2017年10月

2017年10月7-9日 前穂高岳北尾根

2017106日、メンバー、T口、M田、M()

いよいよ出発の日、夜自宅に集まり1台で長野県へ、土砂降りの雨に不安を覚えつつも、大きな期待感も同居しており、なかなか複雑な心境だ。

去る一月前、10月の3連休を使って、前穂高北尾根へ行こうという計画が持ち上がった。まだ入会して日は浅く、山行へ参加していない身だが、その魅力的な提案に飛びつき、参加を表明した。当初経験豊富な先輩を含む6人で行く予定だったが、都合が悪くなり、計画が中止となった。しかし残った初心者3人は諦めきれずに、北尾根の計画を推進することにした。3人とも穂高は初めてで周りから不安の声もあったが、事前に情報を集める、雪彦山でマルチピッチの練習をするなど準備を行い、挑戦することになった。

 

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未明に平湯のあかんだな駐車場へ到着、やはり三連休ということで、3時半開門の駐車場には20台ほどの車の列が出来ており、最後尾で仮眠とするも後からどんどん列は伸びていった。4時頃、周りの車が慌ただしく動き始め、熟睡している何台かを追い抜いて、バス停の近くに駐車できた。装備を整え荷物を背負うとズシッと重く、先行きの不安が強まってくる。バスは臨時便もあり早めに上高地へ到着、トイレを済ましレインウェアを羽織って、いざ出発。T口さんは上高地に幼い頃に来た以来で、M田君は上高地初めてとのことなので、お猿だらけの河童橋を渡って、風景の綺麗な自然探索路を通っていくことに、三連休の上高地とは思えないくらい人が少なく、重荷に体を慣らすには丁度良い。



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(上高地は猿だらけ)


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(静かな自然探索路) 



 新村橋を渡ると、雨も弱くなったのでレインウェアを脱ぎ、奥又白谷登山口から進んで行くと、徐々に斜度が上がり始める。涸沢方向への分岐を奥又方向へ進むと、松高ルンゼと中畠新道の選択を迫られる。松高ルンゼは厳しそうなので、右の尾根に向かうと入り口にレリーフがあり、かなりの斜度で手と足を使って登って行く。

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(真ん中がルンゼ、右側の尾根に進む) 

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(入り口のレリーフ)

それにしても背中が重い、重すぎる。高度があがるほど息切れも激しく、休み休み登っていくと、踏み跡が大きく左へ曲がる所で、翌日のコルへ行く分岐を発見。そのまま進むと尾根を越えた瞬間目の前に池が現れる。非常にドラマティックでここが天空の別天地、奥又白池かと感慨にふける。見えるテントは2張、池の奥の小山の近くに広めの場所があり、4人用テントを広げる。雨が強くなってきたので、翌日の偵察は諦め、相当早めの晩ご飯にする。暖めたおでんがうまく、残った汁にご飯を入れるとこれまたご馳走に、歩く時は重い荷物のビールに感謝しつつ、寝不足なので早々にシュラフに入るとまどろんで行った。

 

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3時過ぎに起床、雨は完全に止み睡眠も十分、4時過ぎにヘッドライトを付けて出発。分岐を越えたところで、湿った岩に足を取られて転倒してしまった。傾斜がゆるめの所なので大事には至らなかったが右腰を岩に打ち、痛みと共に進むことになってしまった。気を引き締めよう。谷には雪は無く、浮き石だらけのガレ場を進むと、途中のケルンを最後に目印が無くなった。5.6のコルへの道は尾根を登って行く道なので、前方の尾根に目星を付けて、踏み跡を進む。しかし、途中から非常に厳しいクライミングで行き詰まってしまい、道を間違えた事に気付く。やや明るくなってきて、先の尾根に踏み跡っぽい物を見つけ、トラバースするか悩んだが、懸垂下降で谷まで戻る事にした。すると後発のパーティーが谷を歩いているのが見え、我々より大分下の方向へ歩いて行く、懸垂を急いで谷に戻り、下るとペンキの丸マークが一杯あった。


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(正しいルートには丸ペンキ)   

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(取り付きの丸を見つけて進む)

バリエーションルートは目印は無く、地形と踏み跡を見て進むという先入観と下調べ不足が失敗のもとであった。そこから正規ルートを登ると、まもなく先ほどのパーティーに追いつく、我々は5峰の尾根に登っていたようで、驚いたとのこと、北尾根からA沢を降りると告げると、「A沢は登るより降りる方が危ないから気をつけろ」との助言を頂き、更に気が引き締まる。5.6のコルへは8時着で予定より遅いが、景色の美しさに感動。


