九条清隆 相場観と金融工学

株式・先物・オプション・FX・仮想通貨など、投資・投機を通じていろいろ考えるブログです。

カテゴリ:証券会社の現場 > トレーディングフロア

東証東証では1983年から徐々に機械化が始まり、何と16年かけて1999年4月に場立制度を廃止しました。


大阪証券取引所は東証より2年早い1997年が最後でした。


日本で一番場立制度が最後まで残されたのが、中部大阪商品取引所の大阪取引センターで2007年のことでした。

ゆっくりとシステム化をおこない、ベテランの場立や才取会員という仲立ちが自然退職していけるペースに合わせた粋な計らいがとられたものだと思います。

若手は、立会銘柄の数が減るのに従って、順番に営業や本社に回されていきました。
さて、この場立という経験がどのように生かせるのでしょうか。

いわゆる場味と呼ばれ取る、取引所内の独特の空気というものを感じることができました。

取引が活発なとき、
相場が荒れているとき、
転換点をむかえそうなとき
何かが動き始めるとき、

独特の空気が立会場を支配するのです。

経験したことのある人にしか伝わらない不思議な空気です。

その独特な空気を「もやもや」と呼んでいました。
何かが動意を占め示しているという意味だと思います。


今は、画面のスクリーンに映し出される数字がすべてですから、その奥にあるものは感じようがありません。

今となっては、当時感じたもやもやが本当に存在していたかどうかも自信はありません。

でも、スクリーン上の板に凝縮・投影された人間の思惑をできるだけ、いろんな角度で想像する努力はするようにはしています。
それが役に立つかどうかはわかりません。
昔感じていた(つもりの)モヤモヤ感を無理矢理取り戻そうと無駄な努力をしているだけなのかもしれません。

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サイン久しぶりに場立のお話です。

場立の手サインは微妙に便利です。
なぜならば、片手で1から10まで示せるから。
両手で1から99までいけます。

1と2は普通
3は親指と人差し指をおります。これはなぜかというと、普通の3だと2と間違うからです。
4と5も普通です。
6は親指をたてます。
7は親指と人差し指。子供のピストルです。(写真参照)
8はさらに中指をたてます。
9は親指の上に人差し指をまげて乗せます。
10は
1を左右に振ります。

これで売買の値段と株数を伝えるわけですから、面白いといえば面白いです。
場立は、これを使って場立おいちょ株をします。トランプや花札でやるやつです。
 
3時に立会が終わると、それぞれの場電チーム(5-10人くらい)が全員そろってドリンク休憩に行きます。
そこで、この場立おいちょ株をやります。
負けた人間ひとりに全員のドリンク代を払わせるのです。
じゃんけんだと大人数では決着がつきにくいですが、これなら短時間でけりがつきます。

やり方は簡単です。

まず、誰かが名乗り出ます。
そしてその人間を対象にして、みんなで場立数字を、せーので出します。
1から9まで各人が好きな数字を出します。これを足した数がその人の数字です。数字に合わせた言葉を全員が叫びます。ブタ、ドボンはその人の感情を察して、嬉しそうに叫ばなければなりません。

0 - ブタ(またはドボン)
1 - ピン(またはチンケ、インケツ)
2 - ニゾウ(またはニタコ)
3 - サンタ(またはサンタコ)
4 - ヨツヤ(またはヨンタ)
5 - ゴケ
6 - ロッポ
7 - ナキ
8 - オイチョ
9 - カブ
 



合計が9に近いほど強く10になるとドボンです。場立ですから、あっというまに足し算します。

全員の分を一通りやって、ドボンないし一番数字の小さい人が負けです。
早めにドボンがでると、もうドボンを引かない限りセーフです。
ピンやニゾウはそれまではピンチです。
全員が終わって最下位が複数いるとその人間だけでもう一度やり直して、その日の犠牲者を決めます。

大人数の場合結果は運次第ですが、少人数での戦いはお互いのかけひきが生じます。相手が何を出してくるかを読んで、自分の数字は伸ばし相手の数字は落とさなければなりません。
その駆け引きが一瞬のあいだに行われるのですから、結構面白いのです。

犠牲者にならないで、ただでドリンクを味わえると、ささやかな喜びを感じるとともに、その日がおわったなーという気になります。

さああとは照合作業だけだと再び、フロアに戻ります。 
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場立2

フロアをうろつく怪しいおじさん。

中小証券もとい零細証券のベテラン場立です。
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コンピューター

 ベールに包まれた世界
 証券会社自己売買部門




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取引所今は、コンピューターがすべて計算するので気配値は一目でわかります。
場立の時代は、紙の上の数字を暗算で計算していました。

おそろしく、マニュアルな世界です。

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ヤクルト1998年1000億円のデリバティブ損失を出したヤクルト本社。

財テクの神様といわれた元国税庁キャリア官僚であった副社長が引き起こした事件だ。
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株価の刻み値を10銭単位に!

