May 17, 2013

反貧困 −「すべり台社会」からの脱出

s-IMG_1914


湯浅誠 著
岩波新書
2008年

うっかり足をすべらせたら、すぐさまどん底の生活にまで転げ落ちてしまう。今の日本は「すべり台社会」になっているのではないか。そんな社会にはノーを言おう。合言葉は「反貧困」だ。貧困問題の現場で活動する著者が、貧困を自己責任とする風潮を批判し、誰もが人間らしく生きることのできる「強い社会」へ向けて、課題と希望を語る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第1部 貧困の現場から
 第1章 ある夫婦の暮らし
 第2章 すべり台社会・日本
 第3章 貧困は自己責任なのか

第2部 「反貧困」の現場から
 第4章 「すべり台社会」に歯止めを
 だ5章 つながり始めた「反貧困」

終章 強い社会をめざして −反貧困ネットワークを

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この本が発売された2008年の年末、派遣切りにあって家を失った人たちの避難場所として「年越し派遣村」が日比谷公園に生まれた。
その村の村長として名実共に「貧困問題」のオピニオンリーダーのひとりとなった湯浅誠。
彼は自立支援サポートセンター「もやい」の事務局長として、貧困の最前線で日々、この問題と向き合い続けている。

日本貧困問題の古典とも言える本著。
自己責任の名の下に、実体が「見えない」貧困問題を「見える」ようにと投じられた一石は、「総中流」の幻想に酔っていた日本にも貧困問題が広がっていることを示した。

だが、それから5年。
安倍政権の生活保護水準の引き下げ、消費税の増税を受け、貧困問題は悪化の一途を辿っている。


作者がこの本で伝えようとすることは、幾つかある。

貧困の原因は、単純な自己責任などではないこと。
貧困に陥る人には、金銭的、社会的、人間的、精神的、人間関係的な「溜め」がないこと。
日本のセーフティネットが機能しなくなっていること。
日本社会に貧困は確実に広がっていること。
政府が貧困問題を直視しようとしていないこと。

この現状は決して他人事ではなく、明日は我が身であるということ。

そして、ひとりひとりの行動で、現状は変えられるということ。


貧困問題は、自分自身が歩んできた人生の結果として「自己責任」のひと言で片付けられることが多い。
だが、それは本当に自己責任なのだろうか。
自己責任とは、最低限、幾つかの選択肢を選ぶことが出来る状況で初めて発生する。
だが、幼くして親を失い、学歴を身に着けることも出来ずに社会に出た青年が生活保護を申請しなければならにほどに飢えるのは自己責任なのか。

貧困状況にある人は、五重の排除にあっている。
教育課程からの排除、企業福祉からの排除、家族福祉からの排除、公的福祉からの排除、そして、自分自身からの排除。
この5つの排除の結果、「溜め」が無くなるのだ、と。

著者の言う「溜め」とは、溜め池の「溜め」だ。
溜め池に沢山の水があれば、多少雨が降らなくても水に困ることはない。
だが、溜め池が干上がっていれば、雨の有無は一瞬で死活問題となる。

金銭の溜めが無いから、失業した後に条件や環境を選べずに再就職するしかない。仕事が家付であったなら、それが次の仕事の優先選択肢になるし、ひと月暮らすだけの金銭的溜めが無ければ日雇いになる。
苦しい生活の中で精神的な溜めを作れないから、人間関係はギスギスし、心を病んだり、人間関係の溜めも失われていく。
人間関係に仕事を紹介してくれる溜めがないから、仕事にさえ事欠く。

五重の排除は連鎖し、溜めを減らしていく。


多重債務、シングルマザー、派遣・パート・日雇い労働、その他、全ての問題は繋がっている。

そして、政府や社会は正規社員と派遣社員、年金生活者と生活保護受給者、外国人労働者と日本人失業者といった様々な形での対立を煽るばかり。
煽られた対立に踊らされた結果、結局は互いに傷つけ合い、生活水準が落ちていく負のスパイラルへと繋がっている。

貧困問題に単純な解決策などない。

まず知ること。
見えなかった、見ていなかった問題を見ること。
一歩を踏み出すこと。

そして、人と人が繋がって、少しでも人の間の溜めを増やしていくしかない。

貧困問題は社会の活力を失わせ、国を弱めていく。
貧困問題に取り組み解決をはかることは、一時は社会保障費の増大になったとしても、社会に活力を戻し、国を強める。
10年、20年先の未来の為、今、動かなくてはいけない。





貧困問題が広がっていることも分かる。
それが死活問題なことも。
そして、派遣や日雇い、世界経済状況、生活保護、様々な問題が絡まり合って、解決が簡単ではないことも。

分からないのは、僕が何でこの問題に「興味」だけ持って「行動」に移さないのか。というコト。

その疑問への自分の中の答えは、こうだ。

僕と言う人間が、正職員の立場でそれなりに働き、給料を得て家族を養い、税金を払い、こどもを育て、新築の家など建てて、そのローンを払い、経済を回す。
これをキッチリとこなすことも大事。
税金を納めるサラリーマンが居なくなれば、生活保護どころの騒ぎではなくなる。
こどもを育てる人間が居なければ、社会は未来の担い手を失う。
そもそも、僕のしている「普通の暮らし」をみんなが普通に手にする為の活動なのだから、それを手にしている人間が、あえてソレを手放すことに意味はない。
むしろ、この責任を放棄してまで貧困問題に身を投じれば、僕自身が助けを求める貧困者のひとりになってしまう。
それは、罪悪でしかない。
だから、僕はこのままで良い。

とは、思うものの。
やはり自分は何もしてないと言う想いは拭えない。

そのくせ、本ばかり読んで知識を増やす。
この行動は何だ?
もしかして、「自分の下にはまだこんなに人が居る。」と優越感を感じたいだけなのではないかと、自分を疑いたくなる。


でも、職場にくる生活困窮者に、可能なだけ優しく接したり、さりげなくアドバイスするなんて小さなことからでも良いのかな。とも思う。
これも小さいけれど一歩だろう。

目に見える行動をしなければ、何もしてないということでもないだろう。




know_the_base at 22:46│Comments(0)TrackBack(0) まじめな本 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