May 07, 2009
「ごった煮B級グルメ」−『カンフーシェフ』−
日本と香港の映画というのは、遠いようでいて、実は色々なところで繋がっている。僕等は、“ブルース・リー”や“ジャッキー・チェン”のカンフー映画に昂奮したし、『男たちの挽歌』シリーズや『インファナル・アフェア』シリーズは、日本の『仁義なき戦い』シリーズを彷彿とさせた・・・と思う。
個人の感想などは取り敢えず置いておいて、映画界の関わりを幾つか。まず、カンフー映画など香港の映画は、日本の東洋現像所(現IMAGICA)で現像されていた。単純にヌケが良く綺麗に上がるからだったようだ。日活で活躍していた井上梅次監督は、香港でも映画を量産。「これ以上香港で映画を撮ったら、日本では作らせんぞ」と言われたとか。俳優の倉田保昭は、映画への出演機会を求めて香港へ渡り、カラテを駆使して成功。ブルース・リーにヌンチャク(これは沖縄の武具)を教えたという。その他にも香港と日本の合作。俳優の行き来も多く、“韓流”なんてどこにもなく、“華流”というのが、70年代の日本映画の常識だった。ショウ・ブラザースの映画は、今見るとトンデモ映画だが(当時もか)、活気ある香港の象徴であると言えよう。
さて、本題。『カンフーシェフ』なる映画を見た。映画は、香港映画の中でもB級(失礼)。しかし、だからこそ香港映画黄金期の雰囲気が漂ってくる。まるで、映画の中に出てくる料理たちの匂いと同じように・・・。サモ・ハン・キンポーと言えば、ジャッキー・チェンやユンピョウと共に、80年代僕らのヒーローだった御仁である。コミック・カンフーと言われた当時の中でも彼が主演した“デブゴン”シリーズは実に面白かった。そんなサモ・ハンが、伝説の料理人・・・。然もありなんと興味津々。しかも、何処かで見たことのある女の子が・・・。加護亜衣ではないか。料理とカンフーのコラボか、なるほど。見れば見るほど黄金期を彷彿とさせる映画だ。ヴァネス・ウーの演じる若い料理人との師弟(?)関係。やり過ぎだろうと思えるくらい身体を張ってアクションをする加護亜衣。そしてオールアフレコ・・・。全てが“That’s香港”。出てくる料理がまた美味そうなこと。「開水白菜」なるスープは「シンプルながら絶対に美味しいはず、絶対に食してみたい」と目で味わってしまったほど。実際、会場で、数年ぶりに再会した大学院時代の先輩と「中華が食べたくなったな」と思い出話に華を咲かせつつ一杯。最近、映画を見て、匂いが伝わってくる思いがしたのは・・・とんと無かったように思う。
嘗て、Hong kong flowerと言えば、“偽モノ”の代名詞だったが、こと映画に関しては、何でもありの「ごった煮B級グルメ」というところだろう。日本人はこういったB級グルメに弱い。加護亜衣扮するシェン・インが作ったデザート「豆腐華」でさっぱりとするのと同じように何故か気持ちがすっきりした映画であった。そして、先輩との一献がまたその気持ちに心地よさを増してくれた。まぁ、映画を見てそんな思いをするのも偶には良いでしょう。お約束します。この映画を見ると絶対に人と中華を食べながら思い出話をしたくなりますよ。
December 03, 2008
「人の、形」―『ラースと、その彼女』―
「ヒトと人の違いは何だろうか」
これは、確か中学時代の道徳の授業での設問であったと思う。「ヒト」とは霊長類たる動物としての存在。「人」とは社会との繋がりの中で形成された個人としての存在。確かこんな答えだった(否、問題の起点というべきか)と記憶している。単に動物ように生きるか、社会の中で他者との関わりによって生きていくか。どちら本当の人間の姿か。難しい問題である。何故か。世の中には「他者との関わりを極端に嫌う」という類の個人が増加しているからだ。「ご近所付き合いが苦手」「友達付き合いが苦手」「女(男)性が苦手」など、近年社会問題となっているものもある。「引きこもり」というのが最たるものだろうか。そんな人(の)間社会の隙間を埋めるのは一体何だろうか。
『ラースと、その彼女』を見ていて最初に浮んだ切り口はそんな疑問だった。何の情報も無くこの映画のチラシを見て、そこに書かれた言葉を目にしたら、多分その昔あった『マネキン』(1987)という映画を思い出すかも知れない。「男が人形に恋をする話か」「またVFXで人形が人間にでもなるのか」と思うのではないか。そして、おおよその人が、素朴に思うだろう。
「で、リアルドールって・・・、何?」
殆んどのひとには馴染みのない言葉。「一部の愛好者」と書かれてしまう人形。
「ラースという青年が、そんな人形と恋をするなんて」と我々(常識人らしき者)は思うだろう。それがこの映画のテーマである。
ラースが、女性を避ける。義理の姉カリンにすら近付きたくない。そんなラースに片想いをするマーゴ。これだけで、ラブコメの要素充分。弟が心配だけど、何もできないちょっとマッチョ(男っぽいという意味で)な兄ガス。そして、コケティッシュで情熱的だけど無口なビアンカ(人形)。どうだろう。この一家だけの問題なら完全にコメディになってしまう。だが、そんな邪推は直ぐに消え、深く考えさせられるお話が始まる。それは、ラースのシャイで内気な人間性を皆が心配して、彼に協力するからだ。ビアンカと居る時間は、彼にとっては大切なひと時なのだ。彼は、ビアンカをこう紹介する「元宣教師で、ベジタリアン。看護師の資格を持っている。可哀相に車椅子を盗まれてしまった。」家族は思う。「ラースは女性恐怖症の余り、人形愛に奔った」「人間嫌いになってこんな自虐的なことを始めたのか」。バーマン医師が町の人達に呼び掛ける「ラースの言うことを聞いてあげよう」。体の不自由なビアンカの世話をガスがする。カリンも体の構造も含め(?)彼女のことを気遣っている。町の人々も気味悪がっていたビアンカのことを受け入れていく。二人の恋の結末は・・・。これは見て考えて頂きたい。この映画は、平和な町に起きた一風変わった出来事を通して、人と人との関わりを考えさせてくれる。日曜日には、町の人間が、殆んどミサに参加しているだろうアメリカの片田舎の町で、「こともあろう人形愛とは何ですか」という御堅い声が聞こえてきそうな町で、ラースとビアンカは何かを変えた(否、何かに気付かせてくれた)。小さな共同体の中に異分子が紛れ込む。その時、人は気が付く。
「我は寛容足り得るか」
この作品の本質、「ヒトはどうしたら人になるのか」がここにある。そして、リアルドールが、その隙間を埋めるものとして登場したことが、現代を象徴する。「人(の)形」であって、どこまでもいってもそれは人間ではない。リアルであってもそれは別のもの。そこには生命は在り得ない。でも、町の人々は、ラースを理解しようと務め、ビアンカを受け入れることによって、人間になったのではないだろうか。人間関係が希薄な都会で暮らす人。人間不信の皆さん(舌禍)。「人間付き合いというのはどういうことだったか」考えてみたいのならこの映画を見てみると良い。
ご近所付き合いが割りと円滑であった故郷のことを想いながら・・・。
これは、確か中学時代の道徳の授業での設問であったと思う。「ヒト」とは霊長類たる動物としての存在。「人」とは社会との繋がりの中で形成された個人としての存在。確かこんな答えだった(否、問題の起点というべきか)と記憶している。単に動物ように生きるか、社会の中で他者との関わりによって生きていくか。どちら本当の人間の姿か。難しい問題である。何故か。世の中には「他者との関わりを極端に嫌う」という類の個人が増加しているからだ。「ご近所付き合いが苦手」「友達付き合いが苦手」「女(男)性が苦手」など、近年社会問題となっているものもある。「引きこもり」というのが最たるものだろうか。そんな人(の)間社会の隙間を埋めるのは一体何だろうか。
『ラースと、その彼女』を見ていて最初に浮んだ切り口はそんな疑問だった。何の情報も無くこの映画のチラシを見て、そこに書かれた言葉を目にしたら、多分その昔あった『マネキン』(1987)という映画を思い出すかも知れない。「男が人形に恋をする話か」「またVFXで人形が人間にでもなるのか」と思うのではないか。そして、おおよその人が、素朴に思うだろう。
「で、リアルドールって・・・、何?」
殆んどのひとには馴染みのない言葉。「一部の愛好者」と書かれてしまう人形。
「ラースという青年が、そんな人形と恋をするなんて」と我々(常識人らしき者)は思うだろう。それがこの映画のテーマである。
ラースが、女性を避ける。義理の姉カリンにすら近付きたくない。そんなラースに片想いをするマーゴ。これだけで、ラブコメの要素充分。弟が心配だけど、何もできないちょっとマッチョ(男っぽいという意味で)な兄ガス。そして、コケティッシュで情熱的だけど無口なビアンカ(人形)。どうだろう。この一家だけの問題なら完全にコメディになってしまう。だが、そんな邪推は直ぐに消え、深く考えさせられるお話が始まる。それは、ラースのシャイで内気な人間性を皆が心配して、彼に協力するからだ。ビアンカと居る時間は、彼にとっては大切なひと時なのだ。彼は、ビアンカをこう紹介する「元宣教師で、ベジタリアン。看護師の資格を持っている。可哀相に車椅子を盗まれてしまった。」家族は思う。「ラースは女性恐怖症の余り、人形愛に奔った」「人間嫌いになってこんな自虐的なことを始めたのか」。バーマン医師が町の人達に呼び掛ける「ラースの言うことを聞いてあげよう」。体の不自由なビアンカの世話をガスがする。カリンも体の構造も含め(?)彼女のことを気遣っている。町の人々も気味悪がっていたビアンカのことを受け入れていく。二人の恋の結末は・・・。これは見て考えて頂きたい。この映画は、平和な町に起きた一風変わった出来事を通して、人と人との関わりを考えさせてくれる。日曜日には、町の人間が、殆んどミサに参加しているだろうアメリカの片田舎の町で、「こともあろう人形愛とは何ですか」という御堅い声が聞こえてきそうな町で、ラースとビアンカは何かを変えた(否、何かに気付かせてくれた)。小さな共同体の中に異分子が紛れ込む。その時、人は気が付く。
「我は寛容足り得るか」
この作品の本質、「ヒトはどうしたら人になるのか」がここにある。そして、リアルドールが、その隙間を埋めるものとして登場したことが、現代を象徴する。「人(の)形」であって、どこまでもいってもそれは人間ではない。リアルであってもそれは別のもの。そこには生命は在り得ない。でも、町の人々は、ラースを理解しようと務め、ビアンカを受け入れることによって、人間になったのではないだろうか。人間関係が希薄な都会で暮らす人。人間不信の皆さん(舌禍)。「人間付き合いというのはどういうことだったか」考えてみたいのならこの映画を見てみると良い。
ご近所付き合いが割りと円滑であった故郷のことを想いながら・・・。
November 16, 2008
「ブタペストの街角で」―『反恋愛主義』―
