ラ・ヒストリーオ

ブログという手段を通じて新たな知の地平を開拓せんとする社会思想家・ブロガーです。

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第9回)

9 ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(1773年‐1841年)

 
 ジャクソニアン・デモクラシーの脆弱な継承者・第8代ヴァン・ビューレン大統領を破り、新たな時代を拓いたのは9代大統領ウィリアム・ヘンリー・ハリソンである。ニューヨーク出身のヴァン・ビューレンに対し、ハリソンはバージニア州の古い奴隷プランテーション経営者の家に生まれた。
 ここで再びバージニアの「名門」奴隷所有者という初期アメリカ支配層に政権が戻ったことになる。ただし、ハリソンはジャクソニアン・デモクラシーを専制的・反動的と批判し、産業発展のためのインフラ整備や国立銀行の創設、保護関税といった連邦主導の重商主義的「経済計画」を提唱して台頭したホイッグ党から当選した初の大統領という新しさもあった。
 しかし、経歴の点ではジャクソン同様、軍人出身であり、対先住民掃討作戦に参加した。特に米英戦争渦中、英国と連携する強力な部族であったショーニー族指導者テカムセを戦死させたテムズの戦いに勝利し、白人社会の英雄となった。
 こうした履歴を引っさげて政界に転身したハリソンは1836年大統領選でヴァン・ビューレンに敗北したものの、次期40年大統領選では「戦争の英雄」を前面に宣伝する派手なイメージ選挙運動を展開し、当選を勝ち取ったのだった。
 ところが、不運なことに、就任時68歳のハリソンは1841年3月、まだ寒風の吹く日にコートを着用せず、ほぼ二時間近い就任演説を行った強がりがたたり、肺炎を起こして就任からわずか31日で死去、史上最短在任大統領という不名誉な歴史を作ることとなった。



10 ジョン・タイラー(1790年‐1862年)

 
 現職大統領急死という史上初の事態を受けて、取り急ぎ政権を継承したのが、副大統領ジョン・タイラーであった。もっとも、当時の合衆国憲法では副大統領の自動昇格は規定されておらず、憲法上は疑義が残ったため、「棚ぼた政権」と揶揄されることとなった。
 タイラーもハリソン同様、バージニア州の奴隷所有者の出身であり、所属もホイッグ党であったが、大統領としての彼はホイッグ党の綱領の大半に反して、南部諸州の権限擁護、南部の領土拡張策などを追求する守旧的態度をとった。 
 またタイラーは奴隷制を悪と認識し、自身の所有奴隷については厚遇していたと言われるが、南部奴隷州の権限擁護という守旧的姿勢から、奴隷制廃止を提起することはなかった。
 与党ホイッグ党に敵対したため、党を除名され、史上初の無党派大統領となったタイラーは議会を軽視する独裁的手法でたびたび議会と対立、在任中拒否権発動は9回にも及んだ。こうした脱ホイッグの集大成は政権末期のテキサス併合問題であった。
 元メキシコに属したテキサスはアメリカ人入植者による独立戦争の結果、「テキサス共和国」として分離独立していたところ、タイラー大統領はホイッグ党の反対を押して、テキサスのアメリカ併合・テキサス州成立を承認したのである。
 タイラーは1844年大統領選に出馬して再選を目指したが、この選挙ではテキサス併合問題が大きな争点となり、反対派のホイッグ党と賛成派の民主党という対立構図が作られていた。
 しかし、タイラーは併合賛成派の民主党からも支持を得られず、国民民主共和党なる小政党を結成して出馬せざるを得なかった。敗北は目に見えており、票の分裂を恐れた民主党からも引退要請を受けたタイラーは結局、大統領選からの撤退を余儀なくされたのである。

関東代官伊奈氏列伝(連載第2回)

一 伊奈忠次(1550年‐1610年)/忠政(1585年‐1618年)/忠勝(1611年‐1619年)

