2006年05月06日

本能とは何か?

livedoor ニュース



 今もテレビで「殴るときには本能でなぐる。本能で殴れば行き過ぎはない。理性で殴るから行き過ぎる」

 …とおっしゃっていましたが、この場合の「本能」ってなんでしょう?

 シャクティパットの人の「定説」みたいなものでしょうか?

 足の裏を見る人の「最高」みたいなものでしょうか?


 グル?

 リアリズム?

 民主主義?

 自由?

 平等?

 愛?

 オルゴン・エネルギー?


 ハギオン・プネウマ?

 ホーリー・スピリット?

 ヘブン?

 





















  

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2005年12月31日

愛撫


梶井基次郎『愛撫』http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/411_19633.htmlを読んだ。

読んでみると、読んだ記憶がある…多くの人にとってそういう作品であろう。

 その理由の一つはこの『愛撫』が代表作『檸檬』と一緒に文庫に収められていたことにあるようだ。

 もう一つは、おそらくこの話が猫の可愛らしさを話題にしており、表現が親しみやすく、あるいは妄想は残酷であり、作者の繊細さが愛おしいからではないか。

『猫の耳というものはまことに可笑しなものである。

薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛が生えていて、裏はピカピカしている。

硬いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。

私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪らなかった。これは残酷な空想だろうか?』




 短い文章ながら、この冒頭の掴みの手際は重要であり、結果として見事である。

 「猫耳」コスプレを流行らせたのも梶井基次郎ではないか…違うな。

 話は後半で耳から足に関心を移す。

 その爪を喪った猫は、全く別の生き物になってしまうというのだ。

 その例えには例によって文学者が登場する。

 猫というものは誠に愛おしい生き物だ。

 だがその魅力の半分は我儘な野生にある。

 文学の場合もそうだろう。

 文学者も爪を持たなければならない。

 ただし余り長く伸ばすと、キーボードが打てない。





未  

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2005年12月16日

ひらがなのじょうほうごでんたつかのうせい

女児に「つばくれ」男



いやね、つくばれかとおもいました。


ばいつくばれのつくばれかと。


それがほんぶんよんでつばくれだとわかり、


ひらがなでなくてもいいんじゃないかとおもいました。  

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2005年11月27日

氷山の一角

姉歯氏に構造計算発注 設計事務所代表自殺 耐震強度偽造でついに犠牲者出た



 当事者が責任転嫁の為に発言すれば揚げ足を取られかねないが、ヒューザー側の主張にいくらかでも正当性を認めるならば、やはり「今の検査体制には不備があり」「これは氷山の一角だ」と考えるべきではないか。


 検査機関がいい加減であれば、意図的でない設計ミスも見逃している可能性が高い。


 逆に「うちは大丈夫」と宣言している検査機関がないのは不思議である。


 現場で工事に関わった人間にも、「これはどう考えてもまずいんじゃないの」という意識があれば同罪→地震で死者が出れば「業務上過失致死」ということにしてもいいと思うし、そういう意味ではこの際、姉歯以外の案件でもきっちり膿を出した方がいいのではないか。







   

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2005年11月03日

高いのか安いのか

アニメーター過酷/朝から深夜まで働き年収は100万円未満/芸団協が調査


単純作業に従事する労働者として捉えると、収入が安すぎるとは思うが、芸術家見習いとしては収入が得られて、技術が覚えられるのでやむを得ないのではないか。

大抵の芸術家は成功するまでは無報酬で、成功しない限り、その努力を趣味として片付けられてしまう。

残酷なようだが、お金が稼ぎたければ別の道を選べばいいのだ。

そうして人手不足が生じれば、賃金は上昇するか、または海外の安い労働力が利用される。

そうした段階になって初めて、世界に誇る日本の財産であるアニメ文化を保護しようかどうしようか、という議論が始まるのではないか。


インターネットを利用した「世界的分業内職システム」のようなものが構築されれば、もっと個々の労働環境も改善されるような気がするけどどうなんだろう?

携帯メールが出版会の脅威となったように、マイナス効果もあるだろうか。






  

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2005年11月02日

薬剤師さん駄目じゃない?

[静岡母親毒殺未遂]女子高生、食事にタリウム混ぜる



このタリウムを売った薬剤師さんの責任(免許・資格)はどうなるのだろう?


ドンキホーテで薬の販売云々の際に問題になったのは、こういうことではないか。


内田裕也の映画で、クロロホルムを使って強姦を繰り返す犯罪者が描かれたものがあったが、教師になりすませばクロロホルムも簡単に手に入るのだろうか?







  

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単身者はどうでもいいの?

貯蓄無しは過去最高の23% 家庭の資産、なお厳しく


どうしてこういう統計から単身者が除かれるのだろうか。


またそもそもこうした統計はどのようにして可能なのだろうか。


対象となっているのは日本国民?


日本には貯蓄額の届出義務はあったっけ?


これはどういう意図で捏造されたレポートなのだろうか。



世の中わからないことだらけだ。

  

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2005年11月01日

営業停止すべき

◎中堅生保8社も不払い公表=合計70件


そんなに少ないわけないでしょう…というのが正直な感想だとして、はっきりしたことは、生保は保険金を支払わないという厳然たる事実ではないでしょうか。

損保も生保も税制上の保護・特権を得ている特別な業種であるだけに監督官庁の責任は免れないのでは?


とりあえず保険業法に違反した会社は営業停止でいいのでは?  

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2005年10月31日

殴られるもの

レイザーラモンHG“倒れるまで腰を振れ”



 人気お笑い芸人ばかりが自由でないわけではない。

 使うものと使われるものがいれば、大抵使われるものは惨めな扱いを受ける。



当時の作家は、国王や親王の年金をうるか、貴族の庇護を受け、また詩集を献呈して金を恵まれるほかは、わずかな収入をもたらすだけの著書の売り上げをたのむほかはなかった。


 そして才能のある作家がサロンの常連となり、貴族と親しい口をきくとしても、貴族にとっては彼は「召使」であるに過ぎない。

 「棍棒で殴る」という言葉は、生意気な作家を貴族が召使に命じて殴らせることをも意味していた。

 この風習は十八世紀でも残っていたらしくヴォルテールは棍棒で殴られ、さらにはバスチーユに投獄された。

 文学者が人並の扱いをうけるのは十九世紀にはいってからになる。

(『フランス小説の世紀 その歴史的意味』岡田直次著/日本放送出版協会/昭和五十八年/p.31)



 文学者もかつては太鼓もち、幇間であり、プロレタリアートだったのである。

  

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中曽根政権時代を思い出せ

消費税引き上げ、負担増へ 財政再建に待ったなし


消費税を10%台に引き上げて、その増収分を社会保障費にあてる…という意見が自民党から出ているようだがこれはとんでもない理屈である。

今の若い人は気がつかないだろうが、そもそも「消費税」は、導入前には「大型間接税」として計画され、「福祉税」という別名で議論されていた。

最終的に目的は限定されなかったようだが、消費税はそもそも社会保障の充実の為に導入されるのだ、というのが建前であった。

みのもんたが指摘している通り、この国では「福祉とか社会保障」と言えば、いくらでも予算が貰えるようなとんでもない考えの持ち主がいるようだ。

しかし実際には今、本当に社会保障や福祉にかける費用が十分ではないということがあるだろうか。

国の保障とは別に、各自治体でも社会保障と福祉に多額の予算を使っている。

社会的弱者であっても、きちんと手続きさえすれば、どこかからお金が出る仕組みである。

あるいは社会的弱者のふりをして、特権を得て、社会保障費を騙し取る人々の問題があるくらい、この国の福祉は「おいしい」とさえ言える。

しかし残念ながら、健康で真面目なサラリーマンにとっては厳しい国である。

多くの保険料未払い、免除者の分まで保険料を負担し、受け取る年金は「公平」という扱いになる。

 自営業者と違い、年金受給権を得る前に定年退職させられる。

 国籍を含むさまざまな理由で不足した保険料を、国費で埋めようとした場合、所得をほぼ百パーセント把握されているサラリーマンからはまたきっちりと税金が回収される。

保険料を免除され、また滞納しているような人は、当然税金も払っていないので、真面目なサラリーマンのみが二重三重に費用負担することになる。

だからこそ消費税が平等である…という役人は本当に現実を知らないのだろうか。

消費税は脱税の温床であり、きちんと処理されたとしても事業者にとって益税であることは変わりない。

駆け込み消費による売り上げ増、便乗値上げによる収益増、細かな脱税操作、過少申告による納税免除、半年間の資金滞留…。

実際にとある実業家は、消費税導入時に思いがけないバブルを体験したことを告白してくれた。

しかし真面目なサラリーマンにはそういう脱税がらみの還元もない。

インフレに苦しむだけである。

 政治家や役人は予算が増えればそれだけ利権が増えるから、消費税くらい値上げしても平気なのだろう。

だが、もう少しまともなアイデアがないものか…。


ドクター中松のノストラダムスエンジンでエネルギー資源を確保して、税金をただにするとか…。


  

大きな嘘はバレない?

