ザ・コミュニストα

連載論文&時評ブログ

ブログという手段を通じて新たな知の地平を開拓せんとする社会思想家・ブロガーです。

共産主義生活百科(連載第10回)

§9 労働と余暇

 
 自由な共産主義社会では義務教育課程を修了すると、ひとまず全員が就職し、初めての労働を経験することになりますが、自由な共産主義社会における労働の最大の特徴は完全無償であるということです。つまり、賃金やそれに代替するような報酬というものがなく、完全ボランティア労働です。 
 もっとも、ボーナス的な意味合いを持つ景品として衣食住に供される物品が支給されることはありますが、そういったボーナス景品をいつどのような形で出すかどうかはそれぞれの職場の裁量に委ねられています。
 このように無償のボランティア労働を基本とする社会では、働く動機は暮らしに必要な資金を得るためではなく、純粋にその仕事をしたいという意欲そのものが動機付けとなります。そのためにも、前に触れたような義務教育課程での職業導入教育や職業紹介所を通じた個別的で懇切な就職斡旋が重要になるのです。
 そのうえ、自由な共産主義社会における法令上の標準労働時間は4時間です。これは、資本主義社会で世界標準となっている8時間の半分です。要するに半日労働制でありまして、例えば午前に4時間働けば午後は労働から解放されるのです。

 
 このように自由な共産主義社会では、労働から解放された余暇が大幅に増え、生活設計の自由度が高まります。余暇を何に使うかは各自の自由です。勤勉な人なら余暇分を別の仕事に当てることも自由です。例えば午前は職場Xで4時間働き、午後は職場Yで4時間働くといった形で掛け持ちするのです。このような任意の兼業は法令上も就業規則上も禁止されません。
 ここでも、生活のためやむを得ずいくつもの仕事を掛け持ちでこなす必要に迫られているというのではなく、あくまでも掛け持ちしたい複数の仕事があるからということが動機付けとなります。
 逆に、すべてが無償のボランティア仕事なら一切働かないという選択も可能でしょうか。理屈としてはイエスです。というのも、後で改めて触れますように、貨幣経済によらない自由な共産主義社会の基本的な衣食住はすべて無償で成り立ち、生活のために貨幣を得る必要はないからです。
 とはいえ、農漁業だけで成り立つ完全自給自足社会でない限り、労働回避者が増えることは社会の崩壊につながります。ですから、労働は各人の責務であり、その責務を果たせるように職業導入教育や職業技能の習得・向上に資する生涯教育が充実しているわけです。

共産主義生活百科(連載第9回)

§8 就職

 
 前回、自由な共産主義社会では、義務教育課程を修了すれば、全員がひとまず就職すると申しました。一般義務教育は標準年限13か年であることも申しましたが、この年限はあくまでも標準であって、しかも一部教科を除いて原則通信制ですから、厳密に13か年で修了させる必要はなく、自分のペースで全課程を終えた時点で修了します。
 その結果、、義務教育修了年齢及び入職年齢も、各自まちまちになります。一斉卒業・一斉就職というような画一的な人生設計ではなくなるわけです。そこで生きてくるのが、前回見たように義務教育課程の中盤以降で実施される職業導入教育です。
 これによって義務教育課程終盤にはとりあえずの進路が決定されてきますから、進路を迷い続けていわゆるニート化する心配もなくなります。仮に迷うことがあっても、専門職の進路指導教員が一人一人面談して進路決定を助けますし、公設の職業紹介所と連携した就職斡旋も密に行われますから、ニート化の危険はありません。
 特例として、21歳までに義務教育課程を修了することができなかった場合、義務教育中途のまま、試験的な就職を斡旋する制度もあります。この場合も、中退扱いとはならず、就業と義務教育を両立させることが認められます。
 以上は、一般義務教育を修了した人の場合ですが、障碍者の場合も基本は同じです。ただ、障碍児の義務教育課程には標準年限そのものが存在しないため、義務教育課程中途での試験的就職もより柔軟に認められます。

 
 一方、前回も触れた医療者、法律家、教員などの高度専門職のほか、福祉やその他各種技能者のような公的職業資格・免許を要する専門技術職に就くには、その前提として3年から5年程度の就労経験を要します。そのうえで、所定の高度専門職学院(例えば医歯薬科学院、法科学院、教育学院等々)や各種専門技能学校に入学して専門教育を修了することが要件となります。
 また、アスリートやアーティストといったスポーツ・芸能分野のように、公的職業資格・免許は要しないものの、高度な特殊技能を要する専門職を目指す人向けにも、体育学校や芸術学校といった私立の専門技能学校が用意されていますが、スポーツ・芸能分野は仕事の性質上、それらの学校を卒業することが絶対的な要件となるわけではありません。
 いずれにしましても、これらの専門的職業教育を提供する学校は、広く言えば成人に対して新たな人生設計を可能とする生涯教育機関として位置づけられますが、自由な共産主義社会ではそうした生涯教育を通じた人生設計の自由が広く保障されることになるのです。

共産論(連載第9回)

第2章 共産主義社会の実際(一):生産


(2)貨幣支配から解放される:People atta
in liberation from reign of money.