 
 伊奈忠次は、関東代官伊奈氏の初代に当たる人物である。彼は伊奈氏が信州から三河に移住して四世代目に相当するが、父忠家は嫡男ではなく、本宗家筋ではなかった。しかも、忠家は主君松平(徳川)家康に反抗した三河一向一揆に加わり、出奔するという反逆者であった。
 忠家・忠次父子は天正3年(1575年)の長篠の戦いで功を立て、家康の下へ帰参し、家康の嫡男・信康の家臣に付けられるも、信康が自害を命じられると、再び出奔することとなった。
 忠次がようやく徳川家臣として定着するのは、本能寺の変の後、家康の有名な伊賀越えに同行した功績で、帰参と旧領回復が許されてからである。その後の忠次は奉行や代官としての官僚的な職務で実力を発揮し、家康の関東入部後は、関東代官頭として江戸近郊の関八州直轄領の行政を委ねられた。
 彼の公共事業はすでに江戸開府前の豊臣時代から始まっており、入間川架橋や利根川支流の締切工事などに着手している。忠次の関ヶ原の戦いでの功績は主として兵糧輸送であったが、江戸開府後は譜代大名(武蔵小室藩主)に列せられたのも、家康の高い評価を示している。
 ここには、封建的価値観からすれば断罪排除されておかしくない不忠者でも、その実務手腕を評価して取り立てるという家康の発想が滲み出ており、このような人材登用は、直接ではないにせよ、近代官僚制につながる芽と言えるかもしれない。
 忠次は開府後も、引き続き治水を中心とした公共事業を関東各地で主導し、忠次の官位「備前守」にちなんだ備前渠や備前堤等の運河や堤防が各地に残されている。その他、忠次は農政に関しても、検地・新田開発に加え、新たな作物の栽培普及など農民の収入増につながる改良策を講じ、早くも庶民派領主として民心を惹きつけている。

 忠次は大坂の陣を見ることなく、慶長十五年(1610年)に没したが、すでに父とともに活動し始めていた嫡男忠政は大阪冬の陣で外堀埋立の責任者を務めたばかりでなく、戦闘でも敵兵の首を多数取り、武将としても戦功を挙げたという。
 しかし、彼は短命で30代にして没し、嫡男忠勝がわずか8歳で後を継ぐ。ただし、幼少のため、枢要な実務職である関東代官職は叔父の忠治が継承することとなり、小室藩主と旗本級関東代官がここに分離された。
 この後、不幸にして忠勝も翌年9歳で夭折したため、ここに大名伊奈氏はわずか三代にて無嗣断絶となった。伊奈氏の名跡を惜しんだ幕府の配慮で、忠勝の弟忠隆が旗本級での存続を許されるも、これ以降、関東代官職は忠治の子孫が継承することとなるが、後代、忠隆系が養子で継承するなど、両家系は交錯する。

アフリカ黒人の軌跡(連載第24回)

五 奴隷供給諸国と新大陸黒人

オヨとダホメ
 西アフリカにおける奴隷供給諸国の中で、最も歴史が古いと見られるのはオヨ王国である。オヨはナイジェリアにおける主要民族の一つであるヨルバ族が立てた王国であり、1400年頃、ヨルバ系最古の王国であるイフェよりも遅れて西方に建国された。
 当初はマイナーな存在であったが、ハウサ諸王国やソンガイ帝国とともにサハラ交易に参画して蓄積した富を元手に台頭した。大航海時代のヨーロッパに対しては奴隷供給を通じていち早く通商関係を持ち、見返りに軍備増強を推進したのである。こうしてオヨはヨルバ系諸国唯一と言われる騎兵隊を擁し、16世紀末までにイフェを圧倒して、ヨルバ系諸国の頂点に立つ。
 他方、17世紀半ば、オヨの南にはアジャ族が建てたダホメ王国が建設された。アジャ族は元来、今日のベニンの海岸地方にいたが、内陸に移住して当地のフォン族を服属させ、王国を建設した。こうした征服王朝の常として、ダホメは当初から中央集権的な軍事国家の性格が濃厚であった。
 オヨとダホメは、コンゴと異なり、共に西欧列強に対する奴隷供給国家として富国強兵を図ることに躊躇いがない点で、互いにライバル関係に立った。18世紀前半に出たダホメのアガジャ王はダホメの領土を拡張し、奴隷供給国家としての地位を確立したが、オヨとの戦争には勝てず、治世末期の1730年以降、ダホメはオヨの属国となった。
 この時から約1世紀の間はオヨが全盛期を迎えるが、ダホメの従属は形式的なものにとどまり、ダホメは実質的な独立を維持し、繁栄を続けた。一方、オヨは19世紀に入ると、フラニ族系の新興イスラーム系国家ソコト帝国に圧迫され、衰退する。
 ちょうどそのタイミングでダホメに登場した9代国王ゲゾは1830年、オヨを攻撃して実質的な滅亡に追込み、オヨに取って代わりダホメの全盛期を築いた。ゲゾは大規模な奴隷狩りで奴隷供給国家としての基盤を強化しつつ、西欧における奴隷貿易禁止の動向にも留意し、将来を見越してパームオイルの輸出に注力するなど経済基盤の多角化も図った。
 一方で、ゲゾは4000人規模の女性銃士隊を組織するなど軍備を強化しつつ、国内にはスパイ網を形成して恐怖政治を敷くなど専制君主として君臨したが、暗殺と見られる1858年の彼の死後、ダホメは衰退する。
 衰退の要因は奴隷貿易の廃止と関わっている。ゲゾ王は治世中に奴隷貿易の廃止を宣言したが、実際にはなお続行しており、彼の後継者もそうであったが、19世紀末になると立ち行かなくなり、1890年から94年にかけて、フランスとの二次の戦争に敗れ、フランス領土に下ったのである。