産経新聞が虚偽写真 記者が合成、おわびを掲載


報道に嘘があってはならないという正論はもっともだが、この程度の嘘は笑って許されるべきではないか。

恐ろしいのは政治的意図で捻じ曲げられた報道で、訂正も許されないようなものであろう。

インターネットの世界では、百パーセント新聞報道を信じている人は寧ろ少数派になるのではないか。


もしもこんな小さな罪のなさそうな嘘を告白することで、大きな嘘を隠そうとしているのなら大問題だとは思うけど、そういうものはどんな「会社」でも絶対に白状しないものだろう。








  

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人間の寿命

人間は1000年生きられる? 英研究者の科学的予測
 


『人間臨終図鑑』(山田風太郎)を読んでいてこんなことも思った。


この本では最高齢の死者を泉重千代としているのだが、別の資料によると、まだまだ高齢者は存在することになっている。

例えば、




百二十七歳    考霊天皇

百三十三歳    田中元人   (京都の名仏師)

百七十三歳    二条春盛   (京都の大官)

三百余歳     武内宿禰


…など。(『神通術奥儀伝』/小野清秀/大文館書店/昭和五十七年)

このくらい長生きしたら、本当に「死の苦しみ」「死の苦痛」といった肉体的なものは殆どないのではないかと思う。

 その代わりドラキュラなみに「行き続けることの虚しさ」を感じざるを得ないのではないか。

 ただしそういうものを完全に超越する存在もあろう。

デーモン小暮閣下は恐らく十万八十歳くらいまでは生きるだろう。


                                          (のーつ)

  

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2005年10月29日

ソビエト第一章54

笑いのうちに座し再び本を開くと、瞬く間に笑いは引いた。文字がある。言葉がある。意味がある。しかし意味なんぞに一体どんな意味があるというのだろう。堕落もせず、進歩もなく、絶望もせず、孤独にも苦しめられる様子もなく、ただ意味のないことを延々と書き続けたクリュシッポス、そして石野岩夫、この二人の狂気にも、他人に施す程の救いはなかった。

 私は突然、自分が何かを待っている間、こうして暇つぶしをしているのではなかったかという、自己の動機を問う問いに出会った。問うのも自己であり、答えるのも自己でありながら、答える方の自己がいくらか余計にあやふやだった。

客観的な判断である。問い詰める自己はそう言い切った。客観的に判断して、私は何かを待っているように見える。そしてその待ち時間を、読みたくもない本を開き、蛾を追い、瞑想し、どこからか聞こえる微かなノイズに耳を澄ますことに浪費しているように見える。


  ・ ・ ・ ・ ・
 客観的には。

答える自己は「でも」と控え目に否定を始めようとした。だが言葉が続かなかった。客観的に対抗する視座が見当たらなかったのである。問う自己は既に真実を語ってしまったように思える。では答える自己が発した「でも」という言葉は、忽ち取り消されてしまうものかと思えばそうでもなかった。「でも」は宙ぶらりんのまま、放置され、忘れられ、思い出された。答える自己が「でも」に続けたのは、答えというよりは反論の意を込めた質問のお返しだった。

私が何を待っているというのだろう?

窓に近づき、カーテンを開いて、外を見た。低い町並みにさえ遮られて何分の一かの大きさの楕円に切り取られた夜空を斜めに、巨大な彗星が流れた。その不吉な兆しは、声を漏らす程私を驚かせた。口を開いたまま、私はまるで他人の両足をがくがくと震えさせていた。

こんなに膝が細かく前後する筋肉の働きを見るのは初めてだった。何の具体も示さぬまま、彗星は感情の平静を深く抉った。もう既に致命的に何かを失ってしまった気がした。窓におびき寄せられカーテンを開いた自分を呪い、舌打ちして、円形闘技場に数匹の飢えた獅子と供に放たれた丸腰の人間のように私は部屋を見回した。幸いなことに蛾は襲いかかり、咬み付きはしなかった。本も、畳も、白熱球も、じっとしていた。

自分が恐れているものの正体が何なのか不明なまま、私は壁に立て掛けていた鉄の定規を握り、背中に仕込んだ。そんな素朴な秘密兵器でぶちのめすことのできる相手がのそのそと近寄ってきてくれないものかと願いながら、私は財布と部屋の鍵を懐に、夜中の街へとさ迷い出ることにした。

そう。私は待っていられなくなったのである。

この狭い部屋で、一人きり、じっと恐怖の具体例を待ち続ける苦痛に耐えられなかったのである。だが行く当てがある訳ではなかった。一人でぶらりと立ち寄れる小料理屋がないではなかったが、その全ての店の雰囲気が、今の自分の気分にそぐわぬものであることがはっきりと感じ取れていた。誰かにお説教をされたくもなかったし、何度目かの哀れな身の上話を繰られるのも好かなかった。しっとりとした大人の色香に誘われたいとも思えなかったし、勇ましい萬物批評=批判の談義に加わる気分でもなかった。そうかと言って、紅生姜を山盛りにして牛丼を掻き込む若い食欲もない。

一人で静かに酒を飲む場所を持たない私は、賑やかな路地を右へ左へ果てしなく歩き続け、ついに一つの行き止まりに来ていた。そこは一軒の怪しげなバーのドアであり、"風鈴"と書かれ、足元にはやはり"風鈴"とだけ書かれた看板が出ていた。

 風鈴。

つまらぬ名だ。いや、つまらぬ名なのか、良い名なのか、それきりでは判断がつかない曖昧な響きであることは確かだ。だが、そういう意味で、やはりこれはつまらぬ名なのだと思えた。"佐知子"や"知代"というママの名前でもなく、舶来のカタカナ語に無理な当て字をしたのでもないというだけで月並みから逃れられる訳ではない。風鈴というなんという裏もなさそうな夏の季語でさえ、誰かが気を利かせたつもりで"不倫"と懸詞の心を与えているかも知れないのだ。そんな疑心暗鬼の可能性に於いても、風鈴とはつまらぬ名である。私が風鈴のドアを引いたのは、悪趣味でも好奇心でも妥協でもない。私はそのつまらぬ名の書かれたドアの内側から、自分のつまらぬ名を呼ばれたからである。

やや薄暗い店内を見回した私は、呆気に取られたとでもいう顔をした二人の女の顔を見た。

一人は四十代、もう一人はその娘と思しき二十代前半の女だった。ママと看板娘、そう呼び分けられても文句の言えない二人だった。

「こんばんは」私は言ったが、返事はなかった。やはり歓迎はされていなかったようだ。漸く何か言わなければならないと気がついたママが口を開いた時には、私は止まり木の端に腰を下ろしていた。

「あのぅ」とママは言った。「……初めてのお客様……ですね?」

思いがけず女臭い空気を深く吸い込み、それを吐き出す息で短くそうだと答えた私は、まさかこれで炭酸水なぞ出しはすまいな、と想像を笑った。

「いらっしゃい」看板娘は言った。それっきり愛想もない。

「どうも」私は帽子を取り、看板娘に会釈をした。ママを無視する訳にはいかない。ママにも会釈だ。それからカウンターの奥の酒瓶の種類を眺め回し、結局まずはビールを注文してみることにした。

「ビールをもらえないか」私は言った。

田舎の人に挨拶された都会の人のように、ママは驚いた。

「ビール?」

その声は、ビールという飲み物がこの世に存在することを知らないとまで感じられなかった。だが、飽く迄も、ここでそう言うか、とこちらの突飛を責める雰囲気はあった。

「ビール」

ママはそう繰り返した語尾を落胆と失望で地に落とし、その転がる先を目で追うように床を見た。ビールと言われても、うちではとてもそんな高級な飲み物は仕入れられませんという態度だ。

「水割りでも構わないが」

「いえ、お客さん」

ママは何かを言いかけて、看板娘を見た。看板娘はママを見ていた。何かの合図に目配せがあり、ママは漸く続きを喋った。

「お客さんは、牧さんのお知り合いですか?」

牧さん、と呼ばれる人を知らないのは非常に残念なことだという気持ちが伝わるように、私は精一杯沈痛な面持ちで目を閉じ首を左右に振ってみせた。目を開けるとママも看板娘もさらに沈痛な面持ちでいた。困ったわね、とでも言う代わりに看板娘は本当にため息まで吐いた。

牧さんと知り合いでないだけでそんな仕打ちをされるということは、この二人にとって私という存在は、牧さんを仲介しなければとても受け入れがたい生き物であるようだ。しかし、現実に私は牧さんと呼ばれる人を知らなかったし、知っているふりをする為に必要な芝居気に不足していた。

どんな場合にも万能とは限らないことを承知の上で、こんな時私はいつも正直を選んでしまう。

「牧さんという人は知らない。自分で勝手に入って来てしまったのだ」

そう。正直がどんな場合にも万能とは限らない。ママも看板娘も、さらに表情を曇らせた。律義な税務署員のように、私は自分を弁解をした。

「一人で飲みたくなって、ふらりと入ってきてしまった。都合が悪ければ出直すよ」

「そんなことをされたら困ります!」ママは急に大きな声を出した。


そうしていただけますか、すみませんねえ、という答えしか予測していなかった耳には、その声は感嘆詞として響いた。

「はい、おビール!」

バスケットボール選手並みに素早く動いた看板娘が、栓を抜いたビールと水に濡れた硝子コップを私の前に叩きつけた。それは無愛想というものとは何か違っていた。まるで脅されているように見える。ママを見ると、やはり素早く移動している最中だったので、一体何をしているのか私には見切れなかった。ビール瓶の口からは泡が吹き出し、カウンターに零れた。

東京麦酒と印刷されたコップは、自分の水たまりを横に滑った。




(続く)  

2005年07月30日

ソビエト第一章53

14

ノーパンしゃぶしゃぶの店を出ると、あたりはすっかり薄暗くなっていた。奈緒美は用事があるからと、店を出たところで別れた。止める間も、それ以上詳しく用事の中身を質問する間もなかった。遠ざかる奈緒美の大きな尻を眺めていると、私は人生の虚無を感じないではいられなかった。

