2009年11月07日

新しい研究開発プロジェクトがスタート

I-研究室では、レーザー技術を駆使した質量分析装置の開発プロジェクトが終了し、目下、開発された質量分析装置の事業化を目指してベンチャー企業設立の準備を進めている。

I-教授から、そのベンチャー企業の経営をやってほしいと要望されたが、わたしは、もうそんな歳ではないと丁重にお断りした。そんなこともあって、あれこれと思いを巡らせ、結局、提携企業の経営者に社長就任を引き受けていただくようお願いすることにした。そしてこのほど、その経営者から了承の返答をいただき、やれやれと、ほっとしているところ。わたしは、このベンチャー企業の経営にはタッチしないが、アドバイザーとして相談にのることぐらいは、やってあげようと思っている。

 

設立するベンチャー企業のビジョンに向って、次の新しい研究開発プロジェクトが間もなく始まる。独立行政法人 科学技術振興機構の事業に採択された「微粒子の超精密分離技術の確立と分離装置の開発」が新規プロジェクトの研究開発課題だ。秘密保持のため限られたことしか書けないが、サブミクロンサイズの微粒子の分離・検出技術の開発は、バイオテクノロジー分野のみならず、幅広い産業に大きな波及効果をもたらし、新たな産業を創出する可能性が高い。

 

これまで約7年間、大学の研究室で開発された技術を実用化・製品化して、事業に結びつける幾つかの開発プロジェクトに関与してきたが、今回のプロジェクトは、イノベーションの創出による経済的波及効果が最も期待できる事業だと考えている。成功すれば、設立準備中のベンチャー企業の展望が大きく開けてくる。わたしも、本プロジェクトのアドバイザーとして名を連ねているので、製品化・事業化の部分でお手伝いをしたいと思っている。

 

実用化・製品化のフェーズでは、提携企業の支援が極めて重要となるが、実証試験のファースト・フェーズでは、助教、ポスドク、大学院生が中心となって研究を進めることになる。

Go for it と彼らを激励したい。

  
Posted by kiwahori at 14:43Comments(1)TrackBack(0)研究開発

2009年10月29日

鳩山内閣の対米外交

このところ、日米安全保障に関わる話し合いで、日本民主党の政治家が米国政府の高官に反駁するようになった、とワシントンポスト紙はコメントする。ジョンズ・ホプキンス大学のライシャワーセンターの理事で、長年外交官として日本に駐在していたケント・カルダー氏も、日本の政治家が公の場で米国の上級外交官に、これだけ言い返すのを過去に見たことがない、今までなら、米国側が以前に取り決めた約束ごとがあるじゃないですか(We have a dealと言えば、日本の政治家は あぁ、そうですねと言って、それで万事うまく収まっていたのにと言う。

 

日米同盟は米国が主導するもの、日本はアメリカに追随する同盟国だから、アメリカに従っていればいい、という宗主国の思いがアメリカ側にあるものだから、このようなコメントになるのだろう。鳩山内閣は「対等な日米同盟」を云々するけれども、集団的自衛権の行使もできない日本は、日米同盟において対等なパートナーたり得ないとアメリカは考えている。残念ながら、この考え方は正しいと言わざるを得ない。このことを百も承知のはずの鳩山内閣が「緊密で対等な日米同盟関係」を標榜するからには、対等な同盟パートナーとなり得るよう、日本国憲法の改正を目指すのかといえば、そんな決意もなさそうだし、口先だけの願望と受け止めざるを得ない。

 

それでも、日本の政治家達が米国政府の高官と激論を戦わしたり、ときには反発するのも必要なこと。追随ばかりではなく、物申すこともあっていい。それが摩擦を引き起こすことになったとしても、ある程度は止むを得ない場合もある。しかし、やり過ぎると、いつも日本が損をしていることを歴史は教えてくれているから、要注意だ。

 

日米間で合意済みの普天間基地の移設問題で、アメリカは「We have a deal (約束したじゃないですか)」と言って履行を迫る。鳩山内閣は掲げたマニフェストをさっさと撤回できない面子もあってか駄々をこね続け、「対等な日米同盟」を演出する。片や、アメリカ政府は「The hardest thing right now is not China, it's Japan(中国よりも日本の方がやっかいだ)」、と少々いらつき始めている。そして、ケント・カルダー氏は言う、 「We have a deal----and it’s over. This is new. (約束ごとを交わす蜜月の時代はもう終わった、これからの米日関係は変貌する)」と・・・・。

 

鳩山内閣が普天間基地移設問題をこじらせて、アメリカとの溝が深まれば、それこそ中国の思う壺。日本に不信感をつのらせるアメリカは、いずれ日本に煮え湯を飲ませるようなアジア戦略をとらないとも限らない。鳩山内閣は、日本、アメリカ、中国を含めたアジアにおける外交力学の読みを誤っては、国民に申し開きが立つまい。

  
Posted by kiwahori at 13:39Comments(1)TrackBack(0)ベンチャー

2009年10月12日

Death Bonds

あんたの命を買います。1億円の生命保険なら、3,000万円払うから、保険証書をよこしなさい。あんた、死ぬ前に3,000万円を手にできるのだから、いい取引だよ・・・・なんて言いながら死亡保険を買いあさり、それを証券化した金融商品が開発され、これをDeath Bonds死亡債)とか称しているらしい。人の命を賭けて銭を儲けようとするなんて、まったく不謹慎極まりないじゃ〜ありませんか。性懲りもなく、これがまたウォール街で脚光を浴びているそうな。「The sooner people die, the more profit is reaped・・・・そりゃ〜そうだ、生命保険証書を売ったお年寄りがすぐに死にゃ〜、投資家はそれだけ余計に儲かるというもんだ。ぽっこりと早く逝ってしまうことに賭ける商売なんて、人の道にはずれるし、御天道様が許しません。

 

いくら貪欲だとはいえ、ウォール街の連中、ここまでやるかね〜。あんたらは、来世はきっと地獄に落ちるよ。ノーベル平和賞の受賞が決まった大統領閣下、あなたの国のウォール街の連中はちょっとおかしいですよ。サブプライム・ローン証券で、あれだけ世界に迷惑をかけておいて、今度は Death Bondsですかい。縄張り争いで殺し合うニューヨーク・マフィアだって、こんなえげつない商売はやりゃ〜しませんよ。

 

「死は一定の確率で必ず起こり、景気動向に左右されず、株式や外貨取引などと違い安定した利回りを生む確実な金融商品」、などと宣う投資銀行の面々、許せませんね。まぁ〜、身寄りのないお年寄りが、生きている間に現金を手にできて助かる、と思うご老人もいるだろうけれど、命を売るディールであることに変わりはない。

 

保険証券の買い集めのために、貧乏人を故意に生命保険に加入させたり、寿命が比較的短いと思われるアフリカ系アメリカ人やエイズ感染者に保険を掛けて、Death Bonds のビジネス拡大を企てるような詐欺行為が蔓延する恐れがある。8%位の平均利回りは確保可能だと投資銀行筋はコメントする。高利回りは投資家にとって魅力的だから、投資家の欲につけ込んだあくどい手口が、もうちらほら見られるという。