いよいよ私設取引所の眼をつぶしにかかりました。東証の弱点の一つであった、刻み値の粗さについに手を付けます。コンピュータに負荷がかかりますので、様子を見ながら徐々に適用ということになるようですね。

私設取引所はこうなると対抗上1銭単位にするしかありません。

これによって困る人はあまりいません。概ね投資家の利便性は増します。
困る人は、超短期逆張り型の高速取引をやっているマーケットマイクロストラククチャーという市場の細かいアスク・ビッドの差を積み上げる取引です。すごく乱暴に言うと、市場全体に対して、マーケットメイクすることによって収益を稼ぐタイプです。100円で買って101円で売るという取引を高速で繰り返していたものがそのさやがわずか10銭になってしまいます。するとこれまでの10倍回転しなければなりませんが、その分取引所に支払う場口銭といわれるテラ銭がかかりますので、収益性のダウンは避けられません。

もちろん、順張り型の高速取引にとってはメリットです。

こうした、市場の競争は大いに歓迎すべきことです。

取引所を鉄火場にしてどうするという反対意見もありますが、投機家を呼び込んでこその市場です。投機も大いに歓迎したいと思います。
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今はコンピューターが付け合せしてくれるので、いくら売買高が多くなろうがへっちゃら。

ただし、これまでにピンチは何度かあった。たとえば、株式分割を繰り返したライブドア株の売買高が膨らみ過ぎて数日間立会時間が短縮されるというようなことがあった。その後のシステム増強で、そういったことは起こりにくくなったが、なんせその昔は人の手で売買を付け合せするという信じられない原始的な世界。もし、場立の世界でライブドア株を売買していたらと想像するだけでゾッとする。

人海戦術で注文を処理するわけだから、キャパはすぐいっぱいになってしまう。
付け合せをする才取がわけわからなくなって、ごめんなさいすると、東証の監視係のような人がすかさず笛を吹く。

これが板寄せといわれる売買中断だ。
しかし、才取にも意地がある。
できれば笛なんか吹いてもらいたくない。
どんどん注文を抱えた場立が周りを二重三重に取り囲み、とっくに収拾がつかなくなっているにもかかわらず、白旗を上げないで頑張るガンコ者は多かった。職人としての意地であろう。

しかし、その場合も東証の監視係が「こりゃ無理だ」と判断して笛を吹く。ボクシングでいうとタオルを投げ込むようなものだ。

しかし、笛が吹かれて板寄せになるということは、取引が盛りあっがているわけで、縁起がいいこと。
笛が鳴れば鳴るほど、市場は活況なのだ。いわば相場のバロメーター。
もし、最近の活況相場だとそこらじゅうが板寄せ状態で売買はマヒしていたであろう。

相場が調整局面に入り取引が減ると、笛が鳴るどころかフロアは死んだように静まりかえる。
相場はある程度サイクルなので、そんな状態に入るとそれは何か月も続く。

取引所では書き損じの伝票をポイポイ床に直接捨てるので、場内は昔から禁煙である。暇になると、場立は取引の外でタバコを吸って暇をつぶすことが多くなる。

そんな状態が続くと板寄せがふと恋しくなるから不思議なものだ。
しかし、想像できないだろうけど、板寄せ直前の状態は見せられたもんじゃない。ひどいもんだ。ちょうど満員電車の一つのドアに全員が一斉に殺到している姿を思い浮かべてもらうといいだろう。
靴は踏みつけられ、シャツはしわくちゃになりズボンからは見出し、隣の若い衆の汗がべっとりとまつわりつく。
圧もすごい。見るのはいいかもしれないけど、中はやはりいやだ。

その、板寄せ寸前の状態を回避するのはどういうアイデアがあるかという話が持ち上がったことがある。コンピュータ売買なら一発で解決だが、当時はシステム化はすでに計画されていたが、それとは別に何かいい考えはないかというのだ。

