螢光燈

初めまして。螢光燈です。同人活動やオリジナルの創作を、絵に関してやっています。漫画とかアニメとか描きます。よろしくお願いします。イベント以外の時は日常の話をします。

はい。フリーマントルは思ったよりも近くて、ひとっ飛びというわけには行きませんが津田沼駅からバスで20分ほどのところにあります。途中赤道を通過するんでお見逃しなく。

しらせ5002、詳しくは割愛しますが現在ウェザーニューズが保護して一般法人に所有権があり、折に触れて見学イベントなんぞをやっております。そこに参加してきたので宇宙よりも遠い場所本編と見比べる試みです。ペンギン饅頭号、もといしらせ5003とは結構内部が違いますが縦横はそんなに変わらないので同人活動の補助線にはなるんじゃないでしょうか。ちなみに今年は4/11に観測を終えたしらせが帰港するそうです(記憶が正しければ)。


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しらせの全景はこんな感じ。デカいです。甲板に上がると海上からは3.5mほどあるそうで、そりゃ結月もビビるわ。よく外出ようって言ったなぁ。


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8話で艦上体育をするシーン、甲板の周囲の部分です。十分走れる広さがあります。
ちなみに船で言う後方にヘリポート、収納庫、船倉とのエレベーターがあり、各種イベントが行われているそうです。劇中で言うとOPの縄跳び大会7












7話の出発前の決起集会
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他キマリたちが船酔いで倒れているところがそこになります。
写真を撮るとこんな感じ
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広すぎて伝わらないけどとにかく広い。船倉からのエレベーター3基ある。広い。

そろそろ艦内に行ってみます。まず操舵室
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アニメのほうが新しい(あたりまえ)だけど作りは一緒ですね。壁にも天井にも手すりがあるのが砕氷船っぽいポイント。
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8話で保奈美さんが「53度くらいぃ、揺れたぁ」って言ってる元ネタはこれなのかな?と。しかし右下のイメージ画像が怖すぎる。

お次は食堂。8話で報瀬が素知らぬ顔をしているシーン
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もちろん食堂の形は違いますが、ポイントは机の端。出っ張りがついており揺れてもトレイがずれない、かつ角が空いていて掃除もしやすい合理的な構造になってます。写真だと机の下に椅子を引っ掛ける部分があるのですが、劇中ではないです。なんか椅子が改良されてるのかしら。

そして客室。さすがにここは劇中とかなり作りが違います。でもギミックは同じ。
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荷物を引っ掛けるフックや、ロックを外さないと引き出しが開かないのは共通しているそうです。
ちなみに客室、しらせの乗組員と観測隊の部屋ではグレードが違い、廊下の広さすらも乗組員は狭く観測隊は広いという格差が存在します。世知辛いのじゃ。

また、12話で出てきた理容室もあります。
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左上の看板にキマリみたいな標語が書いてありますが気のせいです。他に医務室、歯医者もあります。

以下小ネタ。
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『コンパサー』キマリのメインウェポンもあります。

あとしらせの解説を受けているときに
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しっかりと宣伝入ってました。てかKADOKAWAが音声を収録しに実際に来たらしいんですが、来たのが1月末らしく。おいおいギリギリだな!とか思ってました。ちなみにこのポスター、家族連れにプレゼントされており、オタクはただ沈黙していました。願わくばちびっこよ、よりもいを見るんだ…。

と、まぁこんな流れでした。今回のツアーは30分ほどで全く触れられないところもたくさんあったのですが、4/21と6/1.2にはイベント公開があり一日見学し放題らしいので興味のある方はぜひ行ってみてはどうでしょうか。私もまた行きたいです。

余談ですがこのツアー、サッポロのビール工場とセットでして
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こうなってしまいます。2杯飲めます。こうしてせっかく聴いたしらせのうんちくは全て忘れてしまうのでした。

そんな感じで。今週13話も正座して見ましょう。
ではでは。




SNSの普及によって現代はシェアの炎に包まれている。他人の発言をシェアするのは簡単だ。メディアの情報はすべてトリミングされ、食べやすいサイズにされてシェアされていく。「切ってばらして並べてシェアしてやんよ」とは零崎シェア識の言である。良い話も悪い話も嘘も誠もシェアされる。何万RTもされた情報は焼き増しを重ねた写真のように、幾度の転載を経たjpgのように劣化してもはや抽象的な良さとか悪意とかをぼんやりと感じさせる程度になっている。

