2005年08月10日

ガ島通信こと藤代某、ほんとにだめだった

ガ島通信こと藤代某を「やっぱりだめだったか」と以前書いたが、この人物の非凡さというか、「この人ホントに記者してたの???」というようなくだりが掲載されていた。

ライブドアがいち早く反対した22人の自民議員の名前を記事にしていました。どうやって取材しているんだろう?国会に記者がいるのでしょうか?

まあ、記事の本数の割には記者が少ない気がします… ホント、どうやって取材しているんだろう?

疑問を持ったらすぐ、ライブドアに取材すればよいではないか。やたらライブドアにたかってくる。ジャーナリズムの歴史や理論への無知も困ったことだが、ジャーナリズムの技法も皆無。ほんとにだめだった。

  

2005年06月28日

ネットは新聞を殺すのかblogの湯川さんは大丈夫か

「ネットは新聞を殺すのかblog」の湯川さんがこれまで、ライブドアPJのことについていろいろ書かれている。内容には批判や応援なり、いろいろある。それはそれでいい。だが、果たしてマスメディアに所属するジャーナリストとして大丈夫なのだろうか。まったく直接取材していない。これが問題だ。

新たな著書を記すようだが、当初の「ネット上の公共圏と民主主義」という題名を「ネット上の公共圏と市民社会」に変更したそうだ。これは小生の助言によるものであろう。明らかに、ハーバーマスを意識した題目である。付け焼き刃的な理論展開と、理想論的な市民参加型ジャーナリズムの内容になってほしくない。なぜなら、ハーバーマス自身が民主主義の難しさを身にしみて分かっているはずだからだ。  

2005年06月04日

早稲田ジャーナリスト教育復活か

早稲田大学の政治経済学部の上にある大学院の政治学研究科で、科学ジャーナリスト養成の修士コースを来春から始めるそうだ。将来はさらなる範囲の拡大を目指すともいう。これがちょっと不可解なのだ。

というのも、政治経済学部系統の大学院に公共経営大学院というものも別個に存在するが、その中にも、ジャーナリスト養成をうたったコースがある。このコースは筑紫哲也氏が主任となり、朝日、読売、日経がヒトとカネをつぎ込んでいる。関係者によれば「政経学部の新聞学科復活を目指した」ものだそうだ。

早稲田の政経学部は伝統的に、多くのジャーナリストを輩出してきた。その中心的な役割を担ったのが新聞学科だったと聞く。その新聞学科はずいぶん以前に、さまざまな理由から廃止された。この理由等については、長くなるので別途書き記したい。

不可解というのは、同じ政経学部系統なのに、なぜ2つのジャーナリスト養成コースがあるのか、という点だ。この2つはベクトルの異なったものなのだろうか。私としては、新たなコースはマスコミOBの植民地化を嫌った結果であってほしい。学生は老兵士の昔取った杵柄話だけの講義に辟易しているのだ。

マンモス大学早稲田にはさまざまな学部・大学院で、ジャーナリズムに関する講座があり、ジャーナリズム研究所も存在する。ジャーナリズムについての多様な視座があることは望ましい。

政治学研究科のカリキュラムを見ると、ジャーナリズム理論、科学理論・技術論、そしてジャーナリズムのプラクシスと、理想的な教育体系となっている。これが果たして実際にうまく機能するのかどうか。来春以降にならねばわからないが、こうした体系を持つジャーナリスト教育は日本初である。

このコースの担当者には、できればジョブマーケットとの関連を重視した戦略をとってほしい。既存のマスメディア企業との協働に留まらず、新たなジョブマーケットの創出まで。これが、このコース成否のカギとなろう。グローバルかつ多様なメディア表現のカリキュラムを目指せば、その可能性は無限に広がっている。新たなコースは、個人が支えるジャーナリズムの一翼を担うものに成長してもらいたい。  

2005年05月22日

まったく…

朝日新聞社内のおじさん「整理部」窓際記者(実名を出す価値無し、科学記者経験はごくわずかという)がまた、ライブドアや「小田某」などに、感情的になってわめき散らしている。速報だって、笑ってしまう。別にライブドアブログニュースが嫌なら、黙って相手にしなければいいのに。きっと、うれしいのでしょう、相手にされて。

