サンクチュアリピークとは、西ネパールの「ドルポ」という地域にある、ヒマラヤ山脈の山の1つである。標高は6,207mで、これまで誰も登頂した事のない未踏峰だ。
2024年のヒマラヤキャンプの遠征では、これの初登頂に成功した。
公の報告書は日本山岳会のHP(https://jac1.or.jp/about/iinkai/120kinen/202009288914.html)にあるが、それは客観的な書き方を重視しており、個人の感情や見え方などは割愛している。
しかし、それで本当にヒマラヤ登山の魅力や価値を後世に伝えることができるかと言えば、必ずしも十分ではないと思う。
ただ単に、個人的に記録を書きたいだけでもあるが、そんな背景もあり、所属する神戸山岳会のブログに拙稿を載せていただく。
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最初に、本記事で一番伝えたいことを書かせていただく。
ヒマラヤの未踏峰を登頂することの価値についてだ。
1つの目標に向かって努力すること自体、既に意味があるが、その先に待っているのが前人未到で、ヒマラヤ特有の規模の大きい景色である。それまでの苦労と相待って、一生忘れられない景色となる。
また、1つの山を初登したという事実や、数年間挫けずに目標に向かい達成した事実は、自分の誇りとなった。
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以下、遠征についての説明と記録を書いていく。
今回の遠征は、公益社団法人「日本山岳会」が主催する、若手登山家の育成を目的としたプロジェクト「ヒマラヤキャンプ」の一環である。
2023年3月に公募され、日本全国から集まった参加者自らで登る山を決め、準備をし、遠征を実施し、サンクチュアリピークに初登頂した。
今回のメンバーは、松本歩美、畠山愛以、平塚雄大、長谷川陽央(僕)、そしてプロジェクトリーダーの花谷泰広の5人だ。
早速余談だが、本プロジェクトは若手登山家の育成を目的としているが、必ずしも全員が、登山が本業というわけではない。僕は普通の企業のSEで、フルタイムワーカーだ。さらに言えば、この遠征を足がかりとして、ヒマラヤ登山の分野で活躍していこうと覚悟を決められていたわけではなかった。
そんな者が参加することは、プロジェクトの趣旨に反するようで、プロジェクトリーダーの花谷さんに、問題ないか恐る恐る確認したことがある。
「全然問題ないよー」とのことだった。ヒマラヤ登山は、その後登山を続けるかどうかに関わらず、その人の人生にとって貴重で価値のある経験となるからとのことだった。
最近の目的志向型の社会では忘れられているような考え方だが、もっと社会に浸透したら良いと思う。何が得られるか明確に定義できないが、個人の基礎の人間力が底上げしたり、自分の人生に価値を感じさせる経験を大事にすることが、結果的に社会や集団にとってもプラスとなると思う。
話を戻して、とにかく、多様なバックグラウンドを持った5人での遠征となった。花谷さんはプロジェクトリーダーに徹し、国内での計画や準備は他の4人で行った。
本遠征の目標である山、サンクチュアリピークの選定も4人で行った。ネパール政府が公表している未踏峰のリストから、1つ1つ調査(未踏峰であるかどうか、魅力度、難易度)し、最終的には4人の投票で決まった。
実を言うと僕は、サンクチュアリピークを目標とすることには少し反対であった。アプローチに不確実性が多すぎるからだ。
同山が属するドルポと言う地域は、ネパールの中でも秘境という位置付けで、入り口の村に行くまでの道は土砂崩れが頻発するという話であった。
仮にドルポに入域できても、キャラバンで通過する予定の道は、5400mの急峻な峠を越えるか、50年前に突破不可能と断定されたゴルジュを突破するしかない。
それでもネパールのエージェントは行けるとの回答をした。また、形は格好いいし、その不確実性にも魅力があり、アプローチさえなんとかなれば登山自体は比較的容易に見えた。そのため、不安は残るが、サンクチュアリピークを目標とし、遠征はスタートした。
ネパールの首都、カトマンズで全ての荷物のパッキングを終え、あとは出発を待つのみとなった。予定より早く終わって安心していた。
しかし、それも束の間で、ネパールの観測史上最大の豪雨がカトマンズを襲った。9月下旬、モンスーンの最後っ屁だった。