 

そんな誰もが占星術殺人事件のごとくシェアを行う世において一つ引っかかる点があり、この一連の文章はそこに対しての考えを記すものだ。

それは「幸せのシェア」についてである。

 

昨今話題になっているフェイクニュースなど、悪意は真実に比べてシェアされやすいというのは研究によって明らかになっているし感覚的にもうなずける。それに次いで幸せもシェアされやすい。例えば結婚、例えば出産、友人、恋人、ペット、SSR。人によって形は様々だが人生に(ある人には)幸せはあり、SNSには幸せがあふれている。

 

幸せって、シェアするものだろうか。

一概に幸せといっても広義なので例を出してしまうと、というかこの文章の元々の発端である話をすると、子供からの手紙を画像であげている人がいたのだ。紙に一生懸命に書かれたありがとうの文字は一介の独身社会人の心にも一筋の暖かな光を差し込ませる効果があったわけだけれども、それってSNSにあげるものなのか?と考えてしまったのだった。

 

思い返せばこんな例はたくさんあって、おばあちゃんと恋人との手紙を美談として紹介しているとか、妻からもらったかわいい書き置きをのろけ半分で載せてみたりとか、目の端を流れていく例は山ほどある。

別にこれをひがんでやれ夫婦マウントだ、恵まれない人もいるのだから見せるなと言いたいわけではない。個人情報ではないか。書いた人の意思を確認してから載せろというまっとうな意見を言うわけでもない。以下は提言であって、俺ルールをつらつらと書くだけなのだ。

 

シェアの一つの効果として、「感情の増幅」があると思っていて、SNSでない例でいえば「みんなとご飯を食べるとおいしい」とか「チームみんなで優勝を祝う」とかとにかく大人数で何かをするとリターンが大きいというかそういう言説がある。これがSNSでも起こっていてなんか自分の意見が多くシェアされるとシェアが正しさの担保になっているような、気分になることがある(自戒です)。かわいい犬の写真をあげてシェアされると「やっぱりかわいいよな」みたいな気分になる。かわいさに他人の意見って関係なくない?って話なのだけどとにかくそういうことがある。結婚式とか完全にこれだと思うのだけど。

 

上を踏まえて、「自分の子供からの感謝の手紙」を見た時の感情はシェアによって他人に「増幅」されるのか?というのが自分の感じた違和感なんじゃないだろうかと推測できる。そしてこの答えはNOじゃない?ということなのだ。子供からもらう感情って、あまりにもパーソナルな幸せではないだろうか?親子の中で醸造されるコミュニケーションを、他人に見せることで「あらまぁ幸せな家庭ね」なんて型にはまった類型的な感情に堕センション(c久米田デチューンしているのではないだろうか?

 

増幅された感情は他人を介することにより、他人と自分との最大公約数となっていく(「彼女とキスをする」という幸せは一人ひとり違う相手と違うシチュエーションで行われているわけで、他人のキス発言で私たちは完ぺきに話者の体験をトレースできるわけではない)。もちろん最大公約数的な幸せを分かち合うのは必要だと思う、が、その最大公約数への変換過程でそぎ落とされるものがあまりにも多い場合「増幅」は控えた方がいいと思う。「子供が自分の親に伝えたいありがとう」と「一般的な親が子に感じるありがとう」はあまりに遠く、何なら自分の子の感情を一般的に増幅されることによって手垢のついたものにしているのでは、踏みにじっているのではないかとすら思う。

 

自分にしかわからないであろう感情を安易に他人にさらすってもったいなくないだろうか。

せっかく自分だけが楽しめるなら、自分だけそれを飴のように舐めていればいい。モツのように噛んでいればいい。安易に引きこもればいい。無限の広がりを持つ部屋で好きなものだけ見ていればいい。自分の感情を安易に他人に渡すべきではない。と思う。

という長文を書いてみたもののどうもこの長さになると論旨がまとまらないというか、核が見えにくくなってしまう。でもこのパーソナルな感情/シェアという対立は自分の中に確実にあって、ネットを見ている上で正義と悪という二項対立はあまりに乱立しているので自分の中の軸においての「ダサい/ダサくない」という分け方は有用だと思っている。ダサい、はパーソナルな感情なので。



