友枝真也です。
しばらくぶりの投稿になってしまいました。
前回は班女の扇という故事の起源でもある漢詩「怨歌行」の概要と、その詩に表された中国における扇とは団扇(うちわ)であること、などに触れました。
今日は能「班女」の中では扇がどういう捉え方をされているかを考えたいと思います。もちろん「班女」での扇とは団扇のことではなく、扇子を意味しています。扇はもともと「あふぐ(あおぐ)」という言葉の名詞で旧仮名で書くと「あふぎ」です。これに漢字をあてて「逢ふ儀」と読みます。つまり扇は再び逢うことの象徴とも言えるのです。したがって男女が扇を取り交わすということにはただ手元にあるものを交換する以上の意味があることは容易に想像できます。
さらに、狂女となった花子が再登場するのは下賀茂神社です。ここは、現在でも葵祭で有名です。葵は旧仮名で書くと「あふひ」。これも「逢ふ日」と読むことができます。
我が身を扇に例えた女と葵に象徴される下賀茂神社。それだけではありません。「秋が来ると捨てられる扇」。秋=飽き でもあるのです。
ここでちょっとお手数ですがホームページにUPした班女の詞章をご参照ください。可能ならばプリントアウトしていただいた方がいいかもしれません。4ページの終りから四行目、「翠帳紅閨に」以下の部分は「曲(クセ)」と呼ばれる班女の骨子となる部分ですが、そこを見ていただくと「秋」「秋風(あきかぜ)」「秋風(しゅうふう)」といった言葉が出て来ます。花子にとっては秋は文字通り身に沁みる季節といえましょう。
こうしてみると世阿弥は怨歌行の世界を日本語に訳しただけでなく、それ以上の日本人としての心情を見事に再構築しています。もちろんこれは世阿弥一人の手柄ではなく、古今集和漢朗詠集などを読みついできたやまと人のおかげでもあるといえましょう。
そんなわけで班女というお能を楽しむためにはある程度の知識が必要になるのを御理解いただけるかとおもいます。そして以上に上げた言葉の世界が身に添えば添うほど楽しみも深くなるというわけです。