 奈緒美は別に用事があった訳ではなく、兎に角私から離れようとしただけに思えた。そんな風にして歌舞伎町に置き去りにされた男には、この町の艶やかなネオンがかきわりのように感じられるのであった。私はそこを歩く何千人もの雑踏の一人となり、ヴェテランの客引きが一瞬で目線を切る冷やかしの一人となった。私はこの町となんの繋がりもなかった。ここに用事がなく、早く立ち去りたいと願うだけの人間だ。

 私は世界にたった一人になった。

部屋に戻り、白熱球一つ灯し、座して書を読むうちに、どこから舞い込んだのか一匹の蛾が目の前を無様に過った。私はノーパンしゃぶしゃぶ屋の若い女の身につけていた白い前掛けを思い出した。それは陽気にはためき、自由闊達に店内を動き回っていた。尻を丸出しにして給仕をしながら、女たちは背筋を伸ばし、微笑みを浮かべていた。仕手筋の株価チャートの軌道で顔に寄って
きた蛾を払い、本の頁を捲った。私の部屋には騒がしい物音を立てる機械がなかった。珍しく近所も静かな夜を迎えていて、耳を澄ますと漸くじじじじ……と微かなノイズが聞こえて来たが、その音はどうやら白熱球から発せられていた。視界の真ん中に大きな残像の焼け残りを残して、私は視線を文字に戻した。耳に伝わるものが、目で確かめられた訳ではない。ましてや理屈を理解した訳ではない。フィラメントを流れる電荷が摩擦を音にしている訳ではあるま
い。電球とソケットの雄ネジと雌ネジのメッキされた接続部分で、絶えず余分な放電が起こり、空気を震わせているのでもあるまい。だが何かがそのほんの微かな音をさせているのは間違いなく、私と白熱球と一匹の蛾と壁の時計だけが、この部屋の活動物体であり、残りは単なる静物に過ぎない。そう。静物というからには、静かなる物体に違いないのだ。

目が追う文字とは関係もなく、微生物のことを一瞬思い、その馬鹿馬鹿しさからすぐに逃れる為に首を振り上げ、学習もなく白熱球を睨んだ私は、再び視界を焼いた。その眩んだ暗がりを再び蛾が横切った瞬間、私はまるで素知らぬ顔で空中を掴んだ。しばらく手応えを確かめた後掌を開くと、果たしてそこには何もなかった。

じじじじ……と鳴る物の正体も掴めぬまま、本に目を戻すと、腕が起こした風が頁を捲っていた。ようやく読みかけの位置まで戻り、さらに少し前から読み直してみるが、何が書かれているのかさっぱり分からない。もう一度、今度は段落を二つ戻って読み直してみたが、それでも意味が取れない。本を裏返し、表紙の題と作者名を確認するが、そのどちらにも覚えがなかった。その本を何時どこで手に入れたのか、全く記憶していないのだ。そればかりではない。目次を眺め、前書きを読み直してみても、この本をたった今まで読んでいたという確信には辿り着けなかった。そればかりかどんどん自信がなくなっていく。左右を見ても、手の届く限りの位置に別の本はない。今膝に乗っているこの本をずっと読んでいるのでなければ理屈は合わない。

蛾を目指して伸ばした手は、また空を掴んだ。続けてもう一度狙いを外した後、蛾は高く舞い、立ち上がらなければ届かない位置に迄逃げた。

物体固有の振動、そんな原理の活用に拠って、水晶時計という機械が動いていることを思い出した。だが水晶時計が音を立てるとは思えなかった。では、ボルツマンのブラウン運動はどうだろう。不規則に動く分子は音を立てないだろうか。私は首を振る偶然から、音源の方向に気がついた。できるだけ目を細く白熱球を見上げると、やはり目は眩んだ。

私が読んでいた本は、ストア派の長距離走者クリュシッポスが書いた七百巻もの本の翻訳本の一冊のようだった。そこには現在の目から見れば単純な誤謬と錯誤があった。意図的に引き起こされた論理矛盾が自慢気に延々と述べられていた。どのテーゼにも同意できなかった。しかも、一つとして笑いを誘うものがなかった。

こんなものを一生かけて書いた人が存在したということよりも、おそらくは一生の半分以上の時間を浪費し、翻訳・出版した翻訳者が気になって奥付を見た。そこにはただ石野岩夫と記されているだけだった。石野岩夫だあ? いしのいわおっと? いしのいわふ?それとも、いしのいわお?

その四文字をどんな音で読むべきにせよ、妙に引っ掛かる名前である。翻訳者の略歴も後書きもない第一巻なので、その頑固そうな名前しか頼るものはないのだが、私は命懸けの飛躍で、この石野岩夫という翻訳者と、奈緒美の婚約者石野岩雄を結び付けていた。この二人は親子なのではないかと考えたのである。根拠は苗字と名前の類似のみである。一礼されただけの記憶しかない石野岩雄がどのような人物であるかなどということはさっぱり分からない。

翻訳も文章である以上、品格の反映されるものであるかも知れないが、私はその文章から寧ろ虚ろを感じ取っていた。この後に続く長い長い作業にも、変わらぬ一歩一歩を踏み締めるのでなければとても耐えられぬように思えた。どこかで全速力を出し、立ち止まって休む文章ではなかった。なだらかに下る坂道を登り坂と同じ坦々とした足取りで進んで行く筆遣いだった。翻訳者はその文章のペースを作りもせず壊しもしていないのではないかと思われた。そんなところにある翻訳者の品格の虚ろさが、目線を切る石野岩雄の礼の雰囲気を思い出させもした。

顔を上げたのは、もう勘弁がならないという怒りに達したからであった。手の届く位置に適当な道具がないものかと左右を見た。それでも何も見当たらないと上下を見た。その顔面すれすれをちぐはぐな飛行を続ける昆虫がいて、私はまさにその生き物がそこに存在することそのものに耐え難い憤慨を覚えていたのである。空しく空を掴む両手は、人間という生き物の劣等な動態視力と反射神経を証明していた。蛾は掌に消えたと思わせて、そのすれすれをかい潜っ
た。何度でもそうして遊んでくれようという態度だ。

人間の昆虫よりも些か優秀なる点は何か。目を閉じ目を開ける瞬きの一秒に、陰謀を巡らすことのできる知恵である。脳髄である。私は立ち上がり、窓を開け、白熱球を消した。

 窓の外には近所の街灯の明かりがある。蛾は光を目指してさっきから、目の光と、白い本の反射と、白熱球の近辺をさ迷っていたのだ。暗闇では目も本も白熱球も蛾を呼ばない。こうしてじっとしていれば、蛾は部屋から出て行くだろう。

暗闇に正座し、目を閉じた私は、じじじじ……という音が途切れていないことに気がついた。それは白熱球の音ではなかったということだ。その意味が掴めないまま、暗闇に目が慣れた私は目を開け、本を開いた。クリュシッポスの所為でも、石野岩夫の所為でもなく、暗闇では本を読むことはできない。私は風の気配を読んだ。部屋の空気がすっかり入れ替わってしまったようだ。短い記憶を辿り、窓を開けてどのくらいの時間が経過したのかを考えた私は、手探りで窓際に近づき、窓を閉め、カーテンを引いた。それから手探りで白熱球の位置を探った。白熱球はもう冷えていた。私はスイッチを捻り、目を眩ませ、顔を伏せ、そして畳に映った陰に我が目を疑った。白熱球の近所には、十数匹の蛾の陰が呪いの符号のように舞っていた。窓が開いたことをこれ幸いに、町内から仲間を呼び寄せたのだ。

 人間の昆虫よりも些かなりとも優秀なる点は、己の馬鹿を素直に笑うことだろうか。一瞬のうちに過去の頭を巡っていた感情の中には、己の孤独と蛾の孤独とを遠回しに結び付ける同情心もあった。まるで私は一個の蛾ではないか、そう感じていたのは確かである。じたばたした後、やがては握り潰される昆虫を見るに見かねて、私は彼を自由にしようとさえしたのである。鯨どころではない。私は蛾にも見透かされ、裏切られ、同類扱いされることを拒まれた。







(続く)  

2005年07月26日

ソビエト第一章52

13

目の前が真っ赤になりぐるぐる回っていた。

困ったことになったな、と思ったら、一本の矢が目の前の的を射貫いた。銀色のミニスカートをはいた若い女が続けざまにボウガンを放ち、その全てが狙った的を順番に射貫いた。器用なものだ。この女たちに狙われたら一たまりもない。

「どう、兄さん、当たってる?」奈緒美は聞いた。

私は回転が止まる前に的を見つめた所為で、目が回って仕舞っていた。奈緒美に宝くじを預け、両手で顔を押さえた。それでも頭の中で赤い色がぐるぐる回っている。

「68組の1607443」奈緒美は呟いた。その呟きは聞き取れないくらいになりながら素早く繰り返され、次第に強く盛り返され、歓喜の叫びに変わった。「68組の1607443! あったわ」

「何等だい?」

「一等よ。兄さん、一等よ」

「一等? 良く確かめたか? 組は合っているのか?」

「68組の1607443でしょ。68組の1607443。合ってるわ。合ってるでしょ。ほら」奈緒美は当たり籖を私に見せて確認させた。何度確かめても、それは一等に間違いなかった。