こんな輩の生活を見なければならない朝日の経営陣がかわいそう。こんな輩を養っていかねばならないがゆえに、記者クラブ制度や再販制度が必要になる。そんな輩が、記者クラブなど既存のジャーナリズム批判をする。滑稽とはまさにこのことですな。  

2005年05月17日

取材の思い出(終わり)

b3cbb38e.jpgこの記事・写真は「取材の思い出9」の続編。9の記事が日本国内で大きく取り上げられたため、化学兵器対策の取材に力を入れた。この取材の前にも、世界各国の警察担当が集まる会議を取材したり、地下鉄の駅で深夜極秘裏に行われた化学兵器事件の予行演習を取材したりと、支局の全員が一弾となってがんばっていた。写真はアトランタから約2時間南にあるフォーサイスという田舎町の訓練センター(軍の基地みたいなところ)で行われたセミナー。南部とはいえ極寒の1月にバイクで取材に行った。イカツイ人たちが真剣に爆発物の取り扱い法などを勉強していた。

この辺で、取材の思い出は終わりにします。また、気が向いたらやります。  

取材の思い出10

b1590923.jpgこの写真・記事は別の取材でアトランタ市街をうろうろしていたときに、たまたまマラソンの有森選手と小出監督をキャッチして、話を聞いたものだ。現場で話を聞きその場から携帯電話でそれを支局のデスクに伝えて、彼が記事を書いてくれた。五輪マラソンコースを走る間寛平さんと谷川真理さんを取材したかったのだが、当時の小生はお二人の人相を知らなかった。アトランタ市内で走っているアジア人など滅多にいないので、間さんと谷川さんだと思いファインダーをのぞくと、小生でもしっている有森選手だったのには驚いた。この大会で有森選手は銅メダルと2大会連続でメダルを受賞した。  

取材の思い出9

04434d97.jpgこれはアトランタ五輪時に化学兵器に備えた警備をすることをキャッチした記事だった。軍や警察関係者を招いた警備担当の講習会をアトランタ郊外で行ったのを取材した。取材に来ていたのは共同とAPだけだった。この記事は1995年8月17日付け朝日新聞に共同電として掲載されたもの。朝日はアトランタに支局はあったが、この取材には来ていなかった。ほとんどのスポーツ紙がこの記事を掲載してくれたのだが、自社の記者が取材したことになっていたのには驚いた。  

取材の思い出8

b499065d.jpgこの写真は、1997年2月21日付け「アサヒ・イブニング・ニュース(現ヘラルド朝日)」紙16面のロイター電。前夜国技館で行われたボクシングのタイトルマッチ。こんなに大きく掲載してもらい感激した。試合後、神谷町のロイター通信東京支局で退職されたHさんに午前2時過ぎ頃までかけて写真のエディットをしてもらったことを覚えている。  

取材の思い出7

c51ca30f.jpgこの写真は、1997年4月10日、六本木にあった防衛庁で撮影したもの。APやAFPなど外国通信社や国内報道機関が取材に来ていた。  

取材の思い出6

e1306f29.jpg「取材の思い出5」のクレジット・バイライン部分の拡大図。IHTに署名入りで掲載されたのは、この写真が初めてだったと思う。厚生労働省の周りでデモをやっていたのを取材した。  

取材の思い出5

1f4c730c.jpgこの写真はニューヨークタイムズとワシントンポストが共同発行していた「インターナショナルヘラルドトリビューン紙」1997年3月4日付け4面に掲載されたロイター電の写真。小生の署名が入っている。署名の拡大図はこの次に。  

取材の思い出4

3ce48aaf.jpgこの写真は「取材の思い出3」の写真の小生のバイラインの拡大図。  

取材の思い出3

ec953822.jpgこの写真は「取材の思い出2」フィナンシャルタイムズに掲載された写真の元原稿。同紙が配信されたこのロイター電の写真をトリミングして掲載した。キャプションに小生のバイライン(署名)が入っている。  

取材の思い出2

bf7e817a.jpg添付の写真は1997年4月15日付け英フィナンシャルタイムズの1面、ロイター電の三塚蔵相(当時)の顔写真。場所は東京内幸町の外国人記者クラブ。ロイター通信のカメラマンとして取材した。この記者クラブは基本的に在日外国メディアのためにあるもので、当然その資格が無ければ出席できない。小生の写真が初めて、外国高級紙の一面に掲載された記念すべきものであった。  