◇交換価値からの解放

 前節では、共産主義社会の特質として、商品生産がなされないということを論じた。商品生産がなされないということは、商品交換がおおかた例外なく貨幣交換に収斂されている現代社会では、ほぼイコール貨幣制度の廃止と同義である
 ここで改めて驚倒する前に、貨幣制度の廃止とはいったいどんなことを意味するのかを考えてみたい。まず、それは我々が交換価値の観念から解放されることを意味する。
 例えば、10万円のパソコンがあったとする。この場合、そのパソコンには金10万円相当の交換価値が与えられていることになるが、このことはそのパソコンの性能(=使用価値)が真実10万円に値するかどうかとはひとまず別問題である。もしかすると、そのパソコンは頻繁に故障するような欠陥商品かもしれない。
 貨幣制度が廃止されるならば、そのパソコンにはもはや貨幣で評価される価値=価格はつかない代わりに、直接その性能いかんによって評価されるであろう。これは使用価値中心の世界である。
 もちろん資本主義社会でも、使用価値が一切不問に付されるわけではない。10万円の交換価値にふさわしい使用価値のない商品は売れないであろうし、使用価値のない欠陥商品をそうと知りながら偽って販売すれば詐欺罪に問われるだろう。それでも、資本主義にあっては交換価値が使用価値に優先するのであって、目当ての商品の使用価値を我々が利用したければ、ともかくいったんは交換価値相当額の貨幣と交換することが要求される。これは交換価値中心に回る世界である。
 商品経済があらゆる部面に貫徹されるに至った社会では、いかなる財・サービスを取得するにも交換価値相当額の貨幣を要求されるから、カネがなければそれこそおにぎり一個も購入できず餓死することもやむを得ない帰結として、慨嘆されつつも容認されるのである。反面では、この世はすべてカネしだい、カネさえあれば何でも買えるという魅惑的な浮世でもある。
 そこからまた、カネのためなら犯罪行為も辞さない人間も跡を絶たず、窃盗、強盗、詐欺のような財産犯罪はもちろん、殺人のような人身犯罪を含めたおよそ犯罪の大半に何らかの形でカネが絡んでいるのが、資本主義的世情である。


◇金融支配からの解放

 交換価値の表象手段となる貨幣というシステムはその本性上民主的ではないから、貨幣経済とは一種の専制体制である。そのような「貨幣的専制支配」が最も端的に現れるのが金融の領域である。
 貨幣そのものの資本的化身である金融資本は融資や投資を通じて資本主義経済全般の総設計師の役割を果たす一方で、そうした総帥的役割ゆえの横暴さが資本主義の歴史を通じて見られ、その無規律な行動がしばしば深刻な経済危機のきっかけを作ってもきた。
 2008年大不況の発端となった金融危機でも、人間が自ら作り出した複雑な金融システムを自ら制御できず、逆に人間が金融システムに支配され、破滅させられかねないフランケンシュタインさながらの姿がさらけ出されたのであった。
 貨幣制度の廃止は、銀行を中心とする金融資本を全面的に解体することになる点で、「貨幣的専制支配」からの解放を保証するのである。(※)
 このことは金融に起因する経済危機からの解放のみならず、より日常的な直接の帰結として、およそ借金からの解放をもたらす点において、多くの人々に朗報となるであろう。疑いもなく、借金は個人にとっても、企業体さらには国家や地方自治体のような公的セクターにとっても、破産を招く貨幣の最も恐ろしい形態だからである。
 借金は債権という法的形式をまとって、合法的な権力としても(=強制執行)、非合法な暴力としても(=暴力金融)発動される貨幣の最高の力として債務者を支配するがゆえに、恐ろしいのである。このような力からの地球全域での解放は、まさに地球人の共同利益に資するはずではないだろうか。


※金融資本のみを敵視して「金融資本主義」からの解放を一面的に主張する議論とは異なる。資本主義は金融資本を司令塔として運営されている経済システムであるから、金融=資本主義なのであって、「金融資本主義」は同語反復的である。


◇共産主義と社会主義の違い

 今日でもしばしば混同されている共産主義と社会主義の違いとは、ごく大雑把に言えば貨幣制度の有無にあると言ってさしつかえない。
 従来、社会主義は「平等な無階級社会」をめざすと宣伝していたが、貨幣はその本性上決して平等には行き渡らないものであるから―その意味でも貨幣システムは民主的ではない―、貨幣制度を維持する限り、その下での完全な所得・資産の均等化(均産化)はおよそ不可能なことなのである。
 従って、貨幣制度を廃止しないままの「社会主義」ではどのようにしても階級社会を根絶することなどできはしない。20世紀に社会主義の盟主だった旧ソ連にしても、しばしば誤解されるような「完全平等」が達成されていたわけでは全くなく、むしろすべての資本家にとっての究極的理想である出来高払いの成果主義賃金体系が構築されていたのであったし、共産党官僚特権に基づく各種役得(賄賂も含む)の介在により、一般労働者層と共産党官僚層との間には所得格差を含めた生活水準の格差が公然と発現していたのであって、その実態は端的に言って「社会主義的階級社会」と呼んでも過言でなかった。
 従って、旧ソ連社会を「完全平等社会」と事実誤認したうえで、そのような「平等」こそが旧ソ連体制の“活力”や“競争力”を喪失させ、資本主義陣営に敗北した要因であると分析するのは的を得ない。
 それと同時に、貨幣制度―より厳密には商品‐貨幣交換経済―が廃止される共産主義と、それがなお温存される社会主義とを同視・混同することも失当なのである。