 

ウォール街のある大手投資銀行はアメリカ政府から1兆円もの救済融資を受けたが、その金は役員報酬に全部消えてしまったらしい。そんな強欲なウォール街の怪物たちは、サブプライム・ローン証券で人々から職と住宅を奪っただけでは飽きたらず、今度は人の命と引き換えに大儲けをしようと企んでいる・・・・なんたる所業じゃ。

  
Posted by kiwahori at 11:31Comments(0)TrackBack(0)社会問題

2009年10月08日

2020年の東京オリンピック招致も危うい

2016年のオリンピック開催地はリオデジャネイロに決まった。東京落選は残念だがいたしかたない。南米で初めて開催されるオリンピックだし、成功を祈ろう。しかし考えてみるに、今回の東京は敗れるべくして敗れたという感が否めない。

 

投票権を持つ120人ほどの五輪委員は世界から選ばれる。1996年のアトランタ五輪招致の勝利は、アフリカ諸国の支持が大きかったという。1990年9月18日、東京で開かれた IOC 総会で、アトランタがアテネ、ベオグラード、マンチェスター、メルボルン、トロントを押さえて開催地に決定した。ちょうどその時、わたしは出張でアトランタから東京に来ていて、開催決定の祝賀会に招待された。祝賀会の会場で、五輪招致をプロモートしてきたアトランタ市役所の有力メンバーの一人に聞いたのだが、五輪委員との友好関係構築の成否が勝敗を分けることになること、そしてその地道な努力を数年間続けてきたこと、などの苦労話をお聞きした。アフリカ諸国の支持は特に重要で、もしこれら諸国の票が得られなかったなら、勝てなかっただろうと言われていたのが印象に残っている。アフリカを含む後進諸国の人達と心から友達になるには長年に亘る地道な努力が欠かせない。東京はこの点で大きく出遅れていたことが敗因の一つ。

 

『世界で唯一、戦後60年間一貫して平和を貫いてきた日本で開催することで、平和の尊さを世界に訴える』、というのが2016年の東京五輪の理念の一つ。中国を初めとするアジアの国々の人達は、タカ派の東京都知事とはしっくりとこない理念という印象を持ったかも知れない。日本国憲法の前文や9条については否定的、日本は堂々と戦争をしてもよい、領海侵入船は撃沈、など数々の過激な発言や、差別用語と誤解され易い三国人、支那、毛唐などの言葉を使用してきているのだから、同氏はこれらの国の人達には快く思われていないところもあろう。同氏の歴史認識と日本の国家像については、個人的には共感する部分があるのだが、同氏の存在感が五輪招致運動にネガティブに作用したとも思える。

 

いさぎよい敗北の記者会見で終わらせて置けばいいものを、裏取引などと、また余計なことを言ってしまったのには困ったものだ。ブラジルの民衆が怒るのも道理だし、IOC に抗議文書を提出すれば、IOC 委員の東京に対する心証を害してしまう。浅はかな発言が2020年の東京五輪招致をも危うくしかねない。

  
Posted by kiwahori at 16:15Comments(0)TrackBack(0)スポーツ

2009年09月27日

Upper East Side

マンハッタンの Upper East Side と称する地域は、高級コンドミニアムが建ち並ぶ住宅街。特に、セントラルパークに沿ったフィフス・アベニューの59丁目以北の一帯は、超高級コンドミニアムが林立し、世界の億万長者が住むプレスティジアス エリア。東48丁目のイースト・リバー沿いにある国連ビルからだいぶ北上した辺りが Upper East Side と呼ばれる地域である。昔、このエリアのレストラン・パブに何度か飲みに出かけたことがあり、いい気分でくつろげた。同じ East Side でも、その頃よく通っていたレキシントン・アベニューの38丁目にあったパブとはやはり雰囲気が違う。

 

                セントラル・パーク沿いの

Upper East Side の地図  フィフス・アベニューを望む

Upper East Side

Park Avenue along Central Park, Millionaires' Row

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎年行っている海外旅行の締めくくりはニューヨークにしたいと思っている。できればスチューディオ・アパートを半月ほど借りて自炊しながら、NY ライフをもう一度満喫したい。ミュージカルにオペラ、コンサート、美術館、博物館、それに居心地のよい二流レストランでのディナーも楽しみたい。借りるスチューディオは、Upper East Side でも、フィフス・アベニュー近辺ほど家賃が高くないレキシントン・アベニューの70丁目辺りが気に入っている。

 

        レキシントン・アベニュー

   70丁目あたりの風景とレストラン・パブ

70th Street between Park and Lexington Avenue

Swifty's Restaurant

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、ニューヨーク・タイムズに報道されていたのだが、オスマン帝国の34代スルタン、アブデュルハミト2世の孫にあたるエルトゥールル・オスマン氏が Upper East Side のレキシントン・アベニュー70丁目付近にあるアパートに住んでいるらしい。同氏は96歳、オスマン王家の末裔の長老で、43代の家長の任にあるという。一階がレストランになっていて、その二階の2ベッドルームのアパートに、もう60年間も住んでいるとのことだが、家賃は何とたったの

350ドル。この地域では、2ベッドルームの家賃は月額で4,000ドルは下らないはずなのに、オスマン王家の家長ということで特別な配慮があってのことだろうか。

いずれにせよ、ひっそりとお暮らしになっているようだ。Upper East Side は、こういった由緒ある家柄の人達が静かに暮らす地域でもある。

  
Posted by kiwahori at 19:37Comments(0)TrackBack(0)旅行

2009年09月19日

トルコへの旅(その10 完)・・・イスタンブール

今回は歴史三昧の旅であった。古代オリエント文明のコレクションやギリシャ、ローマ、

ビザンツ、オスマンの時代の歴史遺産を沢山見聞できた。これまでのヨーロッパ旅行で観てきたものは、主として中世の歴史的遺産だった。それはそれで豪華絢爛で見ごたえはあるのだけれども、小アジアに折り重なる数々の古代文明は旅人の心を深く引き付けてやまない。古代から永々と小アジアの支配を続けてきた西欧の王朝を倒し、その上にどっかりと腰を下ろして世界に覇権を唱えたオスマン朝の歴史遺産は、伝統的な遊牧騎馬民族の趣きが漂い、訪れる人を魅了する。実証されているわけではないけれども、チュルクと日本民族のルーツが同類の遊牧騎馬民族の可能性があると個人的には肯定的に推測していることもあってか、トルコには何となく親しみを感じる。そのトルコへの旅も今日で終わり。午前中にトプカプ宮殿を観光して、夕方のフライトで帰国する。

 