神道と政治―史的総覧(連載第18回)

六 復古神道への道


神儒合一論と徳川幕府
 室町時代に吉田神道が神道界を制圧した後、戦国時代に入ると、戦国大名らはその出自の不確かさを補うかのように、自己を神格化する趣向が大なり小なり示したが、その頂点に立ったのが天下人神道であった。これは、宗教であると同時に、自己の権力の正統性を誇示するまさに政治そのものであった。
 このような神道と政治の混淆は、初代家康を神格化した東照宮信仰に依拠した徳川幕府の成立によっていっそう明瞭となった。しかし、幕府の政治理論上の体制イデオロギーは圧倒的に儒教(朱子学)に置かれたため、儒教と神道を整合的に説く必要性が生じた。
 この要請に応えたのが、低い身分から家康側近にのし上がった儒学者・林羅山である。羅山は神道と儒教を同視する神儒合一論の提唱者として知られるが、このような思想は羅山の師であった藤原惺窩に由来している。公家出身の惺窩自身、家康から仕官を要請されたが固辞し、門弟の羅山を推薦したという因縁がある。
 より政治的だった羅山は惺窩の比較的素朴寛容な神儒合一論を純化し、排仏思想を徹底するとともに、神道界のエースであった吉田神道をも批判の俎上に乗せた。結局のところ、羅山の神儒合一論は習合説ではなく、彼が体制イデオロギーの座に据えようとしていた儒教の優位を前提に、儒教と神道の同一性を相当強引に論じようとする教条であった。
 例えば皇室祭祀の象徴である三種の神器が『中庸』における智・仁・勇の三徳を表すものであるとの羅山の論は、十分な根拠を欠く類推的な憶断にすぎないが、これも儒教理論に神道を無理に同期させようとする羅山流合一化の特徴である。
 もっとも、宗教的には習合的な武家政権の本質を維持していた徳川幕府は羅山の理論に完全に準拠したわけではなく、徳川家宗派でもあった浄土宗を中心に仏教も保護統制しつつ、1665年の諸社禰宜神主法度制定以降、羅山が敵視した吉田神社を神道本所として全国の神社の総社的地位を認証している。
 羅山の儒教ベースの神儒合一論は江戸時代前期においては彼の権威とあいまって強い影響力を持ち、多くの追随者を得たが、中期以降になると変化が生じ、神道に重きを置く修正理論が台頭してきた。これはやがて国粋思想とも合流し、復古神道という幕藩体制を揺るがす反動的潮流を生み出す下地ともなる。

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第8回)

8 マーティン・ヴァン・ビューレン(1782年‐1862年)

