2005年08月06日

シェーンブルン宮殿 (ウイーンの旅・・・続き)

O 君から知らせてもらった8月4日夜の NHK テレビ番組、「世界遺産シェーンブルン宮殿、ウイーン、女帝の栄華、悲劇の皇女」を観て、昨年の中欧の旅が懐かしく想い出される。さて、一昨日の「シェーンブルン宮殿 (ウイーンの旅)」の続きを書き込むこととしよう。
 
2004年9月19日
世継ぎの男子が生まれぬままカール6世は没したため、1740年、ハプスブルグ家は神聖ローマ皇帝位を喪失する。そして、カール6世の長女、マリア テレジアがオーストリアを相続することになるのだが、これを不服とするプロイセンなどの列強とオーストリア継承戦争が勃発し窮地に陥る。しかし、イギリスの支援を受け劣勢を挽回し、オーストリア、ベーメン、ハンガリーの継承が承認されることになる。1745年、マリア テレジアの夫、フランツ シュテファンがハプスブルグ・ロートリンゲン家として神聖ローマ皇帝位を奪還し、マリア テレジア治世のハプスブルグ家の栄華が始まるのである。
 

700e2a10.JPG04f160dc.jpg写真左:美術史博物館前に建つマリアテレジア像

写真右:シェーンブルン宮殿の裏の岡に建つグロリエッテ、コリンズの戦いの戦勝記念として、1775年に建造。

 

シェーンブルン宮殿の外観写真は8月4日の BLOG を参照。この宮殿は、1695年、レオポルド一世の夏の離宮としてバロック様式で建てられたが、後にマリア テレジアは、この宮殿を居城と決めて外壁の色をマリア テレジア イエローに塗り替え、優雅なロココ調の内装に改修した。ウイーン会議が行われた大広間は宮殿の中心に位置し、金箔を惜しみなく使った内装やボヘミアングラスのシャンデリアなどは女帝の趣味が色濃く反映されているという。モーツアルトが御前演奏をした鏡の間、フランス革命の後、夫のフランス皇帝ルイ16世と共にギロチン処刑台の露と消えた悲運な末娘の皇女、マリーアントワネットの部屋などなど、見尽くせない程の絢爛豪華な大宮殿。教会の権威とローマの歴史と伝承を意味する神聖ローマ皇帝位を背景にしたハプスブルグ家の威光と権力を、列国の王侯達に示すに十分な大宮殿である。

              会議は踊る、されど進まず

ときは1814年、ナポレオンが破れエルバ島に流された後の欧州秩序の回復を協議するため、深謀に長けた時のオーストリア宰相メッテルニヒは、欧州各国の指導者をウイーンに招いた。各国の王侯達の行列がウイーンの街を通る度に花の都は湧き立った。メッテルニヒは秘策を凝らし、ナポレオンなき後の欧州の覇権を握らんと画策する。彼の深謀は功を奏して、列国の王侯達はシェーンブルン宮殿の大広間で、来る夜も来る夜も晩餐会漬けとなり、美酒とワルツに酔いしれてしまう毎日を過ごす。とうとう、ウイーン会議は舞踏会に変じてしまったかに見えたが、実は、王侯達は王侯達で互いに策を弄し牽制し合うものだから、肝心なことはなかなか決まらずに、日々が過ぎてしまう。メッテルニヒが特に警戒していた人物は、ロシアのアレクサンダー大公で、いくら美酒に酔いしれても、会議の時は毅然として真っ向から正論を吐いてくるので、始末が悪かったらしい。この会議は宮廷外交の駆け引きと社交的雰囲気のなかで進められたため、遅々として会議は進展しなかった。オーストリアの将軍、リーニュ公は、このことを揶揄して「会議は踊る、されど進まず」と批判したという。

後に、ナポレオンのエルバ島脱出の報に欧州の諸侯は恐れおののいた。しかし、その時のナポレオンは、かつて誇った天才的な常勝将軍ではもはやなかった。イギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで破れ、セントへレナ島に流刑となり、その地で没した。

  昼食はウイナーシュニッツエル、その後プラーター公園へ

ベートーベンがよく通っていたというレストラン「グリーヒエンバイズル」でウイナーシュニッツエルを食べた後、プラーター公園に行き大観覧車に乗る。

9d1074c0.gif薄くスライスした仔牛の肉にパン粉をまぶして、両面をフライパンで焼いたオーストリア風カツレツ。

 

 

f0d5cd85.jpg中世のプラーター公園周辺は、ハプスブルグ家の狩猟の場であった。1766年、マリア テレジアの息子、ヨーゼフ二世は、この土地を憩いの場として市民に開放した。

オーソン ウエルズの「第三の男」で有名な大観覧車に乗る。

 

 

 

               美術史博物館を見学

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e262e8af.jpg写真上(左):美術史博物館の正面

写真上(中):博物館所蔵のブリューゲルの「農民の婚礼」

写真上(右):博物館所蔵のブリューゲルの「雪中の狩人」

写真(左):博物館のエントランス階段と天井

ブリューゲルの「農民と婚礼」と「雪中の狩人」の作品が、何故か強く印象に残っている。

 

 

            シェーンブルン宮殿のコンサート鑑賞

夕食は「天満屋」にて和食。その後、コンサートへ。モーツアルトとヨハンシュトラウスの耳慣れた調べを本場のオーケストラで堪能。コンサートの余韻を楽しみながらホテルへ。マリア テレジアの華やかさと雅やかな威光が漂うコンサートでした。

(追加写真)

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昼食にシュニッツエルを食べたレストラン「グリーヒェン バイズル (GRIECHENBEISL)」。BEISL は「居酒屋兼食堂」という意味。その昔、ベートーベンやウイーンの名士が通い、ウイーン料理を肴にビールを楽しんでいたのだろう。レストランの建物や内装は年代を感じさせる雰囲気だが、今は、観光客がわんさと押しかけ店の中はざわめいている。

 

 

 

 

(続きは後日)



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ハプスブルク家の悲劇 1/8 〜革命はいつの世も魅力的【投資一族のブログ】at 2013年08月09日 21:11