付け合せ窓口を二段階にしてはどうかとか、取引を最初から板寄せで行ってはどうかとか、知恵は絞られたが、結局いい方法はなかった。

まあ、結局ガス抜きされただけで、機械化までは辛抱しなさいということだったようだ。
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手錠ベアリングの売買が不思議さを増すころ、ベアリング幹部たちはのんきにクリスマスを楽しんでいた。そこではシンガポール拠点の1994年の功績をほめたたえあっていた。

もちろんニック・リーソンは最大の立役者だ。

しかし、88888口座に封印された損失はすでに臨界状態に達していた。
いつ爆発してもおかしくはない。
月末をまたぐための資金操作も限界に達しつつあった。
年末越えに行った資金操作に不信を持ったSIMEXが執拗に照会を行う。
社内でも調査が始まる。
しかし、誰も88888口座を覗くことはなかった。

リーソンに残された手段は先物を使って買い支え、日経平均を19000円以上で着地させ3月限オプションのポジションから利益を上げるしかなかった。
それが、見え見えの先物の売買となってあらわれていた。

部下が作成した、ベアリングのポジションはまさに海面からわずかに顔を出した氷山の姿を示していた。
市場はそれでもなんとか、リーソンの願いどおりのゾーンで動いていた。

1995年1月18日(水) 阪神大地震が発生。

処理過程

発生直後しばらくの間、地震をどう評価すべきか気迷いを見せていた市場は週明けから一気に売りの方向へ動いた。
その後、日経平均が19000円を回復することはなかった。

それでも、一縷の望みを託し、節目節目で悪あがきを続けるリーソン。
市場は、そんなリーソンをもてあそぶかのように、少しは反応を見せるが、上値は徐々に切り下がる。

社内外でいろんな噂が流されるが、誰も決定的な決め手になる88888の扉を開けようとしない。
そして、なりふり構わなくなったリーソンは文書の偽造にまで手を染める。

買い支えに使われた先物の買い持ちは膨らむばかり。
2月24日(金)が94年度分のボーナス支給日。
リーソンの頭には、なんとしてもその日まで持ちこたえることしかなかった。そしてその翌日はリーソンの誕生日でもあった。

しかし、その日が見えた前日ついに力尽きた。
おしっこを我慢に我慢してようやくトイレにたどり着いたら、入り口でおもらししてしまったようなものだ。
42.1KM走ってきてゴールテープが見えたとたん心臓発作を起こす。
本当の心臓発作を起こしたのはランナーではなくベアリングの経営陣である。

ボーナス日の前日、引け後ついに逃亡。

24日(金)極秘裏に関係者は動く。週末は、イギリス挙げての緊急対策会議。

26日(日)べアリングのポジションをある大手証券が代理で反対売買を行うことが決まる。部長から電話が私のところに入った。趣旨は一部のポジションを買い取れないかということだった。市場で決済したのちに残った最後の部分ならまだしも、その時点での一部買い取りはあり得ない相談だった。

翌日から積み上がったポジションの解消売りが始まった。ベアリングに代わって反対売買を行う証券会社の執行担当者は週末に急遽作られた特別室に陣取り、外部との接触が一切できない状況で、淡々と決済売りを出しているという。
初日に市場は大きく下げたものの、翌日以降は決済売りが出ているにもかかわらず、市場はびくともしない。
誰もが、最後の売りを買いたいと虎視眈々と狙っていたのだ。

決済売りは1週間弱で終了した。
終了のアナウンスがあれば、誰もが急反発を予想した。
結果は見事に逆だった。

最後の売りを買った人たちの売りを買う人がいなかったのだ。

相場の心理をまさに映し出す見事な展開であった。

結局、最後の売りをバーゲンだと思って買った人が投げ終わったころ市場は反発した。
その後も日経平均は上昇を続け、年末には、あれだけリーソンが抵抗した19000円も回復する。

すべてを飲み込んだ後、何事もなかったかのように動き続ける。
それが市場というものだ。


2年間



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うすうす予感はしていたけれど、圧倒的に場立のお話の人気が高いので予定を大幅に変更して早くも第2話へ。2・3話でさらりと終わろうと思っていたが、やや長編含みに変更。
金融工学なんてカッコつけたタイトルつけてるけど、ニーズがあるならどんどん書いてしまおう。

まず、読者の皆様の素朴な疑問を解決しなければ、

なぜ場立?