「ああ、もっと沢山買っておけば良かったわ。そうすれば、もっとお金持ちになれたのに」

「そう一度に何枚も一等が当たるものではないさ」

「そうかしら。妾、兄さんと組めばどんなことでも出来そうな気がするわ」

「それにしてもまさか、一等が当たるとはな」

「これで家を借りられるわね?」奈緒美は言った。

それは何度も相談を重ねた未来の計画だった。二人でどこか静かな場所に住まいを借りて、誰にも邪魔されず、ひっそりと生きて行く。そんな実態のない言葉の連なりが、半分は現実に見えて来た今になってみると、残りの半分の不誠実さと、そこへ向かう精神の勢いのなさが重苦しく感じられた。それしきの金では、生涯暮らせる訳ではない。私は新しい仕事を探し、そこでまた社会というものにぶつかることだろう。誰にも邪魔されずに生きて行くことなど、果たしてどれだけの金があれば可能なのだろうか。

「お祝いをしましょう」奈緒美は言った。

私に異論はなかった。

「何が食べたい?」

「そうだな。今まで一度も食べたことのないものにしようか」

「今まで一度も食べたことのないものって、一体何なの?」

「ノーパンしゃぶしゃぶさ」

「それって食べ物なの?」

「多分ね」

「でもどうしてノーパンしゃぶしゃぶなの?」

「もう、きっと、私たちには何十章もの物語は訪れないだろう。せめて一晩の気晴らしがあるだけだ。これから起こる出来事は全て後始末に過ぎない。それならばノーパンしゃぶしゃぶを食べるしかないだろう」

「じゃあ、お肉を買って帰って、お家でノーパンしゃぶしゃぶをやりましょうよ」

「それじゃあ何の意味もない。私は色んなおまんこが見たいんだ」

「一つじゃ駄目なの?」

「一つじゃ駄目さ」

我々は宝くじ抽選会場を後にし、タクシーでノーパンしゃぶしゃぶに向かった。ノーパンしゃぶしゃぶの店は新宿は歌舞伎町にあった。まだ早い時間だったので、お客はまばらだった。しゃぶしゃぶを注文すると、ノーパンの娘がやって来ておまんこを見せてくれる。そんな性欲の強い人間好みの店だった。

そこは女が裸である為か、かなり暑かった。我々はしゃぶしゃぶ定食を二人前注文し、ソファーに深く座って女を待った。女はしゃぶしゃぶを持って来た。しかしおまんこは見えなかった。

「じゃあ、しゃぶしゃぶでも食べながら、シベリアの話をしよう」私は言った。

「シベリア?」そう言われる前にもうしゃぶしゃぶを始めていた奈緒美は思いがけないことを言うものだ、という顔になった。

「そう。シベリア・パンの名産地だ。沢山の野生のシベリアン・ハスキーが群れをなして生活している。そこに私は十年間住んでいた」私は薄切りの牛肉の一切れを箸でつまみあげ、しゃぶしゃぶの鍋のお湯の中をしゃぶしゃぶと潜らせた。食べて見るとそれはまだ生肉だった。今度はしゃぶしゃぶを六回程繰り返してみた。どうも肉からうま味が逃げてしまっているような気もする。

「全然知りませんでしたわ。ちい兄様が十年間もシベリアにいらしたなんて」

「そりゃ、そうだ。これは今初めて明かされる私の過去の秘密なのだ」

「でもシベリアで十年も生活されたら、冬でも風邪をおひきにならないでしょう?」

「そりゃ、そうだ。今でも一年中半ズボンとランニングシャツで通っている」

「どこに通うんですか?」

「それでシベリアの話だが、どこまで話したかな?」

「まだ何もお聞きしていません」

「では話そう。実は私は昔シベリアにいたことがあるのだ」

「えー。本当ですの?」

「本当だ。そこで学んだことが幾つかある。その一つは、頭がおかしいからといって、何をやっても許されると思い込むことは危険な過ちだということだ」

「ありきたりなお説教ね」

「お説教ではない。経験だ。そしてこういうことも経験した。自分は頭がおかしいなどと思い込む権利は誰にもないということをだ。最後の最後の瞬間まで、自分は自分を信じ続けなくてはならない。そうでなくては、シベリアで生きて行くことはできない」

「じゃあ、自分を信じ続けられなかった人達は、どうなったの?」

「強制的にか自発的にか日本に送り返された。そして冬には風邪をひく人間になった」

「ちい兄様は何故わざわざシベリアにお残りになったの?」

「給食のおかずが食べられなかったからだ」

「どんなおかずが食べられなかったの?」

「しゃぶしゃぶさ」

そして私はもう一切れの肉を摘まみ、それをしゃぶしゃぶして口に入れた。味がない。それもそうだ。私は肉をゴマだれに浸していなかったのだ。

「ちい兄様がシベリアにいらっしゃる間に、日本は変わりまして?」

「変わったな。私が日本にいた頃は、ノーパンしゃぶしゃぶなどという食べ物は、日本にはなかった。F.L.T.も証明されていなかった。R.H.も証明されていなかった」

R.H.はまだです」

「では、こういうことが言える。日本はまるで変わっていない。何もかも昔のままだ。変えなくてはならないとも思わないがね」

「でも変わらなくては飽きられます」

「飽きられたらどうなる?」

「またじきに好かれます」

「それならそれでいいではないか。パチンコ台のように国が変わることはない」

「でも昔の日本は不平等でしょう?」

「未来の日本は平等になるかね?」

「それは分かりません。未来のことですもの」

「だが、今より良くなるものかね?」

私は肉をお湯に放り出し、奈緒美を見つめていた。奈緒美はとうに食べるのを止めていた。

「それは妾には分かりません。でも、日本というより、世界がどうなるかを考えなくてはいけないのでしょう?」

「それが商売の駆け引きの台詞でなければいいのだがな。世界、世界という人間は、どこで得をして、どこで損をしている人間かを見極めなくてはならないだろう。傀儡と侵略者は世界、世界と言い続ける」

「鎖国でもなさるおつもり?」

「鎖国か。例えば世界のサッカーでは、ルール違反が許されているとする。ゴールキーパーがボールを持ったまま十歩も歩いたり、ペナルティキックの時、相手がボールを蹴る前に動いたりすることが黙認されているとする。では、少年サッカーの指導者は子供達にどんなサッカーを教えるかという問題がある。ルールを厳守させるか、世界の趨勢というものに合わせるかだ。当然、反則を上手に使える子が最初は上に行く。しかし、それでいいのかと考える人間はいる筈だ。柔道はどうだ。今の国際柔道はへっぴり腰での組み手争いで勝負が決まる。まるで美しさがない。へっぴり腰で組み手を嫌った瞬間、指導を与えるべきではないのか。そう考える人間はいる筈だ。世界が全て正しい訳ではない。水は低きに流れる。しかし流れなくてはならない訳ではない。水を清める努力がなくては、人は家畜になってしまう」

「何に対する家畜?」

「世界だよ。ボールを持ったまま十歩も歩くゴールキーパーは、自分でも気がつかないうちに、世界の家畜に成り下がってしまっているのだ。いんちきセールスマンに騙される人間が悪い、という常識を盾に取り、いんちきセールスをするセールスマンと同じだ。そんな人間は、人は金の為に人を殺すという常識に従って殺されても文句は言えないだろう。だが、そんな世界に住みたいか。ゴールキーパーがボールを持ったまま十歩も歩くような世界に住みたいか。ゴールキーパーはどうしてもボールを持ったまま十歩も歩かなくてはならないのか?」

「いいえ。そうは思いません」

「なら、世界などという言葉を深く考えもなしに使うのは止したらいい。そうでないと、ゴールキーパーがボールを持ったまま十歩も十五歩も歩くようになる」

「ちい兄様ったら、まるで日本回帰ね。鮭みたい」

「そうではない。私は日本という国が間もなく滅ぶと考えている」

「日本が滅ぶ? まさか」

「本当だ。日本は滅ぶね。日本は今、世界の一等国になろうとして、山ほど借金を抱えている。その借金は到底返せる見込みはない。どこかでご破算にしなくてはならない。しかし、日本はどんどん自分で空手形を振り出して、それを公務員の飲食費にあてている。そんな国が滅びない方がおかしい。日本は沈みかかった船だ。沈みかかった船に無理にしがみつくことはない。泳ぎが達者なら、どんどん海を泳げばいい。しかし、海は広い。どんなに泳ぎが達者でも、果たして再び陸地に立てるかどうかは分からないが、それでも希望はあるだろう。ボートに乗ろう。そして無人島に行こう。そこを二人のユートピアにするのだ」私は言った。

「じゃあ」奈緒美は訊いた。「ゴム紐をくわえるのね?」

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2005年07月25日

ソビエト第一章51


私は涙もなく泣いていた。いや、それでは泣いていることにはならないだろう。嗚咽は次第に低い笑い声に変わった。私は涙もなく笑っていた。

 いや、ただ笑っていたのである。

奈緒美を揺り起こし、朝だよと告げる代わりにセックスをしようと告げると、奈緒美は寝ぼけたままこくりと頷き、その用意を手短かに済ませた。私は奈緒美を抱き締めたがもう何も言わなかった。愛しているとも、面目ないとも言われぬまま、奈緒美はただ素直に従った。

 良いセックスと悪いセックスとがあるなら、それは前者に属することだろう。

 セックスが終わると、奈緒美は無花果と石榴と茱萸が生えていた下条家の庭の話をした。庭にはオレンジ色の飛行物体が舞い降り、客がいる気配に気がつくとまた直ぐに飛び去ったそうだ。それはとんびを見間違えたのだよ、と私は言った。いいえ、そんな筈はないわと奈緒美は言った。そして二回目のセックスが始まった。