好きなことをやっていると何かを犠牲にしているかも知れないと頭をよぎることがある。それこそ無我夢中で追い駆けて、それなりに充実した生活を送っていると、ふとした時にそんな考えが浮ぶものだ。私は男なので、この映画のヒロインとは少々事情が違うのだが、それでも共通するだろうと思うところもある。まぁ、一番は「結婚」とか「子供」のことだろう。このまま独身でいて良いのか。映画を見て、こんなこと書いている暇があったら彼女とデートの一つもした方が良いのではないか・・・。実際、イタリア人の友人(女性、既婚)に「その年齢になって女の子と一緒に居ないのはおかしい。将来の練習の為(?)にも一緒に住むくらいのことしときなさいよ」と真剣な顔で諭され、ドイツ人の友人の母親には「映画を見るのは仕事の為かも知れないけど、彼女とデートするのは貴方の将来の為だから・・・」と、これまた真剣に諭された。彼女の息子は、私とは同世代で独身。息子に言いたいことを私に言っているのではと思うくらい真剣だった。
この映画のヒロインのドラ(コディット・シェル)も、舞台の脚本家として働き、取り敢えず彼氏が居て、結婚はまだだけどそれなりに充実した生活をしている。気が付けば、子供が何人も居る友人が居る。焦らない方がおかしい(だろう)。親はこれ見よがしに孫をせがむ。もうセックス・パートーナーを探して子供を作って一人で育てよう(旦那は要らない)。つくづく女性は強いと思う。
「この10年で男から得たものは、ウソとセックスだけ」
「ただ幸せになりたかっただけなのに」
そんな言葉しか出てこない。
どんな男が良いのだろうか。ちょっとドジだけど誠実な男か、女たらしの色男なら後腐れもないか、いっそ精子バンクに行くか。揺れる心が切ない。自分の本心はどこにあるのだろうか。ドラの選択に、見る者は、我がことのように一喜一憂する(かも知れない、女性の心は彼岸のことなので)。恋愛依存症の友人ゾラ(カタ・ドボー)と自分を比べてしまっているのがまた辛い。だれを選ぶべきなのだろうか・・・。
この映画の監督クリスティナ・ゴダは、ハンガリー国内の動乱とオリンピックの水球チームのメルボルンオリンピックでの活躍を描いた『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956』(カタ・ドボーは、主人公の彼女で、学生運動の闘士として散っていく女性を好演していた)で、日本には既に紹介済みである。本作は彼女の長篇デビュー作にあたる。『君の涙・・・』は、非常に重厚なテーマを丁寧に描いていた。それに対して本作では、「女性の恋愛と結婚」をコミカルに、そして、やはり丁寧に描いている。ハリウッドの『Sex and The City』と比べると、知名度のある女優、華やかな衣装、エンターテイメントとしての要素は敵わない。しかし、的確な演出、出演者の演技など非常に好感が持てる。この映画は、もっと等身大の30代女性の姿が見える。ハンガリーもアメリカも、もちろん日本も、洋の東西は問わない。本作は、人の本質とはこんなに純粋で、ちょっとだけ複雑なんだろうと感じられる映画である。もし、ちょっとだけ寂しくて、素直になれない(特に女性)なら、この映画見てみると答えが見えるかも知れない。この映画を見終わった後そんな気になった。クリスティナ・ゴダ監督に注目。そして、女性の気持ちを知りえない男性陣にも見てもらいたい一本でもある。東欧の映画というのはなかなか見る機会がない。欧州の映画大国でない素朴な映画も是非味わってもらいたい。そんなことも含めてこの映画をお薦めしたい。
などと書きつつ、色々な友人に「そんな偉そうなこと言ってないで、あんたも早く結婚しなさい」と、また言われるのかなと思うと「反恋愛主義か」とタイトルの少々アイロニーを感じつつ。嗚呼。
お正月、ユーロスペース他公開
この映画のヒロインのドラ(コディット・シェル)も、舞台の脚本家として働き、取り敢えず彼氏が居て、結婚はまだだけどそれなりに充実した生活をしている。気が付けば、子供が何人も居る友人が居る。焦らない方がおかしい(だろう)。親はこれ見よがしに孫をせがむ。もうセックス・パートーナーを探して子供を作って一人で育てよう(旦那は要らない)。つくづく女性は強いと思う。
「この10年で男から得たものは、ウソとセックスだけ」
「ただ幸せになりたかっただけなのに」
そんな言葉しか出てこない。
どんな男が良いのだろうか。ちょっとドジだけど誠実な男か、女たらしの色男なら後腐れもないか、いっそ精子バンクに行くか。揺れる心が切ない。自分の本心はどこにあるのだろうか。ドラの選択に、見る者は、我がことのように一喜一憂する(かも知れない、女性の心は彼岸のことなので)。恋愛依存症の友人ゾラ(カタ・ドボー)と自分を比べてしまっているのがまた辛い。だれを選ぶべきなのだろうか・・・。
この映画の監督クリスティナ・ゴダは、ハンガリー国内の動乱とオリンピックの水球チームのメルボルンオリンピックでの活躍を描いた『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956』(カタ・ドボーは、主人公の彼女で、学生運動の闘士として散っていく女性を好演していた)で、日本には既に紹介済みである。本作は彼女の長篇デビュー作にあたる。『君の涙・・・』は、非常に重厚なテーマを丁寧に描いていた。それに対して本作では、「女性の恋愛と結婚」をコミカルに、そして、やはり丁寧に描いている。ハリウッドの『Sex and The City』と比べると、知名度のある女優、華やかな衣装、エンターテイメントとしての要素は敵わない。しかし、的確な演出、出演者の演技など非常に好感が持てる。この映画は、もっと等身大の30代女性の姿が見える。ハンガリーもアメリカも、もちろん日本も、洋の東西は問わない。本作は、人の本質とはこんなに純粋で、ちょっとだけ複雑なんだろうと感じられる映画である。もし、ちょっとだけ寂しくて、素直になれない(特に女性)なら、この映画見てみると答えが見えるかも知れない。この映画を見終わった後そんな気になった。クリスティナ・ゴダ監督に注目。そして、女性の気持ちを知りえない男性陣にも見てもらいたい一本でもある。東欧の映画というのはなかなか見る機会がない。欧州の映画大国でない素朴な映画も是非味わってもらいたい。そんなことも含めてこの映画をお薦めしたい。
などと書きつつ、色々な友人に「そんな偉そうなこと言ってないで、あんたも早く結婚しなさい」と、また言われるのかなと思うと「反恋愛主義か」とタイトルの少々アイロニーを感じつつ。嗚呼。
お正月、ユーロスペース他公開
September 22, 2008
「秋の夜長に」−『ハロウィーン』−
はじめに言っておく、僕は“スキャリー・ムービー(絶叫映画)”が苦手だ。血が噴水のようになっているスプラッター(切り株映画)もホラー映画も正直感心しない。大体、お金を払ってまで怖い思いをする人が理解できない(当然ですがジェットコースターとかも嫌いだ)。その代わり、日本の怪談映画はそこそこ好きなので、矛盾した気持のまま『ハロウィーン』を見た。
ハロウィーンがどんな映画か知らないわけではない。『13日の金曜日』のシリーズより前、僕の記憶が確かなら、ラバーフェイス(外国のお面はなんであんな気持悪いのだろうと思ったのも覚えている)の殺人鬼ブギーマンが、注射器で眼を刺して相手を殺すシーンを5才か6才の頃見た記憶がある。それ以来のラバーフェイスには近付かないように心がけていたのだから・・・。ジェイソンは、自分をほったらかしにして、よろしくやっていたキャンプのお兄さんお姉さんを殺すだけ(だった)。フレディは「所詮、夢の中の産物でしょ」と片付けられる。チャッキーは人形の分際で子供まで作るギャグキャラだし、『スクリーム』にしても『悪魔のいけにえ』にしてもあの恐怖心を喚起する要素には乏しい。『ハロウィーン』のブギーマンこそが、僕にとっての殺人鬼の象徴である。と言っても過言ではない(多分)。
無表情で人間(動物)を殺すことは、ニヤけている以上に異常な印象を与える。小さい子供が虫をバラバラにして、喜んでいるのも“無垢なるモノの恐怖”なんだと思う。が、無表情が素顔ではなく仮面によって作られている。上から全てを塗り消されているあの恐怖たるや、僕には我慢が出来ない。フランス映画の『眼のない顔』市川崑の『犬神家の一族』仮面による恐怖の象徴が色々在った。しかし、喋ったらお仕舞い。そこには口があり声が出るわけだから人間性が芽生えてしまう。本物は絶対に喋らない。表情を変えない(当たり前だけど)。どんな局面でも、ただ、“殺す”。相手が何者かなんか関係ない。自分以外の何者おも生存価値を認めない。実に恐ろしい。このブギーマンもそれを忠実に実行しているからこそ怖いのである。
また、この手の映画では、必ず“おネェちゃんの裸”が出てくる。大体、ボーイ・フレンドとイチャついていると襲われる。ドリフのコントじゃないけれど「志村うしろ」的に教えてあげたくなる。近付いてきてるのに、あんなことしてるのだから、よっぽど色気狂いなのかとも思うが、それもあの無口がなせる技なのだ。最初は“喪男のひがみ”とサービスのためだろうと思っていたが、そうではない。ブギーマンにとっては、「種を残すことすらも許さない」という強い“生命否定の意思”を感じずにはいられない。最終的には妹を呼び寄せるための餌にしてるところも酷い。
この作品を監督したのは、ロブ・ゾンビ。名前からして異常だ(舌禍)。『マーダー・ライド・ショー』を見て思った「こいつは本物の気狂いだ」と。そんな奴が、『ハロウィーン』をリメイクすれば、そりゃ怖いでしょうよ。だって、ロブ・ゾンビなんだから。矛盾がいっぱいある。マイケル(ブギーマンの本名)は、何故、妹のロージーの居場所が分ったのか・・・。正確に言うなら赤ん坊時の写真だけで何故探し出せたのか・・・。ルーモア博士は、何故ハドフィールドにマイケルが帰って来たことは分ったのに、隠れ家が、彼の旧家であると考えられなかったのか。昼日中からあんな怪しい奴がうろついていて何故誰も警戒しないのか。謎だらけ矛盾だらけだ。でも、それで良いのだ。何故なら彼がロブ・ゾンビだから。そして、ブギーマンだから。20年以上経って、原点の『ハロウィーン』のリメイクを見て思う「日本にはハロウィーンが無くて良かった」と。
ともあれ、「ホラー・怪談」の季節は夏ではありますが、秋(の夜長)に見て頂きたい一本であります。
ハロウィーンがどんな映画か知らないわけではない。『13日の金曜日』のシリーズより前、僕の記憶が確かなら、ラバーフェイス(外国のお面はなんであんな気持悪いのだろうと思ったのも覚えている)の殺人鬼ブギーマンが、注射器で眼を刺して相手を殺すシーンを5才か6才の頃見た記憶がある。それ以来のラバーフェイスには近付かないように心がけていたのだから・・・。ジェイソンは、自分をほったらかしにして、よろしくやっていたキャンプのお兄さんお姉さんを殺すだけ(だった)。フレディは「所詮、夢の中の産物でしょ」と片付けられる。チャッキーは人形の分際で子供まで作るギャグキャラだし、『スクリーム』にしても『悪魔のいけにえ』にしてもあの恐怖心を喚起する要素には乏しい。『ハロウィーン』のブギーマンこそが、僕にとっての殺人鬼の象徴である。と言っても過言ではない(多分)。
無表情で人間(動物)を殺すことは、ニヤけている以上に異常な印象を与える。小さい子供が虫をバラバラにして、喜んでいるのも“無垢なるモノの恐怖”なんだと思う。が、無表情が素顔ではなく仮面によって作られている。上から全てを塗り消されているあの恐怖たるや、僕には我慢が出来ない。フランス映画の『眼のない顔』市川崑の『犬神家の一族』仮面による恐怖の象徴が色々在った。しかし、喋ったらお仕舞い。そこには口があり声が出るわけだから人間性が芽生えてしまう。本物は絶対に喋らない。表情を変えない(当たり前だけど)。どんな局面でも、ただ、“殺す”。相手が何者かなんか関係ない。自分以外の何者おも生存価値を認めない。実に恐ろしい。このブギーマンもそれを忠実に実行しているからこそ怖いのである。