装備を置いていた倉庫は床上浸水し、僕らの装備はびしょぬれ。急いで干してパッキングしなおした。出発日には間に合ったが、今度はカトマンズから出るための主要な道が崩れてしまったようだ。
カトマンズは盆地にあり、そこから出る道は限られている。観光シーズンが始まる時期のため、ただでさえ多いバスが、残った道に集中して大混雑となった。
10月1日、カトマンズからバスで移動を開始する日、バスプールは大渋滞していた。朝5時に出るはずであったバスは、13時になっても出発していなかった。
バスプールで待っている間、僕はバスの天井に登りバスの大群を眺めて暇をつぶしたいた。すると数時間全く動かなかった大群がいきなり一斉にクラクションを鳴らした。どうやら動き出すようだ。
天井から降りようとした時、よく分からない鋭利な出っ張りに右の踵をぶつけた。降りてからよく見ると踵がパックリ割れて血だらけになっていた。
「一番破傷風になるやつじゃん」と花谷さんがマジの顔で言っていた。全員から「こいつの登山は終わった」と思われていたらしい。そこでちょうど僕らのバスが出発する番になった。病院に行っている暇はない。ペットボトルの水で血を洗い、そのまま大きな不安と共に旅は始まった。
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カトマンズは都会だったが、そこを出ると建物は簡素になった。トタンや土の壁、土窯、薪はまだまだ現役である。アジアの現風景を目にすると、旅の始まりを感じた。
清潔感は欠片もなく、破傷風が怖かった。本当に入山できないかもしれない。これまでの努力がこんな形で終わってしまうと考えたら、泣けてきた。
それでも日本では目にすることができない中を巡るのは楽しく、気分は徐々に向上した。
1日目は遅れを取り戻すため、夜通し移動した。
2日目、バスはチャーターだったが、行き先が同じ者や、ポーターの子供だと言うものが途中で乗り降りした。寛容な国風を感じて面白い。途中、傷の手当てのための包帯を買う時、彼らが手伝ってくれて嬉しかった。
この日はCHINCHHU という街に宿を取った。シャワーはあるが、使うと排水口から汚水が溢れてきた。破傷風なるって!
2階建ての宿の屋上で雄大と花谷さんと瓶ビールを開け、街を眺めた。大雨の影響で、普段とは異なるルートで移動しているため、この街にはもう一生留まらないだろう。そう考えると、これもまた貴重な体験に思えた。
3日目は断崖絶壁に囲まれた谷底の道の中腹で日が暮れた。道は未舗装で、幅はバス1台分がギリギリ、街灯なんてない。暗くなってからの移動は困難だ。と思っていたら、突然集落が現れ、宿を取ることができた。「世界ふしぎ発見!」で出てきそうな、穴倉のような土壁の宿だった。そこではロキシーというネパールの地酒を楽しめた。まさに旅という風情で、僕の中では楽しい思い出だが、花谷さんはダニに食われて遠征中ずっと苦しむこととなった。
4日目、カトマンズから約800kmの道のりを踏破し、バスはドルポの入り口の村、トリプラコット(標高2100m)に到着した。ここまで来れるのかすら計画段階では怪しかったため、本当にたどり着けて安心した。
4000m級の山々に囲まれているが、開けた村で心地が良かった。また、この村の人々は皆美形で、目の保養にもなった。「ヒッシパレコ」というネパール語だけを覚え、雄大と村へ繰り出した。意味は「可愛いね」と言うらしい。勿論後ろめたい事は何も起きていないが、外国人が珍しいようで、皆案外笑顔で手を振ってくれて楽しかった。
翌日、最後の村を目指した。
ここから最後の村まではジープで行ける予定であったが、豪雨の影響で途中までしか行けず、標高3500mで降ろされた。そこから3800mの峠を越えながら20kmを歩き、最後の村であるフリコット(標高2700m)に到着した。
怪我のため右の踵を地面に着けられなかったが、ストックを松葉杖みたいに使えば踵を付かずとも意外と歩けた。サムスプリントで即席のプロテクターを作っていたので、靴にも擦れない。今後のキャラバンに対しても希望が持てた。
しかし松葉杖状態では歩みは遅く、最後の村まで残り標高差400mの下りを残して途中で日が暮れた。僕と、僕に付き添ってくれた雄大と2人を残して、他のメンバーは先へ行った。暗い山中で逸れたことに多少危機感が募ってきた時、道で気持ちよさそうに寝っ転がっている人がいた。