取材の思い出1

1a6f14d5.jpg昨晩、某誌の記者とカメラマンが小生の自宅に夜回り取材にいらした。テーマは小生の過去の経歴問題だという。その記者いわく、小生が共同通信やロイター通信で仕事をしたことは無かったと取材してきた、その確認に来たのだという。せっかくお越しいただいたので、道ばたでお話しするのは何なので、自宅に入ってもらおうとしたが、家族がすでに寝ていたので、近くのモスバーガーでコーヒーを飲みながら、話をした。

記者とカメラマン氏はまったくをもってまともな人で、現在のジャーナリズム状況や、匿名であること無いことをいたずら書きする心ない人々の問題などを話し合った。せっかくだったので、機会があればPJニュースに投稿していただくことを依頼したり、PJ塾の参加をお誘いした。

まあ、この機会に小生の取材の思い出でも披露しよう。たいした内容でないので、公表するようなものでもないが。

一枚目の添付写真は、アトランタ五輪直前の1996年7月3日付の東京新聞夕刊一面。共同電「聖火点灯、ただしテスト」は、アトランタ中心街にある五輪スタジアムの聖火台下で約1カ月張り込んで、ようやく撮れた写真だった。他に朝日新聞や読売新聞、スポニチなどのカメラマンも張り込んでいたが、点灯試験の写真は撮れなかった。

聖火台の点検に来ていたガス屋のおじさんに、その日の朝、事前に点火試験の時間を聞き出せた。昼過ぎに行くと、教えてもらったとおり、点火試験を始めた。このころは、この取材と、開会式の極秘リハーサルの様子と、再修正かランナーの特定という取材を担当していた。結果的に、点灯試験とリハーサルの取材は成功したが、最終ランナーは分からなかった。

開会式でモハメドアリが最終ランナーだと分かったとき、「これが答えだったんだ」という思いがこみ上げてきた。  

2005年05月15日

記事の盗作で思うこと

TBSのコラムで無断転用が発覚したニュースがマスメディアの大問題として報じられている。確かに、剽窃の問題はジャーナリズム自体に関わる一大事だ。

これに関連して、ストレート・ニュースで同業他社の記事を引用した場合、引用先を明示していれば、著作権侵害にならないのだろうか。このことは国内ではあまり問題視されていないみたいだが、実はジャーナリズム業界の存在そのものに大打撃を与える深刻な問題だ。

たとえば、筆者が在籍していたブルームバーグ・ニュースではその当時、「○日付け△新聞によると」という断りをつけた上で、記事の内容を無断転載していた。これは少なくとも、P・H東京支局長に指示によるものであった。

新聞協会のルールなどによれば、これは明らかな著作権侵害に当たる。それはそうであろう。同業他社の記者が汗水垂らして集めた情報を、いとも簡単に、コンピューター上でコピー・ペーストして、それを商品として売るのだから。まさに、フリーライダーだ。

それを組織ぐるみで行っているのだから、ブルームバーグが報道機関であるとするならば、深刻なモラルの問題だ。これを筆者が社内で指摘すると、それまで同社のホームページ上でその記事を公開していたものを、契約するクライアントのみにしか閲覧できないようにするなどの隠ぺい工作じみた措置をとった。

また、この問題はブルームバーグ・ニュースの記者自身の問題でもある。筆者など数人を除いて誰一人として、この体制に異を唱えるものもいなかった。その数人はすべてブルームバーグを去った。外人上司に従順で社畜のような自称記者が幅をきかせている。

ブルームバーグが報道機関ではなく、金融情報サービスであるとしても、著作権の問題は免れないだろう。そして、金融情報サービスであれば、記者クラブへの加盟資格などない。

この問題が日本国内で放置されているには、それなりの理由があるのだろう。これらの詳細をこれから、PJニュースなどで報じていくことにする。

  

2005年05月08日

コーヒー・ハウスと入場制限

 久しぶりに、楽しい本に出会った。講談社学術文庫から出ている、小林章夫著「コーヒー・ハウス−18世紀ロンドン、都市の生活史」だ。

 ジャーナリズムの原点は、近世英国のコーヒーハウスやパブにあることは知っていた。ただ、そのコーヒーハウスがオックスフォードやケンブリッジに淵源があることは知らなかった。