弁証法の再生(連載第4回)

Ⅰ 問答法としての弁証法


(3)弁証法の第一次退潮期

 ソクラテスが真理に到達するための問答法として提起した弁証法は、弟子のプラトンに継受されていくが、プラトンにおいては、より緻密化され、対象を自然の本性に従って総合し、かつ解析していく「分析法」へと発展せられた。
 対象事物を微細に分割しつつ、その本性を解明しようとする分析という所為は、今日では諸科学において当然のごとくに実践されているが、プラトンにとって、こうした分析=弁証法こそが、もう一つの方法である幾何学と並び、事物の本性―イデア―に到達する思考手段であった。
 もっとも、プラトンにとってのイデアとは見られるものとしての幾何学的図形を典型としたから、弁証法より幾何学のほうに優位性が置かれていたと考えられる。このようなプラトンの分析=弁証法は、ソクラテスの問答=弁証法に比べると、問答という対話的要素が後退し、対象の本性を解明するための学術的な方法論へと一歩踏み出していることがわかる。
 このような弁証法のアカデミズム化をさらに大きく推進したのが、プラトンの弟子アリストテレスであった。彼は分析=弁証法という師の概念を弁証法自体にも適用することによって、いくつかの推論法パターンを分類したが、そのうちの一つが蓋然的な通念に基づく弁証法的推論というものであった。
 これは、社会において通念となっているために真理としての蓋然性が認められる概念に基づいた推論法ということであるが、その前提的出発概念である社会通念というものが必ずしも絶対的に真理性のあるものではなく、社会の多数によって共通認識とされていることで蓋然的に真理性が推定されるにすぎないから、推論法の中では第二次的な地位にとどまることとなった。
 アリストテレスの分類上、弁証法的推論法は、より不確かな前提から出発する論争的推論法よりは相対的に確実性の高い推論法ではあるのだが、彼にとっては、絶対的真理である前提から出発する論証的推論法こそが、最も確実な第一次的推論法なのであった。
 このような論証的推論法は、三段論法に象徴される「形式論理学」として定式化され、アリストテレス以降、哲学的思考法の中心に据えられ、西洋中世に至ると、大学における基礎的教養課程を成す自由七科の一つにまで定着した。
 こうして、「万学の祖」を冠されるアリストテレスにより弁証法が論証法(論理学)より劣位の第二次的な思考法に後退させられたことで、弁証法は長い閉塞の時代を迎える。これを、20世紀後半以降の現代における弁証法の退潮期と対比して、「弁証法の第一次退潮期」と呼ぶことができる。

共産論(連載第8回)

第2章 共産主義社会の実際(一):生産
Chapter 2  The Aspects of A Communist Society (1) :Production


共産主義社会ではおよそ商品生産が廃止される。その結果、我々の生活はどう変わるのか。また共産主義社会における生産活動はどのように行われるのか。


(1)商品生産はなされない:There is no commodity production.


◇利潤追求より社会的協力

 マルクスは有名な『資本論』第一巻の書き出しで、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は一個の「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品はその富の基本形態として現れる」と資本主義社会の特質を的確に描写している。
 たしかに、資本主義社会の主役は人間でなく、商品である。周知のとおり、おにぎりからケータイ、クルマ、住宅に電気、水道、ガス、さらには医療、福祉、果ては性に至るまで、ありとあらゆる財・サービスが商品として生産され、販売され、人間は商品に大きく依存して生きているのが資本主義社会の現実である。
 これに対して、共産主義社会ではこのような商品としての財・サービスの生産がなされないのである。なぜか。それは、前章で先取りして述べたように、共産主義とは社会的協力すなわち助け合いの社会だからである。
 商品という形態での財・サービスの生産は、第一義的には商品を生産する資本家がそれらを販売して貨幣に変え、富を蓄積するために行われているのであって、その実践は本質的に商業活動である。
 もっとも、商業活動の内にも助け合いという要素は認められる。例えば自動車を生産・販売する資本家は自動車を欲している他者のために生産・販売しているのであり、自動車部品を製造・納入する資本家は自動車生産に不可欠な部品を自動車生産資本家のために製造・納入している。一方、これらの資本家の下で働く労働者は資本家のために労務を提供し、見返りに資本家は賃金を支払って労働者の生活を支えているはず―近年は怪しくなってはいるが―である。
 とはいえ、資本主義的な生産サイクルの中では日頃、こうした利他的相互扶助の関係はほとんど意識に上らず、ただそのサイクルを流れる商品と貨幣のことだけが意識されているのである。言い換えれば、資本主義社会とは、第一義的に利潤追求=金儲けの社会であって、ようやく第二義として社会的協力=助け合いの要素が現れるという特徴を持っている。
 してみると、共産主義社会とは資本主義社会にあっては第二義的でしかない社会的協力という要素を表に引っ張り出してくるだけのことだとも言える。その結果、どういうことが起こるだろうか。