二回目は一回目よりも倍も激しかった。しかし奈緒美は無言だった。私も声を堪えた。そして二回目が終わっても、これで終わった訳じゃないということを表す為に私は抜かなかった。そのことに気がついていた奈緒美は、私をからかうように笑った。

「まだやる気ですか、お客さん」

「そのつもりだ」

「残ってるの?」

「多分」

三度目のセックスを終えると、私には何も残っていなかった。これから何をしたいという希望もなければ、何かをしなくてはならないという義務感もなかった。人類も滅びるものなら滅びてしまえ、と思っていた。私は全てを後悔し始めた。そもそも宇宙などできなくても構わなかったのではないかとさえ考え始めた。何かに満たされていなかった訳ではないだろう。私は既にやり終えたのだし、何も不足は感じていなかった。今直ぐに、富山の薬売りが現れて、物凄くやる気の出る薬があるんですが飲みますかと言われても断るに違いない。そんな気分だった。

「あなたって」奈緒美は言った。「物凄く真面目な顔するのね」

私は思い出し笑いをする奈緒美の顔をどんな感情も込めずに見ていた。顔は消え、笑いも消えた。

 何もなかった。

 何もない空間に、次第に何かの影が見えてきた。それが何なのか最初は分からなかった。

 それは奈緒美だった。

 私は奈緒美を発見した。

「奈緒美、お前」私は言った。「鼻毛が出てるぞ」

  

2005年07月23日

ソビエト第一章50

「じゃあ、元いた馬五郎はどうした?」

「元々は馬五郎などいませんよ」

「そうか。それじゃあ、何も遠慮することはないではないか。そのまま馬五郎になっておけば良い」

「困りますよ。ぼくのパンツにはみんな母さんが犬四郎って名前を書いているんですから」

「それが母さんの唯一の趣味だから仕様が無いさ」

私は立ち上がり、部屋の中をぐるぐる歩き回る馬五郎を見た。それはさながら熊五郎のような振る舞いだった。

「基地次郎兄さん」馬五郎は訊いた。「ぼくが犬四郎と書かれたパンツをはいているとしても、それでも馬五郎だと認めていただけますか?」

「やむをえんだろう。お前はヒルベルト空間から無事に帰ってきた。無事これ名馬という。そこまでの算盤勘定は合っている。その算盤勘定の結果、お前が犬四郎から馬五郎に変わるは仕方のないことだ。だが、お母さんにしてみれば、お前はいつまでも自分の子供の犬四郎に過ぎないのだから、お前のパンツにはみんな"犬四郎"と書かざるを得ないだろう。それも仕方のないことだ。お前は馬五郎でありながら、"犬四郎"のパンツをはく。そうしないとフルチンだからな。これも仕方がない」

「色んな立場の人の仕方のないことが積み重なって、この世の中がだんだんおかしくなるんじゃありませんか? もしもそうなら、……全てがおかしくなってしまったこの世の中も仕方ないのではありませんか?」

「そういうことは言えるかも知れない。だが、私が仕方がないと言ったのは、お前がしぶしぶ"犬四郎"のパンツをはくことについて、仕方がないと言ったのだ。そこでお前がフルチンで走り回ったり、お母さんを殴り殺したりしてしまえば、仕方がないでは済まなくなる。一つの正しい理屈が別の正しい理屈に屈する場合には、その二つの理屈を調整する理屈ということが存在する筈だと考えられる。まず全ての"犬四郎"のパンツの集まりを考えることにしようか。さて、馬五郎よ、果たしてこれは集合と呼べるものなのかな?」

「全ての"犬四郎"のパンツの集まりは、集合でしょう……ですか。ええと、それは……」

「全ての"犬四郎"のパンツは集合ではなくてクラスだろう? お前そんなことも判断できないで、世の中を渡って行くつもりか。集合というからには、"犬四郎"のパンツは雑巾にもできないし、新しいものを買うこともできない。誰かが盗むこともできない。しかし盗む、盗まれるは、盗っ人の心掛け一つだろう。全ての"犬四郎"のパンツの集合という概念を、集合Aと措くことができないのが、まず分かったな。では今度は犬四郎の集合をIとして、馬五郎の集合をUとした場合、I∧Uが成り立つかどうかは分かるか?」

「いえ、それは無理でしょう。犬四郎は集合ではなくこの宇宙に一人っきりで、元々は馬五郎など存在しなかったんですから」

「じゃあ、全ての犬四郎に対してそれが犬四郎だと言えるのか、それとも犬四郎だと言えるような犬四郎が存在するのかどちらだ?」

「犬四郎だと言えるような犬四郎が存在する、ということだと思います」

「では犬四郎だと言えないような犬四郎が存在するという意味か?」

「この場合に限って言えば、そうです」

「だがお前は、犬四郎は世界にたった一人だと言ったではないか」

「しかし、犬四郎は…… つまりぼくは……あの夜、どう考えても普通ではなかった。酔っ払っていて、普段ではとてもできないようなことをしてしまった」

「普段ではとてもできないようなことをしてしまったのも、お前自身ではないのか?」

「はい。しかし、その後ヒルベルト空間に行って、犬四郎は馬五郎に変わりました。だから犬四郎ではない犬四郎が存在するということです」

「だが、その犬四郎ではない犬四郎がどうして犬四郎だと分かるのだ?」

「それは馬五郎が……"犬四郎"のパンツをはいているからです」

「なるほど。では、全ての馬五郎に対してそれが馬五郎だと言えるのか、それとも馬五郎だと言えるような馬五郎が存在するのかどちらだ?」

「それも後者です。馬五郎だと言えるような馬五郎が存在するのです」

「では、馬五郎だとは言えないような馬五郎が存在するのか?」

「はい。それが今のぼくです」

「それは何故だ?」

「それはぼくが……"犬四郎"のパンツをはいているからです」

「なるほど」

私は腕組みをして、かちこちと時計が振り子を揺らすのを、十回ばかり数えた。そして出た結論はこうだった。

「ひょっとしてお前、犬四郎ではないのか?」

馬五郎は図星を突かれて答えが出なかった。無闇に赤くなり、鼻の穴から風を吹き出している。

「お願いがあります。奈緒美姉さんをぼくに下さい」馬五郎は言った。

「な、何を突然馬鹿なことを」

「馬鹿でも構いません。どうせぼくは馬五郎ですから」

「しかし、奈緒美はお前の姉だ」

「それも構いません。どうせ形式だけの姉と弟でしょう? 血の繋がりはないんでしょう?」

「何を馬鹿なことを」

「馬鹿でも構いません。どうせぼくは馬五郎ですから」

「同じことを二回言うな」

「同じことを二回言ったのは基地次郎兄さんの方が先です。それにぼくは絶対普遍の真実を申し上げているのに、基地次郎兄さんは何か建前ばかりをおっしゃっているじゃありませんか」

「しかし、弟と姉がどう結ばれようというのだ」

「弟と姉でも男と女です」

「その男と女の関係の前に、弟と姉という関係があるのではないか」

「どちらが前か後かはどうやって決めるんですか?」

「それは社会というものがあって、そこで長年守られてきた慣習というものがある。そこで決まるんだ。何もかも好き勝手な社会は野蛮人の社会だ」

「ぼくは野蛮人になりたい。野蛮人になって奈緒美姉さんとチョメチョメしたい」

「お前は山城新伍か」

「いえ横田馬五郎です。ヒルベルト空間から無事に戻って、しばらくすると、急に奈緒美姉さんが眩しく見えてきました。今まではそんな風に奈緒美姉さんのことを見たことがなかったので、最初は自分に何が起こっているのかが分かりませんでした。しかし、奈緒美姉さんを思う気持ちは次第に強くはっきりして来ました。もう、今はその気持ちを押さえることはできません。どうか二人を一緒にして下さい」

馬五郎の顔は真剣そのものだった。冗談を言う顔ではない。しかし猿三郎とお千代義姉さんが駆け落ちし、蟹太郎兄さんが人夫に撲殺され、母が寝込み、奈緒美が石野岩雄と結婚しようという時に、馬五郎が奈緒美を嫁に欲しいと言っても、それが真剣な願いとは信じられなかった。

「馬五郎」私は言った。「奈緒美は石野岩雄という男を結婚相手に選んだ。お前が姉を失う気持ちは、それは寂しさだ。お前が姉を慕う気持ちは、男と女の愛情ではない。お前は本当に奈緒美を愛している訳ではない」

「そうかも知れません」

意外にあっさり馬五郎は同意した。しかし、それは年長者に反論する前置きに過ぎなかった。「ぼくは愛なんてどうでもいいんです。ぼくは奈緒美姉さんを欲しています。奈緒美姉さんの肉体に興味があるんです。だから奈緒美姉さんの肉体が手に入ったら、本物の愛なんかどうでもいいんです」

「お前は奈緒美を凌辱する気か?」

「基地次郎兄さんと同じことをしようとしただけですよ」

馬五郎はそう言うと、不敵に笑った。そしてベッドに寝ている奈緒美に近づき、唇に親嘴をした。

「さあ。ぼくはこれで帰ります」馬五郎は言った。「先に基地次郎兄さんが済ませて下さい。ぼくは後でいただきます。それでやっと本当の兄弟という訳ですよね」

私はどのような意味でか顔面を硬直させていたのだろう。ばたんと音がして、馬五郎が出て行く気配さえ、見送る余裕がなかった。私は自分の精神の醜さを恥じていた。懸命に恥じねばならぬ程醜いものを馬五郎に掴み出されてしまったからだ。

私は奈緒美を欲していた?

