オメガポイント理論について
『新世紀エヴァンゲリオン』のクライマックスが、相変わらず観念的であったということに関する苦情の形で、あるいは最新物理学に興味を持つファンの中から既に同じような報告がなされているかも知れないが、人類補完計画完成の為に放たれた逆ATフィールドによって全ての人類の心が一つに溶け合うという理想は、
「 イエスズ会の神秘論者ピエール・テイヤール・ド・シャルダンから借りてきたのだ 」(註1)
と言えるかも知れない。
「 テイヤール・ド・シャルダンは、すべての生物が、キリストの精神を体現した唯一の神の実体(entity)に合体する未来の像を描いていた 」(註2)
らしい。そして物理学者フランク・ティプラーとジョン・バロウは『人間的宇宙原理』という本の中で、
「 もし知性的機械が、全宇宙を一つの巨大な情報処理装置に変えてしまったら、何が起きるだろうか考えた 」(註3)
「 つまりいつかは膨張が止まって、逆に収縮していく宇宙では、―― 情報を処理する宇宙の能力は、それが最終的な特異点に収縮する時、無限大に近づくだろうという 」(註4)
ことを前提にして、その時点即ちオメガポイントにおいて知性的機械のやることは何かと考えたのだ。
そしてフランク・ティプラーは『不死の物理学』できっちり答えを出した。
「 オメガポイントは、かって世界に生きていたすべての者を、再生して―― あるいは復活させて―― 永遠の至福を与える力を持つだろう 」(註5)
と考えたのだ。そしてオメガポイントは宇宙の始まりの準拠枠を作る。
さてこのオメガポイント理論の中に、目新しいアイデアはあっただろうか。
恐らく『新世紀エヴァンゲリオン』の最後のシーン、薄幕が閉じ、アスカの顔が隠れ、そしてその眼球がぎろりとシンジを睨みつける瞬間にはもうスクリーンを観ていなかった客、舌打ちをして立ち去ろうとした人々には、何も新しさはないだろう。
映画に関して言えば、いくら解説が加えられたとしても「心の中の問題で片付けちゃいけないよね」という批判は残る筈だ。
何故死者の魂が吸い寄せられ巨大化した綾波の姿にならなくてはならないのか、といえば、主人公シンジがそれを望み、それを拒んでいるからに外ならない。
その他のみなさんの意識の中では、それぞれの天国が実現されようとしていた訳だが、シンジ君が代表の方なので、みんなのまとめをしなくてはならないのは当然である。
みんなと仲良くなりたい、綾波とセックスしたいという願望の為に、人造人間がお化けと闘うというストーリーそのものは、支離滅裂と言えるかも知れない。
だが、観客が最初から受け入れていた前提として、心の壁のようなものが即ち、自分とそれ以外を区別する免疫光線とでも言うべきATフィールドであり、それが時には実在の鞭や槍や盾のように機能するという設定がある。
結論から言えば、使徒のようにATフィールドが強くてガンガンビルを壊すのも困るが、かといって勝手に逆ATフィールドを全国展開させて、人類を一つにまとめ上げられても困るということになるだろう。
比喩的表現としてのセカンド・インパクトは世界帝国を作ろうとした「第二次世界大戦」や「八紘一宇」の精神をなぞっていると言えるかもしれない。
人類補完計画は「国際社会」や「世界宗教」に似ている。
比喩であるとすれば分からない話ではないというものは、大抵最初「訳が分からない」と拒絶される。
その上「キリストの精神を体現した唯一の神の実体(entity)に合体する」ことに救いを求めるほど信心深い観客は多くなかった。
けれども観客が何か救いを求めて劇場に集まっていたのは間違いない。
シンジは永遠に生き続ける命を選ばなかった。
自分の記憶、雑多な街の景色、人の群れ、そういうものの中に自分の意識を返した。
その選択はどれほどの救いをもたらしただろう。
あの映画を観終わったものに残る不快感、不安感、なんともいえない居心地の悪さというものは、御伽噺では救われない観客一人一人の「孤独」というものを再確認させ、自分が救われたがっていたことを再確認させ、そしてオメガポイントを選ばなかったことを後悔させたのだ。
映画に問題提起などされたくはなかったということもあるだろう。
ただキャラクターの死を寂しく思う気持ちもあっただろう。
そういう人の舌打ちは私に、最大の問題は「自分」なのだという意識を強くさせた。
テレビ放映時のように「おめでとう。ありがとう」で話が終わっていたら、やはりまた「逃げている」ということになっただろう。
現実に降りてきたら、なにか逃げ場のない閉塞感のようなものを生み出してしまった。
その閉塞感とは、宇宙意識でないところの「自分」そのものの小ささである。
「今夜何を食べよう?」と考えている自分、「ああ、埼京線は酔っ払いで混んでるな」と考える自分、そういうものを突然受け入れ難く感じるということではない。
その瞬間同じ電車にいたカップルのいちゃいちゃや、飲み会の流れの会社員同士の煙草くさい会話、そういうものに対するほんの微かな嫌悪感をATフィールドとして感じたのだ。
同時に慈しみの気持ちも沸いてきた。
同じ車両に乗り合わせた人々の、幸福を祈らずにはいられなかった。
自分に与えられるささやかな幸福と同じだけ、みなに幸福があればいいなと。
オメガポイント理論を拒否することは、我に返るということである。
「我」なんてものが存在するうちは、そうするしかないだろう。
そしてやがて訪れる激しい戦争に際しては、みな「我」を忘れて闘うことだろう。
もしも世界が存在するならば。
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※(註12345)とも『科学の終焉』より