もちろん、場立になりたくて会社を選んだのでもなければ、希望を出したわけでもなし。
そもそも場立という配属がありうるなんてこともまったく知らなかったので想定外の出来事。
入社式の時に座った位置が前の方だったので、これはひょっとしていきなり本社かと内心にやりとした。
いよいよ配属発表の時。前から順に名前と部署が読み上げられる。やはり、本社の部署から順に読み上げられていた。いよいよ、順番は隣まで来た。そいつは「市場部」だった。その時、「ん?」と一瞬思ったが、続いて読み上げられた私の部署も「市場部」だった。次の二人も同じで、計4人が同じ「市場部」配属となった。

両隣を覗き込むと、片一方は何にも知らないようだったが、もう片方は何やら意味ありげな表情をしていた。
入社式が終わって、我々4人は同じ本社ビル3階にある市場部に直行した。

道すがら、意味ありげな表情を見せた男が教えてくれた。「俺たち場立だよ」「えっ、あの取引所の?」「お前知ってたのか」てな会話を4人で交わした気がする。意味ありげだった男以外は、私と同様何も知らなかったようだ。

配属先であいさつを済ませて簡単な説明を受けると、早々に屋上に上がるよう指示を受けた。
いきなり入社早々避難訓練でもあるまいと思ったら、屋上で隣のビルに向かってまさかの発声練習をさせられた。
場立としての訓練開始である。

いろいろ話を総合すると、場立には

眼がいいこと→サインを見逃してはならない
声がでかいこと→喧騒の中で仲間を呼ばなければならない
背が高いこと→人ごみにまみれて見えなくなってしまわないように
がたいがいいこと→人ごみの圧力に耐えれれること

が必要なことが分かった。
我々4人はそういう基準で同期230人の中から選抜されたようだった。

あとからわかった話だが、採用の段階から市場部行きが決まっていたわけではなく、230人のなかから元気そうなやつがテキトーに選ばれたそうだ。

こうして、私の社会人としてのキャリアは東京証券取引所の場立として始まったのだ。
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ニックリーソンずいぶんと遠い昔の話。

一人のお馬鹿なトレーダーがイギリスの名門ベアリング社をすっ飛ばしたお話し。

私は当時ある日系証券で、先物オプションのヘッドトレーダーの立場にあった。

事件を起こした男はニックリーソンというバックオフィス(受け渡し部門)上がりの若造。
2年ちょっとのトレーディング経験しかなかった。
上司の無知をいいことに、とんでもない損失をごまかしながら、
大相場を張った。
結局散った。

最初は、部下の些細なミスをかばうために行った親心による不正だったらしい。
ほとんどの巨額損失事件の入り口はどれも、ほんのささやかなできごとから始まる。
しかも、せっかくかばった部下はすぐにやめてしまう。あとに小さな損失と不正の事実だけが残されてしまうという皮肉さ。
損失を隠すために使われたのが「88888アカウント」という華僑がいかにもよろこびそうな数字の並んだ、エラー取引を記帳する口座である。ここに部下のミスをほおりこんだ。きちんとエラー報告すればそれで済んだ話。やめていった部下のものなんだから。
その口座に巨額の損失が積み重ねられることになる。

1度開けてしまった損失隠しという禁断の扉からもとの世界に戻ることは難しい。部下の残した損失は少額であったため、その後の顧客からの手数料と混ぜ合わせることでもみ消しに成功した。

そのおよそ半年後1993年の初め、違う部下が二つ目のミスを起こす。今度はかなり大きい。前回のように手数料からの収益とまぶしてごまかせるレベルではない。
ここから、本格的な損失隠しの旅が始まる。
しかし、「取り戻そう」という下心がある取引がうまくいくほど市場は甘くはない。

手口を簡単に説明するとこうだ。
88888のエラー口座にまず部下の損を移す。その口座に損失をカバーするだけの量のオプションを売り建てる。
発覚をふせぐため技術的な資金移動を頻繁に行う必要があるが、核心部分はこれだけである。オプションを売った時に受け取るオプション料は利益にカウントできる仕組みを使うのだ。

オプションの値段は日々変動する。変動によって発生する損失をカバーする必要がある(デルタヘッジ)。そのヘッジ取引は先物を使って行う。リーソンの先物取引はそこそこうまくいき、オプションの変動からの損失を補っただけではなく余分の収益を稼ぎ、半年後にはすべてがなかったことにできる状態にまで戻せた。
ここでやめればよかった。

秋に決定的な出来事が起こる。
大口顧客の注文を取るために無理な値段を提示して、そのポジションを抱え込んでしまったのだ。これは本来リーソンに認められてない取引である。大口顧客からの手数料収入欲しさに、ついリスクをかかえてしまったのだ。過去のミスをカバーした成功体験が彼の背中を押した。禁断の扉はこのとき完全に閉まり、もう後戻りできなくなった。