また、この手の映画では、必ず“おネェちゃんの裸”が出てくる。大体、ボーイ・フレンドとイチャついていると襲われる。ドリフのコントじゃないけれど「志村うしろ」的に教えてあげたくなる。近付いてきてるのに、あんなことしてるのだから、よっぽど色気狂いなのかとも思うが、それもあの無口がなせる技なのだ。最初は“喪男のひがみ”とサービスのためだろうと思っていたが、そうではない。ブギーマンにとっては、「種を残すことすらも許さない」という強い“生命否定の意思”を感じずにはいられない。最終的には妹を呼び寄せるための餌にしてるところも酷い。
この作品を監督したのは、ロブ・ゾンビ。名前からして異常だ(舌禍)。『マーダー・ライド・ショー』を見て思った「こいつは本物の気狂いだ」と。そんな奴が、『ハロウィーン』をリメイクすれば、そりゃ怖いでしょうよ。だって、ロブ・ゾンビなんだから。矛盾がいっぱいある。マイケル(ブギーマンの本名)は、何故、妹のロージーの居場所が分ったのか・・・。正確に言うなら赤ん坊時の写真だけで何故探し出せたのか・・・。ルーモア博士は、何故ハドフィールドにマイケルが帰って来たことは分ったのに、隠れ家が、彼の旧家であると考えられなかったのか。昼日中からあんな怪しい奴がうろついていて何故誰も警戒しないのか。謎だらけ矛盾だらけだ。でも、それで良いのだ。何故なら彼がロブ・ゾンビだから。そして、ブギーマンだから。20年以上経って、原点の『ハロウィーン』のリメイクを見て思う「日本にはハロウィーンが無くて良かった」と。
ともあれ、「ホラー・怪談」の季節は夏ではありますが、秋(の夜長)に見て頂きたい一本であります。
February 15, 2008
『煙草と女性と…』―映画監督市川崑の思い出―
2月13日は、私にとって忘れられない日になってしまった。映画界の巨匠、市川崑が亡くなったのだ。九十二歳。大往生である。映画を毎日のように、それこそ浴びるように見てきて“OZU”でも“MIZOGUCHI”でも“KUROSAWA”でもなく、私の心に残る映画が多かったのは“KON”であった。この監督はどこまでも亜流。一流であっても本流にはならない。そんな印象が常にある監督であった。市川崑の専門家でもないし、代表作について語っても面白くないので、ちょっと傍流から市川作品について書いてみたい。
とは言え、市川作品といえば何を思い浮かべるだろうか。『鍵』『黒い十人の女』『野火』『炎上』。『東京オリンピック』というのもある。『おとうと』もそうだ。『金田一』シリーズ…なんてのは個人的には大好きだ。そう挙げたらきりがない。ただ、この殆どが大映時代の作品である。この時代から巨匠に祀り挙げられた感が強い。でも、そうじゃない作品で好きなものを挙げたい。『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』『愛人』そして何より『恋人』…。市川作品でやはり好きなのは、デビューしたて、新東宝時代から初期の作品たちだ。中後期の市川崑作品も勿論捨てがたい。が、その辺りから話を始めたい。
市川崑は、最初、J.O.スタジオでアニメーターとして映像の仕事に就いた。このことは市川作品を見る上で非常に重要な要素だと言える。例えば『愛人』で、三国連太郎演じる青年が、下宿先の年頃の娘二人のどちらでもなく母親(確か越路吹雪だったと思う)に告白する。みんなビックリ仰天。時計が止まる。画面も止まる。その驚いた一同のショットがオプチカルでフリーズする。ケレンである。『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』もしかり。時代劇の銭形平次。映画が始まって映るのは現代の街、疾走する車。???…。時代劇じゃないのか?「いやいや、ここから江戸時代へ参ります」(こんなナレーションが入っていた)とのこと。如何に観客を驚かすか。楽しませるか。今の「俺の言っていることが分からない奴は見なくていいですよ」的な映画監督とは全く違う。そして、そこには魅力的な女優さんがいて、個性的な脇役(伊藤雄之助の魅力が爆発している映画が多い)がいる。そんな映画たちである。
どうも大好きな監督であったから脱線すると帰ってこれない。『おとうと』で「銀残し」という技法で渋味のある画調を作り出したり、『金田一』シリーズで白黒の反転を使ったり、色彩にこだわったり、明暗をはっきりさせたり。『ぼんち』で、若尾文子の芸者を囲う話が夜のお座敷で纏まって、場面転換、真上から見た路地に咲くのは日傘の花。若尾文子が、御店に仁義を切りに出向いて、晴れがましく歩いている。その鮮やかさ。どうしたら面白い、美しい画面が作れるか。そんな実験をしている映画監督だった。
初期作品の中で、これはと推薦するのは、『恋人』だ。久慈あさみと池部良が主演。結婚前夜の幼なじみを連れ出してデートする。筋としてはシンプルだ。彼女は幼なじみに靡くのか。彼は彼女に想いを告げるのか。『世界の中心で愛を叫ぶ』よりもよっぽど愛を叫んでる映画だ。DVDにもなっているので、もし興味があったら是非見て貰いたい一本。『結婚行進曲』で、杉葉子演じる“カネコさん”が捲し立てるマシンガン・トーク。映画と対決するかと思えば、しっかりサービスを忘れない(上司役の上原謙と見に行った映画に出てくるのは上原謙だったりする)。初期の市川作品には、そんな愉しみに満ちている。
どうも取り留めもなくなってしまう。『黒い十人の女』『女性に関する十二章』『あなたと私の合言葉 さようなら、今日は』。女性が美しく描かれる作品たち。和田夏十さんとの優しい映画たち。どうしてあんな優しい映画を作れるのだろうか。シリアスからコメディ。どんな作品にも女性が美しい。『ブンガワンソロ』の久慈あさみと若山セツ子の艶めかしさも好きだ…。
どうも長くなってしまう。もう一つだけ思い入れを書いて終わりにしたい。『病院坂の首縊りの家』で、佐久間良子演じる病院の婦人が、ずっと苦しめられていた写真のガラス乾板を砕くシーン。フィルムを燃やすのとは違う、「人の心を解き放つ」ことを効果的に表現していると思った。原作を読んでいないので、そのままであったら恥ずかしいが、その儚さがやっぱり好きだ。最後まで好きな所だけを書いてしまって申し訳ない。
映画監督に大切なものは何か、よく考える。実験的に映画と対峙できること。フィルムとは何かを考えること(これかはデジタルになるのかもしれないが…)。それを最後まで貫いていたのが、市川崑という監督だったと思う。何か他人(ヒト)と違ったものを。どうすれば面白く。ケレンを持たせるには。彼ほど「煙草と女性と映画」を愛していた本物の映画屋さんも居なかった。と、やっぱり思う。
とは言え、市川作品といえば何を思い浮かべるだろうか。『鍵』『黒い十人の女』『野火』『炎上』。『東京オリンピック』というのもある。『おとうと』もそうだ。『金田一』シリーズ…なんてのは個人的には大好きだ。そう挙げたらきりがない。ただ、この殆どが大映時代の作品である。この時代から巨匠に祀り挙げられた感が強い。でも、そうじゃない作品で好きなものを挙げたい。『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』『愛人』そして何より『恋人』…。市川作品でやはり好きなのは、デビューしたて、新東宝時代から初期の作品たちだ。中後期の市川崑作品も勿論捨てがたい。が、その辺りから話を始めたい。
市川崑は、最初、J.O.スタジオでアニメーターとして映像の仕事に就いた。このことは市川作品を見る上で非常に重要な要素だと言える。例えば『愛人』で、三国連太郎演じる青年が、下宿先の年頃の娘二人のどちらでもなく母親(確か越路吹雪だったと思う)に告白する。みんなビックリ仰天。時計が止まる。画面も止まる。その驚いた一同のショットがオプチカルでフリーズする。ケレンである。『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』もしかり。時代劇の銭形平次。映画が始まって映るのは現代の街、疾走する車。???…。時代劇じゃないのか?「いやいや、ここから江戸時代へ参ります」(こんなナレーションが入っていた)とのこと。如何に観客を驚かすか。楽しませるか。今の「俺の言っていることが分からない奴は見なくていいですよ」的な映画監督とは全く違う。そして、そこには魅力的な女優さんがいて、個性的な脇役(伊藤雄之助の魅力が爆発している映画が多い)がいる。そんな映画たちである。
どうも大好きな監督であったから脱線すると帰ってこれない。『おとうと』で「銀残し」という技法で渋味のある画調を作り出したり、『金田一』シリーズで白黒の反転を使ったり、色彩にこだわったり、明暗をはっきりさせたり。『ぼんち』で、若尾文子の芸者を囲う話が夜のお座敷で纏まって、場面転換、真上から見た路地に咲くのは日傘の花。若尾文子が、御店に仁義を切りに出向いて、晴れがましく歩いている。その鮮やかさ。どうしたら面白い、美しい画面が作れるか。そんな実験をしている映画監督だった。
初期作品の中で、これはと推薦するのは、『恋人』だ。久慈あさみと池部良が主演。結婚前夜の幼なじみを連れ出してデートする。筋としてはシンプルだ。彼女は幼なじみに靡くのか。彼は彼女に想いを告げるのか。『世界の中心で愛を叫ぶ』よりもよっぽど愛を叫んでる映画だ。DVDにもなっているので、もし興味があったら是非見て貰いたい一本。『結婚行進曲』で、杉葉子演じる“カネコさん”が捲し立てるマシンガン・トーク。映画と対決するかと思えば、しっかりサービスを忘れない(上司役の上原謙と見に行った映画に出てくるのは上原謙だったりする)。初期の市川作品には、そんな愉しみに満ちている。
どうも取り留めもなくなってしまう。『黒い十人の女』『女性に関する十二章』『あなたと私の合言葉 さようなら、今日は』。女性が美しく描かれる作品たち。和田夏十さんとの優しい映画たち。どうしてあんな優しい映画を作れるのだろうか。シリアスからコメディ。どんな作品にも女性が美しい。『ブンガワンソロ』の久慈あさみと若山セツ子の艶めかしさも好きだ…。
どうも長くなってしまう。もう一つだけ思い入れを書いて終わりにしたい。『病院坂の首縊りの家』で、佐久間良子演じる病院の婦人が、ずっと苦しめられていた写真のガラス乾板を砕くシーン。フィルムを燃やすのとは違う、「人の心を解き放つ」ことを効果的に表現していると思った。原作を読んでいないので、そのままであったら恥ずかしいが、その儚さがやっぱり好きだ。最後まで好きな所だけを書いてしまって申し訳ない。
映画監督に大切なものは何か、よく考える。実験的に映画と対峙できること。フィルムとは何かを考えること(これかはデジタルになるのかもしれないが…)。それを最後まで貫いていたのが、市川崑という監督だったと思う。何か他人(ヒト)と違ったものを。どうすれば面白く。ケレンを持たせるには。彼ほど「煙草と女性と映画」を愛していた本物の映画屋さんも居なかった。と、やっぱり思う。
October 19, 2006
「言霊の奇跡」―『イルマーレ』―
携帯メールは活用してますか?
パソコンのメールは?
