「ミュージカルは急に歌い出すから恥ずかしい」問題について考えてみた


半年前くらいにツイッターを介して見たサイトがあった。そのサイトのページには「ミュージカルって急に歌い出すから恥ずかしいよね」問題を徹底解説」という記事が載っており、ミュージカルに対して苦手意識を持っている人達がよく言う「ミュージカルって急に歌い出すから恥ずかしい」を解説しているものであった。(http://kindan.net/konshu/embarrassing-musical-sing-suddenly-thorough-commentary )

この「ミュージカルは急に歌い出すから恥ずかしい問題」について私は何故かとても興味を持った。何故なら、友人の1人に「ミュージカルを観に行ったんだけど恥ずかしくて途中退席してしまった」という人間がいたからである。また、タモリさんがテレビ番組で「ミュージカルってなんか恥ずかしいんだよね」という旨の発言をしたことから、あっという間に日本中にぼんやりと「ミュージカルは急に歌い出すから恥ずかしい」という認識が広まったらしい(後日タモリさんはミュージカルを観に行って「よかったよ」と発言しているのでタモリさん=ミュージカル嫌い はただのパブリックイメージであることがわかる)ことから、「おや、結構これは調べてみると面白いのでは」と思い、自主的に調べて考察してみることにした。

注意事項として私はその辺りの学問を修めた訳でもないので今から書く文章を考え方の1つ程度にしていていただきたい。

まず、この一文の分解をしてみよう。
「ミュージカルは急に歌い出すから恥ずかしい」
読み取れるのは主に2つのポイントである。
1つ目は、「ミュージカルは急に歌い出す」という「登場人物が突然歌い出すのは奇妙である。違和感がある」というミュージカルにおける演出方法の違和感について言及していること。 

2つ目は「だからこそ観ていて恥ずかしくなる」という鑑賞者の感情の動きである。 

ざっくりではあるがこの「違和感」と「感情」に分けて考察を進めていこうと思う。

尚、今回は「ミュージカルって急に歌い出すから恥ずかしいよね 笑」のようなミュージカル未鑑賞者の嘲笑まじりの常套句は考えないことにした。これは「歌舞伎って敷居が高いよね」「宝塚歌劇って女が男をやるんでしょー?」のようなパブリックイメージによる壁、もはや偏見から来る言葉であるので、そんな人には喜志先生著「ミュージカルが最高であった頃」を読んでから出直してこいと言いたい。

話を本題に戻す。
この1つ目の「ミュージカルは急に歌い出す」問題はミュージカルの台詞→ナンバー(楽曲)への導入が不自然である為に起こりうる問題である。が、前記事(「ミュージカルは何故ミュージカルとして面白いのか ドラマとしてのミュージカル(彩流社)より学ぶ」 http://blog.livedoor.jp/kkkkietveit/archives/1054650908.html )で触れたようにオペラでも起こっていた問題である。さらに言うと作品自身がこの「突然歌い出す違和感」をジョークとして作品に取り入れているものすらある。ブロードウェイミュージカル「サムシング・ロッテン」やディズニー映画「魔法にかけられて」などである。またブロードウェイミュージカルのアカデミー賞とも言われるトニー賞の授賞式ではこのネタを使って司会が観客を笑わせるものもある。またナンバーに入ろうとする人物を別の人物が邪魔をしてナンバーに入らせない。のようなジョークもある。

つまり、ミュージカルの台詞→ナンバーの演出方法はそれ自体が元々滑稽なものである。現実で喋っている人が急に台詞にメロディーをのせて歌い出したらもうそれはただのギャグだろう。この滑稽な演出方法、もしくは違和感のある演出方法についてミュージカルは色々なアプローチをしてその導入が自然になるようにと進化してきた。例えば、ナンバーを歌い出す「きっかけ」を作る。雰囲気を作って盛り上げる。などである。この違和感のなくなるような演出方法についてはこちらの論文(http://www.seijo.ac.jp/education/falit-grad-school/art-study/academic-journals/jtmo4200000067sk-att/sart-020-08.pdf)が古典的ミュージカル映画である「雨に唄えば」を用いて論考している。ブロードウェイミュージカルのはしりの作品である「三文オペラ」から現在爆発的な勢いで世間を騒がせている「ハミルトン」までミュージカルはミュージカルであるが故にその宿命とも言えるべき演出方法について付き合ってきているのである。