どうやらこのあたりに小屋があり、そこで酒盛りをして、今から村へ下るらしい。
ここから先は急な下りだから危ないと、付き添ってくれることになった。
しかしこの人、ベロンベロンに酔っ払っていて千鳥足もいいことろだ。足を滑らせてばかりで、最初は事故りそうで怖かったが、それでも僕らより速く歩いていた。暗い中でも豆電球のような明かりだけで転がるような速さで降りていく。というか千鳥足のため止まれず草むらに突っ込んで本当に転がっていた。「水があるから浴びよう!」と言って泥に頭を突っ込んでいた。
呂律が回っていないが、それでもずっと話しかけてきた。
「何言ってるか全然分からないですね」
「家にシェラという妻がいて、世界で一番いい女だから見に来いって誘っているのは分かった」
「それ絶対聴き取れてないです」
まるでコメディー映画のような人たちだった。
途中で子供連れの4人家族も追いついてきて、一緒に降った。酔っ払いが近道を案内してくれたおかげで、無事先行して待っていたメンバーにも追いつけた。
向こうからしたら、心配して待っていたら大人数で呂律の回らない声で賑やかに降りてきたわけなので、ポカンとしていた。
「どういう状況…?」
「途中であった酔っ払いに案内されながら、4人家族も合流しました…」
「どういうこと笑」
合流できて喜んでいたら、和んた空気を感じた酔っ払いが雄大に抱きつき、水たまりに落としていた。
その後、無事村にたどり着いた。酔っぱらいの家はすぐにあり、何度も来るように誘われたが、流石に行かなかった。悲しそうな顔をしていた。申し訳ない。
宿に着くと、おばあちゃんが全員にカタ(スカーフのようなもの)をかけ、額に赤い染料を付けてくれた。イスラム式の歓迎である。しかし食べ物や装飾はチベット仏教のものだ。この地域では2つの宗教が混じり合っているようだ。何とも不思議な村だと、ネパール14回目の花谷さんも困惑していた。
歩き出し初日から濃い1日だった。
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10月6日、フリコットからベースキャンプに向けて、本格的なキャラバンが始まった。キャラバンとは、荷物を人や動物に運んでもらいながらベースキャンプを目指すことだ。しかし、今回行く道は危険すぎて動物は使えず、村人を30人ほど雇うこととなった。
キャラバンが始まって2日目、ガウチャー(標高3900m)という風光明媚な場所でテント泊をした。澄んだ小川が流れる広い谷に、馬やヤクが放牧されている。木も人もない。
高所順応のために4200mほどの丘に登ると、谷を一望できた。周りには5000-6000mの山が連なり、夕日に照らされて紅く染まっている。まさに山紫水明だ。
「最高の旅だな。」
「間違いないですね。」
「たとえ登頂できなくても、この景色を見れただけで十分価値があるね」
雄大と臭いセリフを言い合った。しかしやはり、この遠征通して最も綺麗な眺めで、僕の心に残り続けるだろう。
だがここで大きな問題も起きた。予定していた道には行きたくないと、ポーターたちが言い始めた。確かに危険な道だと思っていた。途中で5400mの急な峠を越える必要がある。そこが本遠征の一番の難所だとも考えていた。しかし、ポーターたちが提案した道は、50年前の記録では突破不可能とされた道であった。何を言っているのか分からないまま、ポーターたちに命運を預けることとした。
以下、これから向かう道に関する記述を、過去の報告書より抜粋した。
1961年、タイソンは主峰の南麓を流れているジャグドウラ・コーラからの接近を試みたが、深いゴルジュに行手を阻まれて退却。
翌年のイギリス女性隊もラ・シヤンマ登項後、その肩からメイダンヘ下り、深いゴルジュ帯の迂回を試みたが失敗。
私たちはこの谷よりアプローチすることは100パーセント不可能と断定した。
(カンジロバ・ヒマール主峰初登頂(大阪市立大学山岳会)より)
そこからは危険な道が続いた。過去に突破不可能と言われていた道は、やはり今でも危険で、ワンミスで死ぬような道が続いた。ガウチャーからベースキャンプまでは2日で着く予定であったが、危険個所でロープを出して荷揚げを行ったりしていると遅れがかさみ、2日でも半分も進まなかった。
本当にベースキャンプまでたどり着けるのか?そもそもポーターは目的地を理解しているのか?この先もこんな危険な道が続いて、誰かが落ちたらどうする?