トプカプ宮殿は、オスマン朝の歴代スルタンが居住し、政務を執った館。1470年代に完成したこの宮殿は、ボスポラス海峡沿いに建つドルマバフチェ宮殿とは異なり、モスレムと遊牧民族の伝統的な装飾が随所に見られ、中央アジアから来た民族の王朝であることを象徴する王宮。現在は博物館として一般に公開されている。

 

メフメット2世

セリム3世の謁見の様子

 

 

 

 

 

 

(左)コンスタンチノープルを攻略したメフメット2世

   の肖像画

(上)トプカプ宮殿でセリム3世が謁見する様子を

   描いた絵画

 

 

   トプカプ宮殿       

ボスポラス海峡から望む      正門           希望の門

ガラタ塔からトプカプ宮殿を望む

トプカプ宮殿正門

希望の門

 

 

 

 

 

 

 

                 トプカプ宮殿のハレム

トプカプ宮殿ハレム

トプカプ宮殿遊牧民族の伝統が伺える

ハレムの部屋

 

 

 

 

 

 

 

アタチュルクの独立戦争で崩壊したオスマン帝国の支配者達は国外に亡命し、その末裔は

今はひそかに暮らしている。最後のスルタン、ヴァフデッティンはエジプトに逃れ、その地で生涯を終えた。その孫娘のネスリシャフ・エブリヤザデは、イギリスのケント大学を卒業して、現在はコラムニストを兼ねながら、酪農農場を経営する実業家。先だって、彼女の婚約のニュースを報道したトルコの新聞記事がネットで紹介されていた。その記事に載っている彼女の写真には、アナトリアに攻め込んできた頃の中央アジアの遊牧民族の面影は、もうどこにも残っていない。オスマン帝国の諸王家が競って西欧の血を引き入れてきたからだろう。

 

最後のスルタンの孫

 

最後のスルタンの孫娘

婚約式の写真

(トルコのYeni Safak 紙より)

 

 

 

今年もいい旅だった。同行の学友、ご夫人方に感謝。そして、現地ガイドのエロールさん、ありがとう。来年の旅行はベルリン・ブレーメンあたりがいいかな?

  
Posted by kiwahori at 06:29Comments(2)TrackBack(0)旅行

2009年09月16日

トルコへの旅(その9)・・・イスタンブール

イスタンブールについて、アメリカのある資料には、「Istanbul is a city of synthesis which realizes in an atmosphere of tolerance the uniting of the East and the West on the subjects of culture, art and religion, at the borders of two separate continents二つの大陸の境界線地帯で、アジアと西欧の文化、芸術そして宗教の結びつきを寛容の雰囲気で具現している統合体がイスタンブールである)」、と解説している。直訳すると、かように堅苦しい言い回しで解りにくいが、要は、「アジアと西欧の文化、芸術そして宗教が混在している街、それがイスタンブールだ」、と言おうとしているのであろう。

 

西欧の二つの帝国とオリエントの帝国が嘗て遷都した街だから、1700年ほども経った今でも西欧とアジアの異文化は共存し続けている。訪れてみるとよく分かるが、イスタンブールはそんな趣のある街。チュルク民族も長年に亘り東西の血を受け継ぎ、現在のトルコ民族へと進化した。トルコ人の顔立ちは、一見ヨーロッパ風だが、よく見ると東洋人の面影がかすかに残っている。ツアーガイドのエロールさんも、目鼻立ちはヨーロッパ人だが、丸顔で、その昔モンゴル草原から中央アジアを駆け回っていた遊牧騎馬民族の丁零や突厥といった東洋的な風貌も持ち合わせている。

 

今日の観光は、アブデュルメジト1世の命によって建てられたドルマバフチェ宮殿からスタート。バロック様式の外観と装飾は西洋風だが、建物の内部にはハレムがあり、ここにも西欧様式の建築の中にオスマン様式が混在している。ドルマバフチェ宮殿を見学の後、街を一望できるガラタ塔に登る。そこから眺めるイスタンブールは一際美しい。遠くに見える歴史地域のブルーモスク、アヤソフィア、トプカプ宮殿の景観はヨーロッパの都市とは趣を異にする。

 

ドルマバフチェ宮殿

ドルマバフチェ宮殿

 

ドルマバフチェ宮殿

 

 

 

 

 

ガラタ塔からの眺め

ガラタ

 

ガラタ塔から旧市街

歴史地域を望む

 

 

 

 

昼食はチーズポテトサラダと鯖サンド。手間のかからないファーストフードだが、魚臭さはなく

うまかった。

 

鯖サンド

 

 

昼食で食べた鯖サンド

 

 

 

 

午後にはアヤソフィアを見学。西暦360年に建てられた総主教会アヤソフィアは、オスマン帝国時代にはモスクに改装され、周囲にはモスクの尖塔が4本建てられたりしていて、そのような痕跡は消えることなく今も残っている。おおげさに例えて言うなら、由緒ある教会のイエスキリストの祭壇の横に、大きな仏壇が並び置かれ、極楽浄土へ往生の念仏が唱えられているような一風変わった雰囲気をかもし出している。

 

アヤソフィアの内部

アヤソフィア

 

 

 

 

 

 

 

(上)アヤソフィア

(左)アヤソフィアの内部

 

 

 

夕食は、旧市街の高台にあるホテルのレストランにて、ライトアップされたブルーモスクとアヤソフィアを眺めながらトルコ料理を楽しんだ。今夜は旅の最後の夜の会食、酔いにまかせて「見果てぬ夢」を歌うも、拍手喝采これなく、ちょっとばかりがっくり。

  
Posted by kiwahori at 15:08Comments(1)TrackBack(0)旅行

2009年09月12日

トルコへの旅(その8)・・・イスタンブール

三十数年ほど前のことだが、テヘランに出張した折に足を伸ばしてヨハネスブルグまで飛んだことがある。テヘランからスイスのチューリッヒへ飛んで、そこからブリティッシュ・エアウエイズで一気に南アフリカまで南下するという飛行ルートだった。チューリッヒに向う途中、イスタンブールの真上を飛行したのだが、そのときのイスタンブールの夜景が実に美しく、街の灯りが遠のくまでずっと眺めていたのを今でも憶えている。

 

イスタンブール衛星写真画像をクリックして拡大 

 

イスタンブールの衛星写真

三十数年前に眺めた夜景の美しさが

甦ってくる

 

 

エフェソスの観光を終えて、夕方イズミールから空路イスタンブールに到着した。三十数年前に空から眺めたこの街に降り立ち、バスの車窓から見る夜の街並みは正しくヨーロッパ。ボスポラス海峡を挟んだ向かい側のアナトリアにあるウスクダルの街は、アジアとヨーロッパがブレンドした雰囲気のある街なのだろうか。ウスクダルは、江利チエミの歌「ウスクダラ ギデーリ−ケンアルディダ ビリヤンムール・・・」で日本人にとっても親しみのある地名だ。

 

イスタンブール年代記 

東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル

 

 

 

 

(上)は東ローマ帝国時代のコンスタンティノープルの

 想像図、街の周囲は強固な城壁で防衛されている。

(左)イスタンブール年代記

 