では、ここでこの違和感をある程度克服していると思われる作品をいくつか挙げておく。 あくまで個人的な感覚で選んでいるので他にもあれば教えてください。

ライブコンサート形式ミュージカル
・ジャージー・ボーイズ
・Forever Plaid
・ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ 

歌手が歌唱パフォーマンスをするという非常にわかりやすく、また我々も親しみのあるものである。何故なら膨大な数のアーティストやアイドルが楽曲をテレビで披露するのは我々にとって日常茶飯事の光景である。ミュージカル対して苦手意識のある人に私が勧めるとしたらこれらの作品だろう。 

オペラミュージカル(このあたりの区別は非常に曖昧なものである)
・ジーザス・クライスト=スーパースター
・オペラ座の怪人 

最初から最後まで台詞がなく歌で進行するタイプのミュージカル。台詞→歌という切り替え部分がないので最早ここまでくると「急に歌い出す問題」すらなくなる。 



ブックレスミュージカル
・キャッツ
・コーラスライン 

いわゆる台詞で進行するプロット(脚本、物語)があまりないミュージカルである。キャッツもコーラスラインも登場キャラクターの紹介という名のナンバーパフォーマンスを行うため物語自体がとてもシンプルである。よって台詞→歌への導入もシンプルである。これらのミュージカルのドラマ性はナンバーで構成されているため、ミュージカルと言っても異質なものであるように個人的には思う。


ミュージカルは何故急に歌い出すのか」と聞かれたら私は「登場人物の心情や環境を台詞以上に観客に伝える手段として効果的であるから。また、時間軸の移動を可能にし、作品の面白さを増大させている(前記事参照)から。その方法が商業的にも成功しているから。」と答えるだろう。音楽を聴くことによって人は感動したり、楽しくなったり、悲しんだりする。それは時として言葉以上のものである。このあたりは「音楽心理」の分野の話になるので興味のある方は調べてみてほしい。音楽の力と台詞の力を併せることによって観客の心を揺さぶるのがミュージカルである。

登場人物の心情や環境、と書いたが例えミュージカル「レ・ミゼラブル」の「look down(下見ろ)」では主人公が囚人として虐げられている様子が重厚な音楽を通じて我々に伝わってくる。ミュージカル「ドリームガールズ」では音楽を聴くと、このミュージカルの舞台が1980年であると何となく分かることが出来る。 

商業的にも成功している。と書いたのはそれが大衆演劇の要であるからである。無い袖は振れぬ。いくら芸術的に優れていようと大衆から与えられる資金を集められなければ消える。それが約100年間の中でこうして続いているのだからこのエンターテイメントは成功している。と言わざるを得ない。あとミュージカルが楽曲を導入することによる作品の中毒性、サウンドトラックの入ったCD、スコア(楽譜)の収益が制作費の回収に一役買っていることも明らかだろう。このミュージカルといえばこれ!といった目玉を作って宣伝にも活かせるだろう(ミュージカルの宣伝としてナンバーをテレビなどで披露することはよくあることである。台詞劇などでは出来ない方法である)

話が飛ぶが日本における「ミュージカルの違和感」についても考えようと思う。

ここにミュージカルの演出家の言葉を引用させていただく。

オバマ大統領も2回観た、ブロードウェイNo.1「ミュージカル」は?
http://a.excite.co.jp/News/column_g/20160227/TokyoFm_tTgRdH4Wop.html