 
 第7代ジャクソン大統領による「ジャクソニアン・デモクラシー」は、引き続いて副大統領マーティン・ヴァン・ビューレンが第8代大統領に当選したことで、さらに四年間継続されることになった。とはいえ、ヴァン・ビューレンの経歴は前任者とはかなり違っていた。
 まず彼はニューヨーク州の出身であり、アメリカ独立宣言署名後に生まれた初の大統領であった。またニューヨーク(旧ニューアムステルダム)を建設した初期オランダ移民の子であった。様々な点で、初記録を持つ大統領である。
 一方で、生家があまり豊かでないため、十分な高等教育を受けることなく、徒弟修業的なプロセスを経て弁護士となり、成功を収めた点では、非名門の「庶民」の政治を強調した「ジャクソニアン・デモクラシー」の風潮に合致した人物であり、ジャクソンが副大統領に指名しただけの理由はあった。
 しかし、大統領としてのヴァン・ビューレンは成功しなかった。その主要因は、不運にも就任年度に始まった恐慌(いわゆる1837年恐慌)にあった。恐慌自体の原因論は本稿の主題から逸れるのでここでは詳論しないが、ヴァン・ビューレン政権期を越えて1840年代全般に余波の及んだこの恐慌には、ジャクソン前大統領の政策も関わっていた。
 特にジャクソンが連邦中央銀行に反対する教条主義的な発想から第二次合衆国銀行の免許延長を拒否したことに加え、正貨主義に基づく正貨流通令は地方銀行の破綻を招いた。ヴァン・ビューレンの就任は恐慌発生の5週間前であり、直接の責任はないはずだが、前政権の副大統領だったことで間接的な責任は免れなかった。
 他方、大統領としても恐慌に対して適切な対策を取ろうとせず、恐慌的デフレーションが彼の任期中続いたことで、大統領としての能力にも疑問符が付けられ、失業や負債に苦しむ大衆の怨念が募った。
 結局のところ、「ジャクソニアン・デモクラシー」の無為な延命者でしかなかったヴァン・ビューレンは先住民政策でも強制移住法を継承し、武力による土地の侵奪を継続した。もっとも、この面で白人有権者の反感を買うことはなかったのであるが、40年大統領選挙では再選を果たせず、一期で去ることになる。
 しかし、返り咲きへの執念は持ち続け、48年大統領では新党・自由土地党の候補者として出馬した。自由土地党は、ジャクソン、ヴァン・ビューレン両政権の与党であった民主党から分離し、奴隷制度が存在しない土地という意味での「自由土地」の推進を最大綱領とする当時としては進歩的な政党であった。
 とはいえ、自由土地党は西部開拓地における新規の奴隷州拡大に反対するものの、既存奴隷制度そのものの廃止には踏み込まない中途半端な立場に終始した。提訴力に欠け、ヴァン・ビューレンは10パーセントの得票率にとどまり落選、返り咲きは果たせなかった。
 もっとも、奴隷制に関するヴァン・ビューレンの比較的にリベラルな姿勢は長寿を保った最晩年の1860年大統領選で反奴隷制を掲げるリンカーン大統領候補を支援する立場を取らせ、リンカーン政権の成立に一役買ったことは特筆してよいことかもしれない。

神道と政治―史的総覧(連載第17回)

六 復古神道への道


神国思想の興隆
 神道はその後に流入してきた儒教や仏教―特に仏教―の影響を受け、習合宗教の色彩を強めていったが、こうした文化融合に対しては反動が現れるのが常である。神道においては、仏教と習合した本地垂迹説に対する反動が南北朝時代に顕著となる。
 その最初の隆起が皇室祭祀の本拠たる伊勢神宮に現れたことは偶然ではない。すなわち、伊勢神道である。伊勢神道は伊勢神宮外宮神職を世襲してきた度会氏が興した神道流派であり、仏より古来の神を優位に置く反本地垂迹説を軸とする。
 しかし、伊勢神道は単純な反本地垂迹説にとどまらず、皇祖とされる天照大神を祀る内宮に対して、外宮の主祭神たる豊受大神を天照大神よりも優位にある普遍神と規定し、ある種の一神教的な立場を打ち出したことに特徴があった。
 その一方で、伊勢神道は元寇以来、ナショナリズムの思想として台頭してきていた「神国思想」、すなわち日本を古来の神々によって加護された国と認識する国粋思想を改めて活性化させ、これを強く打ち出したのであった。
 神国思想を唱えながら、皇祖・天照大神を否定するかのような所論は一見矛盾しているように思えるが、伊勢神道がこのような逆説を提示した背景として、本来マイナーだった外宮の権威を上昇させようという伊勢神宮内部における権力闘争も絡んでいたと推測される。
 一方で、伊勢神道創始者たる度会家行が南北朝動乱渦中で南朝を支持したことで、伊勢神道は南朝、とりわけ南朝総帥となった北畠親房に影響を及ぼし、南朝の理論的支柱となった。ところが、南朝が最終的に敗れたことにより伊勢神道は勢力を失い、代わって京都の吉田神社神職の吉田兼倶が創始した吉田神道に道を譲ることになる。
 吉田神道は教理上は伊勢神道の反本地垂迹説・神国思想を継承するとされるが、実際のところは習合的で、他宗派を排斥するのではなく、儒・仏・道三教を枝・葉・花実になぞらえつつ、日本古来の随神(かんながら)の道を法の根本とする止揚的な立場を採った。
 しかし吉田神道の強みは教理以上にその政治力にあり、兼倶は北朝を擁して権力を確立した足利将軍家と深く結びつき、「神祇管領長上」を称して、全国の神職の位階を授ける権限すら獲得し、全神社の頂点に立った。
 同時に、敬虔な仏教徒でもあった時の後土御門天皇にも進講を通じて取り入り、天皇から本拠の吉田神社境内に建てた斎場所大元宮を「神国第一之霊場、本朝無双之斎庭」としてお墨付きを得ることにも成功したのである。