金角湾周辺のいたるところに残っている東ローマ帝国時代の城壁の址や、賑やかな夏のイスタンブールの夜景を眺めている内に、バスは金角湾沿いにあるレストランに到着。そこで、カラマリの揚げ物、シュリンプの塩茹でなどのシーフードを食べ、ビールで喉を潤す。エフェソスの観光で少々疲れたせいか、ジョッキ一杯のビールで酔いが回ってしまった。

 

翌日の観光は、ボスポラス海峡クルーズから始まり、そのあとグランド・バザールで買い物。値切りの交渉と駆け引きが面白い。昼食はトルコ名物のドネル・ケバブ。アメリカやカナダでもケバブをよく食べたけれども、本場のものはやはりうまい。午後は、オスマン帝国の14代スルタン・アフメトの命で1600年代の初めに建てられたスルタン・アフメト・モスク(ブルーモスク、世界遺産)を見学。そのあと、ビザンツ帝国時代の地下宮殿(大きな地下貯水槽)を見て、エジプシャン・バザールへ。そこでブラックペパーなどのお土産を少々買い求める。バザールを出て、イスタンブールの銀座通りイスティクラル大通りを散策、そしてホテルへ。夜はベリーダンスショウを観ながらのディナーを楽しむ。

                              コンスタンティノープル侵攻の

ボスポラス海峡を航行    ボスポラス海峡に     オスマン軍の要塞

するタンカー        面したドルマバフチェ宮殿   ルメリ・ヒサール 

ボスポラス海峡クルーズボスポラス海峡クルーズ・ドルマバフチェ宮殿ルメリ・ヒサル 

 

 

 

 

 

 

 グランド・バザール      ブルー・モスク        地下宮殿

グランド・バザール

ブルーモスク

地下宮殿

 

 

 

 

 

 

 

 ドネル・サンド・ショップ  ドネル・サンドイッチ

Doner Sandwich Shop

ドネル・サンド

 

 

 

 

 

 

 

昼間のイスタンブールは、昨夜バスから眺めた夜の街とは違った顔をしていた。モスレムの世界を象徴するモスク、ビザンツ文化の名残、そして現在のヨーロッパの都市の顔がイスタンブールには混在している。特に、旧市街にある歴史地区を観光すると、この巨大都市には、「A blend of European and Asian culturesうとい香りが強く漂っていることが感じ取れる。先週の洪水はイスタンブールに大きな被害をもたらしたようだが、旧市街地域は無事だったという。

  
Posted by kiwahori at 13:18Comments(0)TrackBack(0)旅行

2009年08月31日

未知なる与党に託すもの

衆院選は民主党が圧勝、国民は民主党に国政を託すことを選択した。本日の日本経済新聞の朝刊に、同紙政治部長、宮本明彦氏の「未知なる政党に託すもの・・・大きな将来図を」と題する記事が掲載されている。新政権に何を託すか、そのことについて、この記事は正にわたしの思うところを代弁してくれている。ここに、その記事の一部を紹介したい。

 

『そもそも、迅速な意思決定は、ベルリンの壁が崩壊した後の国際環境の激変に、日本の政治が応えられないとの批判から唱えられたものである。確かに、この20年間の世界の変化を、誰が想像できただろう。米国に比肩する欧州連合(EU)が出現し、その中心の一つである統一ドイツでは旧東独出身の女性首相が人気を博している。米国には、黒人大統領が誕生し、中国、インド、ブラジルなどの新興国が世界経済のけん引車になった。日本は確実に小さく、頼りない存在になっているのに、20世紀後半の成功体験から抜け出せず、斬新な手を講じることができないままだ。

 

新政権に託されたのは、まさにこの点である。高速道路の無料化も、子ども手当ても、約束したことは守らなくてはならない。しかし、政権交代の原動力となったのは誰もが喜ぶバラマキばかりではなく、もっと大きな将来図への期待だ。来年の参院選に次の照準を合わせるだけでは、今回の記録的な得票が泣く。』

 

ダメッジが大きかった自民党も建て直しを図り、民主党と切磋琢磨しながら、政権交代が可能な二大政党制の基盤作りに励んでもらいたいと思う。

  
Posted by kiwahori at 10:17Comments(1)TrackBack(0)政治

2009年08月29日

トルコへの旅(その7)・・アルシノエ4世の墓所は語る

ギリシャから移住してきたイオニア人によって建設されたエフェソスは、ローマの支配下に入ったあとも、アジア州の州都として繁栄を極めた。共和制ローマの末期には、権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に一時期エフェソスに滞在し、甘い日々を過ごしたと言い伝えられている。

 

そのクレオパトラ7世とプトレマイオス朝の女王の座を争ったのが妹のアルシノエ4世。紀元前47年、ナイルの戦いで破れたアルシノエ4世は捕らえられローマに送られるが、カエザルのはからいで一命は救われ、エフェソスの街に幽閉される。それでも、クレオパトラにとって

アルシノエ4世の存在は脅威であった。カエザルの死後、実権を手中にしたアントニウスはクレオパトラの意向を受けて、アルシノエ4世を殺害する。

 

アルシノエ4世の墓所

 

 

エフェソス遺跡のクレテス通り沿いにある

アルシノエ4世の墓所 Octagon(八角堂)

 

 

アルシノエ4世の復元された顔 

 

先端技術を駆使して顔面復元された

アルシノエ4世

 

 

 

 

 

 

 

 

1990年の初頭、オーストリア科学アカミーのヒルケ・テュアー(Hilke Thuer)博士は、エフェソス遺跡にあるOctagon (八角堂)の再調査を行い、これはプトレマイオス朝のアルシノエ4世の墓所で、石棺に安置されている人骨はクレオパトラの妹のアルシノエ4世の可能性があるという調査結果を発表。その後、調査チームは最先端の技術を駆使して人骨を分析、頭蓋骨は二次大戦中に散逸したが、残された記録を基に顔面復元を行った結果、アルシノエ4世の母親はアフリカ人であることが分ったという。つまり、アルシノエ4世はエジプト人の母親とギリシャ系白人の父親との混血ということになるわけだが、姉のクレオパトラもエジプト人との混血とは必ずしも言い切れない。腹違いの姉妹ということもあり得るからだ。

 

今回のエフェソスの観光では、この Octagon の墓所は見学していない。8月2日午後9時からの NHK スペシャル「クレオパトラ、妹の墓が語る悲劇」の映像で エフェソスの遺跡が紹介され、このOctagon を初めて観た次第。折角エフェソスまで足を伸ばしたのに、誠に残念なことであった。

 

NHK に先立ち英国の BBC では、今年の3月23日にドキュメンタリーとして、「Cleopatra:  Portrait of a Killer is a tale of rivalry, lust, incest, murder and power that destroyed an empire.  It is an incredible true story about one of history’s greatest legends. クレオパトラ、殺人者の肖像・・・帝国を崩壊させた内紛や対立関係、肉欲、近親相姦、そして殺人と権力。偉大な伝説の一つが真実として甦る」、と生々しいキャッチフレーズで放映された。

