世にも奇妙な小径

へんてこりんなお話や詩などを執筆中!

真夜中の訪問者

 それは、昨日の深夜の事だった。 

 何の前触れもなく、突然、玄関の呼び鈴が二回、六帖二間の殺風景な僕の部屋に鳴り響いた。 
 それまでの僕といえば、十二年間勤めている会社の、突然の運営形態変更に伴うシフト制出勤に戸惑いを感じながらも、会社へ勤めてから初めての平日休暇というものを充実させられずに居た。 
 朝から何度も風呂に浸かっては日本酒を呑んでみたり、本を読んでみたり、洗濯するつもりでいたジーンズを履いてもう一度風呂に浸かって、いつか見たテレビのコマーシャルの真似をしてみたりを繰り返していた。 
 さすがに昼近くになると風呂も飽きたし、腹もすいてきたので、昼食にしようと思った。 
 いつもなら、会社の近くの日替わり定食を食わせる食堂に直行するところだが、その食堂まではバスで八分、電車で二十分、徒歩で三分。
 即ち、会社に出勤していなければ、行くのが大変な場所にあるのだ。ましてや、バスや電車の運行時間もあさの通勤ラッシュなればこその話で、すっかり人気の無い昼食時間に交通機関の連絡がスムースに行われる筈もなく、暫くの間、僕は途方に暮れた。 

 「今日がもし日曜日でもあれば、昨日の仕事帰りに買い物でもして帰ってきていたのだが・・・」 
と、ささやかな後悔が湯船に見えた。そう、この時、まだ僕は風呂に浸かったままで居たのだ。 
 とりあえずは風呂から上がり、服を着ながら近くの、と言っても、徒歩なら十二~三分はかかる距離にあるコンビニへ向かう事に決めた。 

 コンビニまでの道程は、バス停までの出勤路とは逆の方向なので、普段は殆ど歩く事もなく、まさに目に映る全てのものが新鮮に見えた。 
 小さな公園へと連なる路地には、タクシーや、トラックや、外回りのビジネスマンが車の中で昼寝をしていたり、弁当を食べたりしているし、ペット自慢の近所のおじさんやおばさんたちが、犬や猫に振り回されたり、振り回したりしていた。
 少し離れた公園の隅のほうでは、学校をサボったのだろうか、学生のカップルが、ブランコに揺れながらもつれ合ってたりした。 
 程無くすると、見慣れたコンビニの看板が、信号機の無い幹線道路の向こう側に見えた。
 どうやらこのコンビニへは、その横に伸びた歩道橋を使うか、少し離れたところにある地下道を使うらしい。
 僕は行きを歩道橋、帰りを地下道という風に使い分けようと何の意味もなく思いつき、コンビニへと辿り着いた。
 コンビ二では、菓子パンと、飲み慣れた缶コーヒーを2本と、三種類のカップラーメンを二個づつ、更には、ハイライトを二個とエッチな写真雑誌を一冊買った。
 本当なら、弁当でも買いたかったのだが、ここで温めても部屋に着く前に冷えてしまうだろうし、部屋には当然、電子レンジなるものもなく、今日一日だけなら我慢もできると考えてのことだった。 

 コンビニの帰り道も、何がある訳でもなく、ぶらぶら、あちらこちらを眺めながら歩いていると、住宅街の近くで四~五人の主婦らしき人達が寄り集まって、なにやら楽しげに会話していた。 
 「コレが世にいう、井戸端会議ってやつか・・・」 
などと、物珍しそうに一人ごちて居ると、どうやら向こうの話題のネタは、「平日の昼日中にブラブラしている働き盛りの三十歳前後の優男」という設定に変わったらしく、露骨に僕を眺めては、笑ったり、さげすむ顔をしたり、中には、吹き出す人まで居て、その前を通り過ぎる僕の背中に冷たいものが流れたりした。 
 やはり、平日の休みというのは、僕同様、他人にも理解しがたいものらしく、物珍しいのはむしろ僕の方なのだと改めて思い知らされた。 

 漸く部屋に辿り着いたときには、既に太陽はかなり西へと傾き、僅かに残された残り火のような陽射しには、何ら温もりも感じられずに居た。 
 「秋が終わりを告げ始めたのだなぁ~」 
などと、風呂上りに数時間もの散歩をし、すっかり冷え切ってしまった身体を擦りながら、僕は再び、薄暗い部屋の中で一人ごちていた。 
 しかし、僕は感傷に浸っているよりも、熱い風呂に浸っていた方が心身ともに温まると思い直して、熱いお湯を入れ直していた湯船に再度飛び込み、骨の髄の周辺が小さな音を立てて喜んでいるのを感じずには入られなかった。 

 インスタントな夕食も終え、別にこれといってやる事も無いままに、垂れ流しのテレビを漠然と眺めていると、いつの間にか番組は深夜ものになっていて、どこのチャンネルもお決まりのテレビショッピングを放送していた。 
 僕はといえば、数時間前から生あくびは出るものの、本格的な睡魔はどこからも襲ってくる気配もなく、只々、テレビの中の、艶やかな筋肉を持ち合わせた、妙に流暢な日本語を喋る外国人を見るともなく眺めていた。 

 ベッドの枕もとに置かれた目覚し時計は、午前二時半を少し過ぎたあたりだった。 
 何の前触れもなく玄関の呼び鈴が、僅かの間をあけて二回鳴った。
 「こんな夜中になんじゃいなッ」 
という疑問は当然あったが、条件反射というのは恐ろしいもので、パブロフの犬よろしく僕は
 「ハァ~イッ」 
と、深夜には到底似つかわしくない、えらく間抜けな返事をして玄関のドアを僅かにあけたのだった。 