ネットでは存在しているだけでは存在を証明できず、存在しかつ表すことが存在足り得る唯一の手段だ。僕のTLの向こうでは何百人もの人間がつぶやき、つぶやきを考え、椅子に座り寝床に横たわり帰り道を歩きいている。窓から見える無数の光が存在である。

ネットでは表現が存在で、自己である。僕であればそれは絵が多い。絵を描いている時だけ人は絵師(的なもの)になりえる。つまり今この文章を書いている人は絵師ではない。
だから、作品は作者である。少なくとも観測者からすれば作品=作者という図式はかんたんに成り立ってしまう。~~な絵を描いたから作者はいい人認定されたり、逆に燃やされたりする。
でもそれって、作者側からすれば違うのではないかと思う。例えば自分のオリジナルキャラクターを「うちの子」なんて言ったりもする。これはあくまで「子」であって、自分ではない。作者側からすれば作者と作品は「別」なのだ。だからそこには「差」がある。

この「差」の取り方も、人によって様々だ。作者と作品の距離、これは作品に載せられた「想い」によって近かったり遠かったりする。「想い」がたっぷりのった作品であれば作者は我が子のように愛するだろうし、片手間であれば電車で乗り合わせたおじさんくらいの距離だろう(この「想い」の量が上手さに直結しないのはハッシュタグの「思ったほど伸びなかった絵」とか「これめっちゃ上手い絵なのに落書きかよ」みたいな論につながっていて、結局第三者では作者の思惑なんぞ測れないよな、とも思う)。

ここからは個人的な意見だけれども、自分はその作品との距離が遠い方だと思っている。割と平気で漫画の内容を忘れたりする。こんな絵を描いたっけって普通に覚えていない。再掲も面倒くさい(なので間隔と期間を決めて機械的に守っている)。別にそれが良い悪いではない。近い人だっているしそういう人はバンバン再掲するし自分の絵に自信があるのだと思う。俺もそんな人の絵は大好きだし、もっと見たい。

そしてその遠さが何に起因するのかなと思うと、自分がギャグ漫画を描いているからなんじゃないかと思う今日このごろだ。
ギャグって、別に思い入れがあるものでもなくて、取って出しというか、出たとこ勝負の感じがある。時流に乗れば受けたりするし。ギャグには痕跡がない。「あ!この人のネタだ!」という専門性があまりない。あってもそれは絵柄とかに比べれば塵に等しい。
おそらく究極のギャグとは誰が言っても面白い無味乾燥な力だ。そこに人はいなくていい。空き地の看板にそれが描いてあっても笑えるような、それが究極の面白さだと思う。
人が介在しないギャグに作者は必要なく、故に作者とギャグ(作品)の距離は無限に離れていく。
これはこれでいい。自分と作品が別なら傷つかない。リスクがない。ネットである、伸びないからウケないから絵をやめるということがない。思いついて描くというルーチンさえあれば、数さえ打てばウケるかもしれない。一縷の望みにかけてだらだらと描けばいい。


という精神状態に最近なっていて、あまり良くないなと思う。違うだろ。こうもっと、表現ってのは己をさらけ出したりするもんじゃねぇか?自分の理想を、理想への遠さを克明に認識しつつそれでも描くものじゃねぇのか?描いているときにこんなん違うと泣きながら描くものではないのか??


話はそれるけど、この上のような考え方で「絵を描く人はみんなエロ絵を書きたがっている」というようなネタが有る。「裸を描けば絵がうまくなるよ!」みたいな。ふざけんじゃねぇと思う。誰も彼もが性欲で絵を描いているわけではない。確かに性欲で絵を描いている人は多いと思う。成人向けの同人誌の多さたるや。でもそれを多数派のように見せる言説は良くないなと思う。エロ絵を描かない人もいる。でもエロに対して否定的な人に「むっつり」って言えばエロの言説に含められるし、事実こういって人をエロに含める人間がいる。腹立たしいので書きました。

