世界歴史の余白

ブログという手段を通じて新たな知の地平を開拓せんとする社会思想家・ブロガーです。

高家旗本吉良氏略伝(連載最終回)

八 吉良義央(続)/義周(1686年‐1706年)

 
 赤穂事件がなければ、吉良家は存続したであろうが、義央はもちろん、吉良家自体も特段話題に上ることもない高家として終わっていたに違いない。赤穂事件は吉良義央を図らずも歴史上の著名人にするとともに吉良宗家を終わらせる役割を果たした。
 この事件の顛末についてはすでに多くのことが議論されているが、しばしば文芸作品で描かれるように、義央が朝廷使者への饗応役を命ぜられた赤穂藩主浅野長矩に嫌がらせをしていたことが江戸城中での傷害事件につながったという諸説には確証がない。
 もっとも、前回も言及したように、義央はその出自から極めてプライドが高く、官位も長矩のような一般的な外様大名(従五位下)より高いこともあり、自らが指南する長矩ら大名に対して日頃から高慢な態度を取り、反感を持たれていた可能性は充分にある。多くの大名はそうした感情を忍んでいたであろうが、長矩は違った。
 彼が出自した浅野氏も清和源氏(土岐氏流)を名乗る点では、広い意味で吉良氏と縁者ということになるが、元は織田氏の弓衆にすぎなかった。しかし、婿養子で入った浅野長政が関ヶ原の戦いでは徳川氏の東軍で活躍、家康側近となった功績から、子孫も大名に取り立てられた。その本家は広島藩であり、長矩は長政の三男長重が立てた分家の出身(長重曾孫)、5万石余りの中小大名であった。
 とはいえ、長矩は大藩である広島藩分家としてのプライドといくばくかの劣等感も混ざった複雑な性格の持ち主であったと推測できる。実際のところ、長矩の評判は義央以上に芳しくなく、癇癪持ち、武骨、女色好みで藩政は家老任せなどの否定的評価が多い。
 高慢な旗本が官位は格下ながら武家身分では格上という徳川時代特有のねじれ関係にある気難しい大名を指南するとなれば、何らかのトラブルが起きてもやむを得なかったであろう。ただ、直接の引き金となるような出来事は記録されておらず、長矩が義央を斬り付けた際に叫んだとされる「この間の遺恨覚えたるか」という表現からも、特定の出来事ではなく、積もり積もった反感が傷害事件を引き起こしたと解釈するのが妥当なのであろう。
 いずれにせよ、幕府本拠江戸城中での刃傷沙汰はたとえ加害者が大名であれ、重罪であり、死罪は免れなかった。ただ、赤穂浪士が決起したのは主君長矩のみ即日切腹という厳重処分となり、義央については処分なしとされたことが両成敗を正義とみなす封建法的な公平感を損なったことにあったとされる。
 たしかに、幕府は徳川氏と同じ三河出自の名門吉良氏に格別な厚遇をしていた形跡はあるが、斬り付けられた時、返り討ちにせず、一方的に傷害を負わされた義央を「被害者」として処遇したことは必ずしも不公平ではなかった。
 しかし義央は事件後、幕府に隠居願いを出し、受理されたことで、事実上は引責辞職の形となった。後を継いだのは養子の義周であった。彼は義央が上杉家の養子に出した長男綱憲の次男であり、義央にとっては孫に当たる。綱憲に代わり嫡男となっていた三男が夭折したことで、交換的に養子に入ったのであった。
 赤穂浪士の討ち入りがあった時、18歳の義周は武芸が不得手とされながらも応戦したが賊に斬り付けられ、一時失神したという。しかし殺害は免れ、幕府への報告などの事後策をどうにかこなしている。しかし、幕府側では隠居の養父を助けられなかった義周を不届きとして断罪し、改易処分とした。
 若いうえに、斬り付けられて失神していた義周の対応を不届きとするのは酷にも思えるが、これは幕府が改めて喧嘩両成敗の処分を下したというより、吉良家が赤穂浪士らによる義央暗殺策謀を防げず、再び騒動を起こしたことを問題視したものと考えられる。
 処分後、義周は諏訪藩預かりとなり、諏訪で捕囚生活を送っていたが、間もなく21歳で病没した。交換養子というお家第一の封建的慣習の犠牲者とも言える生涯であった。義周には子もなく、高家旗本吉良氏はこうして完全に断絶することとなった。
 ちなみに、幕府では吉良氏から早くに別れた遠縁の蒔田氏(旧奥州吉良氏)の吉良姓復帰を許し、高家として遇する一方で、義央の弟東条義叔〔よしすえ〕の旗本系統も享保年間になって吉良姓復帰を許したように、名門吉良氏の名跡の存続には好意的であった。