近年、電子メディアの発達のお陰でほんの些細なことでもメールを送るようになった。それは、地球の裏側にいる人間にも瞬時に手紙が送れるようにもなったということだ。お互いの距離が一気に縮まった気がする。
私も携帯は持っているし、仲間との連絡にはメールを使用しているクチである。ただ、残念ながらメールを信用していないところも有るので、必要以上に使うことはない。言わなかったが言っておきたいこと、確認しておきたいことなどそんな時にしか使わないことにしている(酒を飲んだ後に使ったときは自己嫌悪になりそうな使い方をしたことは多々あるが・・・)。
本当に人に連絡を取りたくなったら、やっぱり手紙を書く。“それが一番なんだ”と私は思う。年賀状、暑中見舞い、諸々のご挨拶。節目節目に手書きの手紙を送ること・貰うことは、一瞬にして届くメールとは何かが違う。そう、かつて“言霊”と呼ばれるものが尊ばれた時代の匂いとでもいうものか。
『イルマーレ』という韓国の映画が、ハリウッドでリメイクされた。湖畔の一軒屋、郵便ポストを通じて過去の住人と未来の住人が交信をするというストーリーは、ネタ不足のハリウッドがリメイク権を買って、金儲けの方程式(?)に当て嵌めれば、そこそこのラブストーリーとして世界に発信される。そんな程度の認識でこの映画を見ていた。勿論、東洋の“感覚”と西洋の“理解の仕方”は違う。だから「主演の二人は過去に何度も接点があって、しかし、すれ違っている」という筋立てには、やはり、うんざりしてしまった。ただ一点、私に引っ掛かるものがあるとしたら先に述べた“言霊”というものを考えさせられたところだろう。時間を越えた文通という奇妙な触れ合いの中で、愛が芽生える。そんなことがありうる(東洋の発想である)ならば、この一点は譲れない。そんなことを少々書いてみたい。
一番の違いは何か、端的に言うなら主人公の二人にちゃんとした接点が無いこと。共通するのは、駅で電車を待つ彼女を男は、ただ“気が付いて欲しい”と見つめる設定。“最終電車”と“旅立ちの一瞬”という違いはあるにしろ(ハリウッド版は愚かにもパーティで恋人の前で浮気する女性という罪を負わせるが)・・・。こんな風にしてまで近付けなければ他人(ひと)は分かり合えないのだろうか。韓国版では、父親のデザイン集を送って欲しいという以外に関係は成立しない(彼の父親が入院した病院で見取ったのが彼女という設定が鼻に付く)。合理的に考えるのが西洋だから我慢して見るしかない。しかし、本当の感動を“黄色いサル”に呼び起こしたのは、傷付いた女性(失恋の憂き目に遭い、それでも恋人の期待に応えようと声優をしているチョン・ジヒョン)が、赤の他人で建築家たる父親に反抗する青年(イ・ジョンジェ)と、 “イルマーレ(海)”と名づけられた湖畔の家を介して、時間をも越えて心を通わせる姿なのではないか。結ばれる二人の共通する過去(単にどのように過ごしたかという意。どんな相手と過ごしていたか醜い過去を描くにしてもと言っておく)を物語の起因として描くにしても、洋の東西でここまで違うのかと落胆せざるを得ない。我々は結ばれることにのみカタルシスを求めるのだろうか。本当に“一緒に居たい”と望むことは、緊密さを超えたところででも成立する。原版の青年が、「僕の言うことを信じてもらえるかな・・・」と最後に彼女に伝えたその想いに敬意を表したいから言うが・・・。兎に角、みなさんが、どちらに共感するか真摯に問いたい。その一瞬を本当に大事に出来る心はどちらに属するのか・・・。
遥か昔に置いてきた枕に戻るなら、言葉や文字(言霊)に敬意を表せ無くなっている現代にこの映画を見る貴女に(男性も然りだが)真摯に言葉の力、言霊の畏怖を二進法の記号の世界で語ります。久しぶりに手紙を出したくなってきた。遠い次空に届くような・・・。
パソコンのメールは?
近年、電子メディアの発達のお陰でほんの些細なことでもメールを送るようになった。それは、地球の裏側にいる人間にも瞬時に手紙が送れるようにもなったということだ。お互いの距離が一気に縮まった気がする。
私も携帯は持っているし、仲間との連絡にはメールを使用しているクチである。ただ、残念ながらメールを信用していないところも有るので、必要以上に使うことはない。言わなかったが言っておきたいこと、確認しておきたいことなどそんな時にしか使わないことにしている(酒を飲んだ後に使ったときは自己嫌悪になりそうな使い方をしたことは多々あるが・・・)。
本当に人に連絡を取りたくなったら、やっぱり手紙を書く。“それが一番なんだ”と私は思う。年賀状、暑中見舞い、諸々のご挨拶。節目節目に手書きの手紙を送ること・貰うことは、一瞬にして届くメールとは何かが違う。そう、かつて“言霊”と呼ばれるものが尊ばれた時代の匂いとでもいうものか。
『イルマーレ』という韓国の映画が、ハリウッドでリメイクされた。湖畔の一軒屋、郵便ポストを通じて過去の住人と未来の住人が交信をするというストーリーは、ネタ不足のハリウッドがリメイク権を買って、金儲けの方程式(?)に当て嵌めれば、そこそこのラブストーリーとして世界に発信される。そんな程度の認識でこの映画を見ていた。勿論、東洋の“感覚”と西洋の“理解の仕方”は違う。だから「主演の二人は過去に何度も接点があって、しかし、すれ違っている」という筋立てには、やはり、うんざりしてしまった。ただ一点、私に引っ掛かるものがあるとしたら先に述べた“言霊”というものを考えさせられたところだろう。時間を越えた文通という奇妙な触れ合いの中で、愛が芽生える。そんなことがありうる(東洋の発想である)ならば、この一点は譲れない。そんなことを少々書いてみたい。
一番の違いは何か、端的に言うなら主人公の二人にちゃんとした接点が無いこと。共通するのは、駅で電車を待つ彼女を男は、ただ“気が付いて欲しい”と見つめる設定。“最終電車”と“旅立ちの一瞬”という違いはあるにしろ(ハリウッド版は愚かにもパーティで恋人の前で浮気する女性という罪を負わせるが)・・・。こんな風にしてまで近付けなければ他人(ひと)は分かり合えないのだろうか。韓国版では、父親のデザイン集を送って欲しいという以外に関係は成立しない(彼の父親が入院した病院で見取ったのが彼女という設定が鼻に付く)。合理的に考えるのが西洋だから我慢して見るしかない。しかし、本当の感動を“黄色いサル”に呼び起こしたのは、傷付いた女性(失恋の憂き目に遭い、それでも恋人の期待に応えようと声優をしているチョン・ジヒョン)が、赤の他人で建築家たる父親に反抗する青年(イ・ジョンジェ)と、 “イルマーレ(海)”と名づけられた湖畔の家を介して、時間をも越えて心を通わせる姿なのではないか。結ばれる二人の共通する過去(単にどのように過ごしたかという意。どんな相手と過ごしていたか醜い過去を描くにしてもと言っておく)を物語の起因として描くにしても、洋の東西でここまで違うのかと落胆せざるを得ない。我々は結ばれることにのみカタルシスを求めるのだろうか。本当に“一緒に居たい”と望むことは、緊密さを超えたところででも成立する。原版の青年が、「僕の言うことを信じてもらえるかな・・・」と最後に彼女に伝えたその想いに敬意を表したいから言うが・・・。兎に角、みなさんが、どちらに共感するか真摯に問いたい。その一瞬を本当に大事に出来る心はどちらに属するのか・・・。
遥か昔に置いてきた枕に戻るなら、言葉や文字(言霊)に敬意を表せ無くなっている現代にこの映画を見る貴女に(男性も然りだが)真摯に言葉の力、言霊の畏怖を二進法の記号の世界で語ります。久しぶりに手紙を出したくなってきた。遠い次空に届くような・・・。
「浮世とは・・・」−『センチメンタル野郎』−
手前味噌なのだが、久しぶりに興奮を抑えられない映画体験をしたので、キーボードを叩く。
今、フィルムセンターで“オーストラリア映画”の特集上映をしている。日豪交流年としての企画だ。
ワールドカップの恨み(舌禍御免)か、入りはまずまずと贔屓目に言っておこう。
しかし、この特集の最大の強みは、オーストラリアという未開の地(再度舌禍)に機械文明の華たる映画が映画発祥当時からあった貴重な記録を目の当たりにすることができる悦びか。1919年、日本はまだ“目玉の松っちゃん”全盛であった頃、オーストラリアでは、かくも豊かな映画が有ったことが、私を興奮させた。それは、映像が持つ力も勿論、この映画を復元したオーストラリアの映画人の気持ち、そしてこの映画に音楽を作曲したジェーン・アンダーソン女史とラロキンズ(オーストラリアでは労働者階級のことをかつてそう呼んだそうだそうな)の演奏のお陰か。そんな映画を見て、気持ちが動かない活キチがいたら、それは表象文化に毒された現代人の悲しさと知れ。映画が、かつて大衆のもの、大袈裟に言うのなら“感動体験の場”であったのであれば、当時の観客は一時の“癒し”を受けたことは間違いない。そう思える映画がこの作品であった。
掻い摘んでこの映画を紹介するならこう表現することが出来るだろう。ちんけなやくざ者(ビリー)が、堅気の女性(ドリーン)に恋をする。真逆な彼女の為に努力する彼。そこには、極々普通の人間の営みがある。与太者が真面目に生きる。彼女の母親にも“おべっか”を使い、自分よりも格好の良い男が彼女に近付けば焼餅も焼く。彼女のことが分からない。でも、一緒に居たい。一生懸命一緒に居たい。そんな純粋さが心を打つ。それ以上は蛇足だろう。
ビリーが、ドリーンと大喧嘩をする。彼女が、パブで歌う歌の歌詞には、「どうしてこんなにも思っているのに想いは通じないのだろう」という気持ちが込められている。この映画を見ていて、最大の興味が湧いたのはこのシーンだ。“chorus”として歌詞が銀幕に映る。ジェーンたちが、音楽を奏で、歌う。そのメロディーは当時のものではないのは分かっている。しかし、小屋(映画館)の中で、ピアノやバイオリンの演奏に合わせてこの歌を合唱している観客の姿が浮かんでくる。舞台と客席が未分化だった大衆芸能では容易に想像できる光景だ。英語が理解できるとか、歌が上手いとかそんなこと関係ない。彼女の気持ちに同調していれば心が勝手に歌いだす。否、歌わずにはいられない。そんなシーンだ。そんな気持ちで映画を見られたのは久しぶりだ。
『マッドマックス』、『ポエトリーセックス』、『クロコダイルダンディー』等々を想像する以上の発見と感動を一夜にして体験してしまった。
サイレント映画(柳下美恵さんのピアノ伴奏付)から世界の映画祭で注目を集めているロルフ・ドゥ・ヒーア監督の近作まで、オーストラリアの映画を知る貴重な機会がそこにある。オーストラリアは“コアラ、カンガルー、ダチョウにエアーズロック(世界の中心らしいから愛を叫んでみようか)”ではないとしみじみと実感できる。未知の大陸に足を踏み込む不安と期待に胸が張り裂けそうだ。10月はオーストラリア映画と過ごそうと本気で思える一本であった。
今、フィルムセンターで“オーストラリア映画”の特集上映をしている。日豪交流年としての企画だ。
ワールドカップの恨み(舌禍御免)か、入りはまずまずと贔屓目に言っておこう。
しかし、この特集の最大の強みは、オーストラリアという未開の地(再度舌禍)に機械文明の華たる映画が映画発祥当時からあった貴重な記録を目の当たりにすることができる悦びか。1919年、日本はまだ“目玉の松っちゃん”全盛であった頃、オーストラリアでは、かくも豊かな映画が有ったことが、私を興奮させた。それは、映像が持つ力も勿論、この映画を復元したオーストラリアの映画人の気持ち、そしてこの映画に音楽を作曲したジェーン・アンダーソン女史とラロキンズ(オーストラリアでは労働者階級のことをかつてそう呼んだそうだそうな)の演奏のお陰か。そんな映画を見て、気持ちが動かない活キチがいたら、それは表象文化に毒された現代人の悲しさと知れ。映画が、かつて大衆のもの、大袈裟に言うのなら“感動体験の場”であったのであれば、当時の観客は一時の“癒し”を受けたことは間違いない。そう思える映画がこの作品であった。