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      (コルからの眺めが素晴らしい)


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    (涸沢はテントだらけ)


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(草付き5峰)

 

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(浮き浮き
4峰)

いよいよ北尾根に向かう。5峰はのんびりだが4峰は岩が抜けやすく浮き石も多い。ルートファインディングが難しく、石が動かないか確かめながら怖々進むと、3峰に数パーティー取りついているのが見える。3峰の下に着き、広島から来たパーティーと話していると、「さらに前のパーティーには岩登り未経験者がいる。既に1時間半以上待っており、涸沢に下るのを諦めて、奥穂高の山荘に泊まろうかと考えている」とのこと、また我々の行程を話すと「夜のA沢下降は危ないから、ビバークした方が良いのではないか。」との助言を頂き既視感を覚えると共に、前穂高山頂14時をレッドラインに定めた。先行パーティーが進み、2ピッチ登ると、出発前にO島さんから頂いた助言を思い出し、ロープをまとめて涸沢側を回ると先行パーティーを追い抜いてトップに出た。2峰を懸垂で降りると、前穂高山頂に到着。


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 (岩登り3峰)     


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(前穂高山頂)

山頂にいた登山者に「どこから登って来たのか」と驚かれた。また、先行していた未経験者を連れたパーティーのリーダーが「渋滞起こして申し訳無い」と話してきて、聞くところによると「前日涸沢で懸垂下降の練習をした」とのこと。初心者3人の我々も我々だが、なんともすごい話だ。広い山頂で景色を楽しみ、写真を撮っていると、タイムリミットが近付いてくるので高度計を調整し、明神方向へ降り始める。三本槍がどれのことか良く分からなかったが、左方向を注意しながら降りていくと、3000m付近でピナクルに赤テープを発見、そのまま進むと懸垂支点も発見。



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(下の方に赤テープ)

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                 (奥が懸垂支点)


次の懸垂支点が分からないので、60m50mのロープを結び、とりあえずA沢を降りてみることに、すると30mほどで次の懸垂支点を発見。しかし、岩にかけたダブルロープが、どれだけ引っ張っても動かない。3人がかりで力をかけたが、それでも動かない。時間もどんどん進み、焦り始める。結局、M田君が登り返し、ひっかかりを外し、歩いて降りてきた。自然の岩のエッジがきついのか、今後の対策を考える必要があるが、何より下降を急ぐ。ダブルロープはさばきづらいので、シングルに変更し、懸垂下降を続ける。25m一杯のあたりに次々懸垂支点があり、4回ほど懸垂したところで、踏み換え点へ到着。このあたりで大分暗くなり、ヘッドライトを装備する。傾斜が緩やかになると歩けるので、懸垂して降りたら歩けると思い2回懸垂、もう暗くて次の懸垂支点が見つけられない。谷はガレてて、一歩毎に岩が崩れる。ビバークするか強行するか悩んだ末、T口さんが下方に奥又白池のテントの明かりを発見し人の声がしたので、改めて地形図を確認、地形と奥又白池の方向、方角を確認したら間違いない。谷はガレてるが、草も付き始め歩けなくはなさそうな傾斜、何より水が残り少ない事から、強行を決断、お互いの落石に注意しながら下ると谷の左側にしっかりした踏み跡を発見、注意しながらも安堵し、踏み跡を下ると、突然目の前にテントが現れた。8時到着なので、行動時間ゆうに16時間を要してしまった。乾いた喉を水で潤し、人心地ついたところで食べた麻婆春雨とご飯、行動食の残りの柿ピー、虎の子のビールがうまくないはずが無い。周りのテントが就寝してるので、静かに無事を喜び、あたたかいシュラフに潜り込んだ。

 

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5時に目覚め、テントを出るとまた素晴らしい快晴。朝日の当たる前穂を見ると、昨日下ってきた中又白谷が見え、あんなところを下ってきたのかと驚く。


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(今日も快晴)

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      (逆さ穂高)