◆「突然歌い出す人にしないために」
~演出家 山田和也さん

ミュージカルを不用意にやると「突然歌い出す人」になってしまいます。だからそうならないよう、用意周到に準備するのが大事です。しかも日本語は英語やフランス語よりもハードルが高くて、喋るように歌えません。日本語は歌うようにしか歌えないので「いきなり歌い出した」という印象が強くなってしまいます。
正直、この問題を100%回避するのは不可能でしょう。僕は「日本語でミュージカルはできない」という前提で仕事に取り組みます。だからこそ、あれこれ創意工夫をしようと思うんです。基本としては「どうやってお客さんを登場人物に感情移入させるか」ですね。

日本語と外国語の壁の話である。現在国内で行われているミュージカルはその殆どが海外で作られたミュージカルである。よって、ミュージカルを日本公演として上演するためには翻訳という作業を挟まなければならない。この「ミュージカルの翻訳」についてディズニー映画「アナと雪の女王」の吹き替え版訳詞を手がけた高橋さんのインタビューをここで参照したい。


2014.03.24
本年度アカデミー賞W受賞映画『アナと雪の女王』の歌詞翻訳者、高橋 知伽江さんが語る見どころ
http://www.alc.co.jp/gogakuup/blog/2014/03/frozen.html

アルク:歌詞の翻訳はどのようにされるのですか?

高橋 知伽江さん(以下、高橋さん):まず、映画全体を観て、この作品は何を伝えたいのかを把握します。セリフからの流れ、人間関係、登場人物の性格、作者の意図などを理解することは、訳詞に取り掛かる前の準備として欠かせません。あとは曲を繰り返し聴いて訳していくのですが、最初に考えるのはキーワードです。主題歌の"Let It Go"であれば、「Let It Go, Let It Go」の部分をどう訳すかです。

日本語の特性からいって、英語をそのまま訳しても曲に入りきりません。歌の大事なエッセンスを抜き出して歌詞に込めるようにするので、日本語のボキャブラリーを豊かにするように気を付けています。面白いというよりも苦しい作業ですが、言葉が音にぴたりとはまったときは快感です。

アルク:主題歌の"Let It Go"の場合はいかがでしたか?

高橋さん:この歌はエルサの心の変化がつづられ、全体がドラマになっています。それを的確に表現できるように気を付けました。何といっても、たびたび顔がアップになるので、口の動きに合わせねばならないところが多く、相当大変でした。

日本語で「ありのままの」と歌っている部分は、英語では「Let It Go, Let It Go」です。メロディを大事にすれば、日本語の音は6つしか入りません。しかも、口の形がアップになるので、3つ目と6つ目の音の母音は「お」に限定されます。この制約の中で原語が伝えたいメッセージをどう伝えるか、ディレクターと何度も何度もメールをやりとりして試行錯誤しました。その結果が「ありのままの」なのです。自分を押し殺して生きてきたエルサが、はじめて「ありのままの」自分を受け入れようと決意するフレーズ。美しくて力強いと思います。

(中略)

アルク:訳詞の仕事をしたい人に一言お願いします。

高橋さん:訳詞は翻訳というより、作詞に近い能力が要求されます。英語(原語)の知識はもちろん大事ですが、それを表現する日本語の能力が勝負なので、読書などで日本語のボキャブラリーを豊かにするよう心掛けてください。