アフリカ黒人の軌跡(連載第23回)

五 奴隷供給諸国と新大陸黒人


コンゴとンドンゴ
 アフリカ黒人はイスラーム勢力によって奴隷化され、北アフリカ・中東地域からインドにも送り込まれてきたが、より組織的かつ大洋をまたぐ遠距離の人口移送が展開されるようになるのは、西欧列強主導の大西洋奴隷貿易が開始されてからのことである。
 奴隷貿易のシステムにおいては、アフリカの地元国家が奴隷狩りによって奴隷を集めて奴隷商人に売却することが慣習化されていたが、そのシステムは大西洋奴隷貿易ではよりいっそう露骨に現れていた。黒人奴隷の積み出し窓口となったことから「奴隷海岸」と称されるようになったアフリカ西海岸沿いの諸国は多くがそうした奴隷供給国家として台頭し、かつそのために衰亡する運命をたどった。
 大西洋奴隷貿易の初期において奴隷供給国家として台頭したのは、アフリカ中部大西洋岸に位置したコンゴ王国である。コンゴ王国が発祥したコンゴ河流域は熱帯雨林地帯であり、紀元前5000年紀から狩猟採集文化が発達した。その担い手民族は不詳だが、バントゥー人大移動で移住してきたバントゥー系民族が鉄器と農耕をもたらすことで、最初の文化的発展の土台が築かれたと推定される。
 この流域の民族は稠密な交易ネットワークでつながったバントゥー系で統一されていったが、政治的な王国形成はやや遅れ、14世紀末にルケニ・ルア・ニミなる人物が初めて王国を建設した。以来マニコンゴと称される王が統治した。
 コンゴ王国は大航海時代のポルトガルといち早く通商関係を持ち、キリスト教も受け入れた。15世紀末のンジンガ・ンクウ王が洗礼を受けてポルトガル風にジョアン1世を名乗って以来、ポルトガル化が進む。
 ジョアン1世の息子ンジンガ・ムベンバ=アフォンソ1世が16世紀前半期、長期治世で王国の全盛期を築いたが、その財源は主に奴隷輸出で得ていた。しかし、沖合いのサントメ島に拠点を置く奴隷商人の横暴を統制できず、奴隷貿易の規制に失敗したアフォンソ1世の死後、コンゴは衰退し、ポルトガルの属国として名目的な存在に落ちる。
 落ち目のコンゴに代わって南隣のコンゴ属国だったンドンゴが16世紀後半頃台頭し、奴隷供給国家としての座を争い、実質的な独立を勝ち取る。しかし、その代償としてポルトガルによる植民地化が進んだ。ンドンゴはポルトガル支配に抵抗を試みるが、最終的に1671年に征服された。

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第7回)

7 アンドリュー・ジャクソン(1767年‐1845年)