高家旗本吉良氏略伝(連載第8回)

七 吉良義央(1641年‐1703年)

 
 吉良義央〔よしひさ〕は、先代義冬の嫡男にして高家旗本吉良氏三代目、そして有名な赤穂浪士事件で討たれた当人である。彼が家督を継いだ時、高家吉良氏は祖父と父の功績により全盛期にあった。義央自身も見習いの頃から上洛使者をたびたびこなすなど、高家としての手腕は相当に評価されていたようである。
 先代までの吉良氏は分家で同じく高家今川氏との縁戚関係が強かったが、義央は生母が初代大老酒井忠勝の姪であったことから、幕府重臣の譜代酒井家と縁戚となったほか、自身も米沢藩主上杉綱勝の娘富子を正室としたことで、上杉氏との関わりが特に強くなった。富子との婚姻は「恋愛結婚」によるとの説は俗説で、実際は幕府及び上杉家の差配であったとされる。
 こうして義央時代の吉良氏は将軍綱吉治下の天和年間には大沢氏、畠山氏と並び、高家中の高家たる高家肝煎に抜擢され、まさに最盛期を迎えた。そのような義央晩年の絶頂期に赤穂事件が発生するのであるが、これについてはしばらくおき、しばしば事件の遠因として指摘される義央の人物像についてである。
 後世の文学作品である忠臣蔵などでは相当に脚色され、討たれても致し方ないかのような悪人視されてきた義央であるが、そのエピソードの大半は後世の作話である。むしろ義央が領地とした三河(現西尾市の一部)では、治水事業や新田開発に尽力した事績が記憶されている。これは領地に居住する大名と異なり、領地に関心を持つことの少なかった旗本にしては異例のことである。
 治水開発で名を残した点では、吉良氏と同時代、関東八州の代官として隆盛を誇っていた旗本伊奈氏にも通ずるところがある。ちなみに、伊奈氏の遠祖である荒川詮頼を吉良氏の支族とする見解もあり、両家は遠縁関係の可能性もある。
 さて、こうして地元では「名君」の名を残す義央であるが、江戸では義央に斬り付けた浅野長矩ら義央の指南で儀典に携わった大名たちを相手に陰湿ないじめや嫌がらせをしていたといった風評もある。しかし、同時代史料による裏づけはない。
 ただ、姻戚である上杉家における評判は芳しくないが、これは上杉家が無嗣断絶の危機にあった時、義央が嫡男綱憲を養子に差し出し、危機を救ったことに付け込んで、高家としての格式維持のため何かと出費の多い吉良家への財政援助を引き出して上杉家の財政を逼迫させたことへの不快感からであった。
 なお、上杉家の危機の原因となった3代藩主上杉綱勝の急死は義央による毒殺ではないかとの不名誉な説も提起されてきたが、これも同時代史料によりほぼ病死の裏づけがあり、後世の義央悪人視の風潮が作り出した俗説と見られる。
 とはいえ、身分は旗本なれど旧足利将軍家に連なる名門にして、官位は一般の大名を凌ぐ従四位上・左近衛権少将まで昇った義央が極めてプライドの高い人物であったことは想像に難くなく、そうした性格がやがて自身も家系も滅ぼす大事件の引き金を引いたことは否定できないであろう。

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第16回)

18 ユリシーズ・グラント(1822年‐1885年)