 それまでの、家族団らんを思わせるような部屋の温もりを一掃するかのごとく、僅かなドアの隙間からは真夜中の木枯らしが吹き込み、僕のぼやけた頭脳回路を明せきにしてくれた。  
 一瞬にして頭脳明せきになった僕は、いたって冷静に周囲を見渡したが、冷え冷えとした薄暗がりのアパートの廊下には人影すら見えず
 「ひょっとしてピンポン・ダッシュかぁ?」
などと思い巡らせていると
 「♪ピンポーン。今晩は・・・突然ごめんなさい・・・」
と、どこかで聞き覚えのある、優しげで美しい若い女性の声が、殺風景な、コンクリート剥き出しの廊下に、あまりにも唐突なほどよく響いた。
 「まるで、初夏の微風に舞い広がる、純白のタンポポの綿毛のようだな」
と、あまりの寒さに、一際明せきになった僕の頭脳回路が、心休まる思いで聴いていた。

 「さぁ!貴方も今すぐチャレンジ!今なら、もう一台ついて一万円っ!」
 深夜だというのに、主不在の僕の部屋のテレビからは、筋肉質の外国人のけたたましくまくし立てる声が、彼女の澄んだ声にかぶさるようにして、廊下にこだました。
 「そんなもの、一つありゃ十分なんだから、五千円にせいっ!」
 いつも思っていた事だが、かの外国人には聞かれない?ように、頭の中で軽く突っ込みを入れながらも、僕は真夜中の訪問者の声の主を、ドアの隙間から頭だけ出して探していた。

 「♪ピンポーン。本当に突然、しかもこんな夜更けにごめんなさい。でも・・・貴方がいけないのよ。だって、今日は平日だって言うのに会社お休みしちゃうんだもの・・・」
 戸惑いながらも、僕は答えた。
 「えっ・・・あぁ。、ごめん。会社の出勤がシフト制になって・・・だから、逆に、日祭日の出勤もあるんだ」
 僕のすぐ近くに居るようなのに、声の主の姿は一向に見当たらない。
 「♪ピンポーン。なぁ~んだ、そうだったの。うふふふっ、私ったら・・・貴方が風邪でもひいて寝込んでるんじゃないかしらって本気で心配しちゃって、自分の立場も考えずに、こんな夜更けに貴方の部屋まで押しかけてきちゃうんだから、ほんと、おばかさんよねぇ~っ。うふふふっ」
 ほんのちょっと鼻にかかったこの声は、やっぱり、きっと、絶対に聞いたことのある声だった。しかも、ほとんど毎日のように聞いている。
 これほど長く会話を交わした事はこれまでに無かったように思うが、確実に聞き覚えがある。
 この声の主の甘えた口調から察するに、僕と、この訪問者との関係は、結構いい感じで現在を進行させているという気がするのだが、どうにも思い出せない。

 最近の僕はといえば、浮いた話どころか、気になる女性が居る訳でもなく、仕事一途といえば聞こえはいいが、何か大きな目標もなく、毎月の給料と、年に二回支給されるボーナスだけを楽しみに勤勉を装っているだけに過ぎず、その給料とボーナスだって、これといった目的も無いのに、こまめに貯金をしているだけで、誰かに聞かれたら、結婚資金かマイホーム資金だとでも言えばいいと考えていても、そんなことなど誰も聞いてくれることもなく・・・、又、そんな予定すらある筈もなく、そんな訳だから、女性が僕の部屋に、しかも深夜に尋ねてくるなどとは考えられる訳も無い。

 僅かな可能性として考えられるのは、僕が高校三年生のときに交換日記をしていた一年後輩の「下桃森梅代」という女と、何年か前に、青筋沢課長の昇進祝いにパーティーを開いた、鼻むしれ通りに面したキヤスメビルの一階のスナック「憂うつ」のチーママの「モサ子」ぐらいのもので、そのいずれもが、その当時に何回か身体を重ねただけで、それ以後は一度も逢ったこともなく、また、お互いにどこに居るのかも、何をしているのかすら分からなくなっている。

 考えてみれば、僕の周りで女の匂いをさせていたのはそれくらいのもので、あとは殆どお金を使って、ほんの一時、ほんの一瞬の夢を買うのが関の山なのだが、それとて月に二~三回行ければいい方で、それ以上になると、せっかく貯めている貯金に手を出しかねないので程々にしている。

 結局、すべてにそんな風だから、やっぱり夜中に尋ねてくる女性なんて思いつく訳もなく・・・。
 「いやッ・・・、待てよッ。ひょっとして・・・、今まで思い出した中の誰かが、何かの拍子にポックリとどうにかなっちゃって、そんで持って、僕の事をなんとなく思い出したんで、つい、ふらふらぁ~っと尋ねて来ちゃったのかもしれない訳で、もしそうだとすると、これは、晩秋の怪談話になるのだなぁ~」
 さっきまで明晰だった僕の頭脳が寒さのために、安出来のPCのようにフリーズし始め、それとほぼ同時に背筋に悪寒が走り、僕の手足と、ドアから突き出して伸ばしたままの首が硬直し、小刻みに震え出した。

 「さぁ奥様、貴女もお肌に一塗りいかがでしょうか?一ヵ月後には若々しさが復活しまぁ~す。今回お買い求めの奥様には、もれなく、十歳は若返るファンデーションと、おやすみ前に貼るだけで、翌朝にはシワが無くなるマジックテープをセットでっ!今なら、奥様方にはとてもお買い得な、超御奉仕価格の一万円!!」
 僕の部屋の奥のテレビからは、相変わらず深夜番組のテレビショッピングの声が響いていた。画面の中では、自分で宣伝しているファンデーションを塗り忘れたらしい往年の女優が、役者になりきって喋り続けている。

