令和になったので、万葉集から一首。
信濃路は 今のはり道 刈株に足踏ましむな くつ履け我が夫
東歌(巻14・3399)
信濃の山道はまだ危ないから しっかりした足回りで気を付けて歩けよ、
という意味です。
学校で習った覚えがある人もいると思います。
岡島
本
「沈黙の山嶺」 第一次世界大戦とマロリーのエベレスト
岡島
養生中に読んでいた山の本の感想、と言うか、あらすじの紹介です。
エベレストに初登頂したのはヒラリーとテンジンということはご存知でしょう。しかし、それ以前からエベレストへの挑戦は行われていました。1924年にマロリーとアーヴィンが頂上に向かったまま行方不明になってしまったのですが、本当は初登頂していたかもしれないという話です。また、「何故山に登るか?」とのしつこい質問に対して、マロリーが“Becouse it‘s there.”と返答した話も有名です。
この「沈黙の山嶺」は単にマロリーのエベレスト登山記ではなく、19世紀末から第一次世界大戦、大戦後の1920年代にかけての大英帝国、インド、チベット、清朝、ドイツ帝国、ロシア帝国などの文明の衝突まっただ中の世界史の大変換期の中で、エベレストを舞台にした世界最高峰の初登頂に挑むアルピニスト達の実録です。
前半は殆ど第一次世界大戦の西部戦線の話です。と言うのは、1920年台の登山家の殆どは戦争の生き残りなのです。当時のヒマラヤ遠征隊とは、国家のミッションを受けた戦闘部隊のような組織でした。
主人公のマロリーは1921年4月8日にマルセイユを汽船で出発し、キャラバンの出発点となるダージリンに5月11日に着いています。そしてエベレストの登山口ともいうべきロンブク氷河のベースキャンプを見つけたのが6月の終わりです。やっと、そこから登頂可能なルートを探し始めます。そして北東稜のノース・コルに至ったのが9月20日過ぎでした。今でこそ、エベレストの登頂時期はプレモンスーンの5月後半がアタック・ラッシュというのは常識で、天気予報で登頂日を決める時代ですが、当時は気象条件も殆ど未知だったのです。
ここまでが第1回目の遠征です。登頂可能なルート探しが目的でした。またチベット側は地図の空白地帯なので三角測量による地図作成も重要な目的でした。
翌年の1922年、早くも第二次遠征隊が送り込まれます。この時に最も高い高度まで達した隊員がフィンチという技術者で、酸素ボンベの装備係りでした。フィンチは、登山の素人の軍人、ブルースと二人で8321メートルまで達しました。5月26日でした。帰路は夜になりルートを見失う危険に遭遇しますが生還しました。
更に、マロリーの頂上への執念は強く、第3次アタックが計画されます。酸素の有効性を痛感した彼は、酸素ボンベと高所キャンプを担ぎ上げるためのポーター14人を伴って、再びノース・コルを目指します。しかしコルへ上がる斜面が雪崩れて7人のシェルパが死亡するアクシデントが起こります。これで第二次遠征隊は幕引きとなります。
第三次遠征隊は1924年。途中は割愛してマロリーの最期の状況だけ。最終キャンプのC6を出発したマロリーとアーヴィンが頂上ピラミッドの基部を登っていく様子を、キャンプ5にいたサポートメンバーのオデルが確認しています。6月8日の12時50分。これが彼らの最期に目撃された彼らの姿でした。
この本の最終章は現代に飛びます。かつてのチベット側からのルートは、中国隊の独壇場となっています。ロンブク氷河の入口までジープで入れるそうです。
「昔の登山姿の遺体が北東稜に転がっていた。」との情報が、中国の登山家から報告がありました。積雪の非常に少ない年で、鋲靴にゲートルの格好をした遺体が雪面から出ていました。戦前の登山者です。そこからマロリーの遺体の捜索が始まります。頂上アタックに向かったときマロリーはコダックのポケットカメラを持って行ったことが判っています。もし彼らが頂上に達していればそのフィルムが残っているかもしれません。登山家 栗城史多(くりき のぶかず)
お正月に放映されたドキュメンタリー映像を
見ていた人も多いのではないでしょうか。
↓
「7サミット 極限への挑戦」 2010年1月4日
NHK総合 19:30~20:45
7 summit(セブンサミット)。世界7大陸の最高峰の山々を指す呼び名だ。いま、この「7 summit」を日本人で初めて「単独・無酸素」で制覇しようとしている若者がいる。栗城史多(27歳)。8年前、進路に迷ってフリーターになり、今も“ニートのアルピニスト”を自称する栗城は、自らの登山をカメラ片手に撮影しながら登るというとんでもない挑戦も続けてきた。危険な撮影に挑むのは、この激動の時代を生きる人々に登山を通して何かを伝えたいと考えているからだ。番組は、「7 summit」制覇という大スケールの挑戦と感動を余すことなく描いていく。
猛々しい男のドラマを期待して放送をみましたが
ん?、と少しばかり裏切られました。
そして、「一歩を越える勇気」を読んで
あらま!、と
その活動意欲に驚きました。
登山家というよりは
山を登る青年実業家に近い印象を受けます。
善し悪しきは別として
プロトタイプにはまらない
全く新しい人種?職種?を創造している所が
今の時代にして生まれたニュータイプ!
と素直に感動しました。
登山家、栗城史多著書「一歩を越える勇気」
(あらすじ)
「人に感動してもらう冒険を行い、一歩踏み出す勇気を伝える」。
人が生きていけないデス・ゾーンといわれる
ヒマラヤ8000メートル峰から、インターネット生中継を行い
「冒険の共有」を目指す登山家・栗城史多の初の著書。
世界七大陸最高峰の単独登山や、8000メートル峰の
単独・無酸素登山を通して学んだ
「夢のかなえ方」「あきらめない生き方」をつづったこの本は、
ビジネスマンや学生からも多くの感想が寄せられ、
単なる冒険本としてではなく、人生そのものに役立つ本として
支持を集めている。
栗城史多はなぜ山に登るのか、なぜ命をかけて生中継をおこなうのか、彼の思いを知りたい人、達成したいと思う目標が一つでもある人は、
必読の一冊。
〈図書委員長の、あわせて読みたいこの一冊!〉
1962年12月、北海道学芸大学函館分校山岳部のパーティ11名は、
冬山合宿に入った大雪山で遭難した。
部員10名全員死亡。生還したのはリーダーの野呂幸司だけだった。
かたくなに沈黙を通す野呂に非難が浴びせられた。
45年の沈黙を破り、遭難事故の全貌がいま明らかにされる。
KAC図書委員長
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