 
 南北戦争終結後最初の大統領選挙となった1868年大統領選挙は、南北戦争を勝利に導いた共和党の独壇場となった。現職ながら不人気のジョンソン大統領は自党の民主党からも指名を得られず脱落、代わって指名されたニューヨーク州知事出身のホレイショ・シーモアも、共和党が指名した南北戦争の英雄ユリシーズ・グラントには太刀打ちできなかった。
 建国以来、戦争に明け暮れてきたアメリカでは戦争英雄出身の大統領はそれまでにも輩出していたが、いずれも正規軍人というよりは義勇軍人に近い存在であったところ、第18代大統領となったグラントは、史上初めての士官学校卒の正真正銘職業軍人であった。
 彼はオハイオ州で製革業者兼商人の中産階級家庭に生まれ、19世紀初頭に創設された陸軍士官学校を出た後、後に第12代大統領となるザカリー・テイラー配下で米墨戦争に従軍し、戦績を上げて昇進したが、飲酒がたたって除隊した。その後は職を転々とする不遇時代を過ごすが、南北戦争が運命を変える。
 軍に志願兵として復帰したグラントは、南北戦争で優れた作戦家としての力量を発揮して戦史に残る戦果を上げ、北軍の勝利に大きく寄与した。その戦歴は本稿の主題から外れるので割愛するが、南北戦争なかりせばグラントは歴史に名を残すこともなかったであろう。もちろん、大統領など望むべくもなかった。
 こうして政治歴ゼロのまま、共和党から大統領選挙に担ぎ出される形で立候補し、当選してしまったグラントは、誰が見ても政治の素人であった。しかし、それゆえに南北戦争後の再編リコンストラクションには適した人物でもあったのかもしれない。
 実際、彼は今日の共和党の姿からは考えられないほどリベラルな改革をいくつか実施している。その中には、人種的多様化政策の先駆けとも言えるアフリカ系やユダヤ系の連邦要職への登用が含まれている。また南北戦争後、南部の白人優越主義者によって結成されたテロ団体クー・クラックス・クランの摘発も進めた。
 また先住民政策も従来の強硬な殲滅作戦を離れ、先住民を連邦政府の保護下に置き保留地で「開化」させる新たな解決策を志向した。しかし、このような文明押し付けの「平和政策」は功を奏しなかったが、職業軍人出身ながら武断政策を回避しようとしたことは注目に値する。
 グラントのこのような穏健リベラル政策は、南部基盤の保守的な民主党及び共和党急進派双方の不満を招き、グラントの再選阻止が狙われたが、彼はこうした動きを跳ね返し、再選を果たした。しかし、二期目のグラント政権は1873年恐慌に始まる長期の大不況に見舞われた。それとともに、側近や閣僚らが関与する汚職事件も相次ぎ、グラント二期目は規律を欠くものとなった。
 特に汚職に関しては、自身の関与こそ問われなかったものの、歴代政権の中でも最も黒い記録を持つ。一方で、グラントは公務員改革策として、ジャクソン大統領以来の伝統である腐敗した猟官制を是正するべく、公務委員会を設置するなど改革策を進めたが、足元での汚職を抑止することはできなかった。
 こうして、第7代ジャクソン大統領以来、久方ぶりに二期八年を全うしたグラントであったが、大統領としては南北戦争英雄としての評価とは裏腹の不評が歴史的に定着してきた。一方、彼の人種的多様化政策には再評価もあるが、そうした北部リベラル傾向はグラント以降、20世紀前半にかけて断続的に続く共和党優位の時代に後退し、保守化傾向が進んでいく。

アフリカ黒人の軌跡(連載第31回)

