2012年01月22日

北条綱成の家系を探る

戦国時代を愛好される方にはファンも多い北条綱成(1515〜1587)という部将がいる。

北条家の軍装で五色の備えがあり、綱成の軍勢は黄色に染めた軍装を用いた。黄染の練絹に八幡の二字を大書した旗を背標として戦った綱成は、「地黄八幡」と呼ばれて恐れられたという。

最も著名な活躍は、天文15年(1546)に河越城に籠もり大軍を引きつけ、半年間も耐え抜き勝利に導いたことであろうか。

その墓は鎌倉龍寶寺にあるが、これは綱成が玉縄に創建した香花院を、孫の氏勝が父祖の菩提を弔う為に現在地に移し龍寶寺に改名したものである。綱成の戒名は「瑞光院殿実州宗心大居士」。

黄地八幡

元は福島(クシマ)姓であり、主君北条氏綱の娘を妻としたことから北条姓に替えたと伝わっている。その出自は今川氏の家臣福島上総介正成の子というのが定説である。
しかし小和田哲男氏や黒田基樹氏など研究家が、今川家中で「上総介正成」という人物は存在しないと指摘したことから、その出自は未詳ということになってしまっている。
北条姓を与えられた時に、おそらく家紋も三つ鱗を用いるようになったと考えられるが、福島姓の頃に用いた家紋は定かではない。
綱成の子孫は江戸時代に数家が旗本となっており、その内で綱成の血を継いでいる家では三つ鱗紋と菱蝶紋を用いている。

家系を調べる上でまず念頭に置いておかなければならないことは、系図の不確かさであろう。簡単に云えば家に伝承される家系のほとんどは信用が置けないのである。従って系図は一次史料としては認められていない。
極論すれば家系研究の面白さは、そうしたウソを見破るところにあり、また「本当はどのような家系だったのか」という推論を行うところにある。

明確な答えが出るものは多くはないものの、努力次第では朧気ながら霧の向こうにある真実が見え、そうした曖昧な部分にロマンを感じる者も多いに違いない。
調べてゆくと「これは偶然か?」と思うような事実に出くわすこともよくあり、こうした発見も家系研究の面白さの一つである。ただし、出会った偶然を必然として証明しようにも、その肝心な部分を埋める史料が失われているということが多いのが家系研究なのである。


さて北条綱成の元の名字である「福島」が戦国時代に武蔵国の記録に出てくるかを調べてみたい。参考文献は『新編埼玉県史 資料編』と『新編武蔵風土記稿』を主に用いる。

まず『豊島宮城文書』に「天正五年七月十三日、岩付の鑓奉行福島四郎右衛門尉」、同文書に「天正十三年七月十日、太田氏房祝言の行列次第、宮城美作守と福島出羽守の両人は惣奉行なり」などとあり、岩付太田氏の家臣に福島氏がいたことが判る。
また『天正庚寅松山合戦図』に「黒岩・長谷・田甲方面城方・福島隼人」と武蔵国松山城士に福島氏がいた。『成田家分限帳』には「五十七貫文・福島主計、二十五貫文・福島伊勢、十三貫文・福島平太左衛門」とあり、忍城成田氏の家臣にも多く見えている。こうして見ると武蔵国には実に多くの福島氏が存在したことが解る。

さて北条綱成の家系を探る上で、福島を「くしま」と読ませる特異な名字であったことは一つの傍証になるだろう。
「くしま」という読み方から、久島や九島という文字を用いたのではないかとも考えられている。

『新編武蔵風土記稿』の新座郡上白子村(和光市)項に「古蹟白子原。天正年中〔年代記〕に、大永五年乙酉八月廿三日、此原に於て合戦あり、其頃櫛間九郎などいへる人討死せしことを載たり、按に大永の頃は上杉北條両家の戦争やむ時なし、…中略… 此櫛間は九島にて上総介綱成が一族ならんか、されど大永の頃の記録に此事未だ所見なし」と考察されており、後にほど近い河越城を任されるなど、確かに櫛間を称する一族であったことも考えられる。

ではこの「櫛間」という姓を端緒として考えてみたい。
現在、櫛間姓の8割弱が宮崎県に集住しているが、これは串間市にあった櫛間院に因む名字だからである。状況的に見て、現在他県にある櫛間姓は近代になってから移住したものと見るべきであろう。
では、なぜ櫛間九郎と称される人物が遠く離れた武蔵国にいたのであろうか?