 
 アンドリュー・ジャクソンの名はこれまでにも数回登場しているが、それは先住民虐殺を指揮した冷酷な軍人としてであった。彼は大統領就任前から黒書に記すべき黒歴史を持つ人物である。その代表的なものは、クリーク族とセミノール族への民族浄化作戦であった。
 ジャクソンは職業軍人ではないが、13歳で大陸軍に義勇参加し、独立戦争の従軍経験を持つ人物としては最後の大統領となった。先住民虐殺作戦を指揮した頃は、当時ジャクソンが弁護士兼奴隷プランテーション経営者として移り住んでいた辺境地テネシーの民兵隊(州軍)に参加していた。
 このようにジャクソンはテネシーを地盤に対先住民強硬派として台頭し、大統領候補指名を獲得した点で、それまでの歴代大統領とはかなり異なる履歴を持っていた。出自的にも、父の代に移住してきた北アイルランド移民の子であり、古くからアメリカに土着した裕福な「名門」ではないため、十分な高等教育を受けておらず、様々な職を遍歴している。
 そのため、彼は二度目の出馬となった1828年の大統領選では「庶民」の代表者を標榜し、東部名門エリート出自の現職アダムズに挑んだのである。この選挙は、アダムズの項でも触れたように、史上初の汚いネガティブキャンペーンが展開されたが、その勝者は「戦争の英雄」イメージを売り込んだジャクソンであった。
 「ジャクソニアン・デモクラシー」の標語で知られるジャクソン大統領の政権運営は正式な閣議によらず、「キッチン・キャビネット」と揶揄された内輪的な外部の識者の非公式会合によることが多かった。そうした内輪のジャーナリストには、政権賛美の提灯記事を書かせて世論操作を行なった。
 こうした内輪重視の政権運営は、政府の官僚も大統領支持者からの自薦他薦による政治任命とする猟官制の導入へとつながった。政府官僚を短期間で入れ替えるこの制度は汚職防止に資するという触れ込みだったが、実際は大統領中心の権威主義的な政権運営の道具であった。
 ジャクソンは「庶民」の味方を標榜したが、この「庶民」とは彼のような白人開拓者を意味しており、先住民は明白に敵であった。ジャクソンの最も悪名高い政策として、先住民の集団強制移住がある。これは「インディアン移住法」を通じて先住民を不毛な西部の保留地へ囲い込む政策である。
 こうした強硬姿勢の裏には、「奴ら(先住民)には知性も勤勉さも道義的習慣さえない。奴らには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしない奴らが環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。」という演説に象徴される確信的な白人優越思想があった。
 奴隷制に関しても、自身多数の黒人奴隷を所有する農園経営者でもあり、奴隷制廃止論者を嫌悪していた。もっとも、奴隷制擁護のようなイデオロギー的な問題に関しては、ジャクソン政権で最初の副大統領を務めた保守理論派のジョン・カルフーンに委ねられた部分が大きかった。
 ジャクソンは連邦に対して州の権限を尊重する州権主義者であり、その観点からマディソン政権下で創設されていた中央銀行(第二次合衆国銀行)の免許更新を認める法案に拒否権を発動した。その結果、金融政策の司令塔を失い、乱立された州銀行の多くが経営難となり、二期目任期末年の1837年恐慌とその後の長期不況の要因を作った。
 ジャクソンは中央銀行は庶民の利益にならないとも主張していたが、庶民の味方ジャクソンが1835年、失業した塗装工の男に銃撃され、史上初の大統領暗殺未遂に遭ったのは皮肉なことであった。ちなみにこの時、ジャクソンは群衆の面前で、取り押さえられた犯人をステッキで殴打したと伝えられるが、これも彼らしい「庶民的」な演出であったのだろう。
 名門エリートに対抗して「庶民」を強調する「ジャクソニアン・デモクラシー」の実態とは、選挙権(白人男性選挙権)の拡大を背景に大衆煽動と世論操作を手法とする白人ポピュリズムの先駆とも言え、これは遠く21世紀の現職トランプ政権の性格に最も酷似しているように思われる。

神道と政治―史的総覧(連載第16回)