六 南部アフリカの蠕動


先住者コイサン諸民族

 南部アフリカは元来、現存する人類中でも最も古い特徴を持つコイサン諸民族の割拠する所であった。コイサン諸民族はコイコイ族とサン族の総称であるが、両者には生活様式に明確な相違点が見られる。すなわち、コイコイ族が遊牧民であるのに対し、サン族は狩猟採集民であった。
 サン族のほうが人類発祥時の狩猟採集様式を固守していたことからすると、コイコイ族よりも古い種族と見られる。実際、サン族の社会は明確な首長のようなリーダーを持たない無頭社会であり、身分・職業階級も性別による差別もない平等性の高い原初的な協働社会の特徴を維持していた。
 一方、コイコイ族がいつ頃から遊牧生活に入ったかは不明であるが、かれらは元来今日のボツワナ北部に発祥した後発の民族グループであり、後からより南部に移住し、サン族の居住地を侵食する形で、さらに東の今日のナミビア方面にも拡散していったようである。
 両民族の間ではある程度の通婚関係があったようではあるが、両者の基本的な生活様式の相違は長く維持された。文化的な発展段階としては、サン族がコイコイ族のような遊牧生活へ移行することなく、伝統的な狩猟採集生活を固守したということになるだろう。
 とはいえ、両者はコイサン語族として包括される古い言語に加え、今日まで残され、世界遺産に指定されている岩絵のような芸術文化も共有している。特にサン族の岩絵は著名なツォディロ岩絵をはじめ、3000箇所も残され、かれらが優秀な美術文化の持ち主だったことを示している。
 コイコイ族も岩絵を残しているものの、岩絵文化はほぼサン族のものであったようである。その証拠に、やはりサン族の手になる岩絵が残るナミビアのトゥウェイフルフォンテーンは、コイコイ族が展開するようになると、岩絵の伝統が途絶えるからである。
 ただし、後にこの地に入植してきた白人ボーア人の言葉で「不確実な泉」を意味するように、かつては泉があったらしいトゥウェイフルフォンテーン自体は、サン族の時代から、コイコイ族が展開した後も、シャーマン儀礼が執り行われる両民族にとっての宗教聖地であり続けたようである。

神道と政治―史的総覧(連載最終回)

八 議会神道の時代

議会神道と新国粋主義
 国政選挙を通じて議会に影響力を拡大していった神社本庁は、2000年以降、明確な政治的アジェンダを推進していくようになる。特に首相の「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」発言で波紋を呼んだ2000年の森内閣、さらに自民党の右傾化を決定づけた2001年の小泉政権の成立が大きな分水嶺となった。
 ちなみに、森首相の上記問題発言はまさしく議会神道の推進マシンである神道政治連盟国会議員懇談会の席上でなされたものであり、発言の後に「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく、その思いで・・・・私たちが活動して三十年になった」と続く総括発言の一部であったのである。
 こうした総括を受けるかのように、小泉政権時代の2005年に神社本庁が公表した国政選挙での候補者支援条件には、①皇室の伝統の尊重②改憲論議の推進③教育基本法の改正④安保・領土問題の解決⑤戦没者追悼新施設の建設反対⑥夫婦別姓への反対など、冷戦終結後の1990年代に隆起した新国粋主義のアジェンダが広く網羅されている。
 注目されるのは、⑤の戦没者追悼施設新設への反対、すなわち靖國神社への戦犯者合祀を支持することで、靖國神社との連携も図られていることである。戦前の国家神道における象徴的な宗教施設であった靖國神社は戦後も存続を許されたが、神社本庁に属さない単立の特殊な宗教法人とされる一方で、神社本庁側が靖國神社崇敬奉賛会に加入する形でクロスしている。
 この靖國神社崇敬奉賛会は靖國神社を支持する準政治的な組織として1998年に設立され、それ自身が独自のアジェンダを擁する靖國神社の政治的影響力拡大に一役買ってきた組織であるが、神社本庁も法人会員としてこれに加わることで、一体となって靖國神社に力を貸している。
 こうした議会神道の力をいっそう決定づけたのは、2012年の安倍政権の成立である。この政権はトップの安倍首相自身が神道政治連盟国会議員懇談会の会長職を務める、まさに神道と政治をつなぐ結節点にある人物であり、閣僚にも同懇談会メンバーが多数起用されてきた「神道政権」である。
 近代内閣史上最長政権となることも見込まれる安倍政権下で、議会神道は最盛期を迎えたとも言える。そうした中、上記「支援条件」の形で示されたアジェンダの中でも最もハードルの高い改憲が視野に入ってきている。
 ここでの神道界の最大関心事は、戦後憲法の柱の一つであり、国家神道の復活にとっての桎梏でもある政教分離原則の排除である。これによって神道を事実上の国教として再興することも可能となるからである。実際、神社本庁は世俗の改憲推進団体と連携しつつ、加盟神社境内で改憲署名活動を展開するなどの動きを見せているが、これについては神道界内部からの批判も提起されている。
 また神社本庁自身内紛・脱退問題を抱えるほか、神社本庁に属さない神道団体との緊張関係など、宗教全般に見られがちな分裂にも見舞われており、神道界が文字どおりに一枚岩となって議会神道を推進しているわけではないが、全般的に見て、神道と政治が戦後史上最も近接しているのが現時点と言えるであろう。