◇無償供給の社会

 一番重要な変化は、あらゆる財・サービスが商品ではなく、「モノ自体」として生産・供給される結果、それらがすべて無償で、つまりタダで取得できるようになることである。
 このことは、現代人にとっては一つの文化革命と呼ぶに値する激変であろう。おにぎり一個の取得にすら交換手段としての貨幣を必要とする我々は、あらゆるモノをタダで取得できることに後ろめたさをすら覚えるかもしれない。
 冷静な人ならば、そうなると財・サービスの供給が統制的な配給制になるのではないかという懸念を持つかもしれない。たしかに日常必需的な消費財に関しては、後で再び論じるように、独り占めや需要者殺到を防ぐために取得数量の制限をする必要があり、その限りで一種の配給制的なシステムとなるであろう。
 しかし、資本主義の下でも、我々の財布の容量によって事実上の取得制限は日々生じているのであるし、品不足が生じた場合は殺到による品切れ防止策も必要であり、この点では相対的な差にすぎないとも言えよう。
 一方で、例えばマイカーのような物になると、共産主義の下では画一的な量産体制から需要者による個別的な注文生産の形に変わり、需要者の好みの型や色、デザインに応じた職人的な生産方式が可能となるであろう。
 それに対して各種事業所や交通機関などの業務に供せられる事業用自動車については、後述する経済計画に従い量産体制が採られつつ、やはり無償で納入・更新されていく。同じことは、例えば自動車生産工場で使われる機械設備のような生産財の生産・供給についても妥当する。


◇文明史的問い

 このように、共産主義的生産体制の下では、生産される財・サービスからその商品形態が剥ぎ取られ、およそ貨幣交換に供せられることがなくなるため―部分的には個人間での物々交換の慣習は残存するであろうが―、商取引が消失し、商業活動全般が(原則的に)廃される。その代わりに、言わば「巨大な社会的協力」のシステムが立ち現れるのである。
 ここで、一つの文明史的疑問が提起されるかもしれない。すなわち商取引は資本主義以前の先史時代から人類が営々と継続してきた活動であるのに、それを人為的に全廃してしまうことなど可能であろうか、と。
 おそらく、これはマルクスよりもブローデルが提起した資本主義の文明史的基層を成す「物質文明」という視座に関わる問いであろう。本論考でこの遠大な問いに正面から取り組む余裕はないが、ここではやはり生態学的持続可能性という人類社会の存立条件を巡る基本的認識が、この問いに対する回答を左右するであろうということだけを指摘するにとどめておく。

共産論(連載第7回)

第1章 資本主義の限界


(5)共産主義は怖くない:You need not be afraid of communism.


◇二方向の限界克服法

  これまでの叙述の中で、集産主義に対して「勝利」した資本主義は暴走などしていないし崩壊もしていないものの、いくつかの重大な点で限界に達している、と論じてきた。この資本主義的限界を乗り超える方法としては、大きく二つの方向性が考えられる。
 一つは、資本主義の枠内で上述の限界を克服しようとする方向である。これを医療にたとえて言えば、資本主義の限界に対する内科的療法である。
 かつて風靡した福祉国家モデルも、資本主義を原理的に貫いていったときに発生する労働者階級の窮乏化を防止するために、資本主義の枠内で公的年金・保険のような生活保障制度を充実させる有力な内科的療法であった。
 しかし、福祉国家モデルは第一の根源的な限界として指摘した環境的持続性に関わる限界への対策とは元来無縁であるし、当該モデル自体も多くの諸国で財政的に揺らぎ始め、それ自身の「持続可能性」に黄信号がともっているが、今のところ、福祉国家モデルに代替し得る新たな内科的療法はまだ発見されていない。
 この点に関して近年、国家が税財源その他の国庫収入を引き当てとして全市民を対象に一律に一定金額を基礎的生活費として給付することを主旨とするベーシック・インカム(Basic Income:以下、BIと略す。)という制度構想が提唱され、一部の国では試行され始めている
 従来の福祉国家が稼得に関しては「自助努力」を原則としつつ、失業や老齢、疾病など一定の事由が生じた場合にのみ国家が所得保障を行うのに対し、BIではそうした特別の事由のいかんを問わず、国家が一律的に全市民に定額の基礎的所得を保障する点で福祉国家モデルを超える「究極の生活保障制度」として宣伝されることもある。
 この究極の大盤振る舞いにはそれに必要な巨額財源を調達するために歴史的な大増税が欠かせないという問題があることは当然としても、資本主義の生活憲章とも言うべき一つの大法則に抵触してしまうという原理的な次元での問題もある。
 資本主義的生活憲章とは、「稼げ、然らずんば死ね!」である。すなわち資本主義的生活原理とは稼働能力ある限り、基礎的所得も含めてすべて自ら稼ぎ出さねばならない―利子や賃料のような不労所得がある場合などを除いて―ということにあるのだ。
 逆に言えば、資本主義とは稼得、つまりはカネを稼ぐ能力がすべてという主義なのである。よって、ひとはこの能力さえあれば自力で豊かな暮らしを享受することができるが、そうでなければいかに人格高潔・博学博識であろうとどん底生活、さらには餓死さえも甘受しなければならない・・・。
 それに対して、BIは稼ぐ能力を公的な最低所得保障で下支えしてやろうという思いやりの制度ではあるのだが、計算高い資本の側では、BIによる最低所得保障を口実に「便乗賃下げ」や「便乗リストラ」といった戦術を用意している―だからこそ、BIには経営者層の一部も同調している―ことも忘れることはできない。
 またBIの財源としても、「全ブルジョワ階級の共通事務を司る委員会」(マルクス)であるところの資本主義国家は、資本の税負担を増す法人増税のような「企業増税」ではなく、消費増税や所得増税―それも高所得者層の負担を増す累進課税強化でなく、低所得者層の負担を増す非課税条件の引き下げによる―のような「庶民増税」でかかってくることは確実である。してみると、BIが福祉国家モデルに代わる究極の内科的療法であるかは極めて疑わしい。
 さて、以上に対して、資本主義的限界を克服するもう一つの方向として、ここでの主題である共産主義が出てくる。これは資本主義システムそのものを根本的に切除しようという意味で、資本主義の限界に対する外科的療法と言えよう。
 歴史上、人類は様々な経済システムを試行してきて現時点では資本主義経済にほぼ落ち着いているように見えるが、まだ一度も試されたことのないシステム―考古学仮説上の「原始共産制」は別としても―、それが共産主義である。