日本での登山では、何でも自分自身で行うことが基本だ。その考えが染み付いているために、ポーターに重荷を運ばせるだけでも思うところがあるが、こんな命がけの道を歩かせることには更に大きな後ろめたさを感じた。この遠征を続行していいのかとまで感じ始めた。
それでも進むしかった。もう引き返せなかった。
それが彼らの仕事であり、遠征は既に動いている真っ最中である。これまでかけた時間とお金は大きい。この大きな流れを止めるほどの理屈や確信を持ち合わせていなかった。お願いだから誰も死なないでくれと祈りながら歩いた。
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5日間かけて漸くベースキャンプ(4500m)に到着した(10月13日)。
ベースキャンプは、これまでの凶悪な峡谷とは異なり、広い谷であった。
誰も死ななくて本当に良かった。
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通常であればベースキャンプから登山がスタートするが、濃密すぎるキャラバンで既にお腹いっぱいであった。登山よりも、ここから脱出できるのか?という不安が、メンバー全員の中で大きかった。
今回の道に外国人が入ったのは7年ぶり。その時の隊は、帰りに雪が降り、荷物をすべて置いて命からがら脱出したという。今回の遠征のバックキャラバン開始は11月1日で、同じことになる可能性も十分あった。
10月15日、不安になっても仕方ないので、登山を開始する。ベースキャンプから5kmほど歩くと、目標のサンクチュアリピークが姿を現した。カトマンズを出て15日目、長く危険な道を超えて漸く目にすることができ、感無量であった。
過去の写真よりクレバス(氷河の裂け目)が多く見えた。それでも登頂の可能性は感じられる。5200mにハイキャンプを設け、そこを拠点に網目のようなクレバス帯を超えるルートを確立した。
そしてその翌日の19日、サミットプッシュをすることとした。
高所登山のセオリー通りなら、サミットプッシュ前にハイキャンプとベースキャンプを往復して高所順応を行う。しかし、今回はそれを省くことにした。時間的な問題があるためだ。
天気予報では、19日の夕方から4日間ほど天候が悪化するとのことだ。計画ではそれでもチャンスはあった。しかし、11月1日よりティカという祭りがあるらしく、その期間はポーターが働かないと言い出した。先に言っておいてくれよと思うが、今更だ。そのため、それに合わせるように登山期間を短縮することにした。
そうすると悪天後にチャンスは1回しかない。それなら悪天候前にも一度トライしようということになった。それがだめでも、山頂までの課題も見つかるだろうし、高所順応にもなる。これまでのキャラバンによって4500mまでの高所順応が済んでおり、体調が良いのもあった。
と言っても、ハイキャンプ以上では高所の影響で体に様々な影響があった。僕は3日間毎朝嘔吐し、松本は腹を下し、畠山は咳のし過ぎで肋骨にひびが入り、平塚は歩き出すとヘロヘロになっていた。
つまり、全員絶好調だ。
翌日、山頂を目指すこととした。
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10月19日、朝1:30に起床、3:30にハイキャンプを出発した。ちょうど満月で、暗い中でも歩きやすい。アイゼンは心地よく雪面に刺さる。周囲の山の岩肌と満月が朝日に照らされ、幻想的であった。
前日のルート工作により、順調にクレバス帯を超えることができた。未踏の雪面を歩くのは初めての経験で、気分が高揚した。
12:30、無事全員が登頂できた。サンクチュアリ・ピーク(6207m)の初登頂だ。
6000m付近、みんな結構ヘロヘロであった。そのため、山頂までの最後の尾根は花谷さんにトップを任せてしまった。本来であれば花谷さん以外の隊員で最後まで登頂したかったため、とても悔しい。
それでも登頂できたことはとても嬉しかった。ここ数年の努力が報われた気がして、涙が溢れだした。
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だがこのあと、ちょっとしたトラブルもあった。
17:00にハイキャンプに戻った。そこで1泊するかベースキャンプに戻るかの選択肢があったのだが、僕と雄大はベースキャンプに戻りたかった。
僕はハイキャンプでは必ず朝に嘔吐するためだ。雄大は、山頂直下で小便を漏らしていたため早く着替えたいとのことだった。そこで2人だけ降りることにした。
ベースキャンプまでの道はモレーンという特徴のないガレ場がずっと続く。おまけに細かい起伏もある。その中でも道を見失わないよう、往路でピンクテープを岩に巻いていた。しかし既に日没。辺りはどんどん暗くなり、目印は分からない。おまけに予報通り吹雪いてきた。5000m地点でついに完全に進む方向が分からなくなった。
このまま進むとビバークになる。来た道は幸い明瞭であったため、そこでハイキャンプへ引き返すこととした。しかし、疲れ果てた雄大の足はさらに重くなり、ペースが上がらない。吹雪も強くなってきた。中々ハイキャンプに着かない。道はあっているのだろうか?雄大から返事が返ってこなくなった。不安が徐々に大きくなってきた。