アフリカ黒人の軌跡(連載第30回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人


シエラレオーネとライベリア

 19世紀に入り、イギリスを起点に奴隷貿易及び奴隷制廃止の流れが生じる中、西アフリカに二つの特異な植民地が設定された。今日ではそれぞれ独立国として存在しているシエラレオーネとライベリアである。*ライベリアは日本では「リベリア」と表記することが慣例化し、筆者も従来これに従ってきたが、本稿では正規発音に近い「ライベリア」と表記する。
 この両植民地が特異なのは、いずれも白人が征服植民地ではなく、反対に解放された黒人奴隷をアフリカに帰還させる形で「黒人植民地」として成立した点である。奴隷貿易・奴隷制廃止の潮流の中で、解放された黒人奴隷をアフリカへ送り返すという奴隷貿易とは逆の流れが生じたのである。
 このうちシエラレオーネは、イギリスの奴隷解放運動家グランヴィル・シャープが提案して最初の入植者を送り出すが、現地の先住部族テムネ人との衝突や風土病のマラリアなどの蔓延により失敗した。何度かの失敗の後、1792年、現在シエラレオーネの首都でもあるフリータウンが建設され、以後、「自由の町」を意味するこの地が英領西インド諸島やカナダからの解放奴隷の入植地として発展する。
 フリータウンは1808年以降、正式にイギリス領植民地となり、奴隷貿易取締りの拠点ともなる。この地に入植した解放奴隷たちは現地先住民と通婚しつつ、クリオと呼ばれる支配的勢力に成長し、その領域をフリータウンから今日のシエラレオーネを構成する広域に広げていったのである。
 一方、シエラレオーネの東で隣接するライベリアは、アメリカからの解放奴隷の入植地として建設された。アメリカでも19世紀に入ると、奴隷制廃止運動が隆盛化するが、そうした中で、シエラレオーネを参考に、西アフリカへ解放奴隷を帰還させるプロジェクトがアメリカ植民協会を中心に立ち上がる。
 その経緯については、すでに先行連載『ハイチとリベリア』の中で詳述したので(拙稿参照)、繰り返しは避けるが、シエラレオーネとの大きな相違点として、ライベリアは1847年にアフリカ大陸初の共和政国家として独立したことがある。これはライベリアの支配勢力となった解放奴隷アメリコ・ライベリアンがその名のとおり、思想的にも故地アメリカ合衆国の強い影響を受けていたためでもある。
 経緯や思想に違いはあれ、両植民地の支配勢力となった解放奴隷とその子孫集団は、人口構成上10パーセントにも満たない少数派ながら、それぞれの地で長く政治経済を掌握する支配勢力に上ったが、このような少数支配体制は後々、従属下に置かれた先住黒人諸部族からのある種階級闘争を惹起することになっただろう。

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第15回)

17 アンドリュー・ジョンソン(1808年‐1875年)