◇共産主義のイメージ

 共産主義への移行などと聞けば、所有権の剥奪とか、画一的統制社会等々の悪いイメージが先行し、果ては旧ソ連のスターリンによる大粛清や世界を震撼させたカンボジアのクメール・ルージュ(カンプチア共産党)による大虐殺などを持ち出してネガティブ・キャンペーンが始まりかねない。
 しかし、真の共産主義は個人の所有物を一切合財接収したりはしないし、統制社会云々というのも共産主義とソ連型社会主義=集産主義とを意図的に、もしくは誤解に基づいて混同するものである。
 共産主義社会は、たしかに平等な社会である。しかし、その「平等」とは基本的な衣食住の充足に関する平等である。すなわち貨幣のような特殊な交換手段を持たなくとも、誰もが基本的な衣食住を充たすことができるように協力し合う社会である。そのような社会を「画一的」として断固拒絶する人がさほど多いとは思えない。
 共産主義社会とはそうした社会的協力、つまりは助け合いの社会である。従って、偽りでなく真正の共産主義社会ならば粛清や虐殺のような強制的排除が起こるはずもない。そのような暴力的排除政策は、正しい意味における共産主義ではなく、政治的な全体主義と結びついた集産主義の行き着く先だったのである。
 共産主義にまつわる否定的なイメージは、そのほとんどが東西冷戦時代、主として米国を盟主とする西側陣営で流布された反共プロパガンダの名残であって、それらが冷戦終結・ソ連邦解体後の今日でも必要に応じて古いアーカイブから時折取り出されてくるにすぎない。
 ここでは、そうしたプロパガンダに惑わされることなく、今後、21世紀半ばへ向けてますますあらわになるであろう資本主義の限界を直視しつつ、資本主義の次に来たるべき共産主義を、単なる社会思想としてでなく、資本主義的現実と対比させながら、より具体的・実践的な姿においてとらえてみたい。この課題を、続く六つの章で順次追求していくことにする。

共産論(連載第6回)

第1章 資本主義の限界


(4)資本主義は限界に達している:Capitalism has been reaching its limitations.


◇四つの限界

 資本主義が容易に崩壊するようなことはないであろうと予測することは、資本主義が何らの限界も抱えておらず、永遠不滅であると無条件に楽観することを意味していない。むしろ資本主義は今日、少なくとも次の四つの重大な点で決定的な限界を露呈していると考えられる。


限界(一):環境的持続性

 最も根源的な限界は、資本主義的生産体制を続けている限り、人間社会の存続条件そのものを成す地球環境(生態系)が持続しないということにある。
 とりわけ「地球温暖化」は過去の気候変動とは異なり、産業革命以来の資本主義的生産活動の結果、温室効果ガスの増量によって引き起こされたものと理解されている。
 それはとりもなおさず、西欧、北米、日本などの先発資本主義諸国が繰り広げた資本主義的経済成長の「宴のあと」でもあるのだ。今また、中国を筆頭にインド、さらに資本主義へ「復帰」したロシアや東欧、天然資源を武器に遅ればせながらグローバル資本主義へ参入しつつある人口爆発中のアフリカ大陸も加わり、資本主義的経済成長の波が地球全域で起きようとしている。
 西欧、北米、日本の10億に満たない人々が繰り広げた資本主義の宴によっても地球環境は十分に損傷されたのであるから、仮に地球の残りのすべての諸国が同じことを繰り返したら地球環境はどれだけ損傷するのか―。これはまったく未知の恐怖である。
 そうしたことはすでにある程度意識されているからこそ、グローバル資本主義の時代には、同時に地球環境問題がかつてないほど強力に提起されてきたのであるが、温室効果ガスの排出規制問題に象徴されるように、すでに一定の発展段階に到達している先発諸国とその後を追い、追い越そうという野心的な新興諸国の利害は鋭く対立しがちである。
 新興諸国にとっては増大していく生産活動の桎梏となりかねない環境規制を回避したいのは当然であろう。しかし、事情は先発諸国の総資本にとっても同様であり、元来資本主義は資本蓄積を自己目的とする「量の経済」であるから、生産量に歯止めをかけられたり、コストのかかる生産方法を強制されたりするような規制に対しては、どんな名目があろうとも拒絶的である。かくして環境規制と資本主義は本質的に衝突せざるを得ない。
 もっとも従来の地球環境論議はいわゆる地球温暖化問題に偏向しすぎるきらいはあったが、現代社会が当面する地球環境問題はそれに限らず、大気、水、土壌、酸性雨、森林、自然環境、各種有害物質、放射線防護、生物多様性等々、多岐にわたっており、それら目白押しの課題を総合的かつ相互連関的に考慮しながら、単なるスローガンにとどまらない具体的な数値規準を立てて対応していかなくてはならない時期に来ている。
 そのためには数値的な環境規準を適用しつつ、生産方法のみならず生産量にも直接に踏み込んで規制する生態学的に持続可能な計画経済(生態学上持続可能的計画経済)を、まさしく地球的な規模で導入する必要がある。
 しかし、このようなことは各国各資本が個別的な経営計画に基づいて競争的に生産活動を展開する資本主義的生産様式を維持する限り不可能であり、せいぜい環境税の賦課のような間接的規制にとどまらざるを得ない。それですら、経済界の抵抗で実現しない国も少なくない。ここに人類の滅亡というそれこそ黙示録的預言さえ必ずしも大げさとは言い切れない、資本主義の限界が露呈しているのである。