英語から日本語、ドイツ語から日本語、外国語から日本語に変換する翻訳という作業。日本語の特性を考えるとミュージカルの訳詞というもので完璧なものを得ることは不可能である。名詞、動詞、助詞などの並べ方、その役割、1つの音に込められる単語の限界など日本語と外国語の違いを挙げればキリがない。この上さらに加えてメロディーの制限や音の制限を加えられるのだから外国語のミュージカルを日本語で上演するとなるとどうしても違和感が生じてしまうのは仕方がないことである。この違和感が急に歌い出すという違和感へと繋がるのではないだろうか。台詞(日本語)→歌(日本語、音楽は外国語ベース)ということである。東宝ミュージカル「レ・ミゼラブル」では恋する青年マリウス・ポンメルシーとその相手である女性コゼットがようやく直接会うことが出来、お互いの思い伝えるナンバー「愛は芽生えて」において「And mine's Cosette」という歌詞が「コゼットです」という訳になっている。これが私には何だか可笑しいのである。直訳すると「私の(名前は)コゼットです」というものになるがこれを曲に当てはまめようとしても当てはまるわけもなく、かと言って「アンド マインズコゼット」とそのままにするといきなりバイリンガルのコゼットが舞台上に登場することになりキャラクターの崩壊すら起きかねない。この訳詞は名翻訳者の岩谷時子さんが担当しているが、どんなに優れた翻訳者でも翻訳ミュージカルという化け物に頭を悩ませているのだなあと垣間見ることができる一面。いや、一曲である。

そもそも完璧な翻訳というものは存在しない。翻訳については鴻巣先生による著書「翻訳問答1」そのシリーズ続編である「翻訳問答2」がわかりやすく面白いので是非読んでほしい一冊である。

翻訳者が100人いれば100通りの訳し方がある。翻訳は単なる文章の変換だけではなくその前後の文脈や意味を捉えて日本語に作り変える作業であるためである。どうしても翻訳者の原文の解釈を間に挟むことになる。ここが翻訳の面白いところで原文よりも翻訳の方が良い出来になってしまうこともあるのだ。生まれつきのバイリンガルでない限り我々は原文を原文のまま理解することは出来ないかもしれないが同時に翻訳文を楽しむことが出来るのである。

つまりミュージカルの翻訳においても同じことが言えるので結構私はミュージカルの日本公演はそういった面からも楽しんでいる。また脱線するが野田秀樹の舞台「THE BEE」を英語にして翻訳上演するときの苦労話を読んだことがある。野田の得意とする日本語の言葉遊びを英語の脚本では表現しきれないことや翻訳がほぼ脚本の作り直しになることなどが書かれていてとても興味深かった。何もこれは外国語→日本語だけの話ではないのだ。

では次に2つ目の「恥ずかしいという感情」について考えよう。「恥ずかしい」つまり羞恥の感情を観客が観劇している中で感じてしまう。ということである。この自分ではなく他人の行動によって見ている人が羞恥を抱くことを「観察者羞恥」と呼び、いくつか論文も書かれている。個人的にはこの論文がわかりやすいと思ったので置いておく(観察者と行為者との関係性が観察者羞恥に与える影響 http://www.myschedule.jp/jpa2014/detail.php?sess_id=941 ) 残念なことに「他人が突然人前で歌っていることを恥ずかしいと思う」の質問項目はなかったが、この論文の中では「 温度差行動」に自分の立場に置き換えて考えてしまう傾向があること、それによって恥ずかしいと感じてしまう。という内容の記述があるのでこれが歌い出すことに当てはまるのではないだろうか。

実際の研究データをインターネット上では見ることができないためにこれ以上考察することは難しいが、ミュージカルの突然歌い出すことが違和感になり、その温度差行動(いわゆるサムイ行動)だと観察者に認識されたときに観察者が羞恥を感じる。のではないだろうか。私の憶測でしかないが、羞恥の感情は学習によって取得する感情であることや日本独特の輪、恥の文化が繋がっているのではないかとも思う。ミュージカルから幼い頃から触れている人はこの感情を抱きにくいことも関係していそうだ。

まとめ
古典的名作ミュージカル映画「雨に唄えば」のタイトルソング「雨に唄えば」では主人公が鼻歌まじりに歌い、踊り始める。感情の高まりを身体で、声、歌、踊りで表現するのは人として自然なことなのだとこの映画を見るたびに思う。何度でも言うが私はミュージカルが好きだ。大好きだ。


追記: 