1時間ほど歩いてようやくハイキャンプに戻ることができた。心底安心した。危うく遭難しかけた。未踏峰を登頂したからと言って、自然の前では無力であることを痛感させられた。
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登頂後も、ポーターは予定していた日(10月28日)まで来ないため、ベースキャンプで悠々自適に過ごした。ベースキャンプはエアポート平原と呼ばれている。その名のとおり、小型飛行機なら余裕で離着陸できるほどの広い平原だった。6000m級の山々に囲まれ、小川(つまり飲み水)もある。標高4600mで空気は下界の半分ほど、周囲50kmに村はなく、明かりもチリもない。星空が格別であった。
近くのモレーンを探検していると、池のようなものがあった。淵は氷河の壁で、前傾していた。アイスクライミングできるのでは?と取りついてみた。
雄大がとても格好良い写真を撮ってくれたが、これは奇跡の一枚で、この後すぐ落ちた。でもいつかこのハングした氷も登れるようになりたい。
10月28日、ポーターが予定通りベースキャンプに到着した。毎朝雪が少し積もるようになっていたので、本当に来てくれるか不安であったので、ポーターの姿が見えたときは感動した。
帰りはもちろん行きと同じ、気の抜けない道を帰る。途中には、深さ100mはある谷に、ダケカンバの枝を数本渡しただけの橋もある。一体誰がどうやってかけたのだろうか。
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「うんこだ!ヤクのうんこがある!」
前にヤクがいたのはキャラバン2日目、ガウチャーまでで、そこから危険度MAXの道が始まった。つまり、このうんこは危険地帯を完全に抜けたことを意味していた。
「うおお!ガウチャーが近い!」
「やったー!!」
うんこを見てこんなに喜んだのは初めてであった。
しかし実際、ヤクのうんこが現れてすぐにガウチャーに着いた。
「しねーー!!」
「止めてくださいよ!」「痛!かてぇ!」
「うわ、柔らかいの触った」
メンバーが乾いたヤクのうんこを拾って投げてくる。雄大のカメラが被弾していた。
嬉しさのあまりテンションがおかしい。しかし、それだけ緊張を強いられる道であった。雪が積もれば閉じ込められるというプレッシャーや、ワンミスで死ぬ道が続く緊張感、そこをポーターに30kg担がせて歩かせる心苦しさ、そう言ったものから解放された安心感は計り知れない。
キャラバンの最終日前夜、焚火を囲みながらポーターのリーダーに訊いてみた。
「今回のキャラバンは過去一で危険でした。あんな危険な橋も、あなたたちが架けたのですか?」
「ザポネ」
「〇△%×◇オーニシパラサーブ〇△%×◇」
彼曰く、この道は日本人の大西という人物が、20年前に作ったという。ヒマラヤで大西といえば、山の調査の権威の大西保氏と思われる。
大西さんは3年間この谷に通った。1年目はボートを使用して突破した。その時に橋をかけれそうなところを見つけ、次の年に橋をかけたそうだ。
帰国後に大西さんの記録を調べたが、そのような話はなかった。また、すでに他界されているため、直接話を聞くことはできない。だが、ポーターのリーダーは、若い頃、その大西さんの遠征でもポーターを務めたようだ。生き証人が言うのであれば間違いない。
未踏峰登山といえども、先人たちの努力があってのものであった。
10月30日、遂にフリコット(キャラバンを開始した村)に到着した。
僕たちの登山は終わった。
大西さんの功績に限らず、日本のいわゆる黄金の時代や鉄の時代の遠征に比べれば、我々が登った山は小さく、難易度も低かったのかもしれない。
しかし、それらの時代の遠征には、時代の流れという大きな後押しが作用していたと思う。その後押しがない現代において、ヒマラヤの未踏峰を初登することは、登山の難易度以上にハードルの高いことだと思う。僕自身は2019年から個人で未踏峰を目指し始めたが、一番どうにもならなかったのは、仲間探しだった。
そんな現代において、ヒマラヤキャンプという機会を作ってくれた花谷さんのエネルギーはとてつもなく、頭が上がらない。
また、その現代においてヒマラヤ登山を目指す者たちの情熱を尊敬する。彼らに出会えたおかげで、ヒマラヤの未踏峰を初登することができた。
皆さん、本当にありがとうございました。
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以上、記録でした。
僕が未踏峰を志したのは、2018年の頃です。2019年に一度インドヒマラヤのザンスカールの未踏峰遠征を計画するも、急激な治安悪化によって出発の1週間前に突然登山許可を取り消されて頓挫。それから就職、引っ越し、結婚、育児と、諦める理由はたくさんありましたが、最後まで意志を貫き通せたことは、自分の誇りとなりました。
でも、一番ギラギラしていた頃の自分なら、「未踏峰程度で何満足してるんだよ」と言うと思います。
いつまでも情熱を絶やさず、挑戦を続けていきます。














































































































































