 奈緒美を抱こうとしていた? 

それは猿三郎に剥かれる玉ねぎのように芯のないところへ向けられた疑問符だった。どんな能弁者が答えるというのだろう。答えるべき私は、質問を無視して固まっていた。ただ恥じていた。その恥に既に答えは含まれていた。私は横たわる我が妹の顔を見た。それが美しいのか、愛らしいのか、私には分からなかった。それが自分の妹であり、世界中の誰を敵に回しても絶対に守るべき存在であることが感じられただけである。




(続く)  

2005年07月22日

ソビエト第一章49

「どうして道を尋ねるのに、態々若くて奇麗な女の人じゃなきゃならんのだ?」

「いえね、そう思った瞬間というのが、若くて奇麗な女の人とすれ違った瞬間だったんです。夜、お酒を飲んでいた時のことですから、当てにはなりませんが、そりゃ奇麗な、モデルさんみたいな人でしたよ。背なんかすらっとしてて、180センチくらいあったように見えました。足が長くて、腰の位置が高いんで、最初異人さんかと思いましたよ。だんだん近づいてきたら、これおっぱいが大きいんですね。ぐんと前に突き出てましてね、襟元がほんの少し開いている服を着ていたと思いますが、胸の谷間が眩しいくらいに真っ白なんですよ。ぼくはもうそこをじっと見てしまいましたね。どうしてなんでしょうね。別にじっと睨んだってどうかなるものでもないのに、目が釘付けになるんですよね。そんな人がすたすた歩いてくるもんですから、気にはなっていました。
ただ、すれ違うまで、おっぱいを睨んでいて、道を尋ねようとは思いつかなかったんですね。飛び掛かろうとはちょっと思いましたけどね。それで、あっ、そうだ、ぼくは道に迷っているんだ、なんとかしなくちゃ、と気がついた時には、一呼吸遅くて、振り返って呼びかけようとしたんですが、女の人は夜速足ですよね、もうずっと向こうまで行っちゃってるんです。だから、今度すれ
違う女の人にしようと決めたんです」

「だからどうして女の人なんだ?」

「そりゃ、男より女の方がいいでしょう。何しろ、酔ってましたから、男のことなんか考えられなかったですね」

「それはまあいい。それでちゃんと家に帰ることはできたのか」

「いえ。まだ地下道です。若くて奇麗でおっぱい大きな女の人とすれ違ったら道を尋ねようと思いながら、しばらく誰ともすれ違わなかったので、流石にぼくも不安になりました。いくら何でも地下鉄の地下道を歩いていて、誰ともすれ違わないなんて妙だと思うじゃないですか。懐中時計を見ようと思ってチョッキのポケットを探ると、鎖がありません。ぼくは懐中時計をどこかに落としてしまったらしいことに気がつきました。それで時間が分かりません。あちこちのシャッターというシャッターがみんな降りていましたので、夜中には違いないんですが、終電が行ってしまった時間なのかどうかが分かりませんから、ぼくは急に慌てました。まだ、さっきのモデルみたいな人とすれ違って5分くらいしか経っていませんので、急げばまだ間に合うのではないかという気持ちの方が強かったのです。それでぼくは思い切って、今まで歩いてきた道を逆方向に、つまりモデルみたいな女の人が歩いて行った方向に走り出したのです」

「それは夜中にご苦労さんなことだ。しかし、お前が落としたという懐中時計は、確かお爺様の形見ではなかったかな」

「はい。休戦協定の時にロシアの将校から記念に譲り受けたものです。しかし、時計なんて所詮時間を計る道具に過ぎません」

「それはお前の言う通りだが……」

「話を続けて宜しいでしょうか。ぼくは懸命に走りました。酔っ払っていたので、そりゃ、息が苦しかったです。でも走れば走れるもので、丁度例の女の人とすれ違った場所辺りまではすぐでしたね。移動するには歩くより、走る方がずっと早いです。こんど基地次郎兄さんもやってごらんになったらいかがですか」

「是非そうしよう」

「でも、走るのはやはり疲れます。気持ちが悪くなって、足が縺れて、とうとう立ち止まって休んでしまいました。それに道が左右に別れていて、どちらに行ったものか迷いました。耳を澄ますと、ごおっと頭の上を電車が通る音がします。その時点では、まだ電車は動いていた訳なんです。でも、それが最終電車かも知れませんし、通過電車かも知れません。夜中に貨物輸送をすることもあるでしょう。そのなんだか分からない電車の音を聞いていると、急にどうでもよくなったんです。面倒くさいから、兎に角なんとかして地上に出て、人力車を捕まえようと決めたんです。人間って妙なところで決断するもんですね。それで、地上に出ようと思って、また適当に歩いていたんですが、そういう意識を持って歩いていると、今度は地上出口が見つかりません。それにぼくはその時、非常に不味いことになっていたんです」

「不味いと言うと?」

「はい。おしっこがしたくてしたくて堪らなくなっていたんです。ほら、さっき綺麗なおっぱいの大きい女の人をじっと見たでしょう。きっとそれがいけなかったんです。膀胱がぱんぱんに膨らんでいる感じがしました。苦しくて目眩がして、もう何もかもどうでも良くなってしまったんです。ぼくは必死に走り回っていた自分が情けなくて悔しくて悲しくなりました。そしてちんぽこを取り出して、片足を上げて、閉まっているシャッターに向かってじょおーとおしっこをしました」

「なんとも困った奴だ」

「おしっこはどこにも行き場がなくて、川になって、足元に流れてきました。ぼくは慌てて後ずさりしたんです。おしっこはそれでもどんどん追いかけてくるので、ぼくも片足を上げたままどんどん下がったんです。そうしたら、丁度若いOLが四人連れで歩いてきてまして、その内の一人がぼくにぶつかったんですね。ぼくはまさか後ろに人がいるなんて思いませんから、びっくりして
振り向きました。向こうもびっくりです。まだおしっこは終わっていなかったんです。ぼくは四人のOLに向かって、そのままじょおーっとやってしまったんですね。急に止める訳にはいきませんから、仕方ないんですが、向こうも驚いて、わあわあ、きゃあきゃあ、言いながら、ぼくの四方を取り囲みました。もう逃げ場はありません。どちらを向いても誰かに見られてしまいます。ぼく
は一応くるりと一回転して、様子を見たんですが、なんというか、向こうは意識して取り囲んだんじゃないかと思うんですね。酔っ払いを懲らしめようという意識があったと思います。口々に何か文句を言っているんです。汚いとか臭いとか気持ち悪いとかちっちゃいとかですね。そんなことを言われても、ぼくには何も反論できません。おしっこが早く終わることを願うばかりです。でも酔っ払いの小便というのは長いと言うじゃないですか。長かったですよ。その間ぼくは生き地獄でしたね。ふと見ると、中の一人は携帯電話で誰かと話しているんです。良く話を聞けば、それはきっと友達か何かと話していたんだと分かった思いますが、その時ぼくは咄嗟に"警察に電話をしている"と思い込んだんです。電話、即、警察という発想には、きっと罪悪感もあったんだと思いますよ。立ち小便とか、猥褻物陳列とか、そりゃ良くないことをしているのは
間違いないですから。でも、不可抗力と言えば不可抗力ですよね。厠でおしっこをしたくても、厠の場所が判然としない。おしっこは待ってくれない。人がおしっこをしているところに向こうから女がやって来て驚く。こちらにはどうしようもありません。とは言え、ぼくは一人の女を突き飛ばし、闇雲に走って逃げました。追われて逃げるのと、追いかけるのでは倍も早さが違いますね。そりゃ早いですよ。ですからアキレスと亀のパラドックスとか、犬と野人岡野のパラドックスなんかは、パラドックスじゃないということが分かりましたよ。アキレスに追いかけられた亀は、必死で逃げたんです。だから追いつけない。ぼくも相当速かったと思いますよ。必死でしたから。それで気がついたら、やはり訳が分からない場所にいるんです」

「まだ地下道の中かい?」

「それが地下道なのか何なのか、分かりません。ただ明らかに違うのは、辺りが随分暗いということです。妙に暗い。その暗さというもので、あれ、違う場所に出てしまったぞ、と感じた訳です」

「しかし地下道を走ったら、地上に出るか、地下道のままか、どちらかだろう。それにいくら東京の地下道が本土決戦に備えて地下要塞として設計されていたとしても、そんなに長い地下道など掘れるものではない。地下道を掘るには沢山の坑夫が必要なのだ」

「ええ。それは不思議というよりありません。ぼくは相当な距離を移動していた筈ですから、いくら長い地下道も行き止まりになりそうなものですよね。ところがなかなか終わりにならなかった。そして今度は知らない間に別の場所にいる。不思議です。地下道にはそれ程詳しくなかったのですが、どうやらぼくはヒルベルト空間に出てしまったようなのです」

「ヒルベルト空間?」

「ご存じですか。地下道の端にヒルベルト空間があったなんて」

「いや、初耳だ」

「まさかぼくも三次元ユークリッド空間の線形部分空間としての座標軸の意識しかありませんから、いきなりヒルベルト空間ですよ、なんて言われても、ユニタリー作用素というものが容易には見いだせなかったんですね」