「ミュージカルは急に歌い出すから恥ずかしい」問題について考えてみた。の反応まとめてみた 


「ミュージカルは急に歌い出すから恥ずかしい」問題について考えてみた( http://blog.livedoor.jp/kkkkietveit/archives/1060837813.html )の記事を公開して想像以上のRTやお気に入り登録をいただいた。有難いことである。また、この記事に対して投げられかけた意見、感想がとても興味深いものであったので誠に勝手ながらまとめておこうと思う。口調の統一、文章の順番等改変しているがご了承いただきたい。

※自分の意見が記載されていることに不都合があればお手数ですがツイッター( @amanepanda_ )までご連絡をお願いします。

はじめに、どのあたりにこの問題が認識されているのかを知る為にツイートの拡散先を追っていった。

海外ミュージカルファン(ブロードウェイ、ウェストエンドなどのファン)
劇団四季、東宝製作のミュージカル(東宝ミュージカル)
テニミュなどの2.5次元ミュージカルファン
宝塚歌劇団のファン
一般層(またはミュージカル映画ファン層?)

2.5次元ミュージカルと宝塚歌劇団の存在。前記事を書くときに失念していた層の出現である。これがすごく面白かった!個人的な話にはなるが、私は瀬奈じゅんさんに中高生時代を捧げるほど宝塚歌劇団を溺愛していたがミュージカルというよりも、どちらかというと「タカラヅカのステージ」というものを楽しんでいたように思う。それくらい宝塚はエンターテイメントとしても文化としても私の中で確立されていたのである。この点については後ほど記述する。

では頂いた意見をグループ分けしてまとめてみよう。

以下、箇条書きと私の勝手に考察

ミュージカルが急に歌い出すことに対して違和感がない
・幼い頃からミュージカルを観ていたから違和感がないので(この問題を実感として)わからない。不思議。
・恥ずかしいという気持ちがわからない。歌い出すことは楽しいことだ(フラッシュモブは除く)。

慣れている層の御意見。同様の意見を多数見かけた。おそらくではあるが初めてミュージカルを見たときにすんなりと楽しんだ層がここに入ると思われる。私も多分ここに属するのだろう。

国によって違うのでは?(国民性について)
・日本の場合、音楽の時間でもカラオケボックスでもないのに突然歌い出すのはおかしいという慣習のためかもしれない。フィリピンにいたときにお店の有線とかで好きな曲がかかってきたら歌う!のような感じだった。

フィリピン超楽しそうだなと思いながら拝読した。日常的に歌を歌い出すことがある国、ない国で比較してみたい。

ミュージカル文化の立ち位置について
・歴史的にストレートプレイやオペラの方が歴史が長いため(ミュージカルとしての文化は100年ちょい、オペラは400年以上、ストレートプレイになると紀元前まで遡る。ちなみにミュージカル映画となるともっと短い)ミュージカルを好きと言うことが恥ずかしい、ミュージカル俳優が軽視されているという現状は残念ながらあるらしい。

・日本ではミュージカルは演劇・舞台の区分になるがフランスだとショーやサーカスと同じ区分になっている。

ウィーンミュージカル、フレンチミュージカル、ロンドンミュージカル、ロンドンミュージカル、どれもその国の個性が色濃く出ていてその国の中の文化としてのミュージカルの立ち位置が異なっているという話と歴史の話。今でこそミュージカルとストレートプレイの両方をやっている俳優も増えたがやはりその隔たりはあるのだろう。

そういえば、ブロードウェイで活躍し、ミュージカル「Wicked」でトニー賞を受賞した女優のイディナ・メンゼルがディズニー映画「魔法にかけられて」に出演したとき(歌唱シーンのある映画だがイディナは歌わなかった)に「イディナを歌わせないなんて!」という声が少なからず挙がったそうだ。イディナ自身は「ミュージカルではない女優としても認められたので嬉しかったそうだが大スターのミュージカル女優、俳優が出演するとなると歌うのが当たり前になっているのだろうか。この辺りも調べたら面白そう。