 

アルシノエ4世の殺害については、1世紀のローマ時代の歴史学者フラウィウス・ヨセフス(Flavius Josephus)が著した「ユダヤ古代誌 Antiquities of the Jews」に若干の記述があるというので調べてみた。すると、その英訳版の15巻4章で、アルシノエ殺害のことについて短く触れていることが分った。ローマ時代のこの歴史書で、クレオパトラは権力志向が強く、貪欲で、肉欲に溺れた性悪女だった、とこきおろされているも興味深い。参考までに以下に引用。

 

『Now at this time the affairs of Syria were in confusion by Cleopatra’s constant persuasions to Antony to make an attempt upon every body's dominions; for she persuaded him to take those dominions away from their several princes, and bestow them upon her; and she had a mighty influence upon him, by reason of his being enslaved to her by his affections. She was also by nature very covetous and stuck at no wickedness. She had already poisoned her brother, because she knew that he was to be king of Egypt, and this when he was but fifteen years old; and she got her sister Arsinoe to be slain, by the means of Antony, when she was a supplicant at Diana’s temple at Ephesus;』

 

(要訳)権力欲に執着心が強く、アントニウスを色仕掛けで虜にして、王子達の支配権を略奪してクレオパトラに与えることをアントニウスにいつもねだっている。貪欲で、どんなあくどいこともやりかねない生来の悪女クレオパトラは、彼女の弟がエジプトの王になることを阻止するため、当時まだほんの16才だった弟を毒殺。そしてまた、エフェソスの神殿でアルテミスの女神にお祈りを奉げる妹のアルシノエ4世をアントニウスに殺害させた。

 

『If there were but any hopes of getting money, she would violate both temples and sepulchers. Nor was there any holy place that was esteemed the most inviolable from which she would not fetch the ornaments it had in it; nor any place so profane, but was to suffer the most flagitious treatment possible from her, if it could but contribute somewhat to the covetous humor of this wicked creature: yet did not all this suffice so extravagant a woman, who was a slave to her lusts, but she still imagined that she wanted every thing she could think of, and did her utmost to gain it; for which reason she hurried Antony on perpetually to deprive others of their dominions, and give them to her.』

 

(要訳)クレオパトラは、お金が欲しければ、それらが神殿や聖墳墓であろうがおかまいなしに、そこからお金を強奪してくるという冒涜行為をなし、この性悪女の貪欲な気質を満足させることであれば、いかに神聖なものに対してであろうと破廉恥で冒涜的な手段をとって欲しいものを手に入れる。肉欲の虜になっているこの浪費癖の女にとっては、それでもまだ満足のいくものではなく、対立する相手から支配権を奪ってくるようアントニウスを急き立てたのである。

  
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2009年08月27日

トルコへの旅(その6)・・古代都市エフェソス

古代史の地層が幾重にも折り重なる小アジア、エフェソスはそのような小アジアを象徴するスポットの一つである。イオニア人(ギリシャ人)による古代都市エフェソスの建設、南ウクライナ地域に勢力をふるった遊牧騎馬民族のキンメリア人の襲来、アナトリアに興った王国のリディア人によるエフェソス再建、アケメネス朝ペルシャ人による支配、アレクサンダー大王率いる最強の戦闘能力を誇るマケドニア軍がエフェソスを征服、ローマ人による支配、ゴート人の侵略があり、更に異教徒モスレムのアラブ人の攻撃を受けエフェソスは衰退していく。果てには、背後の山々からの長年に亘る土石流で、街全体が埋もれてしまい、その歴史を閉じ、永い眠りにつく。

 

  エフェソスの年代記   エフェソス遺跡の地図 エフェソス遺跡の所在地

エフェソスの年代記

 

エフェソス遺跡の地図

エフェソスの位置地図

 

 

 

 

 

 

画像をクリックして拡大

 

 

 

 

エフェソスの遺跡はトルコの小村アヤソルクの地中に埋もれている。古代都市エフェソスがその姿を再び現し始めたのは、19世紀半ばの大英博物館の考古学チームによる発掘からである。その後、オーストリアの考古学研究所が発掘に携わり、現在はトルコ政府の支援で本格的な発掘調査が進められている。これまで発掘されたのは遺跡全体の5%ほどというから、いかに広大な遺跡であるかが分る。セルチュクの郊外でエフェソス遺跡に程近い山中に、聖母マリアと聖ヨハネが余生を送った場所があり、そこに聖母マリアの終の棲家が保存されている。

 

クレテス通り

トライアヌスの泉

 

左:クレテス通り

右:トライアヌスの泉

 

 

 

 

ハドリアヌス神殿

セルスス図書館

 

左:ハドリアヌス神殿

  (絵ハガキからコピー)

右:セルスス図書館

 

 

 

エフェソスの円形劇場

古代都市の公衆トイレ

 

左:円形劇場

右:古代都市の公衆トイレ

 

 

 

 

アルテミス神殿跡

アルテミス神殿の復元スケッチ

 

左:アルテミス神殿跡

右:アルテミス神殿の

  復元スケッチ(ネットから

  コピー)

 

 

港通り(アルカディアン通り)

聖母マリアの家

 

左:アルカディアン通り

  (港通り)

右:聖母マリアの家

 

 

これだけの大規模な古代都市遺跡に加えて、アルテミス神殿跡、聖母マリアの家や遺跡から発掘された貴重な歴史的遺産が展示されている考古学博物館などがあり、トルコの重要な史跡の一つになっているにも拘らず、エフェソスはなぜか世界遺産に登録されていない。

 

エーゲ海と地中海を取り巻く大地に興亡した幾多の古代国家との交易で栄えた港湾都市エフェソス。その遺跡にどっぷりと浸かり、古代人の営みに思いを馳せた一日であった。疲れを知らず精力的にガイドしてくれたエロールさんに感謝、でも遺跡内での強行軍にはいささか疲れた。

  
Posted by kiwahori at 14:29Comments(0)TrackBack(0)旅行

2009年08月23日

トルコへの旅(その5)・・パムッカレとヒエラポリスの遺跡

パムッカレの丘陵地帯は一面白銀の世界。でもこれは降り積もった雪ではない。石灰分を含んで湧き出る温泉が、長い年月をかけてこの辺り一帯を白一色に塗りつぶしているのである。重なり合うように形成されている石灰棚の光景は幻想的で美しい。ローマ時代のパムッカレは温泉保養地として賑わっていたという。この丘陵地帯の背後には、アッタロス朝ペルガモン王国の古代都市が栄えていた。古代都市の名前はヒエラポリス、今日はその遺跡を見学した。

 

ペルガモン王国

Kingdome of Pergamum

左:ペルガモン王国の起源

右:ペルガモン王国の地図

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 ヒエラポリスの遺跡   ヒエラポリスの遺跡

 水道跡          円形大劇場

ヒエラポリス遺跡水道

ヒエラポリス円形劇場

 