天気が良いので、荷物をまとめ、外の石のテーブルで朝食のラーメンを作る。温かくて塩分と炭水化物をとれるラーメンに餅を追加して、万全の朝食を頬張る。多少テントを乾かし、7時過ぎに撤収。荷物を担ぐとやはり重く、二日目に打った腰にベルトが当たり痛い。初日より軽いハズだがあまり実感が湧かない。しかし下りなので、ペースは全然速い。所々危ないので、注意しながらも、あっという間に下ってきた。徳沢でカレーの臭いに誘惑されつつ、ソフトクリームと前穂高のバッチをゲットするとバッチのデザインはなんと北尾根。大勢の登山者を見て、晴れた10月の三連休の力を思い知らされると共に、バス待ちに危機を感じて上高地へ急ぐ。バス待ちは長蛇の列だったが、下山報告しながら待っていると、次々バスが来てそう待たずに駐車場へ到着。平湯のバスターミナルの温泉で三日分の汚れを落とし、バスに置き忘れたM田君の財布を回収し、飛騨牛の鉄板焼きを食べて帰神。高速は多少渋滞していたが、許容範囲。非常に天気に恵まれて、紅葉に染まる美しい山々を眺め、楽しい思いと共に反省点も多く、色々勉強になった山行であった。

 

読書感想文

沈黙の山嶺」  第一次世界大戦とマロリーのエベレスト

                                                                                                                
                                       岡島

養生中に読んでいた山の本の感想、と言うか、あらすじの紹介です。

 

エベレストに初登頂したのはヒラリーとテンジンということはご存知でしょう。しかし、それ以前からエベレストへの挑戦は行われていました。1924年にマロリーとアーヴィンが頂上に向かったまま行方不明になってしまったのですが、本当は初登頂していたかもしれないという話です。また、「何故山に登るか?」とのしつこい質問に対して、マロリーが“Becouse it‘s there.”と返答した話も有名です。

 この「沈黙の山嶺」は単にマロリーのエベレスト登山記ではなく、19世紀末から第一次世界大戦、大戦後の1920年代にかけての大英帝国、インド、チベット、清朝、ドイツ帝国、ロシア帝国などの文明の衝突まっただ中の世界史の大変換期の中で、エベレストを舞台にした世界最高峰の初登頂に挑むアルピニスト達の実録です。

 前半は殆ど第一次世界大戦の西部戦線の話です。と言うのは、1920年台の登山家の殆どは戦争の生き残りなのです。当時のヒマラヤ遠征隊とは、国家のミッションを受けた戦闘部隊のような組織でした。

 

 

 主人公のマロリーは1921年4月8日にマルセイユを汽船で出発し、キャラバンの出発点となるダージリンに5月11日に着いています。そしてエベレストの登山口ともいうべきロンブク氷河のベースキャンプを見つけたのが6月の終わりです。やっと、そこから登頂可能なルートを探し始めます。そして北東稜のノース・コルに至ったのが9月20日過ぎでした。今でこそ、エベレストの登頂時期はプレモンスーンの5月後半がアタック・ラッシュというのは常識で、天気予報で登頂日を決める時代ですが、当時は気象条件も殆ど未知だったのです。

ここまでが第1回目の遠征です。登頂可能なルート探しが目的でした。またチベット側は地図の空白地帯なので三角測量による地図作成も重要な目的でした。

 
 翌年の1922年、早くも第二次遠征隊が送り込まれます。この時に最も高い高度まで達した隊員がフィンチという技術者で、酸素ボンベの装備係りでした。
フィンチは、登山の素人の軍人、ブルースと二人で8321メートルまで達しました。5月26日でした。帰路は夜になりルートを見失う危険に遭遇しますが生還しました。

 更に、マロリーの頂上への執念は強く、第3次アタックが計画されます。酸素の有効性を痛感した彼は、酸素ボンベと高所キャンプを担ぎ上げるためのポーター14人を伴って、再びノース・コルを目指します。しかしコルへ上がる斜面が雪崩れて7人のシェルパが死亡するアクシデントが起こります。これで第二次遠征隊は幕引きとなります。

 
 第三次遠征隊は1924年。途中は割愛してマロリーの最期の状況だけ。最終キャンプのC6を出発したマロリーとアーヴィンが頂上ピラミッドの基部を登っていく様子を、キャンプ5にいたサポートメンバーのオデルが確認しています。6月8日の12時50分。これが彼らの最期に目撃された彼らの姿でした。

 

 この本の最終章は現代に飛びます。かつてのチベット側からのルートは、中国隊の独壇場となっています。ロンブク氷河の入口までジープで入れるそうです。

 「昔の登山姿の遺体が北東稜に転がっていた。」との情報が、中国の登山家から報告がありました。積雪の非常に少ない年で、鋲靴にゲートルの格好をした遺体が雪面から出ていました。戦前の登山者です。そこからマロリーの遺体の捜索が始まります。頂上アタックに向かったときマロリーはコダックのポケットカメラを持って行ったことが判っています。もし彼らが頂上に達していればそのフィルムが残っているかもしれません。








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