掻い摘んでこの映画を紹介するならこう表現することが出来るだろう。ちんけなやくざ者(ビリー)が、堅気の女性(ドリーン)に恋をする。真逆な彼女の為に努力する彼。そこには、極々普通の人間の営みがある。与太者が真面目に生きる。彼女の母親にも“おべっか”を使い、自分よりも格好の良い男が彼女に近付けば焼餅も焼く。彼女のことが分からない。でも、一緒に居たい。一生懸命一緒に居たい。そんな純粋さが心を打つ。それ以上は蛇足だろう。
ビリーが、ドリーンと大喧嘩をする。彼女が、パブで歌う歌の歌詞には、「どうしてこんなにも思っているのに想いは通じないのだろう」という気持ちが込められている。この映画を見ていて、最大の興味が湧いたのはこのシーンだ。“chorus”として歌詞が銀幕に映る。ジェーンたちが、音楽を奏で、歌う。そのメロディーは当時のものではないのは分かっている。しかし、小屋(映画館)の中で、ピアノやバイオリンの演奏に合わせてこの歌を合唱している観客の姿が浮かんでくる。舞台と客席が未分化だった大衆芸能では容易に想像できる光景だ。英語が理解できるとか、歌が上手いとかそんなこと関係ない。彼女の気持ちに同調していれば心が勝手に歌いだす。否、歌わずにはいられない。そんなシーンだ。そんな気持ちで映画を見られたのは久しぶりだ。
『マッドマックス』、『ポエトリーセックス』、『クロコダイルダンディー』等々を想像する以上の発見と感動を一夜にして体験してしまった。
サイレント映画(柳下美恵さんのピアノ伴奏付)から世界の映画祭で注目を集めているロルフ・ドゥ・ヒーア監督の近作まで、オーストラリアの映画を知る貴重な機会がそこにある。オーストラリアは“コアラ、カンガルー、ダチョウにエアーズロック(世界の中心らしいから愛を叫んでみようか)”ではないとしみじみと実感できる。未知の大陸に足を踏み込む不安と期待に胸が張り裂けそうだ。10月はオーストラリア映画と過ごそうと本気で思える一本であった。
September 21, 2006
「ヒーロー無き時代に」−『スーパーマン リターンズ』−
今年は、“ウルトラマン”が放映開始40周年という年らしい。思えば、ウルトラマンに憧れた少年たちは星の数ほどいただろう。もちろん、現在進行形で増え続けている。かつての少年たちは、大人になり、中には父親になったものもいる。ウルトラマンの前では、時間の逆行を簡単に目にすることが出来る。皆が、子供に戻る。「尊敬と憧れ」の表情が満ちてくるからだ。そんな扉は、日本では“ウルトラマン”、アメリカでは・・・。
「鳥だ、飛行機だ、スーパーマンだ」という合言葉と共に何処からともなく飛んで来て、災害から人々を救う。もちろん、見返りなど求めない。スーパーマンこそが、人智を超えた存在であり、アメリカンヒーローの代名詞だ。久しぶりに我々の前に帰ってきた彼の勇姿は、やはり格好良かった。普段は、冴えないデイリープラネットの新聞記者。一度事件が起きるとスーツを脱ぎ捨て人々を助ける。やっぱり、“彼”だ。
思えば、最近、“ヒーロー”像というのは変容してしまっている。『X−MEN』なんてのが、良い例に思う。つまり、人間として生まれたはずが、突然変異(ミュータント)として戦う。『スパイダーマン』もそうだ。実験で、蜘蛛の遺伝子が混じってしまったことから人間を超えてしまった男の話だ。「人間の領域を超えた人間」そんなところだろうか。『スパイダーマン2』は恐ろしいことこの上なかった。暴走する電車を止めた彼の素顔を乗客たちは見てしまう。彼らは、「誰にも正体を話さないから安心しろ」と言う。「尊敬の念」もだが、現在の社会では、スキャンダル(素性を曝すこと)は自殺行為に等しい。悪意を持って言えば、相手の素性を握ることは有利に相手を利用できることに繋がる。もはや、ヒーローとは支配すら受け入れなければならないのか。
大幅に脱線してしまったので、スーパーマンに助けてもらおう。
スーパーマンも人の子(地球人的教育の賜物か)、孤独に耐え切れずに仲間を求めて宇宙に旅立つ。今回は、その旅から戻ってきたところから始まる。再び孤独と戦う彼が父親になっていたというのはご愛嬌。父親になった彼は新たな目的を持って地球を守る。死にかけた彼を助けたのは、まさに子供の存在だった。
ウルトラマンの最終回、ウルトラマンはゼットンに敗れて死んでしまう。科学特捜隊が開発した特殊爆弾で人間が怪獣を倒す。「地球の平和は人間自らの手によって守られることに意義がある」というメッセージがあったそうだ。兎に角、中田やイチローのようなミュータント(舌禍御免)を信奉するのもだが、ウルトラマンやスーパーマンのようなヒーローをもっと大事にしたい。大人になった時、比較の対象がちょっとだけ自分より優れた能力がある人間に子供の尊敬を盗られるのはなんとも忍びない。「パパは子供のヒーロー」なのだから。その為にも絶対的ヒーローの復活を我々は望むべきなのだろう。おかえり、スーパーマン。
August 10, 2006
「偶然と必然の間」−『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』−
学生の頃、自主映画を仲間と作っていた手前、「写真を撮ってくれ」と頼まれると逃げられない。もちろん、写真を撮るのは好きだし、そこそこの自信が無い訳ではない。ただ一点、女の子の無防備な一瞬(つまり不細工に見える一瞬)を撮影してしまう欠点を除いては・・・。
写真で難しいのは、“瞬間を捉える”ことである。「何を当たり前のことを」と思うかもしれない。“決定的な一瞬”を捉まえることは大変難しい。映画のカメラは、ビデオも含めてだが、回しっ放しにしていれば、偶然でも撮れる可能性はある。だが、どこかで、これは受動的な行為になってしまう。写真の醍醐味は、その瞬間を捉える(捕まえにいく)ことにある。それができれば苦労しない。
今年の初め、「アンリ・カルティエ=ブレッソン」の写真展のチラシを見た。その時の印象は、やはり衝撃的だった。そこに使われた写真は、見る者に有無を言わせない力があった。構図に一部の隙も無い。まるでこの写真が生まれるべくしてそこに用意されていたかのような光景。大袈裟なようだが、映画や写真と向かい合って生きているとそんなことを感じ取れるようになるものだ(いや、言葉にしたくなるだけか)。“良い写真”というのを撮る為に何が必要なのか。そんな簡単な疑問が頭を廻っていると更に分からなくなる。そんな時にアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真を見れば、疑問は全てが馬鹿馬鹿しくなってしまう。諦めるしかない。他に何も無い。その秘密に迫るのが、このドキュメンタリー映画だった。そこに見出した答えは、“ただ見る”当たり前にしてシンプル。誰にでも出来て誰にも出来ない。彼の感性が響いた時に生まれた写真たちがそこに在るだけだ。もし、私が写真家を志していたら、その才能の差を嘆いて自殺しているかもしれない。その位の完成度を我々に突き付ける。何の気負いも挑発も無く。そこがまた恐ろしい。
この映画について語ること。これまた難しい。何故か。アンリ・カルティエ=ブレッソンという人間を“ただ見る”。それしか出来ないから。感じ取るのは自分自身。客席にはカメラを持った若者がチラホラ。彼らは、この映画を見終わった後、そのカメラをどうしたのだろうか。多少なりとも本気で写真と向き合うなら、ファインダーを覗くのが怖くなったか、カメラを捨てたくなったはずだ。その位の恐怖を感じなければ、自分の写真なんか撮れるようにはならない。二時間という時間が飛ぶように過ぎていった。その一瞬一瞬に見える彼を捉えること、能動的に捉えることを可能にしたら、自分の答え見えてくる。実に心地良い時間を過ごせた。いや、完膚なきまでに打ちのめされたというのが本当か。そんな時間を過ごせた今なら女の子を可愛く撮れる気がする・・・。
July 18, 2006
大人の勘違い子供の屁理屈−『太陽の傷』−
仕事柄、平日に映画を見に行く。普段、映画館に平日に入るのは、私にとっては、“勤め人を尻目に”というどことなく優越感(?)、いや引け目を感じながら世の中に流通している映画を見に行く行為である。そんな想いを胸に“悪所通い”と開き直りながら朝から映画を鑑賞する。
最近、驚くべき光景に出くわした。それは、月曜日の午前中、渋谷109に程近い某東宝系映画館。『トリック劇場版2』を見に行った時のこと。場内には明らかに小学生が・・・。おや、中学生らしいカップルがモジモジしている・・・。やや、高校生には見えない一団が、ポップコーンを片手にワイワイ入って来たぞ・・・。“もう夏休み?”、“それとも今日は何かの休日だったっけ?”テレビドラマを大きなスクリーンで見る体験よりそっちの方が興味津々だった。確かに学校をサボって映画を見に行くのは楽しい。しかし、孫らしい子供をお祖父ちゃん・お祖母ちゃんが連れて来ているのは如何なものかと思う。それに最低限、僕らがあの位の時分には、入場をお断りされるか、注意はするが渋々入れてくれる顔見知りの従業員が居るくらいのことはあってもこんなことは無かったと思う。そんな出来事の後、三池祟史監督の『太陽の傷』(9月公開)の試写に行った。
あまり新作について(試写には人の名前で入ることが多いので憚られるから)書くことは無い。が、この映画を見ていると渋谷で見た光景に対する答えの糸口が見える気がするので書いてみたいと思う。
物語は、ホームレスに暴行をしている少年たちを止めに入ったことから逆恨みされ、幼い娘を殺され、妻が自殺してしまったサラリーマンの葛藤を描いている。
筋は単純、哀川翔のアニキが主演とあれば、Vシネよろしく“やくざもの”でしょう。期待を裏切らない黄金パターンは、健在だった(何故、普通の建築師がドンパチするの、本職バリに?)。ただ、この映画は、近年頻発する“少年の幼児殺害事件”をテーマに、少年法や大人の欺瞞を“正しい不良少年”(?)であった監督が、告発する作品となっている。そこが興味深い。
未成年が、犯罪を起こすと「本人の更正の為」という理由で、匿名でしか報道もされない。少年院で数年過ごすと社会に帰ってくる。哀川翔が演じる片山は、そんな犯人の少年の更正を確かめたい(娘の仇討ちをしたい)と思って行動を起こす。
この映画で問題にされているのは、犯罪を犯した少年が、少年院に身を隠し、退院後、また犯罪を犯す(正確にはほかの少年たちを扇動する)。更正の機会とはどういうことなのか。法律で守るということはどういうことなのか。そして、最後の命題として、大人を果たして子供のことを理解できているのだろうか。この三点である。
結論は、極めて簡単である。大人は決して子供を理解できない。かつて自分が子供であったという記憶のみを頼りに理解した気になっているのだ。だから大人が作った法律で子供を守る、更には犯罪を犯した少年に更正の機会を与えるなどという“勘違い”を平気でするのである。法律とは、社会経験を積んだ人間が理解し、遵守するものである。従って、文章を理解する能力や知識。他者とのコミュニケーション能力。それらを有していることが、必要条件である。社会というもので生きている大人たちは、自分たちの世界でその能力を常に試されて生きているから嫌が応にも経験を積んでいる。それを基礎に物事を考えるから次に進めるのだ。