 

 

 

 

 

 

ドミティアン門(北門)ヒエラポリス

 

ヒエラポリス遺跡

ドミティアン門

(ネットからコピー)

 

 

温泉が湧き出る池の底には、地震で倒壊した古代都市ヒエラポリスの遺跡の一部が沈んでいて、建物の柱や石材が温泉水を透してゆらゆらと見えてくる。大勢のロシア人観光客が日がな一日温泉池に浸かったり、甲羅干しをしたりして過ごしている。彼らは遺跡よりも温泉の方が好きなのか? ロシア人などスラブ民族が歴史に登場して来るのは、ゲルマンやラテン系の諸民族に比べてだいぶ遅かった。部族の祖先がもともとどこに住んでいたのかも定かではない。そんなスラブ系のロシア人観光客には、古代遺跡など、どうでもよいのかも知れない。

 

ロシア人は温泉がお好き

パムッカレ石灰棚温泉

 

 

 

上:石灰棚

左:遺跡が沈んでいる温泉池でのんびりと過ごす

  ロシア人観光客(いずれの写真もネットからコピー)

  
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2009年08月11日

お盆休み

毎年のことだが、お盆休みは家内の実家で過ごすことにしている。今年は今日から16日まで滞在の予定。東京から義弟夫婦と姪がやって来る。この姪は、大学を卒業して就職も決まっていたのに、それはキャンセルして、脚本家、倉本聡氏が主催する富良野塾に入塾、今年の4月に卒業して、現在は東京のさる劇団に所属している。塾生の2年間、いろんなことを学んだことだろうし、それなりに成長もしているだろう。会って話をするのが楽しみだ。  
Posted by kiwahori at 08:38Comments(1)TrackBack(0)雑記

2009年08月10日

 トルコへの旅(その4)・・・コンヤ、踊るムスリム

チュルク民族はもともとどこに住んでいたのか、その原住地は未だはっきりとはしていないという。4世紀半ば、中央アジアの草原地帯のジュンガル盆地には遊牧民族の丁零、勅勒、鉄勒が、タリム盆地には突厥が分布していて、6世紀には、これらのチュルク系遊牧騎馬民族が西へと移動を始める・・・どうもこれが有力な説のようである。西進したチュルク系遊牧民族の一派は、11世紀にイラン、イラク、トルクメニスタンを中心にセルジューク朝を興し、アナトリアに辿り着いた部族はルーム・セルジューク朝を建国した。そしてコンヤは、このルーム・セルジューク朝の首都であった。

 

チュルク系遊牧民族の西への移動

 

6世紀、ジュンガル盆地の丁零、勅勒、鉄勒

タリム盆地の突厥が西へと移動を始める

(クリックして拡大)

 

 

セルジューク朝の勢力図

11世紀、チュルク部族の一派は大セルジューク朝

を興し、アナトリアに辿り着いたチュルク部族は

ルーム・セルジューク朝を建国する

 

 

トルコ共和国のルーツ

 

 

チュルク系遊牧騎馬民族の西進から

セルジューク朝、オスマン朝、

そしてトルコ共和国まで

(纏めは自作、大筋でこんなところか?)

 

 

カッパドキアを出てバスはシルクロードを西に向けて走りコンヤを目指す。そのバスの中で、ガイドのエロールさんは上述のようなルーム・セルジューク朝建国の歴史を解説されたと思うのだが、心地よく居眠りをしながらの車中のこと、よく憶えていない。ということで、帰国した後、資料をひも解き史実を確かめている始末。

 

コンヤに向う途中、シルクロード沿いにあるスルタンハ二・キャラバンサライ(隊商宿)を見学。入場口に掲げてある解説プレートには、セルジューク朝により1229年建てられたとある。隊商宿内のラクダ小屋は未だに家畜の臭いが残っていたが、これは観光客を中世シルクロードの隊商宿にタイムスリップさせるトリックなのだろうか?

 

スルタンハ二・キャラバンサライ

スルタンハ二隊商宿

 

SULTANHANI

CARAVANSARY

(スルタンハニ 隊商宿) 

 

 

 

コンヤはイスラム教の旋舞教団の総本山がある宗教都市。ルーム・セルジューク朝の時代に開基された旋舞教団は、オスマン帝国の庇護も受け隆盛を極めた。ここでは、旋舞教団の開祖メヴラーナ・ルーミーの霊廟に隣接したメヴラーナ博物館を見学した。旋舞教団の信者は、旋回舞踊(セマー)を通して苦難を乗り越え悟りの境地を開こうと信仰心は厚い。円筒の帽子をかぶり、スカートのような白装束で、両手を水平にあげて、ただひたすらに旋回を続けるという神秘的な旋回舞踊。残念ながら旋舞は観ることができなかった。コンヤにはトルコ国内のみならず世界から巡礼者が訪れる。酷暑の夏にも拘らず、この街を歩いている女性はスカーフを巻き、厚手の長いコートに身を隠している。トルコに来て初めて見る街中の光景だった。

インジェミナーレ神学校

 

メヴラーナ博物館

 

左はインジェミナーレ

神学校

右はメヴラーナ博物館

(写真はネットからコピー)

 

 

 

 

 

 

              旋回舞踊(写真はネットからコピー)

旋回舞踊

旋回舞踊

旋回舞踊

 

 

 

 

 

 

  
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2009年08月07日

トルコへの旅(そのー3)・・・カッパドキア

古の文明が折り重なる小アジアは大自然の営みも美しい。カッパドキアは標高1,000メートルほどのアナトリア高原の中央部の台地に広がっている。「今から300百万年も前のこと、アナトリア高原にある二つの火山が噴火を繰り返し、溶岩と火山灰が堆積、硬軟の岩の層が重なり合い凝灰岩が造成された。これが長い年月に亘り風雨に浸食されて、カッパドキアの奇岩群の景観を生み出した」、とガイドのエロールさんの解説があり、なるほど、なるほどと納得。キノコやラクダ、煙突など、様々な形に見える奇岩群が林立する風景は、まさしく自然が生み出した雄大な造形アート、見る人を圧倒する。

 

アルフィナ洞窟ホテル

ゼルバの谷のキノコ岩群

左は宿泊したアルフィナ

洞窟ホテル

右はゼルバの谷のキノコ

岩群

 

ウチヒサールの城塞

ギョレメの村

 

左はウチヒサールの要塞

右はギョレメ村を眺望する

写真

 

 

 

この地も古代オリエント文明と深い関わりを持っていた。遠い昔はヒッタイト王国の中心地であったし、アケメネス朝ペルシャ帝国の支配を受けたこともある。更に時は流れ、ローマ帝国の属州となり、セルジューク朝、オスマンと支配者が代わっていく。ガイドのエロールさん曰く、カッパドキアとは美しい馬のいる国という意味だと。古の武人達の騎馬戦に、血統のいい多くの馬がこの地域から徴用されたに違いない。

 