 
 リンカーン大統領暗殺という衝撃的な事件の後、第17代大統領に昇格したのは当時の副大統領アンドリュー・ジョンソンであった。ジョンソンはノースカロライナ州の貧しい労働者階級出自で、いわゆる「プア・ホワイト」から立身した人物である。
 当時の習慣に従い、ジョンソンは正規の教育を受けず、10代から労働者として働いた。しかし、移住先のテネシー州で仕立て屋として小さな成功を収めた後、若干21歳にして地元グリーンビル市議会議員に当選したことを皮切りに政界に身を投じ、1850年代までに連邦両院の議員やテネシー州知事なども歴任した典型的な職業政治家として成功する。
 ジョンソンが政治的地盤としたテネシー州は南北戦争においては南部連合に参加したが、ジョンソン自身は南部連合に反対する連邦残留派に属していた。当時テネシー州選出上院議員だったジョンソンは、南部連合諸州選出上院議員のうちただ一人辞職しないという気骨も示したのであった。
 このように南部出身ながら合衆国の分裂に反対する姿勢は、当時のリンカーン大統領にとっては都合のよい人材と映った。そこで、二期目を目指すリンカーンは国民統一党名義―実態は共和党―で戦った1864年大統領選で、民主党員のジョンソンを副大統領候補に抜擢、当選後ジョンソンは第二次リンカーン政権の副大統領に就任した。
 そして翌年、リンカーンが凶弾に倒れると、大統領のお鉢が回ってきたというわけである。しかし、ジョンソンは連邦残留派とはいえ、南部出身の奴隷制護持派という点では、リンカーンとは明確な一線を画していた。そのため、リンカーン大統領から引き継いだ南北戦争の戦後再建策(リコンストラクション)においても、南部に対しては微温的な対応に終始したのである。
 具体的には、解放奴隷に公民権を付与する憲法修正14条に反対しつつ、解放奴隷の処遇を州の判断に委ね、南軍指導者の恩赦を積極的に行なった。これに対しては、南部の占領統治を主導していた共和党強硬派から強い反発を受けた。当時強硬派は議会で多数派を握っていたことから、ジョンソン大統領の拒否権発動が多発し、議会との対立は頂点に達した。
 そうした中、ジョンソンが不仲の陸軍長官を罷免したことが連邦法に違反するという理由で、史上初めて弾劾裁判にかけられる羽目になったが、審理を担当する上院でわずか一票の僅差で無罪となり、大統領の地位は保全された。
 こうしてどうにかリンカーン前大統領の残り任期を全うしたジョンソンであるが、二期目を目指した1868年大統領選では古巣の民主党から出馬したものの、予備選挙で敗退し、再選の望みは絶たれた。
 この予備選は「ここは白人の国だ、白人に統治させよ」という露骨に人種差別的なスローガンを掲げた当時の民主党の立ち位置を示す選挙となったところ、奴隷制支持者とはいえ、リンカーン政権の副大統領を務めたジョンソンは、南部に地盤のある民主党にとっては裏切り者と映じたのであろう。
 しかし、この後も、ジョンソンは国政への執念を捨てず、連邦議員への返り咲きを何度か試みた後、1875年に連邦上院議員への当選を果たし、大統領経験者としては至上唯一の連邦上院議員となるが、皮肉にも、その年の夏、体調を崩して急死した。
 こうして、ジョンソンは前任の“偉人”リンカーン大統領の影に隠れ、およそ100年後、暗殺されたケネディ大統領を引き継いだ奇しくも同名の大統領以上に目立たず、かつリンカーンとは異なり、奴隷制廃止に抵抗したことで歴史に悪名を残すこととなった。

神道と政治―史的総覧(連載第24回)

八 議会神道の時代


議会神道への道

 連合国軍による占領下、「神道指令」によって国家神道が禁じられる中で、神道界の統一団体として設立されたのが神社本庁であったが、1952年の占領終了と日本の主権回復は、神道界にとっての重要なエポックとなった。
 神社本庁は占領終了から四年後の1956年、「敬神生活の綱領」(以下、単に「綱領」という)と題する簡潔な文書を発した。「神道は天地悠久の大道であって、崇高なる精神を培ひ、太平を開くの基である」の宣言に始まる「綱領」は、明治維新後の「大教宣布の詔」とも内容的に重なるような神道復興宣言であった。
 ただ、その法的性質は、天皇の詔勅ではなく、あくまでも民間宗教法人の公式文書にすぎなかったから、「綱領」の発布=国家神道の復活ということにはならない。とはいえ、神道界の包括宗教法人という地位を持つ神社本庁の公式綱領文書であり、これが神道の政治力回復への重要な契機となったことも否定できない。
 実は神社本庁は早くも占領終了の翌年1953年、戦前内務・文部両官僚を歴任した初代事務総長・宮川宗徳を参議院選挙の候補者に擁立したが、落選に終わっている。
 この後、政界進出の動きはしばらく停滞するも、1969年、神社本庁の政治団体として「神道政治連盟」(以下、単に「連盟」という)を結成、各回の国会議員選挙で神道界を代弁する候補者の推薦と支援を行なう方針を決めた。
 「連盟」自体は政党ではないので、神道系政党が結党されたわけではなかったが、その綱領第一項で「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」と宣言する「連盟」は、戦後憲法の政教分離原則を事実上否認し、議会政治を通じ国家神道を新たな形で復権させるに等しい任務を帯びた団体であった。
 神職を候補者に立てるという直接参加的な当初の方針を転換し、外部候補者を広く見定めた結果として、「連盟」が推薦・支援する候補者はほぼ保守系、その大半は自由民主党(自民党)の候補者で占められることとなり、「連盟」と自民党の関係性は極めて密となった。
 「議会神道」と呼ぶべきこの新戦略は的中し、やがて「連盟」推薦議員の増加により300名近くの所属議員を擁する「神道政治連盟国会議員懇談会」なる超党派―実態はほぼ自民党系―議員団の結成にまで至るのである。