◇限界(二):技術の総革新

 19世紀以降における資本主義の発達の輝かしい成果として、科学技術や情報技術など、様々な技術の革新がしばしば喧伝されてきた。たしかに、その事実を否定することはできない。しかし、資本主義が後押しする技術は、すべて資本企業の利潤拡大に寄与するものに限られる。平たく言えば、金儲けの手段となるような技術の革新である。
 従って、技術のアイデアそのものは秀逸であっても、開発や製品化に多額のコストがかかるもの、あるいは当該技術の受益者、従って購買者が少数者にとどまるもの(例えば、障碍者)などは資本主義的技術革新から取り残されてしまうのである。
 20世紀後半期以降の情報技術の発達が賛美されるが、実際のところ、21世紀に入って頭打ちとなり、既存技術の継続改良的なものにとどまっているのも、アイデアの宝庫である情報技術分野では、コスト問題や製品市場の規模などの面で技術開発が限界に直面しているからにほかならない。
 同様に、再生可能エネルギー技術や環境負荷の低い製品開発なども、スローガンとしては謳われながら、コストと利潤を優先する資本主義体制ではめざましい進展を見せることはなく、頭打ちとなっている。
 一方で、受益者が限られていながら、高度な利潤を狙える技術であれば、反人倫的なものでも革新が進められていく。その最たるものが、ハイテク兵器の開発である。ハイテク兵器の購買者はほぼ主権国家に限られているが、地上で最大規模の購買力を持つ国家を顧客とするため、一器当たりの利潤も最大規模の高額商品として、ハイテク兵器は資本主義的技術開発の最先端を行っているのである。
 結局のところ、資本主義的技術革新は、専ら金儲けのためには年々進展していきながら、人類史的に見た技術革新総体としては、停滞を余儀なくされていると言えよう。


限界(三):生活の安定性

 近年、新自由主義=資本自由主義政策の結果として所得格差が拡大したことが、しばしば声高に非難される。しかし問題は「格差」そのものにあるのではない。人間はたとえ天文学的な所得格差があろうともそれなりに安定して生活することができるならば、さほど不満を持たないものである。このことから、所得格差の大きな米国で従来、プロレタリア革命が発生しなかった理由の一端が説明できるかもしれない。
 ところが、資本主義のグローバル化は格差以上に生活の不安定さを高めてきている。それは元来計画経済を忌避する資本主義につきものの景気循環がグローバル資本主義の下ではまさしくグローバルな規模で連鎖的に継起し、各国一般大衆の生活を直撃するからである。2008年の大不況はそのような生活不安のグローバル化の典型的かつ未曾有の事件であったと言えよう。
 こうした生活不安という大状況の内部に、雇用不安と老後不安が内包されている。元来グローバル化のはるか以前に経験済みであった電動機革命に加えて、グローバル化と重なりその原動力ともなった電算機革命は資本企業の生産性を総体として向上させ、かつてほど多くの労働力を必要としなくなった。また知識集約型産業の発展も、労働力の量的要求水準を低めている。
 そこへグローバルな競争に対応するための人件費節約の圧力が加わり、雇用は先細っていく。グローバル資本主義の下ではこうした雇用不安―不安定雇用をも含む広義の「不安」―を恒常的に伴った「雇用なき成長」という現象も一般化する。
 一方、大半の一般労働者にとって老後の主要な生活資金となる公的年金は高齢化率が低く、平均年齢も短かった時代の産物であるだけに、制定当初の予測を超える少子高齢化が進行し、かつ国家の財政危機が深刻化している時代には、その持続可能性に危険信号がともり始めている。しかも、保険料を納める資力にも事欠く低賃金労働者や長期失業者らは、当然将来の年金給付も低く、あるいは逸失する恐れもあり、老後の生活不安はいっそう深刻化するであろう。
 こうした生活不安の恒常化は、大衆の消費抑制にもつながり、販売不振による景気の長期低迷から慢性不況の要因ともなり、資本主義の体力を自ら弱めることになろう。