では、子供はどうか。確かに子供には子供の世界がある。そこには、ある程度のルールがあるのは事実だ。しかし、それはテレビやマンガの世界の延長であったり、大人社会の歪曲したものであったりする。“大人になる”というのは、その歪みを是正していくことに他ならない。
両者は近接(もしくは包括)しているが、決して同質のものではありえない。だからこそ「大人は分かってくれない」と子供は思うし、「うちの子に限って・・・」と大人は自己弁護を試みようとする。協調ではなく衝突があることを理解しなくてはダメだ。
今、一番問題なのは、“大人の時間”という概念が喪失していることだ。「子供は早く寝なさい」と夜9時には寝床へと追い遣られるのが従来の子供たちであった。塾に行って、コンビニで夕食を済まし、深夜まで勉強する小学生なんて憐れ以外の何ものでもない。家族で出掛けても“大人の時間”までには帰宅していた。たぶん、この感覚の喪失が顕著である世代が現在の“子供”たちなのだろう。親が子供を連れまわす。帰宅が遅くなっても平気、夜中に居酒屋に子供を連れてやって来るのもざら。そして、大人が薦める“我慢”に異を唱えることもできるようになったのは彼らである。“甘やかし”の質の変化が目立つ。
映画に戻りたい。この映画には、ちゃんと“親”と言える人間は出てこない。加害少年のかつての仲間が、若くして子供ができたという設定はあるが、“親”と呼ぶには未熟である。加害少年を取り巻く“大人たち”は“子供”が居てもおかしくは無いが、他人の子供(加害少年)を庇うだけで“親の顔”を見せない。唯、吾が子を失った片山だけが、“親の心情”をぶつける先を求めて苦悩している。
“大人”にできるのは“子供”に違いを見せ付けることだけだ。親になる資格というものがあるとしたら、それは子供と友達感覚で付き合おうなどと考えないことをちゃんと理解できているかどうかなのだと思う。そう、「木の上に立って見る」と書いて“親”なのだ。昔は、悪さをすれば、知らないおじさんにも叱られたし、良いことをすれば褒められたりもした。叱られ馴れていなければ、どんなことをすると拳骨をもらうことになるかも分からない。“大人”と“子供”の付き合い方の第一歩は、「相手を子供扱いしない」、「何をすれば拳骨をもらわないか考える」というものなのだろう。
最近、“どうして人を殺しちゃいけないの?”と訊く子供が出てきて大人は困惑した。喧嘩もしたことのない子供たちが、他者の痛みに鈍感になっているのは事実だろう。大人が、かつて当り前であったことが今も生きているなんて幻想を捨て、自分たちがどうやってそれを獲得したかを思い出せば、大人の欺瞞と子供の屁理屈の齟齬も少しは歩み寄りが見えるだろう。悪所に不健康な時間(平日の昼間とか)に映画を見に行くのは“大人の特権なんだぞ!”と今度映画館で子供に会ったら言ってあげよう。大人に成りきれていない半端者ではあるが・・・。
April 25, 2006
「追儺の鬼」−『バッシング』−
二月になると“節分”というのがある。「鬼は外、福は内」の掛け声で豆を撒く。撒いた豆を歳の数だけ食べる。今はこんな平和な風習である。しかし、グリム童話がそうであるようにこの風習も実は残酷なものであったのはご存知だろうか。
世の中には“差別”が耐えた試しは無い。“いじめ”、“偏見”の類は意識していなくてもどこにでもある。「部落」や「身体障害者」の問題など、今でも教育の材料に取り上げられる(それすらさかしらに子供にいじめを助長するような気はするが…)。江戸時代の“士農工商”などは民の不満を上に向けない為の制度で、“穢多・非人”を作り、被支配階層の不満を下に流す構造のことである(日本史の基礎知識として…)。
それから遡ることウン百年。平安朝の頃、「追儺」という風習があった。“鬼”役の人間に石を投げつけるというものである。それが現代に伝わって“節分”の豆撒きに姿を変えている。「不可思議なこと」「畏れ」を“鬼”のせいにするのは“陰陽師ブーム”を経験した我々には容易に理解できるが、そうした「痛い風習」があったことはなかなか知られることはない。
『バッシング』は、この「追儺」そのものである。主人公・有子は「紛争地域で起きた人質事件の被害者」ではなく「自己責任を履違えた人騒がせ」として差別の対象になる。日常の不満を紛争地帯にボランティアとして赴き、テロリストに誘拐されてしまった女性にぶつける。まさに「追儺の鬼」に彼女は選ばれてしまったのだ。
本作は、有子の生立ちは明確に示されずに展開していく。(ラブ)ホテルのルームメイクをしている彼女が、突然に解雇されるところから物語は始まる。恋人との諍い、旧友たちとの齟齬、父親の自殺を経てそれでも再び中東に向かう彼女の姿を苫小牧の重苦しい曇天の中、淡々と描く。中東の子供たちだけが彼女を必要としてくれる。その子供たちの笑顔だけが彼女の存在を肯定してくれる。日本人の中では感じられない満ち足りたものを求めて彼女は再び中東に赴くのである。
実際に起きた人質事件の被害者たちは確かに“認識不足”を追及された。しかし、その時も同じようなことが起きていたではないか。マスコミの“言葉の暴力”。必要以上に被害者の生活を暴露しようとする姿勢が「追儺の鬼」を産み、弱者に石をぶつける結果になっているとは考えられないだろうか。「死ねば英雄だったのに・・・」という嫌がらせの電話の声が、無責任に他者を非難し、社会正義をふるっていると錯覚している人間の姿をよく表している。人と人が共存するから世間ができ、世間で生きるから軋轢が生まれる。その軋轢に耐えられなくなった時、人は「追儺の鬼」を探す。そう、「鬼は外」ではなく内に居るのである。人に石をぶつけることは容易い。しかし、その被害者の痛みが分からなくなった時、世間のバランスは更に狂ってしまう。意見が一方に傾くことは危険なことだ。だから「追儺」は豆を撒くという平和な形に姿を変えたのではないか。弱者を犠牲にすることでしか成り立たない社会があるのなら、ほんの少し他者に優しくなれる人間を目指して生きれば良いのではないか。豆を撒いたら家族の分だけ豆を拾い集めてあげる。そうして、最低限家族の年齢をちゃんと覚えているというのも他者理解の第一歩といえるのであろう。
April 12, 2006
東宝グランド閉館にあたって
私には忘れられない映画館が幾つかある。池袋の(旧)文芸座、新宿の昭和館、亀有名画座、銀座の並木座・・・。東京に出て、「映画の勉強」と称して通った映画館たち。亀有名画座などは、入場料より交通費の方がかさむという冷静に考えてみれば疑問符が付きそうなことまでして映画を見に行った映画館である。ビルの都合、道路拡張の為などの理由で無くなっていったこれら映画館。名前が変わり今も文芸座は存続しているが、閉館の日、その場に立ち会えなかったのはホロ苦い思い出である(風邪で寝込んでいたのだが・・・)。
そんな映画館の中でも東宝グランドは、違った感慨を持っている映画館と言える。
私の映画体験で、たぶん映写機を初めて見たのは、東宝グランドであった。その頃はまさか自分が映画と関わりを深くするとは思っていなかったし、単なる娯楽映画を週末に見る為の映画館(小屋)でしかなかった。確か、改装の後、それまで使用されていた映写機が置かれていた(と記憶しているが・・・)。ロボットや怪獣の大好きだった私は興味津々で映写機に噛り付くように見ていた記憶がある。今でも長野に帰ってくると権堂の歓楽街に足が向く。しかし、東京で既に見た作品たちを上映していることもあり、なかなか入場することもなくなった。それでもグランドのホワイエにある映写機に会いたくなることがある。映画はフィルムを映写機にかけて光を通す事で物語が始まる。かつて我々に映画を見せてくれていた、現役を引退した映写機に感謝の気持ちが湧くようになったのは、やはり映画で生きようと志した因果かとも思う。
去年『カーテン・コール』という映画を見た。映画館で生きている人々(幕間芸人やその家族を中心に)を描いた作品で、とても印象的だった。『虹を掴む男』や『ニュー・シネマ・パラダイス』、『サボタージュ』。映画館が舞台になった映画を思い起こしながら、時に“不良の溜り場”、“悪所”として燦然と輝いた映画館の一面を静かに描いたこの映画を去年のベストに数えようと思った。
新しく生まれ変わる映画館。そこからまた色々な物語が始まるのだろう。できれば、より多くのお客さんに好い体験をしてもらいたい。苦しくても辛くても映画を見ていると“まぁ、良いか”と希望が湧くようなそんな空間であって欲しいと願う。
ラストショーに今回は立ち会いたい。それに向けて帰郷する。また、入場料より交通費がかさむ。他人(ひと)様は「何を馬鹿なことを」と思うだろう。ただ、グランドでの想い出にはそれだけの価値があると私は思う。
本当にありがとう。
そんな映画館の中でも東宝グランドは、違った感慨を持っている映画館と言える。
私の映画体験で、たぶん映写機を初めて見たのは、東宝グランドであった。その頃はまさか自分が映画と関わりを深くするとは思っていなかったし、単なる娯楽映画を週末に見る為の映画館(小屋)でしかなかった。確か、改装の後、それまで使用されていた映写機が置かれていた(と記憶しているが・・・)。ロボットや怪獣の大好きだった私は興味津々で映写機に噛り付くように見ていた記憶がある。今でも長野に帰ってくると権堂の歓楽街に足が向く。しかし、東京で既に見た作品たちを上映していることもあり、なかなか入場することもなくなった。それでもグランドのホワイエにある映写機に会いたくなることがある。映画はフィルムを映写機にかけて光を通す事で物語が始まる。かつて我々に映画を見せてくれていた、現役を引退した映写機に感謝の気持ちが湧くようになったのは、やはり映画で生きようと志した因果かとも思う。
去年『カーテン・コール』という映画を見た。映画館で生きている人々(幕間芸人やその家族を中心に)を描いた作品で、とても印象的だった。『虹を掴む男』や『ニュー・シネマ・パラダイス』、『サボタージュ』。映画館が舞台になった映画を思い起こしながら、時に“不良の溜り場”、“悪所”として燦然と輝いた映画館の一面を静かに描いたこの映画を去年のベストに数えようと思った。
新しく生まれ変わる映画館。そこからまた色々な物語が始まるのだろう。できれば、より多くのお客さんに好い体験をしてもらいたい。苦しくても辛くても映画を見ていると“まぁ、良いか”と希望が湧くようなそんな空間であって欲しいと願う。
ラストショーに今回は立ち会いたい。それに向けて帰郷する。また、入場料より交通費がかさむ。他人(ひと)様は「何を馬鹿なことを」と思うだろう。ただ、グランドでの想い出にはそれだけの価値があると私は思う。
本当にありがとう。
January 24, 2006
昭和の子供あるいは純粋な“ありがとう”―『狼少女』―
恥ずかしいが、初恋の話をしようと思う。それが、恋というものであるのなら、確か小学校四年生の時にそれは訪れた。遠い記憶を辿れば、その女の子は埼玉からの転校生だった。当時の私は “信州の山猿”。クラスの半分は女子のはずだが、そんなこと考えたことすらなかった。“一緒になって暗くなるまで遊んでいる生物(舌禍御免)と同じか?”とその子を見たときに思ったのだ。他愛ない話だが、小学校に入学したときからほぼ毎日見ていた地元の子はやっぱり同じ臭いしかしない“信州の山猿(再度、舌禍御免)”。転校生の女の子がどれほど輝いていたことか。大田明というこの映画の主人公は転校生の手塚留美子をこんな風に見ているのだろうか・・・。などと考えながらこの映画を見ていた。