閑話休題。絵ってよくわからない。よくわからないなと思う。描いているときの気持ちが毎回わからない。でも、絵を描きたいとは思う。そして俺は人並みに描ける。描く気があって描いている。とてもいい。中世に職業を選べずに余暇もなく絵を望んで死んだ人もいる中で、時代の先端で望んで行動に移している。この一点に関しては自分は素晴らしい。作品の出来なんてこの事実に比べれば本当にくだらない。過程を経た事実が作品を輝かせる。コスパで言えば、俺はコスを重視する。パは、まぁあればいい。これは本当にやっている人間にしかわからない感情だと思う。選民思想でも何でもなく純粋にそう思う。だから描こうと思う。

雪が降ったこともあり、16時には最寄り駅にいた。
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すでに都内の雪は交通網を末端から麻痺させるほどの強さで、実家を出て一年目にしてのこの大雪に、最寄り駅は見慣れない景色となっていた。
坂が多い通勤路をえっちらおっちら登る最中、母親に連れられて帰る小学生が「おお!これは雪だ!雪だね!」と大きな声を出した。その瞬間、僕はカメラを持って外に出ることを決めた。

帰宅後ジャージの下を重ね着し、上もフリースにパーカーにアウターと完全防備を決めた。買ったばかりのミラーレスを持って家を出た。

なまじ家と駅の距離が近いこともあり、通勤路以外の地元の道を僕は殆ど知らない。唯一写真に映えそうな、歩いて20分ほどのお寺を目指すことにして歩き始める。見慣れない景色の見慣れない道を一人で歩く。

一度行った近場には地図を見ないで行くのが主義なので(5年前の記事を参照)、方向だけ決めて歩いているととにかく寒い。雪が顔を打つ。そして街が静かなことに気づく。
北海道に行ったときも思ったが、観光地の小樽でさえ雪が降り積もると静寂に包まれる。物理的に雪が音を吸収しているのだと思うが、それだけではない気もする。自分の靴が雪を噛む音、深々とこな雪が積もる音、隣の路地の人々のざわめき。それだけが聞こえる。なんとなく雪の日は神聖な気分になる。

それでも道中、多くの人とすれ違う。今住んでいる街は典型的なベッドタウンだ。駅の他には住宅地が広がるばかり。僕がそれを感じるのは朝の通勤ラッシュ時だけだ。土日も遠出をすることはあっても地元を散歩することはない。そんな1年間住んで何も知らない街に住む人々は様々だ。
早帰りのサラリーマン、はしゃぐ子供、雪かきをするおじいさん…。みんなが当たり前だが雪の話をしている。なんだか不思議な感じだ。

そう思うと、雪ってそうは悪くないかもしれない。ただ氷が空から降ってきているだけだ。僕らが雪を嫌だというのは雪だから電車が停まるとか、車が渋滞するとか、雪そのものの現象を嫌だというわけではない。現象だけならホワイト~なんて言ってありがたがって消費する人もいる。
雪が降って街がそれにかかりきりになることがなんだか人間の小ささを再認識させるようで、せわしなく雪をかくのだなと思うとちょっと面白い(そりゃもちろん雪国ではこの比ではない。死活問題だ)。
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そうして僕は寺に着き、同じ目的であろう一眼レフ三脚おじさんを横目にミラーレスでバシバシと寒くてピントもままならない写真を撮ってきたのだった。
カメラは上手い下手に関わらず人を外に連れ出してくれる。いいことだ。これがなければ家でこたつに入り酒を飲みながらマインクラフトをやっていたことだろう。写真は置いておいても、こうやって歩いて考えることが大事だなと帰り道思って帰ったのだった。雪の静かさを耳に残して家に帰り隣人とすきやきを食らってマインクラフトをやった。
という一日の記録を珍しく残してみたのだった。

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表題のような考えを持っている。
というのも、新年にあたって同人サークルとしての活動も6年に達し、そこまで多作ではないにせよ年一冊新刊を出しネットに様々な漫画を書き散らしてきた経験から見ると、純粋なギャグ漫画というのはおっそらく少ない。試しにお手元の同人誌をご覧いただければ、ギャグというのは「萌え」の演出であることがお分かりいただけると思う。

「ギャグ」と「萌え」というのは発祥を「ギャップ」に持つ。ギャグはもちろんその場に不適切なこと(ボケ)とそれを直すこと(ツッコミ)で成立するものだし、萌えはもはや現代オタク界において様々まな形に分解されているけれども、もとを正せば男勝りの美少女が可愛い仕草をするなどというギャップのが元だと思う(まだ二次創作の方向性が固まらない時期に、やたらとクールキャラにかわいいことをさせる漫画が流行る傾向は未だにある)。
つまり萌え部分に一人が突っ込めばもうそれがギャグ漫画だ。しかし、そのギャグは笑わせるためではなく癒やすとかそういう方向を(無意識的にでも)目指したものとなる。ざっくり言えば「キャラ物」です。

