であったと思っています。

収集家紋

千鹿野の最大の功績はそれまで明らかにされていなかった家紋の存在を世に出したことだと思います。
それまで家紋の数は3千とも5千とも云われていました。
つまりは誰もそれを確かめようとはしていなかったということです。
それまでの家紋研究は、沼田頼輔博士などが残した前時代の業績を机上でなぞるだけで自ら外に出て、足を使って調べるという基本的なことを怠っていたと云えるでしょう。

千鹿野は全国を巡り足を使って丹念に家紋収集を行うことで未知の家紋を数多く発見することになりました。
その成果は角川出版社様から『日本家紋総鑑』という形で世に出すことが出来ました。
『日本家紋総鑑』には約2万点の家紋が収録されていますが、それまで収集したすべてを掲載できたわけではありませんでした。

また全国を広く歩いたと云っても、すべてを調べ尽くせたわけでもありません。
今後の家紋発見、調査研究は、我々次代に託されたということです。土地々々の隅々には、まだ未知の家紋が多く息を潜めていることでしょう。ですからこれからの家紋研究には、やはり土地に根ざした郷土の研究家各位の調査に勝るものはないだろうと思われます。

家紋は代を経てこそ成立する文化です。
そして家紋研究も同じように次代がバトンを受け、さらに次代へ伝えてこそ結実するのではないかと思います。

今後とも日本家紋研究会をなにとぞよろしくお願い申し上げます。


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