この取引によって獲得した大口顧客はその後確かに大きな手数料収入をもたらした。シンガポールベアリングの収益を大きく伸ばす最大の貢献者になった。その裏で、88888に疎開された損は拡大を続けた。こうなると、もう歯止めは効かない。88888の損をごまかすために、さらにオプションを売らなければならない。そうすると日々の損益はいっそう大きく動き、それをカバーするための先物の売買はさらに増えていく。

ベアリング幹部は顧客からの手数料で高収益を上げるシンガポール拠点を称賛し、そこで指揮を取るリーソンに一目置くようになる。検査の眼は、この収益がいつまで続くのかという方に向けられた。
悪いことにシンガポールにいる直属の上司はサッカーの話題しか興味を示さなかった。
バックオフィスたたき上げの彼にとって、そんな上司の目を盗んで損益をごまかすのは朝飯前だったらしい。
ルールでは、日中の最大ポジションは規定されており、ポジションの持越しは認めれていなった。それをかいくぐって、巨大な損失ポジションを抱え続けたわけだから、リーソンが指摘するように会社はボンクラだったとしかいいようがない。

彼の取引対象は、日経平均先物と日経平均先物オプション。あと、日本国債先物とユーロ円金先が少し。どこかの投資顧問会社とほぼ同じだ。認められていた取引手法は、SIMEXと大阪の間で生まれる価格差を狙ったリスクの少ない取引とされていた。
当時のSIMEX(シンガポール先物取引所、現在SGX)はフロア取引だったので、取引の様子はリアルタイムで市場参加者には丸見えだった。日本との時差は1時間だが、日本の取引時間に合うようにSIMEXの日経平均先物は取引されていた。

ベアリングのあまりの売買量は、当初市場では大物投資家の存在があると理解されていた。確かにそれも一部は正しい。しかし、実際は取引の大部分がこの若造トレーダーによるものだった。

1994年の夏場ぐらいから、リーソンの取引手口は過激になっていった。
すでに、オプションのヘッジ取引という範疇をはるかに超えていた。
そしてその手法はやがて???なものになっていった。
大口プレーヤーの行動なので、ライバル証券はみなその手口を分析する。

私の部下が異変に気づいた。
1994年晩秋のことである。

当時は日経平均は20000円手前をうろついていた。
リーソンは、19000円から20000円の間で日経平均がとどまれば収益が上がるポジションを積み増していた。それだけだと、相変わらずハデにやっているなという話なのだが、先物の売買が変調をきたしていた。

私の部下は詳細にベアリングの売買を追っていた。
普通、オプションで相場が動かないほうに賭ける場合、想定レンレンジの端に近づいた場合、レンジが外れた場合に備えて、先物を順張りしなければならない。つまり、下がれば先物の売りを増やす必要がある。

ところが、ベアリンングは全く逆のことを行っていた。レンジの端からもとに押し戻そうとするように売買を仕掛けるのである。

市場ではこの不思議なベアリングの動きが話題になり始めていた。



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ブラックマンデーが起こったその日、私はNYにいた。

忘れもしない1987年10月19日月曜日。
なぜ、その日にNYにいたかというと、話せば短い。

東京から長期出張でNYのオフィスに来ていた。たまたまである。

その時の私の使命は、翌年に予定されていた日経平均先物の上場に備えるため、アメリカの先物・オプション市場を研究すること。
でも、それだけでけは出張代がもったいないので、NYオフィスが顧客との間で行う日本株の取引を東京本社のリスクで保障するという、ちょっとわかりにくいこともやっていた。

少し専門的な話になるので少しご勘弁を。

海外でにおける日本株の売買は2とおりある。
一つは委託注文といって、顧客の注文を預かって翌日の東京市場で執行するやり方。この場合、証券会社は注文を取り次ぐだけなので、売買損益は発生しない。

もう一つが決め商いといって、現地米国時間に顧客との間で値段を決めて相対で取引してしまう方法だ。
これは、NYオフィスにポジションリスクが発生し、翌日東京市場でカバーしに行くわけだが、相場によっては損したり儲かったりする。