櫛間氏を調べてみると、『宮崎県史資料編』に載る『野辺文書』に日向国櫛間院地頭職として野辺六郎左衛門尉久盛という人物が登場する。
この野辺久盛という人物は武蔵国榛沢郡野辺郷(埼玉県深谷市榛沢新田、二柱大神社の南付近)を本貫地とし、同地の地頭職であった。
現在この土地は20軒ほどの小集落がある以外は一面の耕作地であり、小字野辺という地名が残っている。また少し東方の西龍ヶ谷遺跡(岡部中央公園から新神戸電機埼玉工場付近)は野辺氏に関連した遺跡と考えられている。
「龍ヶ谷(リュウガイ)」とは城地を表す「要害(ヨウガイ)」の転訛であり、この土地に城館があった証左にもなるだろう。
文献では『吾妻鏡』文應2年(1261)正月の椀飯の饗応で野部五郎左衛門尉を確認できる。

野辺氏はこの後に8kmほど南方の深谷市永田周辺に移ったとされ、旧地の野辺郷には野辺姓は残っていない。
野辺氏のいた館跡は深谷市永田の長楽寺付近にあったとされている。
長楽寺には野辺氏が文応元年(1260)に寄進した十二神将像が現存し、境内にある薬師堂改築記念の石碑(昭和62年)に刻まれた8人の世話人の中に、野辺姓が2人、福島姓が1人確認できる。長楽寺のすぐ裏手には武の神である八幡神社がある。

この周辺は現在独特な「立ち葵紋」を用いる長島姓の家が支配的であり、野辺姓はこの長楽寺から国道140号線を挟んだ所に多く残っている。農地に散見される小墓地を見ると野辺姓を簡単に確認できる。

この永田の地から荒川を渡ると畠山重忠の故地とされ、その館跡や墓という五輪塔が残っている。周辺には畠山氏以外にも、藤田、用土、男衾など、武蔵武士の名字となった地名も多い。

長楽寺

              長楽寺

この野辺一族で、久盛が建武元年三月廿一日の勲功により櫛間院の地頭職を与えられたとされている。つまり櫛間とは野辺氏がその櫛間院を名字の地として発生したか、あるいは櫛間を通称とした者であろうと考えられる。

この日向国野辺氏が武蔵国野辺氏の一族というのは仮冒で、本来は日下部氏の一族であり日向国野辺氏は実のところ武蔵国とは関係ないとする説もあるが、私は同族と考えている。

櫛間姓が日向国以外で興った可能性はないことから、武蔵国白子原で戦死したという櫛間九郎という人物は、日向国野辺氏の一族と考えてよいだろう。
櫛間姓を名乗る一族が武蔵国にいたということは、やはり武蔵国野辺氏が櫛間氏の祖で、父祖の地に還住した者がいたと考えるのが自然である。
では「櫛間」ではなく「福島」であった綱成は、この野辺氏の一族なのであろうか。

櫛間院の地頭であった野辺久盛の子盛忠は、史料から本姓小野氏を称していたことがわかる。この「小野姓」という点は確かに仮冒である。
猪俣党は小野篁の後裔と主張しているが、残念ながら小野氏が武蔵国へ下向し創建したという武蔵国一宮小野神社も、小野郷も、春日氏から小野氏が生まれる前から存在していることが確認でき、まさしく仮冒であると云える。事実はおそらく秩父国造族の分かれであろう。

しかし日向国野辺氏は、仮冒と言えども小野氏族を称した武蔵七党猪俣党の一族を主張したことは間違いない。

では現在の野辺姓の分布はどうであろうか。調べてみると野辺姓は現在宮崎県串間市が全国最多となっている。そして第2位が前記した埼玉県深谷市で、野辺氏の館跡周辺に集住する。
野辺姓分布

          野辺姓の分布(写録宝夢巣)


福島姓分布

          福島姓の分布(写録宝夢巣)

深谷市に集住する野辺姓に対し、野部姓は深谷の隣である熊谷市、茨城県の下妻市に多く残る。
福島姓の分布を見ると全国で埼玉県が最多である。そして埼玉県でも野辺氏がいた深谷市が全国一の集住地で、野辺氏のいたという永田に隣接する田中という土地に特に多い。
これは果たして偶然なのであろうか?
現在、当地にある応正寺の墓地には夥しい福島姓の墓が並んでいる。その家紋を見ると「丸に七枚根笹」という珍しいものである。

福島氏家紋

              福島氏家紋

しかし、周辺にはクシマ&フクシマという土地は見あたらない。つまり福島姓の名字の地は武蔵国以外であった可能性が高い。

そして「クシマ」という音で読まれたと云うことは、やはり日向国櫛間院にその語源を求めるべきなのであろう。あるいは「櫛間氏」という名字ではなく、日向国櫛間院地頭職という由緒による「櫛間殿」という通称だったと云うことも考えられる。
ここで流れとして考えてみると、名字の変換は野部→野辺→櫛間(通称か)→福島(くしま)→福島(ふくしま)ということになるだろう。
武蔵国各所に福島姓を名乗る武士が確認できるのは発祥地の関係で、時代により藤田氏、成田氏、深谷上杉氏、太田氏などに仕える者が出たため、その主君に従って拡散したと考えられる。