アフリカ黒人の軌跡(連載第29回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人


アメリカ奴隷制廃止運動と黒人

 アメリカの黒人奴隷は南部では人口の相当部分を占めていたとはいえ、少数派であることに変わりなく、ハイチのように革命的決起を可能にするような条件はなかった。そのため、ハイチ革命の影響が及ぶこともなく、19世紀の奴隷制廃止運動において必ずしも主体的役割を果たしていない。
 とはいえ、18世紀から裁判を通じて自由を勝ち取ろうとする奴隷が存在したことがアメリカの特徴である。その先駆けとして、マサチューセッツの黒人奴隷クウォク・ウォーカーがいる。ガーナ出自の奴隷二世と見られる彼は、1780年のマサチューセッツ憲法の文言「人は生まれながらにして自由かつ平等」を根拠に奴隷からの解放を訴えて勝訴、同州をアメリカ合衆国最初の奴隷制廃止州とするうえで貢献した。
 しかし、連邦のレベルで同様に解放を求めて提訴したドレッド・スコットは成功しなかった。彼は奴隷制廃止州へ転居し、自由身分となって同じ奴隷出身の女性と結婚しようとしたが、1857年、連邦最高裁判所は多数決をもって彼の解放を否定した。多数意見は奴隷制廃止州へ移転しても、奴隷は解放されず、黒人がアメリカ市民となることはできないとして、奴隷制護持に軍配を上げたのだった。
 他方、カリブ海域の奴隷たちのように、武器を取って反乱を起こす奴隷も見られた。あまり知られていないことだが、18世紀初頭のニューヨークでの奴隷反乱を皮切りに、19世紀半ばにかけて、未遂を含めた奴隷の反乱事件はアメリカでも300件近く起きていた。
 南部奴隷州の代表であるバージニア州では1800年、未遂に終わったガブリエルの反乱があった。ガブリエルは読み書きのできる鍛冶職人であり、仲間を集めて決起を企てたが、事前に計画が露見し、逮捕処刑された。これを機に、州当局は奴隷の解放を制限し、奴隷の教育を禁ずる反動的法律を制定、奴隷制を強化した。
 こうした抑圧の中で発生したのが、1831年のナット・ターナーの反乱である。決起に成功し、多数の白人を殺害したこの反乱については、別連載『奴隷の世界歴史』の中でも言及したが(拙稿参照)、この流血事態をもってしても奴隷制は動かなかった。
 例外的に、言論活動を通じて奴隷制廃止を訴えたのがフレデリック・ダグラスである。メリーランド州の奴隷だった彼は主人から密かに授けられた読み書き能力を元手に北部へ逃亡後、奴隷制廃止運動家となり、南北戦争から奴隷解放宣言までを見届けた。
 その後、ダグラスは連邦保安官や駐ハイチ総領事などの公職を歴任、泡沫政党ながら平等権党から黒人系では史上初めての副大統領候補に指名されるなど、奴隷出身者としては異例の経歴を積んだ。
 ダグラスと同年代の女性活動家として、ハリエット・タブマンも特筆すべき存在である。彼女もメリーランド州の奴隷として生まれ、奴隷を南部から北部の奴隷制廃止州へ逃す運動であったいわゆる「地下鉄道」を通じて北部へ逃れ、後に自らも地下鉄道の支援者として活躍した。
 彼女はまた南北戦争に従軍看護師兼北軍スパイとして参加し、北軍の勝利に貢献している。戦後は女性の権利運動家としても活躍を見せ、2020年には史上初めて、黒人系としてドル札紙幣の表面に肖像が印刷される予定となっている。

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第14回)

16 エイブラハム・リンカーン(1809年‐1865年)