古代のカッパドキアに住んでいた男達は、農作業に精を出し、いい馬を飼育する働き者ぞろいだったのだろうが、我々が見た現在のカッパドキアの男どもは怠け者が多いようだった。野良仕事は奥さんに任せ、普段は近くの茶店で日がな一日、チャイを飲み、村の男達とマージャンをして過ごす。日暮れになって、野良仕事に疲れた奥さんが待つ畑までトラクターで迎えに行き、家路につくという暮らしぶりらしい。道理で、この近辺で見かけた農夫達は、たるんだ顔をしていた。

 

カッパドキア地方のギョレメ国立公園と岩石遺跡群は世界遺産に登録されている。我々の観光は、まずはギョレメ国立公園にある洞窟教会の見学から始まった。その昔、ローマ帝国の弾圧を逃れてこの地に移り住んだキリスト教の修道士達が、凝灰岩をくり抜いて造った洞窟教会群の遺跡。12世紀に造られた教会の内壁にはフレスコ画も描かれている。

 

洞窟教会

 

ギョレメ野外博物館にある

洞窟教会

 

 

 

カッパドキアでは、36箇所もの地下都市が発見されている。エロールさんが案内してくれたカイマクル地下都市はその一つで、地下85メートルにも達する最大規模の地下住居群の遺跡。この地下都市は6〜10世紀にキリスト教徒によって築造されたもので、外敵回教徒が襲来したとき、食糧を蓄えたこの隠れ家に何ヶ月もの間身を潜め、外敵が立ち去るのを辛抱強く待ったという。多いときには10万人もの人が地下都市に住んでいたらしい。

 

カイマクル地下都市の入り口

カイマクル地下都市

 

左はカイマクル地下都市の

入り口

右は地下都市内部

(写真はネットからコピー)

 

 

カイマクル地下都市ワイナリー

 

 

地下都市内のワイナリー

(写真はネットからコピー)

  
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2009年07月29日

 トルコへの旅(その2)・・・アンカラ

アンカラから東に150キロほどのところにボアズカレという小さな村がある。紀元前16世紀頃からアナトリア半島に栄えたヒッタイト王国の都がここにあった。幾多の古代オリエントの国々が興亡し廃墟となったこの地に、ダリウス1世大王やアレクサンダー大王が大軍を率いて往来した。アンカラの小高い丘に立ってそのことを想像すると、軍馬や戦車、そして兵士が駆け抜ける響きが聞こえてくるようだ。ローマ帝国の時代からビザンチン帝国、オスマン、そして

トルコ共和国へと時代は流れる。その間2千数百年、歴史から葬り去られ、忘れられていた

ヒッタイト王国は漸くその姿を少しずつ現しつつある。

 

今回の旅では、ヒッタイトの遺跡への探訪は予定されていなかった。けれども、アンカラにあるアナトリア文明博物館を見学し、ヒッタイト遺跡から発掘された数々の収蔵品を見ることができた。地母神の座像、クサビ型文字の粘土板、金の装飾品、ヒッタイトの兵士像、弓引く戦車等々。更には、旧石器時代からビザンチン帝国までの発掘品のコレクションはなかなか見応えがあった。

 

    トルコの地図と旅のルート(日程:平成21年6月24日〜7月3日)

トルコ地図

トルコ旅行旅程

 

 

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       アナトリア文明博物館に収蔵されている宝物・文化財

              (ヒッタイト遺跡から発掘)

 弓を引く戦車の兵士    ヒッタイトの兵士     地母神(キベレ)      

弓を引く戦車

ヒッタイトの兵士ハトウシャス遺跡

地母神の座像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に訪れたのは、トルコ共和国の建国の父と呼ばれるムスタファ・ケマル・アタチュルク初代大統領が眠るアタチュルク廟。トルコ国民はこの建国の父をこよなく愛し敬う。日本にはこれほど壮大な廟はない。トルコ国民に心のよりどころを、というトルコ共和国の要人による国策もあるのだろう。明治維新を成し遂げ、近代日本の礎を築いた維新の志士の群像は今や霞みつつある。それにしても戦後の日本の指導者達は、そんな仕掛けがなんと下手なことか・・・・・。

                小高い丘からアンカラの

  アタチュルク廟     住宅街を望む

アタチュルク廟丘の上に建つアンカラの住宅街

  
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2009年07月27日

国のバランスシート・・・アメリカの方が財政内容はまだましか?

財務省は24日、日本の2007年度の資産と負債を示すバランスシートを公表した。国がどれだけの借金を抱えているのか、誰しもが知っておきたいことだ。アメリカの財務省も国の2007年度のバランスシート公表している。日本に比べてアメリカの財政の方がよほど逼迫していると思っていたのだが、どうもそうではなさそうだ。表面だけの限られた部分の比較ではあるが、両者のバランスシートを見ると、わたしにはアメリカの方がまだましだというふうに思える。

 

   財務省公表のB/S                     米国財務省公表のB/S

日本政府のバランスシート

米国政府のバランスシート米国政府のバランスシート 

 

 

 

 

 

 

 

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自分流に分析した幾つかのポイントを列挙してみると:

  • 負債合計は、日本977兆円、米国は1,076兆円(1ドル100円換算)で、それほど大きな差はない。GDP 対負債合計の比率を見ると、日本は 195%に対して米国は                              75%で日本の方が借金返済に長期間かかると言うことになる。それだけ日本の財政の方が逼迫していると言うこと。
  • 債務超過額は、日本が282兆円に対して米国は920兆円。これは米国政府の資産の有価証券、貸付金、運用預託金、有形固定資産が圧縮されていることによる。
  • 国債発行残高を見てみると、日本は675兆円、米国は507兆円で、米国の方が少ない。GDP 比日本は135%、米国は36%で、米国の方が償還余力は高い。
  • 金融危機回避・景気刺激策で多額の公的資金を投入した米国の2009年度の国債発行残高が、仮に700兆円に急増したとしても、対 GDP 比は49%。かたや、日本の国債発行残高もほぼ700兆円に膨らむとすれば、GDP 対比は140%となり、日本の財政指標は更に悪化する。

 このように見てくると、米国政府の財政状況の方が日本よりよほどましだと言えるのではないかと思う。来る衆院選に向けた自民、民主、両党のマニフェストで、財政再建の施策をも注視しておきたいと思っている。

  
Posted by kiwahori at 15:02Comments(1)TrackBack(0)経済

2009年07月19日

トルコへの旅(その1)・・・トルコ人のルーツ

今回のトルコ旅行の現地ガイドさんは、イスタンブール大学を優秀な成績で卒業して、日本の有名大学の文系大学院博士課程に留学した経歴の持ち主。現在は従業員100名以上を擁する繊維製品会社をイスタンブールで経営している。そんな人が何故現地ガイドかと気になったので、本人に聞いてみると、会社経営というストレス解消のため、年に何回か日本人観光客相手のガイドをやっているという。ご本人は大の日本びいきで、トルコ人のルーツは日本人と同じくモンゴルだと信じ込んでいる。だから、日本人に対して遠い親戚といった親近感を抱いているのである。