この映画の冒頭、確か、「昭和の頃」というサブタイトルがでる。それが昭和のいつなのかは断定されていないが、少なくとも“見せ物小屋”がお祭りを巡業している頃ではあるらしい。世の中にまだまだ謎が満ちている頃、そう地底人を見つけることができると信じられている頃なのは確かだ。時間が今よりもゆったりと流れている時代の話というべきか。今の子供のように塾に通ってPSPで遊ぶのではなく、空き地や野原を駆け回って遊ぶ子供たち。“懐かしい”という以外に言葉が出ない。見せ物小屋は見たことはないが、どこか長野の田舎に似た空気がこの映画には漂っていた。
クラスには必ずガキ大将が居て、いじめられっ子が居て、仲良しグループがある。今でもその構造は変らないのだろうが、今よりも健全に機能している光景がどこか心の中に仕舞われていた記憶を呼び起こしてくれる。“狼少女”とあだ名される女の子が居て(人よりちょっと大人びていて家庭が貧しいだけの娘なのに)、見せ物小屋の一件があって、大人がそれを禁止すれば子供たちが色めき立つ。ちょっと人と違うと言うことは、これ程興味感心の的になるものか。子供は残酷だ。こんなことを言いつつ恥ずかしいが、確かにそうやって女の子をいじめてしまったことがあったっけ…。
この映画のラスト見せ物小屋が次の町に移動するとき、明と留美子の間で交わされた“ありがとう、さようなら”という台詞が心に残る。聞き慣れた台詞なのに何故かいつもより心に残る。こんなに純粋で、何かを思い出さざるを得ない響きにとんと出会っていない気がする。ほんの小さな別れが、これ程心に残る物なのかと思える。大人になるということが「出逢いと別れの繰り返し」なんて言えるようになるまで大田明はどれだけかかるのだろうか。どうやら大人に分類されるようになった私には相当の刺激でなければこんな純粋な言葉は言えないだろう。でも、一つ言えるのは“そんな頃が私にもあったのだ”ということ。もう人と別れてもそれ程感慨もなく別れられるけど人と別れるということは大変なことだったのだ。埼玉から来た初恋は、次の恋への呼び水になった。彼女に別れの言葉も言わないままその娘は転校して行ってしまった。今、彼女が何をしているか分からない(結婚しているかも知れないし、独身でいるかも知れない)。でも、彼女が居なければ、恋をすることも覚えなかったであろう。また一人別れを言わなければならない女性を前にして、言葉を掛けられないのは、山猿から脱皮できていない自分の未熟さなのか、大人になった鈍磨した感性のせいなのか分からないが、もう一度あれくらい純粋に“ありがとう、さようなら”と挨拶ができるようになりたいと今は思う。
January 22, 2006
夢幻の如くなりかな―『SAYURI』―
西洋の映画に登場する日本は奇妙なものである。否、“あった”と言うべきか。例を挙げればきりがないが(『SAYURI』に近いところで言えば、『燃えよドラゴン』では相撲の土俵は四角だった)、『ラスト・サムライ』以降、それは変わりつつあるように見える。日本の森に蘇鉄が生えているというご愛嬌はともかく、建物や風習については研究している努力は見てとれる。
そもそも“武士道とは何ぞや”と新渡戸稲造に聞いたのは西洋人だったが、それより先は進歩がなかった。映画に登場するのは、“出っ歯でメガネのカメラを持った日本人”。挨拶は合掌で。古くは中国系の東洋人が日本人役をやっている。カリカチュアされた日本人や東洋ごちゃ混ぜの日本が出てくるばかりだった。早川雪洲の色気に酔ったアメリカは、エコノミックアニマル・ジャパンを諷刺して近年まで映画を作ってきていた。閑話休題。
この作品を見ていてショックだった事が二つある。一つ目は、チャン・ツィイーを始めとする女優陣の艶(あで)やかさ。日本人の女優で、チャン・ツィイー、ミシェル・ヨー、コン・リーに敵う者があるのだろうか。残念ながらあの見事な舞を見た後では、“精進して貰いたい”の一言を言わざるを得ない。設定の無理は承知で見ていても、あれ程艶やかな女優陣を前にすれば一時の目の保養と思えば腹も立たない。それに中国の巨匠、張芸謀を取り合った大女優達の女の争いも見物だ(やはり年長が去って行くのは何とも皮肉だが…)。桃井かおりの“おかあさん”も独特の魅力を醸し出していた。日本の芸妓の話の筈なのに日本人が活躍できないのは、日本女性が如何に西洋風になってしまったかを提起している。端的に言うなら当の西洋人が日本人より中国人の女性を選んでいる事が何よりだ。
二つ目は花街のセットの見事さ。
セットを組むのは、建築の知識だけではできない。単に“再現しろ”と言うのなら知識と技術が有れば可能だろう。この映画の場合は最低限の知識と技術はさることながら、映画に必要な物があったように思う。それは我々日本の映画人が、かつて持っていて、今なかなか想い描けない世界。つまり、“イメージの世界”である。時代劇を作ることは水谷浩氏が映画美術を確立しようと思い描いた頃から“見たこともない世界を如何に本物に見せるか”ということを映画美術の冥利とする点に尽きる。これは、監督、撮影、美術が同じ方向を見ていなければできない世界である。近年、時代劇映画が作られそこそこに評価を得ているようである。が、残念ながら筆者が感じていた“時代劇の世界観の欠如”をハリウッド映画で多少なりとも感じることができたのは、日本映画を囓った程度の筆者の知識不足か、悲しいかな “映像の力”を軽視した日本映画の経済的限界のどちらかだろう(以前、故・岡崎宏三カメラマンと「『たそがれ清兵衛』日本家屋の暗さこそ撮影と照明の力だ」と議論したことが思い出される)。
それをふまえて見ていくとこの映画には、勿論、CGの力を借りた世界が描かれていることは確かだが、その“カット断片”毎に時代劇の息吹を感じさせる。神社の鳥居の赤、置屋の暗闇、みな映画に求められた“映像の力”であった。今、(時代劇)映画に求められるのは、俳優やリアリティではなく、映像に“理想美と生活感”を錯覚させる世界を表現することである。「日本映画よ頑張れ、女優諸姉よ伎を磨け」そんなことを思いながらこの映画を見た。所詮、“イ(人)”が“夢”をみるから“儚い”のか。これぞまさに“夢幻の如くなり”かな。
November 09, 2005
一炊の夢もしくはある“想”の物語―『TAKESHIS’』―
こんな経験は無いだろうか。読んでいる小説の登場人物に自分の近親者を当てはめて読んだこと。
こんな経験は無いだろうか。映画の出演者に別の作品でその人が演じた役が重なって見えたこと。
私たちはそんな日常の中に浮かんでは消える“想”を抱えながら生きている。漢字の成り立ちから言ってもこの“想”という字は、“相(具体的な像)”が“心”に浮かぶという意味だそうだ。ふとした瞬間に浮かんで消える像がどんなものか記憶にすら残らないこともある。もし、そんな“想”を留めておくとしたら映画ほど都合の良いものもない。具体的な写真(映像)を当てはめて編集するのだから。“動いて見える”という映像の幻視は今更言うまでもない。もっと言うなら時空間を彷徨して現実との齟齬を楽しむのが映画なのだ。だから映画には“理想”、“幻想”、“妄想”等々の世界が展開している。
この作品は、“北野武”と“ビートたけし”二人の“Takeshi”が邂逅して顕れる世界だ。そこでは監督“北野武”の作品たちが頭を過ぎっていく。そして、“成功者としての自分”と“うだつの上がらないでいたかも知れない自分”を“夢想”している一人の男が見えてくる。どちらも“Takeshi”なのだが、ただ分離して併せたのでは面白くない。そこに散りばめられた悪戯が映画ならではなのだが、それこそが我々を日常見ているかも知れない“白日夢(デジャブ)”に引き込んでいく。限られた役者達が複数の役をこなし、有り得ない状況に遭遇する。物語を生み出す男の頭の中を見せられているのだ。こんな混沌(カオス)は夢の中でしか存在しない。自分の作品たちの世界、自分が生きてきた時間、どこかで経験したかも知れないし錯覚かもしれない記憶。まさに“Takeshi”自身になってみるしかない世界。この作品を理解しようとしてはいけない。言うなれば、映画で巨匠と呼ばれるようになった男の“一炊の夢”にほんの少し自分を重ねる機会を得て、それを自分の“一炊の夢”と錯覚できるかどうか。ある監督の“想”にどこまで同化できるか試してみるのも一興ではないだろうか。
こんな経験は無いだろうか。映画の出演者に別の作品でその人が演じた役が重なって見えたこと。
私たちはそんな日常の中に浮かんでは消える“想”を抱えながら生きている。漢字の成り立ちから言ってもこの“想”という字は、“相(具体的な像)”が“心”に浮かぶという意味だそうだ。ふとした瞬間に浮かんで消える像がどんなものか記憶にすら残らないこともある。もし、そんな“想”を留めておくとしたら映画ほど都合の良いものもない。具体的な写真(映像)を当てはめて編集するのだから。“動いて見える”という映像の幻視は今更言うまでもない。もっと言うなら時空間を彷徨して現実との齟齬を楽しむのが映画なのだ。だから映画には“理想”、“幻想”、“妄想”等々の世界が展開している。
この作品は、“北野武”と“ビートたけし”二人の“Takeshi”が邂逅して顕れる世界だ。そこでは監督“北野武”の作品たちが頭を過ぎっていく。そして、“成功者としての自分”と“うだつの上がらないでいたかも知れない自分”を“夢想”している一人の男が見えてくる。どちらも“Takeshi”なのだが、ただ分離して併せたのでは面白くない。そこに散りばめられた悪戯が映画ならではなのだが、それこそが我々を日常見ているかも知れない“白日夢(デジャブ)”に引き込んでいく。限られた役者達が複数の役をこなし、有り得ない状況に遭遇する。物語を生み出す男の頭の中を見せられているのだ。こんな混沌(カオス)は夢の中でしか存在しない。自分の作品たちの世界、自分が生きてきた時間、どこかで経験したかも知れないし錯覚かもしれない記憶。まさに“Takeshi”自身になってみるしかない世界。この作品を理解しようとしてはいけない。言うなれば、映画で巨匠と呼ばれるようになった男の“一炊の夢”にほんの少し自分を重ねる機会を得て、それを自分の“一炊の夢”と錯覚できるかどうか。ある監督の“想”にどこまで同化できるか試してみるのも一興ではないだろうか。
July 15, 2005
途中下車の勇気―電車男―
日常の中で電車に乗ることは多々ある。通勤・通学、旅行、ちょっとしたお出掛け。時間通りに私たちを運んでくれる便利な乗り物が電車である。電車の中にはいろいろな人がいる。本を読む人、音楽を聞く人、お喋りをする人たち、電車の心地よい揺れにウトウトする人、酔っ払い…。私も電車に乗る時は本を読むことにしている。論文、エッセイ、小説等々。通勤時間の約30分で、文庫の小説なら大体20ページ。小説の世界に浸りながらの行き帰りが、一日の内でも静かで集中した時間である。
電車の中というのは、実は公共の場であるのにまるで個人の部屋のように振る舞ってしまう特異な空間だ。満員電車の中であっても、他人を無視して新聞を読み、ヘッドホンからの音漏れを気にせず音楽を聞く。化粧をする女性もいる。大声で話し、隣人に迷惑を掛ける酔っ払いほど質の悪いものもない。そうした場面にしたとき、都合良く自分の世界に逃げ込めるのも電車の中だ。この映画は、そんな状況の中でちょっと他人の為に行動した気弱な秋葉クンの心温まるお話…。
キャラ萌え、ゲーム・ヲタの恋愛経験“0(ゼロ)”の秋葉クン。髪を切り、コンタクトにして、ジーンズにジャケット、1980円のスニーカーから革靴へと変身する彼の努力が涙ぐましい。