そもそも歌を歌うこと自体が恥ずかしい(もしくは抵抗感がある)のではないか

・映画「レ・ミゼラブル」(2012)のレビューで3時間近くも休みなく音楽を聞き続けるとは苦痛」というレビューがあったので音楽が趣味か否かで分ける必要があるかも
・記事で「突然歌い出す」を克服しているとして挙げられている作品は広い意味でドラマとナンバーの「統合」が目指された作品である。が、それとは別にナンバーがドラマを切断することで劇世界を構築するミュージカルもある(そういったタイプの方が日本での上演が少ない気はする)。ドラマとナンバーが齟齬を起こし乖離することが肝要になっている作品を見ても尚「恥ずかしい、なぜなら突然歌い出すから」となるのかどうか…。そうなると歌うという行為自体をどう受け止めているかの問題になる。

この歌うという行為、音楽を好きか否かという問題。仮にアンケートを取って集計するもしたらかなり難しいのではないだろうか。クラシック音楽は苦手だけれどロックは大好き。歌は好きだけれど楽器だけの音楽は嫌い。など個人差による線引きがかなりあるような気がする。映画「レ・ミゼラブル」(2012)は苦手だけれど映画「ヘアスプレー」ならいける。とか。

恥ずかしい気持ちがわかる
・オペラはいけるけれどミュージカルは恥ずかしい
・逆に歌がない台詞劇は観ていて恥ずかしい
・歌の有無関係なく素人演技を観ると恥ずかしい

「恥ずかしい」がゲシュタルト崩壊しそうだ。何をもって恥ずかしいと感じるのか本人達も不思議がっているような意見が多く見られた。もともと感情とは理性の前にあるものなので原因と結果が非常に分かりにくいものである。いくつかの条件を満たしていれば恥ずかしいと思うのだろうか。

翻訳について
感想の中で1番多かったのが「翻訳についての記述が興味深かった」というものだった。せっかくなので今日見つけたこちらのインタビュー記事を抜粋して貼っておく。前記事でも触れた高橋さんのインタビュー記事である。

劇団四季ミュージカル『アラジン』日本語訳詞担当、高橋知伽江さんへ合同インタビューを実施 ( http://conpetti.com/disney/?p=5813)

ー 先程、英語の情報量と日本語の情報量が違うと話されたが、単に訳詞の場合はメロディの問題であるとか、日本語と英語のイントネーションの違い等の苦労はありますでしょうか?

それは常に悩みですし、メロディに載せるという事は、基本的に既にアクセントとイントネーションが全部決まっているという事なので、どんなに入れたい言葉でも入らないというのは、何処に限らず「全て」であることです。例えば、「どんなに」って入れようと思っても、「ど」と「ん」を入れる言葉であれば、「ん」の方が下でなければ成らない。↓「ど」↑「ん」→「なに」って言ったらやっぱりおかしいですよね。

ー 英語の場合のアクセントは強弱なのですが、日本語は高低なので、そこで言葉の違いに常に縛られます。
一番大きいのは、その情報量の問題でしょうか。

今回、台詞を日本の文化に合わせて変えられていたりする所が多い様に思いますが、
歌詞に日本の文化を反映する必要があるなと思った所はありますでしょうか?

ジーニーが歌う「Friend Like me」という歌が有りますよね。自分ほどの友達はいない。自分が一番素晴らしい友達だよね。という歌ですけどもその「Friend」という言葉を一般的に、「友達」というふうに訳した場合、今回のアラジンとジーニーとの関係は表現しきれないと思ったんですね。というのは、アラジンには三人の仲の良い幼馴染の友達がいて、彼らが、自分達は死ぬまで仲間だ。兄弟だ。親友だ。と歌っているので、じゃあジーニーは友達か、といったら、友達じゃないな、と。それで、どういう言葉を使えば、一番、アラジンとジーニーの関係が表現出来るかと考えました。もちろん、歌なので音の縛りもある中で、悩んだ末に「相棒」という言葉を使いました。「理想の相棒」という。多分、英語だと「Friend」でも何の抵抗も無いのかもしれないけれど、いわゆる、辞書的な意味で「友達」と訳すと、これは違うな、と思いまして。