この「萌え」と「ギャグ」を両立させた作品として広く周知されているのは「あずまんが大王」だ。この4コマ界に革命をもたらした作品は未だに萌えのスタンダードとして受け継がれている(上記のクールキャラの件で言えば榊さんの猫好きというのはわかりやすい例だ)。このあずまんが大王、発刊された当時は4巻だったが後に描き下ろし描き直しを含めた完全版が3巻で出ている。これを見比べると面白いのだけれども、完全版で初期の4コマは結構描き直されている。
絵の問題もあるが4コマの展開が直されている箇所もあり、そこを見ると「萌え」と「ギャグ」の比率が完全版だと「ギャグ」に寄っているように見える。うろ覚えだが、ちよちゃんが4コマ目でツッコむ展開だったのが、あえて3コマ目と同じ絵を使って間を演出していたり微妙にシュールな方向に寄っている。もちろん作者の感性(よつばととかシュールギャグな部分多いし)の変化によるものもあると思うが、長年経ってキャラが周知されたならギャグに寄ってもいいかな!みたいなものもなんとなく感じられる。

とはいえいわゆるきらら系と言われる漫画、その他のいわゆる萌漫画、日常漫画はほぼキャラ物だ。なんならソシャゲの普及でその傾向は加速しているようにも思える。そして日常漫画は本当にだらだら日常を描くわけではなく(それだと孤独のグルメとかになりそう)、ゆるく萌え演出型ギャグ漫画になっていく(多分ゆゆ式と苺ましまろは萌え演出型ではなく完全にギャグ漫画なんじゃないかと思っている。前者はまだしも後者は特に)。

そして漫画市場の一大ジャンルとなった萌え演出型ギャグ漫画につられるように同人誌にもこの形をとるものは多い。
この場合の話の作りはシチュエーションコントに近い…と思う。設定はキャラを崩さないように、あとは自由。というような。そして様々なお笑いでのコント師が言うように、「コントはベタな設定をどこまでずらすか」だ。ちょっと見てみると、ネットに顕著なのはよくあるコピペをキャラにまんまやらせるというネタが非常に多い(〇〇コピペbotのような)。拙作で言えば去年書いた「寿司屋のお湯出るとこに手をかざしちゃうネタ」だ。これ、もう今年別のジャンルで全く同じネタを見た。まぁ昔からあるコピペである。
そしてこのベタなネタ、ウケる。基本安定してウケる。
だけれども、この方法では元ネタを超えることはないというのが少しさみしい。なぜなら、元ネタが明快にあるネタをキャラをとっかえてやるだけでは、元ネタはあくまで萌えの演出に使われてしまうからだ。元ネタに忠実に、かつ可愛さを重ねていく。こういう作り方になる。

というかこれ、二次創作にとどまらない。「温泉回」「海回」ということばがあるようにアニメでさえもこの作りは共通している。なぜなら、基本安定してウケるから。

つまりこの方法を取っている限り「萌え演出型ギャグ漫画」から永遠に脱せないのではないかと自分は不安に思っている。個人的にはそうはなりたくないというのが本音だ。ギャグならギャグでバシッと描きたい。たとえ本家を逸脱してもいいとさえ思っている。強調して言うが、思っている。まぁこれは人によりだし、原典を大事にする人もいるし、それは正しい。オタク、正論で殴り合いがち。

でも、個人的に「萌え演出型ギャグ漫画」を描いている人が同人で少ない(ように見える)のは少しさみしい。もっとギャグ漫画が読みたい。そう思っているという話をこんなに長くしてしまった。まとまりがねぇ。

まぁ拙作でも去年は萌え演出型4コマがぶっちぎりにRTされてしまったので、今年はもっとオリジナリティを持って望んでいきたいという決意も込めた話でした。


○追記
ちなみにこのオリジナリティが行き過ぎると、よくわかんない漫画になる。冬コミの本描いてるときはこの熱に浮かされてあやうくジョン・カビラの似顔絵を描くところだった。なんの漫画か分からない。

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