 「♪ピンポ~ン。そうそう、貴方はもうお夕飯済ましちゃったわよねぇ~。実は私っ、スキヤキの用意してきちゃったの。だって最近、ちょっとお疲れぎみかなぁ~なんて思っちゃって、身体も温まるし、風邪にはいいかなって思ってネッ・・・うふふふっ」
 「いやッ、今日はコンビニのインスタントで済ましたんで、今ちょっとおなかがすいてきたかなっ、なんて・・・」
 それにしても話す前に、必ず機械的に「♪ピンポ~ン」と鳴るのは一体何だろうか。この音もどこかで聞いた事がある。必ず聞いている。絶対だっ。

 「♪ピンポ~ン。わぁ、良かった。それじゃあ、私が作るから、これからスキヤキにしちゃいましょうよっ。ほんとはねっ、二人分買ってきたの。貴方と一緒なら食べられるかなって思って・・・。私、お部屋に上がってもいいかしら・・・?」
 寒さのためか、それとも恐怖からか、僕は身体も心も、心なしか震えていた。
 「あっ、あぁ・・・」
 彼女?の言葉に促されて渋々ドアを開いてはみたが、やはりそこには人らしき影は無く、ましてや、僕が僅かに期待していた麗しい女性の姿などある筈もなかった。

 さっきまで、けたたましいお喋りを繰り返していたテレビショッピングは終わったらしく、番組は一転して、あまり感動的ではないクラシック音楽が、しかし、こちらもけたたましく部屋の奥のテレビから流れ続けていた。

 「♪ピンポ~ン。驚かせてごめんなさい。でも、とても心配だったの。だから来ちゃったの。あのビルで働いていて優しくしてくれたのは、掃除のおばちゃんと貴方だけなんだもの・・・。だから、なんかとっても親近感が湧いちゃって・・・。貴方はいつも、最上階で降りるまでの間、私にそっと声をかけてくれて・・・。でも、私もお仕事だから、決められた言葉以外は話せないし・・・、(ドアが閉まります)とか、(何階ですか)とか、(ご利用有難う御座います)とか・・・」

 彼女?のお喋りはまだまだ続いていたが、僕は、今置かれているこの状況を把握する事ができずに、歯の根が合わなくなるほどの激しい震えを感じながらも、氷のように冷たくなった自分の両腕で自らの体を抱き締めたまま、上がりがまちに立ち尽くしているばかりだった。

 「・・・でも、貴方は、降りるときには決まって、(ありがとう)って言ってくれるし、ある時なんかは、(僕も残業で遅くなったけど、君は毎日が残業みたいなもんなんだよねっ。大変だけど、頑張ってネッ)なんて・・・、そんなこと言われるたびに胸のあたりが熱くなって、嬉しくって、恥ずかしくって、照れくさくって・・・。今まで、そんなに優しくされたことなんてなくって・・・。いつも、蹴飛ばされたり、仕事の憂さ晴らしに殴られたり、タンや唾を吐かれたりで・・・」

 そんなお喋りを続けながらも、彼女?はいつの間にか、狭い玄関から僕の部屋に上がり込み、とても手際?よく、スキヤキを作り始めていた。
 「・・・それでネッ、あそこの社長ったら、私が見ているとも知らずに、秘書課の○○さんの体を後ろから触り始めたの・・・。でもねっ、秘書課の○○さんも慣れたものよねぇ~っ、表情一つ変えずにオフィスのあるフロアまで、社長のスケジュールを報告していたの。それでネッ・・・」

 彼女?のお喋りは尽きる事を知らなかったが、決して不愉快ではなかった。
 むしろ、延々と続く彼女?のそれは、共働きの夫婦の暖かい家庭を僕に想像させるものであり、あたかも僕の新妻がそこに居て、その後あるであろう夫婦の営みを期待しつつ夕飯の支度を楽しげにしているかのような錯覚すら覚えさせられるものだった。

 彼女?に魅入られた僕の身体は火照り、睡魔に蝕まれ始めた頭脳は軽い目まいとケイレンを繰り返していた。そして、気が付くと僕は、いつしか布団に潜り込み、いつもよりも一層激しい自分のいびきで目が覚めた。
 その後、彼女?がどうしたのかは僕には全く分からないが、必ず今日も会社には居る?んだと思う。

 僕はといえば、いつものように、都心の高層ビルの最上階にある会社へと出勤すべく身支度を整えようとしていたが、昨日の長風呂と、風呂上りの長時間の散歩と、真夜中の突然の訪問者の長話の為か、くしゃみと、鼻水と、咳と、悪寒と、頭痛と、関節痛と、腹痛と、高熱が激しく僕に襲いかかってきたので、会社に電話をしてやむなく二~三日の休暇を貰った。

 僕の会社のビルは超高層で、エレベーターも音声感知式の最新式のものが設置されている。しかし、いくら最新式だとはいえ僕の部屋まで来て、愛の告白をし、更には、僕のためにスキヤキを作ろうとは誰が想像できようか・・・。
 一体、どういう風にしてここまで来たのかは全くもって謎だし、どうやってスキヤキを作ったのかも分からない。
 「胸のあたりが熱くなって・・・」と言うけど、彼女?のどこが胸なのかも、それ以前に、何をもって彼女なのかすらも理解できない。
 でも、あの「♪ピンポ~ン」という音は、エレベーターの中で毎日聞いている音に他ならなかった。
 悪い夢でも見ているだけならいいが、多分、これは、絶対、現実であり、きっと、必ず、今夜も彼女は、僕の部屋にやってくるだろう。