「それはそうだな。しかし、そこがどうしてヒルベルト空間だと分かったのだ?」

「壁に書いてありましたもの。スプレーて"ヒルベルト空間へようこそ"って。それでヒルベルト空間だと分かりました。困ったことになりました。何しろヒルベルト空間ですから、何をどうしたら良いのか分かりません。それでぼくは仕方なく、交番で道を尋ねて家に戻りました」

「無事でなによりだ」

「そうでしょうか?」

「そうでしょうか、とは何だ。無事で何か困ることがあるのか?」

「無事これ名馬と言いますよね。ぼくはいつの間にか馬五郎になっていたんです」

「馬五郎?」

「そうです。家に戻って気がついたのですが、ぼくは犬四郎ではなくて、馬五郎になっていました」

「じゃあ、元いた馬五郎はどうした?」

「元々は馬五郎などいませんよ」

「そうか。それじゃあ、何も遠慮することはないではないか。そのまま馬五郎になっておけば良い」




(続く)  

2005年07月21日

ソビエト第一章48

「そうです。宇宙人です。我々とは組成が違う。違った言葉を話す。夜中に油を嘗める。枕の向きを変える。小豆を洗う。お千代義姉さんは我々と同じ星の生き物ではありません」

「だが現に一緒に暮らしていたじゃないか。我々が食べるものを食べ、蟹太郎兄さんとは夫婦だった。いいかい、犬四郎、男たるもの、夫たる者、仮令どんな裏切りに遭おうとも、自分の女房の悪口を言われて気分の良い者はいない。ましてや身内に言われては立つ瀬がない。腹も立つ。お前は蟹太郎兄さんを尊敬していると言ったが、その尊敬する蟹太郎兄さんの女房を捕まえて化け物みたいに言うのは、死んだ蟹太郎兄さんを侮辱しているのも同じことだぞ。屍
に鞭打つことだぞ」

「だって基地次郎兄さん、悔しいじゃありませんか。猿三郎兄さんも、猿三郎兄さんだ。選りにもよって、あんな女と一緒にならなくても良さそうなものでしょう」

「人が誰かを好きになるのは自分の意志ですることじゃない。目に見えない力が二人を引き合わせるのだ」

「いいえ。猿三郎兄さんは、ただ単にお千代義姉さんの色香に迷ったのですよ。あの人はぼくに言わせれば、性の権化ですもの。玉ねぎを剥かせたら、全部剥いちゃいますよ」

「そう馬鹿にしたものではない。読んだ本の数ではお前や蟹太郎兄さんには及びもしないが、彼奴はあれで結構知恵が回る男だ。同じ一冊の本を読んでも、彼奴が読むのと私が読むのでは読んだ価値が違う。何を考えているのかはさっぱり分からないが、それでも私なんぞより頭の回転が早いのか、さっと考えが先回りされていることがある。きっと今度のことも半分は気まぐれの思いつきだろうが、あいつなりのけじめをつけてくれる筈だ」

「けじめ、ですか?」

「そうだ。良く分からないところを差し引いて考えると、彼奴はけして自分勝手のエゴイストではない。自分の欲望に忠実なのかも知れないが、もともとの欲望というのが、妙に共和主義的なところがある。昔、こんなことがあった。彼奴は蟹太郎兄さんと私と自転車を共有することを拒んで、自分専用のコロ付きの自転車を買ってくれとねだったことがある。最初は単なる我が儘だと思った。いや、我が儘だったのだろう。だが、自分専用の自転車を手に入れると、彼奴は犬四郎をいつも後ろに乗せて走り回った。そうしたかったのだ。そしてコロなしでも自転車に乗れる筈なのに、ずっとコロをつけたままだった。あの自転車からコロが外れたのは、お前がコロなしで自転車に乗れるようになってからだ。それが彼奴の純粋な欲望だ。随分共和主義的な欲望だよ。どうだ覚えているか」

「いいえ。さっぱり」

「兎も角、猿三郎はそういう男だ。彼奴は知らず知らずのうちに、恐らく何かのバランスをとろうとしているのではないかと思うのだ。朝顔のつるが側にあるものに巻き付くようにして、無意識に目的を達するのだ。いやいや自分が犠牲になるのではない。そういう悲愴感はない。自分勝手なのだ。自分勝手なのだが、私は彼奴を憎めない。家族だから、兄弟だからと言うんじゃない。私は猿三郎という男が、自分に欠けたところをより集めた自分の分身のように感じることさえあるのだよ。それでいて、彼奴が何を考えているのかさっぱり分からないというのは、どうも辻褄が合っていないとは思うがね」

「辻褄が合ってませんねえ」犬四郎は言った。「そんなお話しは、恐ろしく寒い夜に凍えて缶ビールを六缶飲みながら、幽霊と交わすお話しでしょう」

「たがの外れたこの世を、直すために生まれて来たとは、か。馬鹿にものを教えられることはある。他山の石の故事もある。まあ、どんな解釈でも良い。しばらく猿三郎のことは猿三郎に任せておこうではないか。お千代義姉さんがどんな化け物でも、猿三郎なら退治してくれそうな気もするのだ。家のことは心配だろうが、当分は奈緒美がなんとかしてくれるだろう。奈緒美は見かけ通り芯が強いし、スコラ哲学のことなどを色々教えてくれる」

犬四郎は首を傾げた。

「おや、基地次郎兄さんは、まだご存じなかったのですか?」

「なにをだ。スコラ哲学の歴史的変遷か?」

「いいえ、奈緒美姉さんは、今度お嫁に行くことに決まったんですよ。今日は二人でそのご相談ではなかったのですか?」

「いや、初耳だ。知らなかった。相手は誰だ?」

「奈緒美姉さんは、貴族員議員の石野岩雄様のところへお腰入れになる予定です」

「石野岩雄?」

「ご存じですか。近所では評判の馬鹿です。良く子供と電車ごっこをして遊んでいます。自分の事をどこかの身分の高い貴族の末裔だと信じこんで、あちこちでただ飯を食っているらしいです」

「一度お目にかかったことはある。しかし、話はしていないから、まさか馬鹿とは思わなかった」

「話をしてみると分かりますよ。話があっちにいったりこっちにいったりする上に、矛盾だらけですから。自分に敬語を使いますし、相槌もいい加減です。ただゆっくりと喋りますから、しばらくはごまかされますね」

「お前は彼と話したのか?」

「呼び出されて、一緒に芝居を見ました。その後、飯を食いました」

「まさかお前、その芝居というのは、痩せた相撲取りの母子ものじゃないだろうね?」

「ええ、そうですよ」

「その後、兎か何か食べなかったか?」

「兎は食べませんでした。耳の長い梟を食べました」

「分からない。一体どうなっているのだ」

「何がです?」

「私も奈緒美とその芝居を観て、その後は奈緒美と二人で梟を食べたのだ」

「それは今日のことですか?」

「いや、一月ほど前のことだ」

「ぼくのは先週のことです」

「しかし、同じ芝居を二度観るものかね。いや、そんなことをして、一体何になると言うのだ」

「手間のかかった割に表向き意味のないこと。……まるで儀式ですね。二人のうちどちらかが、その儀式に象徴的な意味付けを与えているとしか思えません」

「だが儀式にしてはシンメトリーのバランスを欠いている。私が食事をしたのは、奈緒美とだけだ。お前は石野岩雄と一緒だったのだろう。これが儀式だとすれば、まさにそこに意味がある筈だ。しかし石野岩雄は私に参加を求めなかった。お前にだけ求めた。いや、違うな。私とではできなかったことをお前にやろうとしたのか」

「何もされていませんよ。一緒に飯を食べて、その後は……。良く覚えてませんが」

「覚えていない?」

「酒を飲まされていたので覚えていないのです。ご存じの通り、ぼくは酒はからっきしですから。目出度い席だから飲まなきゃ悪いかなって思って飲んだら、その後の意識はまるでないんです。どこかで眠っていたのかも知れません」

「ちゃんと家に戻れたのか」

「いえ。気がついたら地下鉄の通路でした。人通りも疎らな場所で、自分が一体どこにいるのかも分かりません。兎に角人のいる気配のする方へと歩いていったのですが、あちこちに横道があって、C6とかC7という矢印はあるんですが、じゃあC6は何でC7は何かという説明がないんですね。それではどちらに行って良いものやら見当がつきません。仕様が無いので、適当に進んでいましたが、一向に埒が明きませんので、この次に若い奇麗な女の人とすれ違ったら、その人に道を尋ねてみようと思ったんです」






(続き)  

2005年07月20日

ソビエト第一章47

「いえ」

「じゃあどうした。散歩していて、猫を追いかけて、ついつい道に迷ったか?」

「そうではありません」犬四郎は言った。「あることで、お願いがあって伺ったんです」

「なんだ、また猿三郎と喧嘩か。お前ら二人は昔から喧嘩ばかりしおって」

「いえ。今度は猿三郎兄さんとは直接関係はありません。全くないとは言い切れませんが、喧嘩とかそういう単純なことではありません。ただ、これは奈緒美姉さんの前では申し上げ憎いことなのですが……」

「どうした。おちんちんに毛でも生えたか?」

「もう生えております」

「ではどうした? ええい、遠慮せず話してしまえ。どうせ隠していても、奈緒美はお前の日記を盗み見て調べあげてしまうぞ」

「そうなんですか?」

奈緒美は返事をしなかった。首を左右に倒し間接を鳴らしている。「ともかく」私は言った。「私に助言できることならしてやろう。大したことはできないが、小さなことからコツコツとやらせてもらう。無論力は足りない。それでも心配事を誰かに打ち明けられるとしたら、もう半分は問題は解決しているようなものだ。さあ、何も気にせず、正直に言ってごらん」

