2006年09月02日

鮎川義介と戸畑鋳物株式会社

戸畑鋳物株式会社・・日産自動車のルーツ

 

明治の元勲、井上馨の実の姉の長女を母とする鮎川義介は、生まれながらにして実業家として大成する器を備え持っていた。東大機械科を卒業した優秀な技術者だった鮎川は、もの作り現場を常に重要視した。卒業後、身分を明かさず芝浦製作所の職工として働き、西洋の技術を修得するため渡米した際にも1年間は可鍛鋳鉄工場で工員として働いたことが、そのことを物語っている。

 

鮎川は、日本の近代工業を支える鉄道、船舶、機械、鉱業の発展のためには高品質の鋳物製品の国産化が欠かせないと考え、鋳物技術修得のため渡米する。高度の鋳物技術を修得して帰国後、大叔父の井上馨の支援の下、若干29歳の若さで北九州の戸畑に「戸畑鋳物株式会社」を設立したのである。後に鮎川は、義弟が率い経営危機に陥っていた久原財閥の経営を引き受け、久原鉱業の組織改革を行い日本産業株式会社を設立、ホールディング・カンパニーとし、戸畑鋳物をはじめとするグループ企業を傘下に置き支配体制を固める・・・日産コンツェルンの誕生である。

 

このとき関西においては、有力企業の久保田鉄工所が、米国人、ウイリアム・ゴーハムが開発した3輪自動車を事業化するため実用自動車製造株式会社を設立したのだが、業績は低迷し続けていた。後に、この会社はダット自動車製造と名称を変える。自動車事業に目をつけていた鮎川は、北九州の戸畑鋳物にダット自動車製造を買収させ、日本産業との共同出資で自動車製造株式会社を横浜に設立し、戸畑鋳物の自動車部をこの新会社に吸収させた。このようにして戸畑鋳物の自動車部の技術も受け継いだ自動車会社が誕生した・・・日産自動車のルーツである。

 

もともと飛行機のエンジン技術者として来日したウイリアム・ゴーハムは新会社、自動車製造の技師長として働き、ここで鮎川との出会いがあった。やがてゴーハムは日本に帰化し、戦中戦後を通して日本の自動車産業の発展に大きく貢献するのだが、日本の自動車産業が世界の頂点に立とうとしている今では、ウイリアム・ゴーハムのことは忘れ去られてしまっている。

 

乗用車時代到来を予見したMOTアントレプレナー鮎川義介

 

鮎川義介は、日本におけるMOT(MANAGEMENT OF TECHNOLOGY)の先駆者でもあると私は思っている。鋳物の研究では世界的な研究成果を残しており、学士院恩賜賞も受賞している技術者だ。同時に創業経営者でもある。次世代事業を継続的に創出、持続的に発展させる、そのために創造的・戦略的イノベーション・マネジメントを断行。まさにTECHNICALLY ORIENTEDの創業者魂を持ち合わせている事業家であった。

 

鮎川は、鋳物技術修得のため渡米した折に、自動車を運転したことがあるという。この時鮎川は、乗用車時代の到来を予見し、そのことを夢見るようになったと回想している。一方、自動車事業を鮎川に売ってしまった久保田鉄工の創業者は、やがて乗用車の時代がやって来ることを見抜けなかったのだろう・・・70数年経った今、久保田鉄工の後継者達は、このことをどのように感じているのだろうか。

 

国産自動車メーカーが殆ど潰れかけ、自動車産業を投げ出そうとしていた大正時代、自動車こそ将来の日本の産業を支える事業であると確信し、大量生産に踏み切った鮎川の決断は、まさしく創業経営者の器と鋭い勘、強運のなせる業と思えて仕方がない。

 

日産コンツェルンは戦略的資本政策で大きくなった

 

鮎川は、義弟の久原財閥から引き継いだ久原鉱業を中心とする企業群の再編に着手、持株会社、日本産業株式会社を設立し、傘下に日本鉱業、日立製作所、日立電力、戸畑鋳物を置き日産コンツェルンの形成にまい進する。更に、共同漁業(日本水産)、大阪鉄工所(日立造船)、中央火災海上(日産火災海上)、日本蓄音器商会(日本コロンビア)などを買収し傘下に収めたのだが、なかでもダット自動車を買収し自動車産業に参入を果たしたことは鮎川の英断だった。

 

これだけの日産コンツェルンを築くには莫大な資金が必要であったに違いない。鮎川は、日本産業の株式を公開し資金調達を行う方法を実行した。傘下の企業も積極的に株式公開を行い、さらなる事業拡大を進めるという戦略的資本政策を断行した。鮎川は、まさに現在のIPO・EXIT戦略の先駆者でもあったと言えそうだ。

 

(おわりに)・・・ある地方紙の片隅の記事に、北九州で創業された戸畑鋳物株式会社のことが小さく紹介されていた。私は、そんな会社があったのか全く知らなかったのだが、鮎川義介が創設した会社と書いていたので、興味をそそられ調べていくうちに、実はこの会社が日産自動車のルーツであることが分かり、しかもそれが北九州で興された企業だったということで、大変感慨深いものがあった。その戸畑鋳物は、時を経て今では日立金属となっている。鮎川義介は実業家であり政治家でもあったのだが、ここでは政治家としての側面には触れていない。



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岸信介 −権勢の政治家− 2/3〜満州へ【投資一族のブログ】at 2014年07月24日 21:11
この記事へのコメント
鮎川義介といえば『満州の3スケ』の一人で、なんとなく胡散臭い印象を抱いていましたが、立派な実業家だったのですね。身分を明かさず芝浦製作所の職工として働き…といえば、『北の果ての野蛮な国』と西欧の列強から侮られていたロシアの近代化を目指し、オランダの造船所で一職工としてハンマーを振るって汗を流していたピョートル大帝を思い出しますね。
Posted by waamann at 2006年09月03日 13:44