 その証拠に、台所のコンロの上には、彼女の作りかけのスキヤキが、鍋ごと乗ったままになっている。
 彼女はどこで、スキヤキの材料を購入してくるのだろうか・・・。
 そして、その代金の支払いはどうしているのだろうか・・・。
 疑問は山ほどもあるし、それに伴う問題も、これから日を追うごとに増えてくることだろうが、どうやら僕は、エレベーターの彼女に恋をしてしまったようである。
 こうしている間も、彼女の声が聞きたくて・・・。
 夜がとても待ち遠しい。

 彼女の名前は一体なんて言うのだろうか・・・。
 「(最新型全自動昇降機・HD-31型・モデル294YG-63780)なんていうのは嫌だなっ・・・」 と、高熱にうなされながら、僕は思った。 

救世主たちの旅 1

【覚醒】

 周囲には薄鼠色の霞のようなものが立ち込めていた。
 形あるものは何も見えなかった。
 風も殆ど吹いてはいないようで、そこには蒸し暑さだけが漂っている。
 息苦しかった。
 息苦しさのあまりにマーシャは呻いた。呻きながら左手の五指を無意識に動かした。

 女であった。
 美しかった。
「しらうおのような・・・」という形容詞はこの指に与えられるのだろう。
 空気は希薄だった。
 その希薄さゆえにマーシャは咽た。と、同時に眉根に皺を寄せた。
 眩しさに瞳を閉じたかに見える。

 朦朧とした意識の中で、少しずつ再生しつつある言語が脳裏をよぎる。
 マーシャは復活を確信した。
 身体のひきつれるような痛みが生を覚醒させたのだった。

 混沌とした世界が広がっていた。
 全ては夢の中の物語だったのかと、マーシャは自問自答を繰り返していた。
 数人の人影がマーシャの周りを取り囲んでいた。
 獣の匂いがした。

【プロローグ】

   二〇九九年八月十二日。
 イベリア半島の西方約四百八十㎞の大西洋上空を、巨大な白銀の閃光が突然通り抜けた。

 まもなく昼食をむかえようとしていた西ヨーロッパやアフリカ全域では原因不明の停電が相次ぎ、コンピューターなどを扱っているオフィスでは混乱を生じた。畑仕事に出ている家族のためにオーブンでパンを焼いていた主婦は、オーブンに薪をくべている間に家ごと空中に吸い上げられたが、それは彼女一人だけのことではなかった。

 ポルトガルで生活していた人たち、いや、人だけではなく、そこに存在していた物の殆どが剥ぎ取られ、めくり上げられして、漆黒の宇宙へと連れ出されたのだ。
 船も、車も、人も、動物も、木々や建物、そして海や大地、空気までもが中を舞い、二度と再び地球へ戻ることは無かった。

 大西洋の急激な水位の低下は、ほどなくして全世界をパニックに陥れた。
 突然の閃光はイベリア半島に始まって、四十五分後には中央アメリカの東海岸、メキシコ湾、そして、カリブ海にまで到達し、ポルトガル同様の大規模な被害を与えた後、忽然とその消息を絶った。

 地上では、これまで経験したことの無い激しい地震がいくつもの大都市を破壊し、巨大な壁のような津波が大陸の中にまで押し寄せ、火山はいたるところで火を噴いた。
 ある国では、地下の格納庫で眠っていた核弾頭を搭載したままのミサイルの真下からマグマが噴出する始末であった。

 津波は、一度目で原子力発電所をあっさりと連れ去り、二度目に来たときには、たまたま残されていた剥き出しの原子炉に何処からか運んできた原油を注ぎ込んだ。
 地球のあちらこちらではあらゆる類の爆発が繰り返され、熱風が球の周囲を覆い始めていた。

 ある者は火にまかれ、波にのまれ、宙に舞い、瓦礫に潰されつつも、あの予言者の名を思い浮かべたのではないだろうか。
 いや、予想できた者など何処にもいないのだ。
 偶然の積み重ねと、神の悪戯によって巻き起こされた惨事なのだから・・・。

 宇宙には計り知れない程の偶然が数限りなく転がっている。
 この日起きた出来事もその中の僅かな一つにしか過ぎなかったのだ。

【起承】

 それはいつのことなのか定かではないが、どこか遥か彼方でのことだった。
 いきなり宇宙空間に巨大なブラックホールが現れ、高度な知能と文化を持つ幾つかの惑星が、それをかかえる銀河ごと呑み込まれて消えた。そして、銀河はブラックホールの中で、その質量と時間と空間の概念を失い彷徨い続けるのだ。

  その時間のなんと長かったことか。
 やがて、いつかどこかで吐き出される。
 小さな塊として・・・。

 ブラックホールの吐き出し口、ホワイトホールはいつ、どこに現れるのか。それは誰にも予測できない。
 そしてこの日、突如として現れたホワイトホールは地球の大気圏をかすめるように、老朽化した銀河を宇宙へと吐き出したのだった。
 地球をかすめて飛び去っていった銀河は一塊りの白色矮星にその姿を変えていた。その密度は水の数百万倍にも達し、それ自体がブラックホールであるかのような異常な重力を伴っていた。
 ぶつかりもしなかった地球から様々なものを連れ去ったのはその途方も無い重力のためだったのだ。
 更に、この白色矮星は、有難くない土産も撒き散らしていった。
 それは、ブラックホールの中で悠久の年月を混沌として漂い続けていた数億種にも及ぶ宇宙細菌と宇宙生命体であった。
 そして、それが今・・・。

【祝杯】

ロシア地方南西部に位置するウクライナ自治区のチェルノブイリ・エナジー・センターでは、各国の科学技術者を招いてパーティーが行われていた。
 とはいえ、首脳陣もジャーナリストも軍隊さえもいない。ここに集まっているのは地下組織の科学者及び超能力者の二十八名だけである。