限界(四):人間の社会性

 資本主義は人間の利己主義的な側面を刺激し、特に貨幣への執着心をエートスとして自己を保持している。資本主義的経済競争とは、すべて貨幣獲得競争に集約される。ケインズが「社会への奉仕」をエートスとする共産主義と対比して、資本主義のエートスを「貨幣愛」に見ようとすることは、いささか図式的とはいえ一理ある。
 先述したように、ソ連邦解体以降、グローバル化の中で、資本主義が一種のイデオロギー化を来たすにつれ、人間の利己主義的な側面が積極的に賛美すらされ、利己主義の亡者が増殖している。一方で、資本主義が集産主義に対して勝利した最大のフィールドである消費生活の豊かさは、人間を個人的な消費単位に切り刻み、社会性を失った商品のとりこと化させている。
 概して人間全般が社会性を喪失してきており、それが社会的動物としての人間性の劣化を招いているのである。このことは、個人のレベルでは精神の幼稚化を促進する。社会性が未発達な利己主義人間は成人であっても小児のように世界は自分(me)を中心に回っていると認知する。このような〈自分〉の肥大化現象は、様々な現代的社会病理の根元に必ずと言ってよいほど絡んでいる。
 人間の社会性の喪失はまた、社会のレベルではまさに「社会」の解体、具体的には地域コミュニティの崩壊や家族関係の解体を促進し、それらがひいては個々人の社会的孤立化につながり、資本主義者の間でさえ「社会的絆」の回復を叫ばせるまでになっているのである。(※)

※ここで言うところの「社会性」とは、高度な協力・協働関係で成り立つ社会を構築できる人間の類としての社会性のことであり、個々人が社交的であるかないかといった個体としての性格的な社会性を意味しているのではない。

共産論(連載第5回)

第1章 資本主義の限界


(3)資本主義は崩壊しない:Capitalism might not collapse.


◇ケインズの箴言

 2008年の大不況は、それまでグローバル資本主義を散々もてはやしていた論者の間にすら「資本主義の崩壊」といった悲観論を巻き起こした。しかし、果たして「資本主義の崩壊」などというあたかも最後の審判のような事態が到来するのだろうか。
 この資本主義崩壊論は、『資本論』第一巻で「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る」という黙示録的預言を残したマルクスを彷彿とさせるものがあるが、このようなマルクスの神がかった物言いは「科学」を強調したマルクス理論の威信を落としかねないものであった。
 それよりも、「資本主義は、賢明に管理される限り、今まで見られたどの代替的経済組織よりも効率的なものにすることができる」というケインズの箴言のほうにより反証的説得力を認めるに足りる証拠がある。
 実際、大不況に際しても、当初は大恐慌に至るとの予測もあり、この世の終わりであるかのような騒然としたムードに包まれたが、主要国の政府・中央銀行による通貨供給などの緊急措置が迅速に講じられ、資本主義総本山・米国がタブーとも言える鉄則を破ってまで民間資本に対する公的資金の投入や事実上の国有化といった手法を駆使して大不況の発端となった金融危機張本人の金融界や米国資本の象徴たる自動車業界の救済に走った結果、ひとまず最悪的事態は避けられた形となった。
 現代の資本主義はもはや純粋の自由放任経済ではなく、平素から実行されている中央銀行による金融調節や経済危機の際における政府による直接的な資本救済措置をも備えた「調整経済」とも呼ぶべき体制を採っており、この体制は規制緩和と民営化が至上命令となったグローバル資本主義の下でもなお保たれ、大規模な経済危機に対してもかなり有効に働くことが改めて証明されたと言える。


◇打たれ強い資本主義

 加えて、資本主義経済は1930年代の世界大恐慌以来、国際的な規模での経済危機にもたびたび見舞われてきながら、それらをそのつど克服してきた経験も豊富である。言わば危機管理の虎の巻を持っているようなものである。こうしたことから、現代資本主義経済は危機に強く、打たれ強い体質のシステムとなってきていることは否定できない。
 もちろん歴史上、永遠に続いた経済システムというものは一つもない。奴隷制経済、封建制経済、社会主義経済等々、すべて終焉した。資本主義経済だけが例外であるという証拠があるわけでは決してない。
 大不況に際して米国が民間資本国有化のような手法にまで打って出ざるを得ないところまで追い込まれたことはある意味で末期的であり、これを主導した当時のオバマ大統領は、ちょうどソ連末期、ソ連では逆にタブーであった市場経済を部分的に導入しようとしたゴルバチョフ書記長(後に大統領)に相当するような人物だったのかもしれない。
 特に米国経済の象徴であった金融資本と自動車資本の揺らぎは、ドルの価値下落と合わせて、米国が体現してきた偉大なる資本主義の終わりの始まりであり、歴史的にはあたかもソ連邦解体に匹敵する意味―合衆国が解体して50の州が独立してしまうかどうかはともかく―を持つことになるかもしれない。
 仮に、真に「資本主義の崩壊」と呼び得るような事態が出来するとしたら、その引き金を引くのは、やはり米国系金融資本である可能性は高い。マルクスは『資本論』第二巻で、生産力の物質的発展と世界市場の形成を促進する信用制度が同時に恐慌を促進し、古い生産様式の解体の諸要素を促進することを指摘していたが、この部分は正鵠を得た診断であったと言えよう。
 とはいえ、資本主義経済には歴史上見られたどの経済システムよりも強力な自己保存装置が備わっており、人類がこのシステムに固執し続けようとする限り、ほとんど半永久的に存続していくのではないかとさえ思えてくる。

弁証法の再生(連載第3回)