 

中国の南北朝時代にアルタイ山脈の麓に住んでいたウラルアルタイ語族の遊牧騎馬民族の突厥(チュルク=トルコ)が西へと移動してアナトリアに辿り着いた。これがトルコ民族のルーツと言う(ウラルアルタイ語族という分類法は現在では否定されているらしいが、ここでは、突厥はウラルアルタイ語族ということにしておこう)。こうしてアナトリアに住みついた突厥は、小アジアやバルカン半島に以前から住んでいたギリシャ人や、クルド人、アラブ人、スラブ人などと混血し、現在のトルコ民族へと進化して行く。ガイドさんもロシア人との混血と言っていた。トルコで見かけた人達は、色が白くて背が高い人、色が浅黒くて背が低い人、細面、丸顔など千差万別だったが、顔立ちは概してヨーロッパ人に近い。日本人の顔立ちそっくりのタタール人の容貌をしたトルコ人は殆んど見かけなかった。それでも、トルコ人の五人に一人はモンゴリアン・スポットが現れるとガイドさんは言うから、突厥がトルコ人のルーツであることに間違いはないのだろう。

        

          西突厥と東突厥

突厥

突厥 

 

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このガイドさんは、遊牧騎馬民族の突厥の一派が南下して高句麗に移り、対馬・壱岐経由筑紫に到り、更に東征して畿内の豪族を従え大和朝廷をつくったと真面目に考えているのであろう。これは、江上波夫氏の、いわゆる騎馬民族征服王朝説だが、仮設の域を出ておらず、考古学的に立証されているわけではない。神武東征は神話の世界だが、応神天皇の東征説を信じるわたしは、応神天皇その人のルーツが突厥の一派なのかも知れないと考えたりもする。そうだとすれば、ガイドさんの説明のように、日本人とトルコ人のルーツを遡れば同じモンゴルだと言えなくもないことになる。

 

時は流れて今からおよそ120年前、トルコのエルトゥール号が和歌山県の沖合いで難破するという事故が起きたが、その時の日本人の献身的な救助活動への感謝の気持ちや、ロシアの南下政策でトルコと対立していたロシアを日露戦争で日本が破ったことなどで、トルコには今でも親日家が多い。イラン・イラク戦争の最中、在留邦人救出に苦慮していた日本政府に代わって、トルコ政府はトルコ航空機をテヘランに発進させ日本人を無事救出した話はよく知られている。この救出劇での日本政府のだらしなさはさて置き、トルコ人は恩義に篤く、100年以上も前のことを決して忘れず、リスクをも顧みずイランの在留邦人救出作戦を強行したのである。今回の旅でも、ガイドさんも含め日本人を好感している何人かのトルコの人に接することができた。

 

アナトリアに去来した征服者や移民、興亡した国々の歴史など、トルコには見所が満載、もう一度訪れてみたい国の一つとなった。

  
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2009年07月04日

帰ってきました

トルコの旅から昨夕帰ってきました。アナトリア半島に興亡した数々の文明を物語る史跡や自然遺産は短期間では観つくせない。古代オリエント文明、ギリシャ・ローマ文明、ビザンチン文化、イスラム文化が栄えた小アジアのほんの一部を、10日間という駆け足の日程で観てきました。世界の三大グルメの一つといわれるトルコ料理にも堪能。羊肉のケバブ、焼き鯖のサンドイッチなどのファースト・フードも実に美味かった。追々、今回の旅をブログに投稿したいと思っています。

 

   アナトリア半島

アナトリア半島

 

 

 

 

 

ガラタ塔からブルーモスク  ガラタ塔から金角湾に ガラタ塔からボスフォラス

(右)、アヤソフィア(左)を  に架かるガラタ橋を   海峡を眺望

望む(イスタンブール)    望む(イスタンブール) (イスタンブール)

イスタンブール

イスタンブール

イスタンブール

 

 

 

 

 

 

 

紀元前3世紀から建設が  エフェソス遺跡のクレテス通り

始まったエフェソス古代     クレオパトラとアントニウスも

都市のケルスス図書館   この街で甘いひと時を過ごした

エフェソス遺跡

エフェソス遺跡

 

 

 

 

 

 

     

    世界遺産カッパドキアの洞窟住居          クリックして拡大

カッパドキア

カッパドキア

 

 

 

 

 

 

  
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2009年06月23日

Shanghai Spirit

先週、上海協力機構の首脳会談がロシアのエカテリンブルクで開かれ、引き続き、BRICs の首脳会議も行われた。上海協力機構の会談で表明された基本路線は、米欧への対抗、非西欧化、多極化であった。

 

2001年の上海協力機構創設のときに採択された Shanghai Spirit は、志も高く、なかなかのものだった。

 

Shanghai spirit characterized by mutual trust, mutual benefit, equality, cooperation, respect for diversified civilizations and common development 上海精神の特徴は、相互信頼、互恵、平等、協調、文化の多様性の尊重、共同の発展である」、と宣言している。

 

しかし、これはあくまでも表向きだけのことであって、中露が主導する上海協力機構は、創設当初から米国への対抗という狙いが込められていたのは疑う余地もない。アメリカに端を発する金融危機と世界同時不況は、米欧の経済力を蝕む。一方で、BRICs 米欧とは一線を画し、存在感を高める。そして、中露は非西欧同盟、価値観の多極化を標榜する戦略を推し進める。

 

価値観の多極化と言えば聞こえはいいが、詰まるところは、独裁体制国家の堅持ということに他ならない。独断的に表現するならば、中国とロシアは、資本主義導入型一党独裁社会主義国家であり、この二国が主導して、米欧資本主義・自由主義に対抗する国家集団を形成しようと試みているということだ。強権的経済政策を進めるロシアには、政党政治は根付いておらず、所詮は統一ロシアの一党独裁だ。

 

嘗ての北大西洋条約機構の西側とワルシャワ条約機構の東側との対立構造は氷解し、西側が優位に立った。中露はこの劣勢を挽回すべく新しい枠組みの構築を目指している。つまり、北大西洋条約機構に対抗する上海協力機構プラス集団安全保障条約機構(CSTO)の構図である。見せかけのShanghai Spirit に魅せられたからとは思えぬが、ASEAN 諸国も中露側になびく可能性が高い。

 

この動きにどのように対処するか、日本は難しい立場に置かれている。言えることは、相手方が一党独裁強権的体制を維持する間は、友好関係強化にも限界があるということ。どう考えを巡らしてみても、日米同盟が基軸という結論に至り、日米同盟を堅持しつつ、中露との関係の進化を図るという戦略となってしまう。このことについて、政党間の討論で国会議員が口角泡を飛ばす激論を交わすところや、国際政治の専門家がディベートするのを聞きたいと思うのだが、最近はテレビ番組などでも、このような議論にお目にかかったことがない。

  
Posted by kiwahori at 15:16Comments(1)TrackBack(0)国際問題