なんというか、言葉の辞書的な訳し方では伝わらないという意味では、文化の違いというのは言葉の違いでもありますね、きっと。(以下省略)

英語のアクセントが強弱なのに対して日本語のアクセントが音の高低であることに苦労されたとお話しされている。言われてみれば確かにそうだ。同音異義語でも日本語ではアクセントではなく音の高低で区別をしているが英語ではアクセントで区別をしている。例えば日本語の場合だと、「はし」でも「橋」「端」「箸」の3つを声に出して言ってみるとわかりやすいと思う。

さて、翻訳といっても小説翻訳、産業翻訳、脚本翻訳、字幕翻訳など様々あるので興味のある方は是非色々と調べてみたらいかがだろうか。字幕翻訳だと1秒4文字ルールなど色々と制限があり、いかにして文字数内に収めるか、そしてその中で伝えきれるのか。ということに奮闘しているし、小説翻訳となるとわざわざその国や土地に行って取材して翻訳している小説もある。その土地でしかない風土や食物があるからだろう。

この前「翻訳できない世界のことば 」(エラ・フランシス・サンダース, 訳 前田 まゆみ 創元社、2016)という絵本が話題になったが、その国でしかない言葉、というものは確かに存在するのだ。それを日本語という言葉をオールに概念という名の海を渡り我々に作品を届けてくれる翻訳家。素晴らしい職業だなあと思う。 

2.5次元ミュージカル、または宝塚歌劇団について私のわかる限りのことを書く。残念ながら私は2.5次元ミュージカルの代名詞でもあるミュージカル「テニスの王子様」(通称テニミュ)をDVDでしか見たことがないのだが、「歌うこと云々よりも自分の好きなキャラクターが3次元に存在してくれていることが嬉しい」という感想を拝読して妙に納得してしまった。何故ならその舞台は現実ではないことを最初から観客が受け入れてしまっているからである。それなら歌い出そうが踊り出そうが何も気にしようがない。原作が漫画であること、その世界観を構築しているテニミュは「2次元の住民であるキャラクターを3次元に連れてくる」と「3次元の住民である観客を2次元の世界に連れて行く」の両方を成し得ている。2.5次元ミュージカルと呼ばれる所以である。

さらにここで宝塚歌劇団の話を少しさせていただきたい、宝塚歌劇団はこの2.5次元ミュージカルの先駆けであるミュージカル「ベルサイユのばら」を何十年も前から上演し、最近だと「ルパン三世」、「るろうに剣心」などが記憶に新しい。ここで面白いのが宝塚歌劇団そのものが「現実ではないものを上演し続けている」ということである。おとぎ話、理想の具現化をしている。非常に残念な話ではあるが、宝塚の男役のような素敵な男性は世の中には存在しない。「現実ではない世界」を上演し続け、劇団そのものがここまでの世界観を持っているのは宝塚歌劇団が特出していると思う。だからこそ歌い出してもおかしくない。どんなにおかしなことでも「タカラヅカだから」の一言で納得させられる。これもまた素晴らしい。

まとめ
色んな意見を見て考察する中で何となくではあるが、「恥ずかしい」と思う条件に舞台全体の世界観である程度条件が決められるのかもしれないなと感じた。また、各国の比較でその国の国民性、背景となる文化、歴史などを知っていくのも面白そうだ。他の国でも「ミュージカルは急に歌い出すから恥ずかしい」は通じるのだろうか。

感想をツイートしてくださった皆様にこの場を借りて感謝申し上げる。

おまけ
フォロワーさんからご紹介していただいたこのインタビュー記事が大変面白かったので翻訳、ミュージカルに興味のある方は是非読んでほしい。
『モーツァルト!』2016年韓国版を演出 小池修一郎インタビュー[前編] ( http://spice.eplus.jp/articles/63867 )