Ⅰ 問答法としての弁証法


(2)ソクラテスの問答法

 弁証法の基底は「問答法」であるが、こうした「問答法」としての弁証法を最初に確立したのは、ソクラテスであった。アリストテレスによれば弁証法の創始者とされるゼノンの弁証法はまだごく初歩的な弁論術にとどまっており、その内容も不確かな点が多いが、ソクラテスの問答法は、弁証法の歴史における実質的な元祖と言い得る特質を備えていた。
 彼の問答法をめぐっては、しばしば「ソクラテス式問答法」の名のもとに様々な議論がなされているが、彼の問答法の特徴は、相反する命題を徹底的に対質させる点にある。それは、彼の高弟プラトンが自身の著作で示した「勇気」の本質をめぐるソクラテス式問答法の実際に象徴されている。
 しかし、それは相反する命題間で論争を戦わせて相手を論破するという現代における“ディベート”の論争ゲームとは次元の違う対論である。ソクラテスの問答法の実質は反証ということにあるが、ここでの反証とは、対立命題を否定する証拠を提出してその命題の正当性を崩すという消極的な証明にとどまらず、そこから容易に結論を導けない難問―アポリア―を浮上させようとするものである。
 その点で、ソクラテス式問答法の最終目標を確定的な真理の証明にあるとする解釈は妥当ではない。彼は対立命題を反証して確定済みの真理へ誘導しようとしているのではなく、別の問いを立てさせようとする。
 言い換えれば、答えを導くのではなく、問いを導き、さらにそこから、未知の真理を浮かび上がらせるのである。彼の問答法が比喩的に「産婆術」と呼ばれたのも、このようにいまだ知られていなかった新しい真理を浮上させることの手助けをする手段であったからにほかならないだろう。
 また彼の有名なモットー「無知の知」も、こうした文脈からとらえれば、単なる知的謙虚さの自覚にとどまらず、いまだ知られていない知見の謂いであったとわかる。そのような未知の真理を浮かび上がらせるためには、無知の自覚が必要であるという限りでは、「無知の知」は知的謙虚さの箴言でもあろう。
 しかし、このようなソクラテスの方法論は、政治的には危険視されかねない。それは既知の命題への批判的反証活動を活性化させるからである。彼の時代、それは政治社会の基盤であった宗教的な教条との対決が避けられなかった。ソクラテスが青年を堕落させる宗教的異端者として有罪・死刑を宣告され、毒殺刑に処せられたことには理由があったのである。
 実際のところ、ソクラテスは「弁明」の中で自身主張しているとおり、無神論者でも異端宗教者でもなかったが、ソクラテス式問答法が神の存在について展開されたときには、あらゆる宗教が措定する神の存在に関する絶対前提が反証に付され、揺らぐ可能性は十分にあった。当時のアテナイ当局は、そうした危険性を嗅ぎ取り、言わば予防的保安措置としてソクラテスを葬ったのであろう。
 こうして、弁証法創始者ゼノンと同様、ソクラテスも政治犯として命を絶たれることになった。彼の後も弁証法実践者は程度の差はあれ、政治的に迫害されることがしばしばあったことは決して偶然ではない。弁証法は、政治的には我が身の安泰を保証してくれない方法論である。それは、彼がまさに弁証法の主題とした「勇気」を必要とする哲学方法論なのかもしれない。

共産主義生活百科(連載第8回)

§7 職業教育

 
 自由な共産主義社会における義務教育課程で特徴的なことは、全員必修の職業導入教育が実施されることです。というのも、自由な共産主義社会には大学という高等教育機関が存在せず、標準年限13か年に及ぶ義務教育を修了すれば、ひとまず全員が就職することを前提とするからです。
 そこで、義務教育課程の中盤を越えたあたりから、労働現場に触れさせる体験学習が導入されます。これによって、10代から職業イメージを持ってもらい、将来の人生設計の手助けをすることが狙いです。
 具体的には、職業導入教育の序盤では「社会科見学」方式で様々な労働現場を直接に見学して回り、実際に働く人々の姿をとらえます。終盤に入ると、生徒が各自志望する工業、情報、事務、農業、水産、研究といった代表的な職域ごとに分かれた職業指導に加えてインターンシップを導入し、希望する職場で短期間体験労働に従事します。
 このようにして義務教育課程を修了した段階で、原則として全員がひとまずは就職する体制が作られるわけですが、そのために心理学や社会学の知識を備えた専門職の進路指導教員を通じ、職業紹介所と連携して生徒の適性と志望に合った職場を紹介するシステムが用意されています。これについては次回、就職の項で改めて言及します。

 
 ここで、二つの例外を確認します。一つは医療者、法律家、教員などの高度専門職に関する職業教育です。これらの職種に関しては、義務教育課程修了後、少なくとも5年以上何らかの就労経験を持つ有職者を対象に、選抜試験に依存せず、職歴内容や使命感、人格識見などを主要素として選考したうえ、特別な高度専門職学院で専門教育が実施されます。
 もう一つは、障碍者に対する職業教育です。前に触れたように、障碍者の義務教育には標準年限もありませんが、最終的には障碍者もその特性や程度に応じて就職可能となるように職業教育がなされます。ただし、その内容は非障碍者の場合とは自ずと異なります。
 インターンシップに入る前に、障碍の内容に応じてマンツーマンに近い形で能力開発教育が実施されます。そのうえで、障碍者に関する専門的知識を備えた進路指導教員を通じ、職業紹介所と連携して生徒の適性と志望に合った職場が紹介されます。

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