五 天下人神道


東照宮と江戸幕府

 天下人を神格化する天下人神道の集大成は、徳川家康によって行なわれた。彼は臨終前の遺言で、実に事細かに神格化の手順を指示している。それはまず本拠駿府の久能山に遺体を安置したうえ、一周忌を終えた後、日光山と京都金地院に小堂を設置して拝礼させよというものであった。
 この遺命に従い、幕府は指定された三箇所に東照社を建立したのであるが、「東照」の名は家康が没後、朝廷から授与された「東照大権現」の神号に由来している。さらに、没後30年近く経過した1645年の宮号授与をもって「東照宮」と称されるようになる。
 家康がこのように詳細な遺言で自己の神格化を図ったのは、実質一代限りで終わった豊臣政権の轍を踏まず、徳川支配を恒久化するうえで支配に宗教的な権威付けを与えようとする狙いからであったのだろう。
 遺命に基づく三つの東照社のうち、久能山東照社は家康埋葬地として東照宮総社の位置づけにあり、その余は「小堂」にとどまったはずのところ、孫の3代将軍家光が江戸に最も近い日光東照社を豪勢に大改築したことから、以後は日光東照社が事実上の東照社総社的な存在となった。
 家光が日光東照社の大改築を通じて祖父家康の権威付けを改めて強化したのは、人々の記憶が薄れかけていた祖父の威光を再活性化することにより、「鎖国」という新たな段階を迎えた徳川支配体制の引き締めを図る狙いがあったと考えられる。
 家光は配下の諸大名に対しても東照社の造営を勧奨したため、徳川‐松平一門はもちろん、譜代大名や外様大名の間でもこぞって東照社の建立が流行し、今日では廃絶したものを含めれば最大でおよそ700の東照社が全国に建立されたと言われる。
 こうして江戸幕府の宗教的権威付けの支柱となった言わば「東照神道」は教義上、家康の側近でもあった天台宗僧侶・天海が提唱した山王一実神道と呼ばれる神道流派に属している。その根底にあるのは、比叡山に発祥した一種の山岳信仰である山王権現を釈迦の化身とみなす神仏習合流派であった。
 とはいえ、その最大の趣意は家康の神格化にあったから、神道としては内容空疎な、まさに政治の産物であった。実際、もう一人の家康側近であった臨済宗僧侶・以心崇伝は反習合的な吉田神道での祭祀を主張していたが、家康の遺言を盾に取った天海との論争に敗れ、山王神道での祭祀となったという経緯がある。
 ただ、崇伝が住した金地院は室町幕府4代将軍足利義持によって建立されたと伝えられる臨済宗寺院で、家康遺命による東照宮を擁し、それ自体も神仏習合を内包しつつ、全国の五山十刹以下全住職の任命権を掌握する僧録司が置かれた徳川体制における仏教統制機関に発展したのである。

アフリカ黒人の軌跡(連載第22回)

四 内陸アフリカの多様性


ダルフール首長国の盛衰

 「フール人の祖国」を意味するダルフール王国は、かつてサハラ交易圏の中央サハラ方面を超域的に支配したカネム‐ボルヌ帝国に従属していたが、16世紀末に独立王国を建設した。その担い手であるフール人は元来は南部アフリカからスーダン西部に移住、農耕民として定着したナイル‐サハラ語族系民族集団である。
 しかし、ダルフール首長国の由来はやや複雑である。ダルフール首長国の建国前、この地にはアラブ系またはナイロート系とも見られるツンジュル王国が存在していた。しかし、ツンジュル族は少数派であり、王は次第に多数派フール族と通婚し、フール化していった。
 16世紀に現れたツンジュルの王スルタン・ダリは母方からフール族の血を引く人物で、独自の法典を定めるなどダルフール王国化の基礎固めをした。そして実質的なダルフール首長国建国者と目されているのが、彼の曾孫に当たるスレイマン・ソロンである 
 スレイマンはツンジュル王国を解体し、数十回に及ぶ遠征を通じてダルフールの領土を拡張した。その領域は南のナイロート系センナール首長国を侵食するに至った。こうした遠征・領土拡張は奴隷狩りを兼ねており、スレイマンは武器や軍馬と奴隷のバーター取引を積極的に行い、軍備増強を進めていった。
 スレイマンはイスラーム教徒であり、ダルフール首長国をイスラーム国とする上でも創始者であったが、イスラームが正式に国教となったのは、彼の孫アフメド・バクルの時代と見られる。彼は領土の面でもナイル河東岸方面まで拡張し、ダルフールを多民族帝国に完成させた。
 しかし、彼の死後、息子たちの間で王位継承争いが起き、18世紀には60年近い内戦期に入り、帝国は衰退していく。18世紀末の内戦終結後、何人かのスルターンの下で中興が図られるが、最終的に1875年、オスマントルコ宗主下エジプトのムハンマド・アリー朝によって滅ぼされ、エジプトの支配に下った。
 ところで、ダルフールには13世紀以降にアラビア半島からダルフールに移住してきたアラブ系遊牧民集団バッガーラも割拠した。かれらは半独立状態を保ち、水や牧草地の権利をめぐってフール族とは緊張関係にあり、19世紀前半には時のスルターン、モハメド‐エル‐ファドルがバッガーラを攻め、数千人を虐殺した。
 このフール族とバッガーラの対立は、遠く21世紀になって今度はアラブ系政府軍に支援されたバッガーラによるフール族をはじめとする非アラブ系住民の虐殺という逆転した形を取って、より大規模な人道危機として発現することになる。

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