当然損益はNYオフィスに帰属するが、NYの資本金は大きくないので、あまり大きな損は出せない。そこで、NYオフィスが翌日東京市場でカバーする値段を東京が責任もって保障してあげるということが行われる。実際のカバー取引は商いがスカスカな大阪市場を使ってクロス商いの形で行われる。
東京のトレーダーがNYの地でそんなことをやっていいかという微妙な問題はあるが、当時はこういう仕組みで、日本株の売買をやっていた。

さて本題に戻る。
前の週からNY市場は不穏な動きになっていたが、月曜日ついに一気に爆発。売りが売りを呼んであれよあれよとつるべ落としに下がっていく。最終的には22.6%安の大暴落。

当然、そのあと開く東京市場は大暴落することは間違いない。
顧客から売り引き合いが殺到した。
東京からノコノコやてきた私に情け容赦なくNYのセールスは襲い掛かる。
ノービッド(買いの値段はだせない)でもおかしくはない場面だが、客商売なので、お客によっては付き合わざるをえない。結局、数社の顧客の売りを引き取ることになった。もちろん、それぞれ値幅制限いっぱいのストップ安の値段で。えらいことになった。

当然、東京市場は3,836.48円(14.90%)の大暴落。ほとんどの銘柄が売り気配のまま値段が成立しないで終わった。
私は、逆にこれで救われた。NYから引き取った株のコストは、今日の制限値幅いっぱいの値段、翌日そこからさらに一段安すれば、東京本社がとんでもない損失を被ることになる。
しかし、次の日はNY市場は乱高下したものの反発に転じ、それを受けた東京市場はは2037.32円高(9.30%)と急反発した。私の引き取ったポジションは九死に一生を得た。

もう25年以上も前の話だが、局面局面を断片的に思い出す。
現地月曜日の状況は唖然という感じであまり実感がわかなかった。
ただただ、食い下がるセールスとの対応に追われたという感じ。
現地の雰囲気は翌日火曜日のほうが緊迫感が強かった。
大暴落から一夜明け、地球が1回りする間に世界中の市場は例外なく大暴落した。果たしてこの波が地球をもう1周回ることになるのか。朝からそんな緊迫感が漂っていた。
NY市場はいきなり気配値が10%近くの下落を示していた。しかし、フロアは大混乱していて、売値と買値が開きすぎて全く売買は成立していなかった。1時間ぐらいそんな混乱状態が続いただろうか。全く現在値がわからない。売買しているのかどうかもわからない。チャートを見ると一応下ひげになっているが、かなりいい加減だ。そうしている間に気配値が急に戻り始めた。売りが一斉に引っ込んで、結局月曜日とあまり変わらない水準で売買が成立し始めた。その後も激しい乱高下は続いたが、最終的に若干反発して終了した、それを受けた東京市場は急反発したというわけ。

結構強烈な経験だった。
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今ではなくなってしまった職業なので、場立について少し書き記しておこう。

私が入社したのは昭和56年(1981年)。
1979年に第2次オイルショックが起こり、原油価格の高騰で産油国の懐事情がよくなっていた時期にあたる。

オイルマネーが大挙して押し寄せるというシナリオで、ちょうど株式市場は重厚長大の大型株が好んで物色された時期であった。

新人で東証の場立となった私は、前場・後場のそれぞれ2時間、発注業務に忙殺されることになる。
順繰りに人気銘柄が変る。
昨日が日立だったら、今日は新日鉄。明日は東芝といった具合に。

人気銘柄の発注はそれこそ、一触即発の喧嘩モードだ。
それは無理もない。証券各社から来る絶え間ない注文を、才取というつけ合わせ専門の人間1人で対応しているのだから。

その様子は、一匹の女王蜂に向かって働き蜂が百数匹一斉に群がるようなものである。
あちらこちらで
「てめえ」「きさま」「表へでろ」
なんて始まる。

しかし、5分毎に支店からの文伝票は容赦なく場立のもとへやってくる。
5分以内にそれまでの注文を発注しないと、時間優先の原則が狂ってくるし、できるはずの指値ができないということで支店でのトラブルのもととなる。

だからみんな必死だ。
人ごみにまみれながら、何回も「俺何やってんだろ?」と考えたりもした。

フツーそう考えると思うのだが、そんなことを考えるのは我々同期4人ぐらいだったようだ。

確かに、取引所の人ごみにもまれていると、相場の鼓動というか息吹というか波というか、何かが伝わってくるような気もする。次々と関連銘柄が物色されていく様子が、手に取るようにわかる。

相場師にとってはこの場のすべてが、かけがえのない情報ということかもしれない。
私はそのかけがえのない経験をしているのだと思うことにした。
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