ミュージカル「エリザベート」などの演出を手掛けた演出家、小池修一郎さんのインタビューで日本語と韓国語で詰められる音の個数の差や韓国ミュージカルの現状を分かりやすくお話しされている。


あ、面白そうな論文、作品、書籍などあれば私まで教えてください。泣いて喜びます。


追記2:
武蔵大学人文学部英語英米文化学科専任講師の北村紗衣先生からコメントをいただきました(専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評の先生です)。とても面白かったので載せさせていただきます。掲載許可いただいております。 


ー ここで考えたほうがいい問題として、(1)リアリズムの弊害 (2)近代劇における歌やダンスと台詞劇の分離 があると思う。17世紀くらいまでは平気で台詞劇の中で歌ったり踊ったりしていたし、台詞も詩だったりする。 たぶん、西洋演劇でも日本の演劇でも、本当はいきなり歌ったり踊ったりするほうが歴史的にナチュラルな形式で、リアリズムと近代劇のせいでそれがおかしいとおもわされてるんじゃないかと思う。たぶんこれって身体の管理の話と関係あると思う。いきなり歌ったり踊ったり詩を朗唱しはじめたりする統制されてない身体は近代劇には存在してない。シェイクスピアと20世紀の芝居を比べたら、20世紀の芝居の登場人物のほうがだいぶ身体が管理されてる。「いきなり歌い出すのが恥ずかしい」っていう感覚、それは非常に近代的な身体管理に根ざしてると思う。舞台は日常とはつながっていないので爆発的で規則破りな身体を出してOKなんだけど、統制された身体が出てくるリアリズム劇に慣れちゃうとそういう管理されてない声と動きに居心地悪さを感じる。 

さえぼう先生(北村先生)ありがとうございました。


感想 
「ミュージカルは突然歌い出すから恥ずかしいよね」問題について調べてみると、この問題が文化、歴史、国境、芸術、メディア情報、音楽心理、心理学など多岐にわたっていることがよくわかった。以下、参考にしたサイト、文献を記しておく。先行研究、実際に現場で活躍している舞台関係者のインタビュー、膨大な量の図書を管理してアクセスできるようにしてくれている図書館、そして「これ面白いよ」と私に日々面白いエンターテイメント情報をくださるツイッターのフォロワーさんに感謝する。



参考サイト、文献など

・ドラマとしてのミュージカル: ミュージカルを支える原理と伝統的手法の研究 カーンからソンドハイムまで (スコット・マクミリン著、彩流社、2015)
・ミュージカルが"最高"であった頃(喜志哲雄著、晶文社、2006)
・翻訳問答(片岡義男、鴻巣友季子著、左右社、2014)
・翻訳問答2(鴻巣友季子著、左右社、2016)
・野田秀樹 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)(河出書房社、2012)
・舞台を観る、読む、語る(佐久間康夫、ほんのしろ、2016)

・古典的ハリウッド・ミュージカルにおける ミュージカル・ナンバー開始の演出 - 成城大学
木村建哉 著 (http://www.seijo.ac.jp/education/falit-grad-school/art-study/academic-journals/jtmo4200000067sk-att/sart-020-08.pdf)

・観察者と行為者との関係性が観察者羞恥に与える影響 原 奈津子 就実大学 ( http://www.myschedule.jp/jpa2014/detail.php?sess_id=941)

インタビュー引用
・オバマ大統領も2回観た、ブロードウェイNo.1「ミュージカル」は?
http://a.excite.co.jp/News/column_g/20160227/TokyoFm_tTgRdH4Wop.html

・本年度アカデミー賞W受賞映画『アナと雪の女王』の歌詞翻訳者、高橋 知伽江さんが語る見どころ
http://www.alc.co.jp/gogakuup/blog/2014/03/frozen.html


・千代田区立図書館 パスファインダー
ミュージカルについて調べよう
http://www.library.chiyoda.tokyo.jp/files/findbook/pathfinder/pathfinder09.pdf