2008年10月24日
他人の感情
他人の気持ちや苦しみを理解するのはやっぱり不可能だと思う。目の前で落ち込んでいる人がいる。わけを聞く。論理的に、そのひとがなぜ悲しんでいるかはそこで理解できる。頭では理解できる。ただ、だからと言って、自分も悲しい気持ちになるのとは違う。
他人の立場を論理的に理解することはできる。話しを聞いて、相手の気持ちがわかるのは、それは自分も一度たたされたことのある境遇である場合だけだ。貧乏した経験とか、大きな病気になった経験とか…。
それ以外だと、感情移入だとか、追体験のような場合が想定できるが、それを「他人の感情を理解する」といえるのだろうか。それは感受能力の問題だろう。ちなみに、どうも私はそういうことに関して感受能力が低いらしい。
しかし、人から話を聞くだけで、いちいち感情を「理解」して追体験するような、感受能力の肥大化しすぎた、あまりにも「感じやすい」人間なんているわけない。日常的な話で、「あの人は気持ちがわからない」という批判がなされたりするが、それは、たぶん、「ある人の立場を頭で理解する」という段階にすらない人なのだろう。
なにか悲しい話を聞いて、胸が痛くなることがある。それはでも、ひとつの話として叙情性に富んでいたり、あるいはその情景が胸を打つような「魅力」を持つからなのだと思う。
私が人生で一番ショックだったのは、実家の裏にすんでいたおじさんが自殺したことを聞いたことだ。その人は今の言葉でいえばニートで、でも明るく良い人で、よくタバコを吸っている近所の中学生を叱ったりしていた。その人の母が高齢で亡くなった。その後、その家は火事になり、全焼が免れたが、土地を二束三文で売って、年老いた父と小さいアパートで暮らしていたらしい。火事の後、彼の父もすぐに亡くなったと聞いた。その後、独りになった彼は、団地の屋上から飛び降りて自殺したのだ。
私はとてもショックだった。悲しさとも違う感情だった。乾いた孤独感のようなものがあった。それはもしかして彼が感じていた孤独感や虚無感だったのかも知れない。あのときだけは、私は、彼の孤独をわかったような気がした。それもやはり、自分も似たような感情を持っているのだろうか。
独我論的に考えれば、すべては主観だから、そもそも他人の感情なんて理解できないものだ。しかし、各人間の精神は完全に閉じたものではなく、一方が他方のなにかを感受したり、あるいは交信したりすることもあるはずだとは思う。
ううむ。最近とみに思考力が落ちている。だからブログも書けない。高校生みたいな文章を書いてしまった。だけどこれがいまのすべてなのです。