『新編埼玉県史』には御堂村(埼玉県東秩父村)浄蓮寺過去帳が載っているが、ここには武蔵国松山城主滅亡の時にその家臣大河原某(本姓福島という)が秩父に落ち、福島氏譜代家臣栗島氏と共に妙圓寺を建立したと記してある。

妙圓寺

               妙圓寺

実際に妙圓寺に行くと、現在も栗島姓の檀家が残っている。家紋は偶然にも深谷の福島氏と共通する「丸に根笹」である。
そしてこの栗島姓の分布を見ると『浄蓮寺過去帳』を裏付けるように秩父市、東秩父村、深谷市に多くあり、また不思議なことに野部姓が多く残る茨城県下妻市にも栗島姓が極端に多いことが解る。これも偶然だろうか。
また妙圓寺鬼子母尊神像造立の浄財寄進者の名にも栗島氏はもちろん、福島姓も多く確認できる。

しかし、「櫛間」が直接的に「福島」という名字に変換したと考えていいのであろうか?あるいは櫛間殿と通称で呼ばれていた時も、すでに福島という氏を名乗っていたのではなかろうか?
前述したように埼玉県深谷近辺には福島という地名はない。
ところが野辺氏が日向国で地頭となった櫛間院は、かつて福島院とも書かれたという。現在も野辺氏が拠った櫛間城がある宮崎県串間市上町は、その中心に「福島川」が流れている。

したがって野辺氏が地頭であった串間市では、「櫛間」と「福島」は同義であり、関東の福島姓は日向国櫛間院(福島院)から移住(還住)した野辺氏ということになるだろう。
もし日向国野辺氏の出自が武蔵国であるとするのが仮冒であったとしても、少なくとも後世に至って同族と認識されて武蔵国に移ったのである。でなければ武蔵国榛沢郡に福島姓が集住し、その中に櫛間氏と称される者がいたことの説明が付かない。さらに云えば日向国周辺に野部、野辺という地名も見あたらない。

そして「くしま」と読まれたことから、遠江国の「九島」や甲斐国の「久島」と混同されたということはあったと考えられる。

以上のことを総合的に考えあわせ、北条綱成の旧姓「福島・くしま」は日向国櫛間院にその語源があり、綱成の出自は武蔵七党猪俣党野辺氏であろうと考える。
大永五年(1525)白子原の戦いで戦死した櫛間九郎が綱成の父であるかは特定しようもないが、状況的に見てその血縁者であった可能性は高く、『新編武蔵風土記稿』の筆者は慧眼であると思う。

綱成が北条氏綱の娘を娶った時期がいつの頃かは解らないが、北条氏綱の娘を母とする嫡子氏繁は天文五年(1536)生まれとされているので、それ以前には婚姻していたはずである。因みに妻となった氏綱の娘は永禄元年(1558)に死去して大長寺(鎌倉市岩瀬)に葬られている。

北条家内で特に有力であったわけではない綱成が主君の姫を娶ると云うことには、その前に動気となる大きな出来事があったに違いない。やはり北条氏が関東に進出する段階の重要な時期に、敵対勢力から北条方に転身したことが考えられる。その点では徳川家康の娘を妻にした奥平信昌のパターンである。
時期的には古河公方足利高基の死去に重なり、その家臣であったかまたは、白子原で戦死した櫛間氏の縁者ならば岩附太田氏の家臣だったのではないかと考える。太田氏家臣福島氏は道祖土氏とも縁者であったとされているが、道祖土と白子原もそれほど離れていない。

ただし遠江国の九島(福島氏)も本来武蔵国野辺氏の一族であった可能性は否定できないのでは無かろうか。したがって綱成が遠江国福島氏の一族だったことも完全に否定されたわけではない。
遠江国福島氏は土方城に拠ったとされるが、遠江国にはまた南北朝以来野部郷が見え、仲明城に野部氏がいた。
しかし遠江国野部氏は滅んだとは云え、あまりにも現代にきれいに消えすぎている。ならばこの野部氏は元々他地から移り住んだものとも考えられる。

北条綱成の出自を考えると、こうして武蔵国、日向国、遠江国の間で数百年の間に人が移動し、また仮冒や忘却され、時に本来別氏ながら同族意識を作り上げた茫洋とした歴史が浮かび上がるのである。


本ブログ『北条綱成の家系を探る』が乃至政彦氏の御著書で引用して頂きました。
いままで漠然とイメージしていた「男色」を鋭い視点で正した名著です。是非御一読頂ければと思います。




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高澤 等
TAKASAWA HITOSHI
埼玉県飯能市在住
日本家紋研究会会長
著書に「家紋の事典」「家紋歳時記」「新・信長公記」「戦国武将 敗者の子孫たち」ほか


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