「残されているのは人体実験だけね」
 チーズを頬張りながら、誰にとも無く嬉しそうにサーヤがつぶやいた。
 彼女は実験の成功を確信していた。
 パーティーといっても、ワインとチーズとロシアパン、トナカイと鴨肉の燻製といった質素なものであった。
「私でよければテスターに立候補したいんだけど」
と、目配せするサーヤの傍らから小柄なマーシャが進み出た。
 笑顔があどけなかった。
 そのあどけない笑顔に密かに焦がれていたヴィンセントが慌ててテストの危険性を、彼と並んで立っているチームリーダーのナオキそっちのけで唱え始めた。
「人体実験なんてまだまだ早すぎるよ。あまりにも危険すぎる。いや、無謀だと言ってもいいくらいだ。マウスとモンキーしかテストしていないのに、いきなり人間なんてとんでもない話だよ」
「それじゃあ、マウスとモンキーの次は何でテストすればいいわけ?」
 サーヤが悪戯っぽく小首を傾げた。
 助けを求めて振り向いたヴィンセントにナオキが溜め息混じりに言った。
「今日はとりあえず、シェルターの完成パーティーを素直に祝おうじゃないか。最終テストについては後日改めて検討しよう」
 それから数時間。狭いセンターはワインの匂いと様々な歓声で溢れた。

【生命維持シェルター】

 できることなら使う日が来ないことを誰もが願っていた装置である。
 それは、半透明な三体のカプセルで構成され、鉛色に輝く巨大な卵のような物体であった。
 それぞれのカプセルは平均的な人間が直立姿勢で入るに相応しい大きさをしていた。
 カプセルそのものは透明な樹脂であり、その樹脂は耐久強度を高めるために特殊な処理が施されていて、例えば、放射能を浴びると淡いピンクに変色し、外気の危険を知らせると共に、有害な紫外線などの可視光線を遮断するようになっている。また、内包された生命体の分子構造に僅かな異変でも生ずると、外部からの刺激を遮断するべく反射光を放つようになっていた。
 そして、その間カプセル内では自動的に、人口羊水ともいうべき生体エネルギー・ガスの内分泌がもたらされ、分子レベルでの自己治癒力を高められるようになっている。
 三体のカプセルに囲まれたその中心には、シェルターそのものを保護するためのエレクトロン・プラズマを発生させる赤黒い球体、アトミック半導体が浮遊している。
 この半導体は、それぞれのカプセルの上下にも備えられ、カプセルそのものをも防護している。

【動揺】

 パーティー会場のワインが残り少なくなったその時、センター全体が大きく揺れた。
 壁や天井がひび割れ、崩れ落ちた。
 床にも大きな亀裂が幾つか入り、逃げ惑った二人の科学者が声も無く落ちていった。
「どうやら、人体実験をしている暇はなさそうだな」
 大きな瓦礫に押し潰された何人かの科学者を助けながらナオキはつぶやいた。
 彼が冷静でいられるのは、彼自身が自己防御力を備えたエスパーであるからに他ならなかった。

 ナオキの身体は、アトミック半導体そのものと言ってもいい組成を備えていた。そのため、ナオキ自信は勿論のこと、ナオキが触れる生命体の周囲には直接的、間接的に関わらず、エレクトロン・プラズマが張り巡らされ、あらゆる障害からその身を守るバリアとなった。

 ナオキは、助け出した数人を抱えるようにして、ヴィンセントに声をかけた。
「バリアの範囲をこれ以上広げるのは不可能だ。おそらく、能力が弱まってしまうだろう」
 有無をも言わせぬ冷静さであった。
「無傷なのは君たちだけのようだ」
 今度はマーシャとサーヤにも目を配った。
「ヴィンセント。君はマーシャとサーヤを連れてシェルターに入ってくれ。君たちが居なくなれば、その分だけ負傷者を助けることができる。一刻を争う時だ。嫌だとは言わせんぞ」
「ナオキはどうする?」
 困惑したヴィンセントが哀願するかのようにナオキに訊ねた。
「ここには様々なエスパーが集まっている。みんなの自己治癒力が高まったら、どこか安全な場所にテレポートしてもらうさ」
 ナオキがそう言い終えるのを待っていたかのように、サーヤとマーシャはヴィンセントの手を強引に引っ張ってバリアの外へ駆け出した。

 シェルターまでの道程はとても遠く感じられた。
 床のあちこちに穴が開き、その中から高熱の水蒸気を吹き上げている所さえあった。
 大小に関わらず、絶えず瓦礫が降り注ぎ、地球の重力に狂いが生じたのか、身体はもとより、床に転がっている巨大な瓦礫までが突然浮かび上がったりもした。

 ようやくシェルターに辿り着くと、マーシャが右肩を押さえて呻きながらうずくまった。どこかで瓦礫の直撃を受けたのだろう。
「すまない。僕の念動力が未熟なばかりに」
 ヴィンセントは、片思いだとはいえ、自分が惚れているマーシャに怪我をさせてしまったことをひどく悔やんだ。
「シェルターのカプセルに入ってしまえば、こんな傷すぐに治るわ。それに」
と言いかけ、落ち込んでいるヴィンセントの顔を覗き込むようにして笑顔を見せ
「それに、私って、自己治癒力を高める名人だってこと忘れちゃった?」
 そう言いながら、マーシャはヴィンセントに右の肩をはだけて見せた。
 血はついていたが、傷口はどこにも見当たらなかった。
「用意はいいわよ。カプセルに入ったら後は全自動でシェルターが働いてくれるわ」
 サーヤが「急いで」と言わんばかりに二人に声をかけた。
「全自動で働いてくれるなんて、まるで洗濯機か何かのCMね」
 マーシャは、肩を聳やかせて見せてから、カプセルに早く入るようにヴィンセントに促した。