 
 アメリカ大統領史上最も高名な人物と言えば、第16代リンカーンであろう。偉人伝の代表的な素材であり、筆者もかつて子供向け偉人伝を読んだ記憶がある。中でも画期的な「奴隷解放」の立役者として内外で尊敬されてきた人物である。その一般的な伝記ならば、もう十分すぎるくらいに公刊されてきたので、改めて紹介することは避け、ここではリンカーンという人物は果たしてさほど「偉人」だったのかどうかを検証したい。
 リンカーンが偉人視されてきた最大の功績とされるのが、奴隷解放宣言である。しかし、彼は一貫して奴隷制廃止論者だったわけではない。彼は法曹界から初めて政界に出た1830年代、イリノイ州下院議員の時代には、奴隷制と奴隷制廃止のいずれにも反対し、単に奴隷制拡大にのみ反対するという中道的な立ち位置を取った。
 このような中庸な―悪く言えば半端な―立場こそが、リンカーンの原点であったのだ。その後も、長くリンカーンの中道的立場は変わっていない。実際、彼は共和党から1860年大統領選挙に立候補し、当選した後も、奴隷制の全廃を宣言することは避けた。
 とはいえ、南部の奴隷制諸州では、北部に基盤を持ち、反奴隷制を掲げて1854年に発足した共和党の候補者が初めて大統領に当選したことに危機感を強めた。それは、リンカーンが就任演説で「奴隷制度が施行されている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない。私にはそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたいという意思もない。」と確約しても、信用しないほど強いものであった。
 すでにリンカーン就任前から南北の分裂は不可避なものとなっていたとはいえ、リンカーン共和党政権の発足は分裂を決定づけ、南部諸州の連邦離脱を食い止めることはできなかった。他方、南部の離脱を容認しないリンカーンは武力による制圧を決断する。
 こうして始まった南北戦争渦中で発せられたのが有名な奴隷解放宣言であるが、実はこの期に至っても、リンカーン自身は奴隷制廃止論者ではなかった。宣言を発したのは、南部奴隷の反乱やボイコットを誘発して南軍を弱体化させるという戦略的な意図に基づくものにすぎなかったのだ。
 事実、この宣言は南部諸州の奴隷の解放のみに焦点を当て、実は北部にも存在した奴隷制存置州には適用されないという非対称な仕掛けになっていた。けれども、歴史の流れはリンカーンの思惑を超えて進行し、彼が再選を果たした後の1865年には憲法修正13条の制定により、奴隷制は全米で廃止されることとなった。
 こうしてリンカーンは歴史を変えた「偉人」となるのであるが、南北戦争中は、抑圧者としての顔を覗かせ、孤島アルカトラズ島要塞を苛烈な軍事刑務所として使い、ここに南部連合派の政治犯を拘禁した。自由の擁護を改めて誓った有名なゲティスバーグ演説は、アルカトラズ島には届かなかった。
 リンカーンが知られざる抑圧者の顔を決定的に露にしたのは、対先住民政策である。リンカーンは大統領就任前の50年代に「白人の優越性を疑わない」と発言しているように、実のところ人種平等主義者ではなかった。従って、黒人奴隷制廃止に踏み切っても、先住民の人権について再考することはなかった。
 実際、彼は数々の先住民排除政策を施行している。西部領土の拡大―すなわち先住民居住圏の剥奪―にも積極的で、1862年に署名したホームステッド法に基づき、先住民を保留地へ強制移住させたほか、先住民の暴動に対する大量処刑も躊躇しなかった。
 彼の先住民政策における暗黒面については、すでに『赤のアメリカ史』で詳述したので(拙稿参照)、その“罪状”は繰り返さないが、ゲティスバーグ演説で「人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させない」決意を表明したリンカーンが、先住民の地上からの絶滅を容認していたことは確実である。
 しかし、リンカーンは二期目途中の1865年、南部連合を支持する暗殺者グループの凶弾に倒れ、アメリカ史上最初の暗殺された大統領となったことで、「偉人」を越えて「聖人」に近い偶像にまで高められたのである。同時に、リンカーン暗殺は100年後のケネディ大統領やキング牧師、マルコム・Xなど、およそ黒人解放に関わったキーマンがいずれも凶弾に倒れるというアメリカ暗黒史の始まりでもあった。

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