趣味嗜好に生きている人間はどこかで人に負い目を持って生きている(はずである)。“映画”ヲタな筆者も“堅気さんには・・・”という思いはいつも持っている。電車男も自分の本当の姿をエルメス(電車の中で出会った女性)に見せられないと思い変身する。勿論、小奇麗な格好や身嗜みは必要かもしれない。ただ、自分の本来の姿を偽ってまでエルメスと一緒に居ようとしたところで彼は破綻する。恋愛において背伸びをすることは必要だ。でも、それが窮屈で、息が詰まりそうになったらそれは最早“恋”ではない。電車男も仲間の助けを借りてどうにかエルメスの心を掴もうとしたのだけれども、最後にその虚勢に潰されてしまう。服装や髪型は変えられても等身大の自分が出てこなければそれは“殻”でしかないヲタクが篭るから殻がフィギュアやゲームであったのが、装いという殻になっただけなのだ。アキバを歩くエルメスが電車男の気持ちに触れたとき彼の不安が杞憂であることが分かる。ジャケットもシャツも脱ぎ捨てて普段の格好(百式のTシャツ)に戻って、彼はやっと素直に気持ちを告白できる。
エルメスに手を引かれて彼女の降りる駅で途中下車した時、彼の運命が変ったと言ってよい。そう、目的地まで運んでくれる電車から途中下車したからこそ彼はエルメスと結ばれたのだ。終電後の線路を歩いて帰った時(危険なので絶対に真似しないで下さい)、いつもとは違った目線でホームを見上げたあの発見に似た感覚が甦ってくる。日常の繰り返しからの途中下車。これが新たな自分を発見させてくれる。たまには本を読むのを止めて、窓の外を眺めながら気になった場所で途中下車してみようか。そこに新たな発見や出会いがあるかもしれないから…。
電車の中というのは、実は公共の場であるのにまるで個人の部屋のように振る舞ってしまう特異な空間だ。満員電車の中であっても、他人を無視して新聞を読み、ヘッドホンからの音漏れを気にせず音楽を聞く。化粧をする女性もいる。大声で話し、隣人に迷惑を掛ける酔っ払いほど質の悪いものもない。そうした場面にしたとき、都合良く自分の世界に逃げ込めるのも電車の中だ。この映画は、そんな状況の中でちょっと他人の為に行動した気弱な秋葉クンの心温まるお話…。
キャラ萌え、ゲーム・ヲタの恋愛経験“0(ゼロ)”の秋葉クン。髪を切り、コンタクトにして、ジーンズにジャケット、1980円のスニーカーから革靴へと変身する彼の努力が涙ぐましい。
趣味嗜好に生きている人間はどこかで人に負い目を持って生きている(はずである)。“映画”ヲタな筆者も“堅気さんには・・・”という思いはいつも持っている。電車男も自分の本当の姿をエルメス(電車の中で出会った女性)に見せられないと思い変身する。勿論、小奇麗な格好や身嗜みは必要かもしれない。ただ、自分の本来の姿を偽ってまでエルメスと一緒に居ようとしたところで彼は破綻する。恋愛において背伸びをすることは必要だ。でも、それが窮屈で、息が詰まりそうになったらそれは最早“恋”ではない。電車男も仲間の助けを借りてどうにかエルメスの心を掴もうとしたのだけれども、最後にその虚勢に潰されてしまう。服装や髪型は変えられても等身大の自分が出てこなければそれは“殻”でしかないヲタクが篭るから殻がフィギュアやゲームであったのが、装いという殻になっただけなのだ。アキバを歩くエルメスが電車男の気持ちに触れたとき彼の不安が杞憂であることが分かる。ジャケットもシャツも脱ぎ捨てて普段の格好(百式のTシャツ)に戻って、彼はやっと素直に気持ちを告白できる。
エルメスに手を引かれて彼女の降りる駅で途中下車した時、彼の運命が変ったと言ってよい。そう、目的地まで運んでくれる電車から途中下車したからこそ彼はエルメスと結ばれたのだ。終電後の線路を歩いて帰った時(危険なので絶対に真似しないで下さい)、いつもとは違った目線でホームを見上げたあの発見に似た感覚が甦ってくる。日常の繰り返しからの途中下車。これが新たな自分を発見させてくれる。たまには本を読むのを止めて、窓の外を眺めながら気になった場所で途中下車してみようか。そこに新たな発見や出会いがあるかもしれないから…。
February 24, 2005
『東京タワー』
『東京タワー』という映画を見ました。
ひと昔前の「トレンディドラマ」(そんな実体が本当に在ったのか否か、定かでないまま言うのですが)をスクリーンで見ているようだと思ったのは何故でしょうか。
原因と思われるものをいくつか挙げてみたいと思います。
室内シーンがたいへんに多いのですが、その室内空間が、書き割りのような背景に見えてしまい、登場人物が動き、生きるために必要な空間には見えませんでした。むしろその書き割りのような空間をこそ見せたいがために、そこに登場人物を配しているのでは?との印象さえありました。
象徴的なのは題名にもなっている東京タワーの扱い方で、この独特な美しいタワーが、東京の観光絵葉書のようにしか見えないのです。
人間が、愛しく見上げる物としてでもなく、人間を、愛しく見下ろす物としてでもない。
F・トリュフォーの長編デヴュー作『大人は判ってくれない』の冒頭シーンで、車窓からの視点がエッフェル塔の周りを駆け巡ります。
ただそれだけの映像に心が躍るはなぜでしょう。
あの映画におけるエッフェル塔は、人間が、愛しく見上げる物としてあり、人間を、愛しく見下ろす物であったからではないでしょうか。
寺島しのぶの演技を楽しみに出掛けたのですが、(昨年の夏、東京・中野で『赤目四十八瀧心中未遂』での彼女に接した折には、見ている僕が体力負けし、すっかり消耗してしまい、劇場を出たあとふらふらになって、やっとこさ昔よく通ったバーにたどり着いたものです。)
この映画では、彼女の登場によってにわかに映画的な瞬間が立ち上がりかけるのに、それを持続させることなく、きまってスローモーション処理によって「劇的な画」にしてしまう。
なんとも勿体無いショットがなんどもありました。
主演俳優の黒木瞳と岡田准の台詞にリアリティ(もちろんそれは、映画固有のリアリティ、という意味ですが)を感じ取ることが出来ませんでした。
「歯の浮くような台詞」にモンダイがあったのでしょうか。
そんな台詞を血肉の通った生きたものとして喋ってしまう俳優もいるのでしょうが(たとえば若き日の石原裕次郎のように)、
ここでのふたりは歯の浮くような台詞を、歯を浮かせたまま喋っているように聴こえるのです。ほんとうにイイタイコト、のように喋っているとは見えないのです。
歯の浮くような台詞を観客にリアリティを伴って聞かせる工夫。難しいですよね。
ひとつ言える事は、俳優に「観客にリアルだと感じさせるように喋ってくれ」と演出してもそれは不可能で、観客がリアルだと感じるためには、心理的ではない、『具体的なアクション』が必要である。という事でしょう。
それってなに?
それがわかりゃ苦労はいらねえんだよな!
後日、やはりF・トリュフォーの『隣の女』を無性に見たくなりました。
見るたびに怖さと切なさの増す映画です。
ひと昔前の「トレンディドラマ」(そんな実体が本当に在ったのか否か、定かでないまま言うのですが)をスクリーンで見ているようだと思ったのは何故でしょうか。
原因と思われるものをいくつか挙げてみたいと思います。
室内シーンがたいへんに多いのですが、その室内空間が、書き割りのような背景に見えてしまい、登場人物が動き、生きるために必要な空間には見えませんでした。むしろその書き割りのような空間をこそ見せたいがために、そこに登場人物を配しているのでは?との印象さえありました。
象徴的なのは題名にもなっている東京タワーの扱い方で、この独特な美しいタワーが、東京の観光絵葉書のようにしか見えないのです。
人間が、愛しく見上げる物としてでもなく、人間を、愛しく見下ろす物としてでもない。
F・トリュフォーの長編デヴュー作『大人は判ってくれない』の冒頭シーンで、車窓からの視点がエッフェル塔の周りを駆け巡ります。
ただそれだけの映像に心が躍るはなぜでしょう。
あの映画におけるエッフェル塔は、人間が、愛しく見上げる物としてあり、人間を、愛しく見下ろす物であったからではないでしょうか。
寺島しのぶの演技を楽しみに出掛けたのですが、(昨年の夏、東京・中野で『赤目四十八瀧心中未遂』での彼女に接した折には、見ている僕が体力負けし、すっかり消耗してしまい、劇場を出たあとふらふらになって、やっとこさ昔よく通ったバーにたどり着いたものです。)
この映画では、彼女の登場によってにわかに映画的な瞬間が立ち上がりかけるのに、それを持続させることなく、きまってスローモーション処理によって「劇的な画」にしてしまう。
なんとも勿体無いショットがなんどもありました。
主演俳優の黒木瞳と岡田准の台詞にリアリティ(もちろんそれは、映画固有のリアリティ、という意味ですが)を感じ取ることが出来ませんでした。
「歯の浮くような台詞」にモンダイがあったのでしょうか。
そんな台詞を血肉の通った生きたものとして喋ってしまう俳優もいるのでしょうが(たとえば若き日の石原裕次郎のように)、
ここでのふたりは歯の浮くような台詞を、歯を浮かせたまま喋っているように聴こえるのです。ほんとうにイイタイコト、のように喋っているとは見えないのです。
歯の浮くような台詞を観客にリアリティを伴って聞かせる工夫。難しいですよね。
ひとつ言える事は、俳優に「観客にリアルだと感じさせるように喋ってくれ」と演出してもそれは不可能で、観客がリアルだと感じるためには、心理的ではない、『具体的なアクション』が必要である。という事でしょう。
それってなに?
それがわかりゃ苦労はいらねえんだよな!
後日、やはりF・トリュフォーの『隣の女』を無性に見たくなりました。
見るたびに怖さと切なさの増す映画です。
無地のキャンバスの物語−恋の風景−
時として、人は心をキャンバスに喩える事がある。
キャンバスは、真っ白ではない。布の薄いクリーム色だ。そこに情熱は“赤”、哀しみは“青”などその時々で色が塗られていく。そうして絵の具を重ねることで“思い出”が描かれていく。
マン(カリーナ・ラム)の心は、恋人サム(イーキン・チェン)の死によって、空白(ブランク)の“白”で塗り潰されてしまっている。彼女はサムの育った青島(チンタオ)で、その“白”を落として“思い出”という名の絵を取り戻そうとする。
冬の凍てついた青島で、マンはサムの描いた彼の原風景を探し回る。そこに行けば何かを取り戻せると彼女は信じている。
場所探しを手伝うシャオリエ(リィウ・イェ)は絵本作家を目指す郵便局員。彼の誠実さ、描いた童話がマンの心に新たな色を置いていく。彼女のキャンバスからは白が剥れ、また新たな絵が見えてくる。
美しい映像が大変心に残る一本です。三月上旬から渋谷のユーロスペースにて公開になります。上京の折には是非ご覧下さい。
森本
キャンバスは、真っ白ではない。布の薄いクリーム色だ。そこに情熱は“赤”、哀しみは“青”などその時々で色が塗られていく。そうして絵の具を重ねることで“思い出”が描かれていく。
マン(カリーナ・ラム)の心は、恋人サム(イーキン・チェン)の死によって、空白(ブランク)の“白”で塗り潰されてしまっている。彼女はサムの育った青島(チンタオ)で、その“白”を落として“思い出”という名の絵を取り戻そうとする。
冬の凍てついた青島で、マンはサムの描いた彼の原風景を探し回る。そこに行けば何かを取り戻せると彼女は信じている。
場所探しを手伝うシャオリエ(リィウ・イェ)は絵本作家を目指す郵便局員。彼の誠実さ、描いた童話がマンの心に新たな色を置いていく。彼女のキャンバスからは白が剥れ、また新たな絵が見えてくる。
美しい映像が大変心に残る一本です。三月上旬から渋谷のユーロスペースにて公開になります。上京の折には是非ご覧下さい。
森本