【異次元】

 どれだけの時間がたったのか全くわからなかった。
「サーヤ」「ヴィンセント」「ナオキ」「カプセル」「シェルター」「洗濯機のCM」・・・そこまで思い出したとき、目が覚めた。
 マーシャが目覚めたその場所は、カプセルに入る前に想像していたものとは遥かに違っていたし、夢の中の混沌とした世界でもなかった。
 マーシャは植物を幾重にも重ねたベッドの上に寝かされていた。
 周囲には裸同然の男や女が取り囲み、マーシャを覗き込んでいる。
 臭かった。獣と汚物の入り混じった野性的な匂いだ。
 マーシャは周囲の環境の違和感に言葉を発せずにいた。
 コンクリートが見えたのでビルの中だとは想像がついたが、壁や天井が植物に覆われていて、まるで洞穴のように見えた。
「こんにちは」
 マーシャの目覚めて最初の言葉だったが、周囲からの反応は何もなかった。
 ベッドから起き上がりながら、もう一度「こんにちは」と言ってみたが、やはり何も反応はなかった。
 異変を悟ったマーシャはそれ以上言葉を口にすることを止め、出口があると思われるほうに向かって歩き始めた。
「何かが変。おかしすぎる。一体どうしたの?どうなっちゃったの?」
マーシャは頭の中で何度も繰り返した。
 周囲に居る者たちは驚く風でもなくただ黙ってマーシャの姿を眺めていた。
 ふらつきながら歩いて程なく、洞穴の出口にたどり着いた。
 陽光の眩しさにマーシャは一瞬たじろいだ。


救世主たちの旅 2


【混乱】

 間断なく降り注ぐ瓦礫。
 ヴィンセント達を送り出したナオキは、負傷したエスパー達や科学者を助け、守り続けていた。そして、一刻も早くエスパー達の自己治癒力が高まるのを待っていた。
「このままここに留まるのは、俺の力を持ってしても相当危険なようだな」
彼は閃光を放って消えていくシェルターを目の隅に感じ、そう思った。

 シェルターは、その次元で存在していることが著しく危険だと感知した場合、自動的に他次元へのテレポートが開始されるようにセットされていた。

「あいつら・・・どこまで旅するんだろう」羨ましそうにナオキは呟いた。

 パーティー会場には埃と煙が立ち込め、視界が殆ど利かなくなっていた。
 今までそのパワーを発揮できずにいた青年がナオキの築いたバリアドームにゆっくりと近づいてきた。
「アサカ・・・」ナオキは思わず叫んだ。
 その青年は「麻佳敬二」という名だった。
 麻佳は少し青ざめた表情をしていた。

 両腕には、数年前にこのセンターで知り合い、先日、結婚の約束をしたばかりの生理学者「靖子」が抱きかかえられていた。その頭部は血にまみれ、脳漿がこぼれ落ちている。
 麻佳の全身からは青緑色のオーラが炎のように吐き出され、彼ら二人を包み込んでいた。
 彼の放つエネルギーは、頭上に降り注ぐ瓦礫を次々と消滅させていた。
 悲しみゆえのパワーであろうか・・・
 彼は、いや、彼ら二人はナオキの目の前で突然消えた。
 シェルターの時と同様の閃光を放って・・・

 麻佳のエスパーとしての能力は、他のエスパーの能力を体得できることであり、また、彼がその体得した能力を使うとき、それは彼の中で増幅され絶大な威力を発揮する。

「アサカ・・・」ナオキは再び叫んだ。

 麻佳を危険から守ったオーラは、親友として長年付き合いのあったナオキの能力であろうし、突然消えたのは、ナオキの横で自己治癒力を高めて傷を癒しているナオキの妹のトモの能力であろう。

 トモは瞬間移動能力者である。
 彼女の能力は、現実世界でありさえすれば、どこへでも一瞬にして移動できることだ。
 勿論、彼女の素肌に触れているもの全てを連れてである。

「しかし・・・」とナオキは思った。
「今の麻佳は自制心を欠いている。自分の能力をコントロールできるだけの冷静さを保っているだろうか・・・」

 大地の震動は止むことを知らなかった。
 建造物の形が完全に失われるまで瓦礫はいつまでも降り続き、床の亀裂は拡大と縮小を繰り返していた。
 地上からの光が差し込むほどに崩壊してしまった地下のパーティー会場には間欠的に水が流れ込み始めた。 
 アジア大陸の内陸部に位置しているにもかかわらず、その水は塩からかった。日本海、いや、日本列島を乗り越えてきた太平洋の津波の舌先であった。

「一体どうなっちゃったの?」ほぼ傷の癒えたトモが悲鳴に似た声をあげた。
「トモ、冷静になるんだ」能力を消耗しきったナオキがささやくように言った。
「冷静になって集中力を高めろ。ここにいる七人全員で瞬間移動するんだ」
 トモは無言でうなずくとすぐに精神集中に入った。

 海水は既にナオキの築いたバリアドームを呑み込むまでに地下に溜まりだしていた。
 麻佳同様、ナオキの親友でもあり、チームの副リーダーでもあるフェルがようやく意識を取り戻した。
「気分はどうだい、フェル」ナオキがいたわるように声をかけると 「やっと子宮の中から出られたよ」と、うつ伏せたまま頭を振った。
「僕の産声を聞きたいかい?セニョール」
 ナオキの顔に少しだけ笑みが戻った。その笑みは、フェルが居ることで、より安全な場所に回避できるという保険を手にしたからだろう。