「はい」犬四郎は頷き、そして部屋を見回した。「いい部屋ですね」 犬四郎の目は、私がさくら銀行から盗んできた広末涼子の等身大パネルに注がれた。そしてその奥に倒れている観月ありさのパネルにも目をやった。

「実に狭い部屋だ。この部屋にいると、本当に蟄居という心持ちがする」

「しかし、基地次郎兄さんの頭の中は、誰よりも広いと思います。まるで鯨のようだ」

「鯨は広いかね?」

「きっとそう思います」

「きっと何故そう思う?」

「孤独だからです」

「孤独?」

「この宇宙にたった一人投げ出された存在に見えます」

それは鯨の説明ではなかった。孤独とは親のいない寂しさと子を失った悲しみを我一人の体に引き受けることなのだよと有りがちな説明を念押しする前に、おや、半分は外れてもいないじゃないかと気がついた。私はみなしごという言葉を思い浮かべた。

「大衆は基地次郎兄さんをけして贔屓にはしないでしょう。基地次郎兄さんもけして大衆を贔屓しないでしょう。大衆の一人一人がいかに冷静であっても、大衆という単位にくくられた途端、そこには知性の一かけらも存在しなくなる。基地次郎兄さんは、そんなものを相手に喋ってはいけない人です。どこまでも、たった一人でやっていかねばなりません」

「そりゃ、厳しいお達しだな」

「もしも基地次郎兄さんが自分の意志で一世代の間に進化できるとしたら、どういう方向に進化なさいますか?」

「頭を大きくするかどうかということか?」

「はい。外見はどうでも構いません。中身をどうお変えになるおつもりですか?」

「もしもそんなことが可能だとして、逆はできるのかな?」

「逆、とおっしゃいますと?」

「一度はこう変えてみたのだが、どうも都合の悪いことが多いので、元の体に戻したいということもあるだろう。そういう場合には、一旦元に戻すことは出来るのか?」

「それはできません」

「一度切りの変身か。なら、私は算盤になりたい」

「は? 算盤ですか?」

「そうだ。弾かれればその通り動いていればいい。誰にも文句を言われることはない。いや、言われることがあっても、また弾かれるだけだ。それに直ぐにご破算になる」

私は奈緒美を見た。奈緒美も私を見た。犬四郎は奈緒美を見た。奈緒美は犬四郎を見なかった。

「姉さん」犬四郎は言った。「どう思います?」

「どうって?」奈緒美は聞き返した。

「基地次郎兄さんは算盤になりたいそうです」

「そんな六ずかしい話は、妾にはとんと見当もつきません。それより、犬四郎、お前の相談の方を聞こうじゃありませんか」奈緒美はそうして妹の顔と姉の顔を瞬時に使い分けた。

「それは今話します。ぼくの相談というのは外でもありません。良いニュースと悪いニュースがあります。どちらを先に聞きたいですか?」

「悪いニュースから聞かせてくれ」私は言った。奈緒美はどちらでもという顔で頷いた。

「良いニュースからお聞きになりませんか」犬四郎は言った。「その方が都合が良いのですが……」

「なら最初からそう言えば良い。時間は戻らない。進化は一回きりだ。お前もその厳しさを味わうがいい」

「ぼくはそれでも一向に構わないのですが……」

「お前が構わないのなら、一体誰が構うというのだ。いいから悪いニュースから話してみなさい」

「はい。それでは、仕方ありません。えええと、悪いニュースから申し上げます。猿三郎兄さんがお千代義姉さんと駆け落ちしました」「なるほど。それが悪いニュースか。確かに悪いニュースだな。良いニュースが楽しみだ」

「はい。良いニュースを申し上げます。蟹太郎兄さんが、温泉を掘り当てました」

「20点」奈緒美は言った。「捻りがないわ」

「0点だ。失格。採点しようがない」私は言った。「捻りどころか、絡みがない。それでは唯ちぐはぐなものを並べれば用が足りてしまうみたいではではないか。そんな安直な態度ではとても文学者とは呼べない」

「何点とか、文学とかそういう問題ではなくて、これは実際起きていることなのですが……」

「そういう歴史家の奢りというものが一番悪いのだ。これは実際起きていることだからと言って、何でも済ませようとする。そこに自分勝手なイデオロギーを滑り込ませていることを強引に隠そうとするのだ。猿三郎が結婚することになりました、相手はお千代義姉さんです、と言えばいいではないか」

「しかしそれでは良いニュースと悪いニュースの順番が合いませんので……」

「その順番がイデオロギーじゃないのか。中田がインタヴュー嫌いになったのは、順番を入れ替えた編集の所為だろう。何かを説明する時、順番を決めることで既に一つの意図を含んでいるということなのだよ。それなのに公正に事実のみを報道していると居直る。歴史家も同じだ。どんなに数字を並べ立てても、それはある意志の反映に過ぎない」

「はあ」

「奈緒美はお前が来る前からこの部屋にいたが、別に私と何かふしだらなことをしていた訳ではない。何もする筈がない」

「別にそんなことは一言も申し上げておりませんが」

「黙れ。お前のような非人情な奴はもう、金輪際親でもなければ子でもない」

「弟です」

「なんだ。弟か。それならそれと早く言えば良い。弟ならしょうがない。今回だけは許してやろう」

「恐縮至極です」犬四郎はぺこりと頭を下げた。奈緒美は青黴の生えた食パンを見るように犬四郎の頭頂部を見た。そこには金色の毛が生えていた。思春期を過ぎた赤毛の女の子の真似をして金色に染めたのだ。

「犬四郎、お前まだロック・バンドとかいう活動を続けているの?」奈緒美は聞いた。

「はい。週に一度は演奏会を開いております」

「名前はなんと言ったかな?」

「"石鹸水"です」

「なかなか良い名前だ。しかし、髪を染めるのは感心しない。お前『マルコムX自伝』は読んだか?」

「いいえ。『チェ・ゲバラ自伝』は読みましたが」

マルコムXも若い頃、コンクという独特の髪形に憧れて実際にコンクにしていたそうだ。髪を染めるのは痛いだろう?」

「はい。しかし、もう慣れました」

「慣れたか。慣れるとか忘れるということは、大切なことだ。しかし、どんなことにも慣れてしまえばいいというものではないぞ」

「はい」

「一族の誇りを忘れるな。横田家の血を守れ」

「はい。しかし、基地次郎兄さんは……」

「私はもう駄目だ。すっかりあっちの方はご無沙汰で。だから別に奈緒美が部屋にいたからといって、お前が心配するようなことは何もありゃしないんだよ」

「それはさっきも聞きました。しかし、この一大事に母さんは寝込んでしまいまして、父さんは一人で困っております。どうか基地次郎兄さんが横田家を支えて下さい」

「しかし、温泉を掘り当てたという蟹太郎兄さんはどうした?」

「人足頭と手間賃のことで揉めていて殴り殺されました」

「それを早く言わないか」

「逆さに吊るされて燃やされたそうです」

「惨いことを」奈緒美はそう言った切り気を失った。

私と犬四郎は奈緒美を介抱するふりをして体のあちこちを触った。これは呼吸が苦しいのかも知れないから、乳バンドを外し、下腹が締め付けられてはいかんというので、ガードルを脱がした。結局奈緒美は一糸纏わぬすっぽんぽんになってしまって、私たちを酷く困惑させた。私は奈緒美の裸体を掛け布団で隠し、ようやく心の平静を取り戻すことができた。

犬四郎は言った。

「ぼくなどが申し上げるのは、どうかと思いますが、冷静に考えて蟹太郎兄さんは少し頭がおかしくなっていらっしゃったようです。何かをしなければならないという使命感に追われて、今まで気の休まることもなかったと思います。その上、お千代義姉さんがあんな人ですから、あんなというのは失礼ですが、こんなことになったのですから、もうそう言われても詮無いでしょう、お千
代義姉さんは蟹太郎兄さんの救いにはならなかった。お千代義姉さんは蟹太郎兄さんを少しずつ追い詰めていったのではないかとさえ思うのです。何もしなくても、側にいるだけで男を張り切らせる女というものがいるものですよね。ぼくなんぞにもお千代義姉さんはそういう女に見えます。蟹太郎兄さんは頑張ったんだと思います。でも男が女に合わせて頑張れば、結果は見えています。蟹太郎兄さんは立派な方でした。世間を見回して比べても、あんな立派な一角
の人物というものには滅多に出会えるものではありません。我々家族一人一人のことを思いやり、先の心配をして、着々と準備をしていて下さいました。お陰でぼくみたいな者でもちゃんと暮らして行けるようにして貰いました。そういう部分だけでなく、ぼくは蟹太郎兄さんを尊敬し、蟹太郎兄さんに感謝しています。でも、お千代義姉さんには勝てなかった。そりゃ最初から勝負じゃありません。負けようとして負けたんですから。八百長です。蟹太郎兄さんはお千代義姉さんを自分の海の中で自由に泳がせてあげようとしたんです。どんなことがあっても責任は自分が取るから、お前は好きにやりなさいと言われて、本当に好きにやる人間がいると思いますか。普通は手加減します。気まぐれで遊んでも、籠に戻って来るものです。その点、お千代義姉さんは人とは違いました。あの人はまるで別世界の住人です。宇宙人です」

「宇宙人?」






(続く)