 当時のコーヒーハウスが教育機関の機能や、落ちこぼれ学生の救いの場として機能していたそうだ。このコーヒーハウスからジャーナリストが育まれてきたことは興味深い。

 政治家が密談する、学者が議論する、株屋が相場の話をする。コーヒーハウスによって性格が異なっていたそうだ。階級的な入場制限は無く、ただ、知識と教養、そして良識によって、そのコーヒーハウスの出入り条件が決まっていたそうだ。

 翻ってみると、インターネットの世界も同じような住み分けができつつあるのではないだろうか。ソーシャルネットワークなどその典型である。

 

 
  

2005年04月26日

ジャーナリズム論者への疑問

若くして大手報道機関を退社した元記者が、ネット上などでなにやらジャーナリズム論やメディア論なるものの大風呂敷を広げている。その多くがライブドアPJ批判だ。

批判されて大いに結構なのだが、残念なことに、その論を展開する教養が見えない。教養無き小生がそう感じるのだから、彼らの教養不足は深刻だ。パブリック・ジャーナリスト宣言を読んで、アナクロだと言ったり、ポスト産業主義うんぬんとのたまわったり。

あの宣言は、ジャーナリズムの系譜を記したのが分からなかったのかな。堀江氏の考え方は新自由主義です。こんな簡単な歴史もわきまえず、もしくは用語の意味も分からずに批判してくると、こちらとしても拍子抜けしてしまう。

結局のところ、彼らの目的というのははやりを利用した「売名」である。  

ジャーナリスト教育のなぞが一つ解けた

先週末、大阪にPJ研修に行ってジャーナリスト教育についてのなぞが一つ解けた。定年退職した受講生の方から「きょうはシュタイニッヒ書店の話を聞けただけで、十分価値がありました」と。小生が書いた「パブリック・ジャーナリスト宣言」についての解説への返答だった。

これはもちろん、職業としての政治家はジャーナリストであるとしたマックス・ヴェーバーが演説を行った本屋さんのことである。彼と同年代の先輩記者からは「ジャーナリスト教育など必要ない」との言葉をいただいている。

小生は、「なぜ、ジャーナリストの専門教育は必要ないといえるのだろう」と随分、考え込んできた。そのなぞの答えの一つが先の受講生の言葉である。つまり、ジャーナリストとしての教養が昔の人には大学卒業時に身についていたのではないかということである。

翻って、現在の大学教育。小生が講義を受け持つ有名私立大学で今晩、講義を行ってきた。パブリックとジャーナリズムの関係を話そうとするのだが、そこまでたどり着くのに一苦労する。それは、小生の大学時代も同様だったので、今の学生をとやかく言う筋合いは無いのであるが・・・。

昔の学生は、高校生や大学生の時代に、カントやヘーゲル、そしてヴェーバーなど様々な難解な書物を読み漁っていたと聞く。それが学生であったのだ。つまり、社会に出て行くまでに、専門分野はともかくとして、社会で必要となる知識人たる教養を身に付けていた。

昔は今と違って、ジャーナリズムにはさほど専門性は必要なかったのだろう。同時に、新米記者でもジェネラル・ニュースを追うだけの教養はあった。だから、ジャーナリスト教育などなくとも、OJTだけで良い、という発想が出てくるのだ。

ジャーナリスト教育の問題は、ジャーナリストの問題なのか、もしくは教育の問題なのか。いや、両者の複合的な問題であることに違いない。  

2005年04月14日

言論ラマルキズム

昨晩の「PJ塾」は面白かった。小生の話など、ありきたりで、話していくうちに自己嫌悪に陥るほど勉強不足が露呈してしまう。

昼から調子が悪かった。中国大使館前への抗議デモを取材しに行くと、警官から右翼と間違えられたり・・・。これは小生だけのせいではない、一緒に行った佐藤記者のせいもある。2人ともおりこうさんには見えなし、そうでないから、しょうがない。

その後の懇親会から、ビールも大量に入り、絶好調になった。井上さんがクリティシズムやウンデペンダンテ、ユングの話をしていると、ふと昔かじったラマルキズムを思い出した。分子遺伝進化論だったっけ。「ジャーナリズムの発展って、ダーウィニズム的ではないよな、ラマルキズム的だよなって。そしてその生き残りの条件はブレーヴェリィ」。そのことを話すと、中村さんや井上さんに大うけ。今度、この話はもっともらしく書こう。