   フェルは学者でこそないが、彼の時間旅行者という能力も手伝ってか古代史に詳しく、それはそのまま、彼の背負った運命をも感じさせられる。
 フェルは南米ペルーで産まれはしたものの、南米出身者に多く見られるように彼もまたスペイン人の血を引いている。
 しかし、彼の名「フェルデナンド・デ・ソート」は南米で生活するには憚れるべきものであった。
 その昔、偉大な文明「インカ帝国」を滅ぼしたスペイン軍の副将の名である。
 そして、彼は「時間旅行者」という能力を持ち合わせた。これは偶然だろうか、思い過ごしだろうか・・・。
「もしかすると麻佳は時間旅行をしたのでは・・・」ナオキはフェルを見て思い当たった。

 フェルが起き上がって怪我人を解放している。
 いつの間に傷を癒したのか、精神感応力者のマリアもフェルを手伝っていた。
 ナオキが、目の前から突然消えた麻佳と靖子に再び思いを馳せていたその時、バリアドームが裂け、海水が浸入してきた。
「トモ、早くしろ!」
ナオキの能力はすでに限界を超えていた。
「急げトモ!どこでもいい、早くテレポートするんだ!」
いつもの冷静さをナオキは失っていた。

 ほんの一瞬だった。
 瞬きをするよりも早かったかもしれない。
 白い閃光が記憶の底をよぎった。
 跡形もなく崩れ落ちた地下のパーティー会場から七人が消えた後、形を失いかけたバリアドームも音もなく静かに消滅した。

 海水は地下室だけではなく、地上でも渦を巻いて荒れ狂っていた。
 かつての様相を留めている場所はこの地球のどこを探しても見当たらないかに見えるほど、陸地は荒廃していた。
 数多くの文明がこの地球に誕生して以来初めてと言っていいほどの強大な地震と津波と嵐が 吹き荒れ、数日を経てようやく沈静化に向かった。
 津波のおさまった海岸には、二千有余年をかけて築かれた人類の英知と技術が無残な形となって累々と漂い、転がり、穏やかになった波に洗われていた。
 大陸のあらゆる所ではマグマや水蒸気が噴出し、硫化水素の鼻をつく臭いが周囲一面に立ち込めていた。

【蘇生・ドッペルゲンガー】

 麻佳はタブーを犯そうとしていた。
 ナオキをリーダーとして数人のエスパーと、気心の知れた科学者たちとで密かに行われていた研究中に知りえたタブーだった。

   北海道の南西部に位置する静かな湖畔の原生林に彼はいつまでもたたずんでいた。
 穏やかな夕暮れだった。
 周囲を取り巻く木々の梢を微かに揺り動かす程の風もない。
「こんな日は、きっと、大きな虹鱒が釣れるだろうな」夕焼けに頬を染めて麻佳は呟いた。

 ほんの数日前にも麻佳はここに立っていた。
 彼の腕の中には小柄な靖子が抱かれていた。
 足元には銀白色に鮮やかなピンクのラインを躍らせた、釣ったばかりの大きな虹鱒が横たえられている。
 靖子の胸の膨らみが妙に熱く感じた。
 唇が触れ合った。
 とても長い触れ合いだった。
 目を閉じ、角度を変え、見つめ合い、髪を撫で、肩を抱き・・・。
 再び二人の目が合ったとき、思わずどちらからともなく吹き出してしまった。
 人類が誕生してから、幾度も繰り返されてきた儀式だった。
 そして今、麻佳の目の前で、それは繰り返されようとしていた。

 湖畔から賑やかな声が響いてくる。
 それは紛れもなく、あの日の麻佳と靖子のものだった。
 麻佳は、あの日の自分に合うつもりでいた。
 たとえその結果がどうなろうとも今の彼には関係なかった。
 一つの次元に二人の自分が存在することは有り得ないという科学者たちの意見に麻佳は異論があった。
「もしそれが正しければ、未来から来た自分たちは消滅してしまう。しかし、それはそれでいいじゃないか」麻佳はそう思っていた。
 自暴自棄にも似た感情が麻佳の中で湧き起こり、それが、あのとき、麻佳を時間旅行へと走らせたのだった。
「だが、過去の者が消え、未来から来た自分たちが残ってしまったら・・・」麻佳はまだ考えていた。
「過去の者と未来の者の同時消滅、あるいは、同時存在も有り得るのでは・・・」
 その答えはもうじき出るはずであった。
 麻佳はすでに過去へ遡り、麻佳の足元に埋葬したはずの靖子の笑い声と、今ここに居る自分の声が湖畔から近付いてきていることを知った。
「やはり同次元に二人の自分は存在し得るんだ」麻佳は薄い笑顔で一人ごちた。

 澄んだ空気の中で夕陽は眩しかった。
 気が付くと、もう一人の自分と、破顔した靖子が戯れつつ、麻佳に向かって歩いてきていた。二人はまだ麻佳には気付かずにいるようだった。
 尾を引きずる程の虹鱒を、小柄な靖子が左手にがぶら下げていた。

「だから言ったじゃないか、絶対に釣れるって。今日は自信があったんだ。何しろ、ロシアで分けてもらった本物のポーラベアーの毛を混ぜて作ったフライを使ったんだからね」
「でも、私は全然駄目だったわよっ」
「初めてだったんだもの仕方がないさ。でも、次は釣れるよ。なんたって僕が先生なんだから」
「随分自信があるのねぇ」
「あったりまえさぁ。今日からは僕のことを先生と呼びたまえっ」
「ハイ、センセッ」
 あの日と同じ会話だった。
 麻佳の頬を涙が伝った。

「あれっ?どうしちゃったの、センセッ」麻佳の顔を覗き込むようにして靖子がおどけながら言った。
「生徒があまりにも優秀すぎて感涙にむせび泣いてるのねっ?」
 麻佳は焦った。
 麻佳はもう、過去の自分になっていたのだ。

   ほんの一瞬だった。
 過去の麻佳はもう一人の自分を発見して驚愕し、戸惑い、うろたえた。
 しかし、それもほんの僅かの間で、過去の麻佳は全てを悟ったかのように声もなく消滅していった。
「ねぇ、どうしちゃったの?センセッ」
 麻佳は過去を思い出していた。
 ここから先は暫くの間、過去の自分になりきることが、消えていった自分への弔いだと考えていた。
「あっ、ごめんごめん。目になんか入っちゃったみたいでさ、ちょっと見てくれない?」
「えっ?どっちの目?どのへん?」
 麻佳は靖子をきつく抱きしめた。
 虹鱒が靖子の手を離れ、未来の靖子が眠る乾いた砂混じりの地面に落ち、跳ねた。
 胸の膨らみは、やはり熱かった。
 唇が触れ合った。
 目を閉じていたはずの靖子が僅かに顔を離して麻佳の目を見つめた。
 会話はなかった。
 ほんの僅かの時間だったが、麻佳にはとても長く感じた。
 少しして、靖子は何かを悟ったように目を閉じた。
 ふたたび唇が触れ合った。

「何かが少し違うな・・・」麻佳は思った。
 木々の梢が風に鳴った。


【空間移動】 

「みんな無事か」苦しそうにナオキが言った。 
 言葉が風にちぎれた。息もつけないほどの強風が彼らを取り巻いている。 
「オゥゥ」周囲を見廻してフェルが呻いた。「こ、これは、マチュピチュ」吃驚したトモが、叫びそうになるのを堪えて言った。
「それって、ロシアのセンターの裏っかわよっ」 
 ナオキがゆっくりと立ち上がりながらトモに尋ねた。 
「トモ、テレポートするとき何て願ったんだ」 
「どっか、とっても安全な所、みんなを守ってくれる所へ連れてってぇ。って願ったの」 

「ここは太陽の神殿です。今世紀初めまで誰にも知られることのなかった神聖な場所なのです。ここに立ち入ることを許されたのは太陽だけだと伝えられています。あの、ビラコチャでさえマチュピチュを知らなかったといいます」 

「フェルディナンド・・・」 
精神感応力者のマリアがフェルの悩みと苦しみを知って寄り添った。 

   マリアは存在感の薄い女だった。 
 自分の能力を恥じてでもいるのか、口数が少なく、常に憂鬱そうな面持ちのユダヤ人だった。 

 マチュピチュは南米大陸のアンデス山中にあった。 
「どうしてこんなんなっちゃったの」トモが舌っ足らずで喋りだす。 
「もう、どこ行ってものんなんなのかなぁ」 
「これからどうなるんだろうか」 
 怪我はしているものの体力だけは回復した様子の学者の一人が、飛ばされまいと踏ん張りながら、深い谷の底を眺めながら呟いた。 
 ナオキは、シェルターで先に旅立った三人の行方を案じていた。 

【時空間旅行】 

 一面に苔の生えた湿った土地だった。 
 ビルなどの人工的な建造物の残骸もあったが、それすらがおびただしい苔などで覆われていた。

「いったいどこに来てしまったんだろう」 
「ロシアのセンターじゃないことだけは確かね」 
 ヴィンセントの独り言ともとれる言葉にサーヤが歩きながら答えた。 
 ときおり、得体の知れない生物が、歩を進める二人の足元から驚いて飛び出し、少し離れた苔の中にふたたび潜り込んだりした。 

「あぁっ、マーシャ。どこへ行ってしまったんだ。やはりカプセルには入るべきじゃなかったんだ。まだ完璧じゃなかったんだ」ヴィンセントが頭を抱えて空を見上げた。 
「いいえ。カプセルは完璧だったのよ、ヴィンセント」足元の小さな生物を捕まえてサーヤが言った。
「これって何だと思う?この変てこな生き物」 
「ただのフロッグじゃないか」ヴィンセントの返事はそっけなかった。 
「そう、ただのカエルよ。でもね、カエルなのに長い尻尾が生えてるの。それに、前足と後ろ足の間にはムササビのような飛行膜があるの。たぶん空を飛べるんだわ」 
「それじゃ、あれがそのカエルなのかい?」ヴィンセントが指差した。
 それは、小高い丘の上から何かを目指して空を滑空するカエルの姿だった。 
「きっと、異体進化したのよ」サーヤは生物学を専攻していた。 
「あっ!あれを見て、ヴィンセント。タコよタコ」 
「なぜ、デビルフィッシュが・・・」 
 二人が目を丸くしてびっくりしていると、突然、タコは「ふわぁ~」っと空に舞い上がり、空飛ぶカエルをその長い足で捕らえると「グチャ」っという音とともに苔の中に落ちた。 

「空飛ぶタコよ。彼はもう海水がなくても平気なんだわ。進化したのよ。カエルを捕まえるためにね。この分だと、もっと変てこな生き物がいるかもしれないわね」サーヤは興味深げに周囲を伺った。

「やっぱり実験は成功していたのよ。ただ、あまりにも未来へ来てしまったんだわ。それでカプセルの耐久年数が追いつかなくなったんじゃないかしら」 
「未来って、どれぐらい未来だって言うんだい、ここは」 
「わからない。でも、異体進化した生物が居ることや、カプセルの耐久年数が限界を超えて消滅したんだとしたら・・・」サーヤは少し間を置いた。 

「少なくても三千年は経過しているんじゃないかしら。いえ、それどころか、五千年や一万年以上経過していても不思議じゃないわ」 
 サーヤの説明を聞いて腰を抜かさんばかりに驚いているヴィンセントを見て「ゴメンゴメン。今のは冗談、ジョークよジョーク。カプセルの耐久年数は三千年前後だってリーダーが言ってたの聞かなかったの?」それが彼女の癖なのだろう。小首を傾げてい悪戯っぽく笑った。 




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