関裕二氏の古代史を検証してみる

私はとある歴史研究者です。 あるとき、古代史好きという方から日本古代史についてびっくりするような話を聞いて、そのネタもとを探っていったら関裕二氏の一連の著作でした。 もちろん誰でも独自の古代史観を語るのは否定しません。が、一連の本がいわゆるトンデモ本に位置づけられず、まっとうな古代史の解説本として売られていることには驚きました。 そこで、ネットで検索しても関裕二氏について論じているものが見当たらないので、どちらかというと批判的に論じてみようと思いブログを開いた次第です。 繰り返しますが、関氏の論そのものを否定するつもりはありません。ただ、書店で占めるスペースの大きさからして、「この人の話は本当だろうか?」と疑問に感じた人が、照会する機会になればと考えています。 ちょっとずつ書き進めて行ければと思っています。

仮説 高校レベルの古代史知識しかないのかもしれない

ようやくブックオフに行く機会があったので、関裕二氏の著作の中で105円のものを適当に一冊選んでみた。

大化改新の謎―闇に葬られた衝撃の真相 (PHP文庫)
大化改新の謎―闇に葬られた衝撃の真相 (PHP文庫)

  • 目次の項目は秀逸
目次を見ると、なかなか面白そうな本と思った。
「改革潰しとしての大化改新と明治維新」
「王陵の谷に眠る聖徳太子」
などなど、キャッチーなテーマが並ぶ。

それでも
「部民制の制度疲労が引き起こした大化改新」
「大化改新は『制度史』だけでは解き明かせない」
と、この時点で早くも矛盾している点が気になる。
  • えっ? それって・・・高校の教科書のこと?
さて本文。
第一章、21頁目で早くも仰天。
>>
これまで指摘されてこなかったが、大化改新には、どう考えても解けぬ不思議な現象がある。
飛鳥板蓋宮大極殿で蘇我入鹿を暗殺した新政権は、その半年後、都を難波に遷している。
これが怪しい。疑問の声がでないことも不審きわまりない。
<<
おいおい!
ちょっと詳しい入門書でも、指摘されまくっていますぞ。
100人の古代史研究家(専門だけでなく在野の人も含めて)に聞けば90人はこのことを疑問に感じ、研究しているだろう。
なにしろ、有名な「大化の改新はなかった」論争もこの点がポイントになっている。 

この「これまで指摘されてこなかった」驚くべきことは、関氏が中学や高校の教科書程度の古代史の知識しか把握していないという「不審きわまりない」仮説を浮かばせる。

これほど研究家が注目しているテーマについて「これまで指摘されていない」と言い切れるのは、知らないふりというよりも知らないとしか考えられない。

普通、知っていたら、先学に失礼だし、書き手として自分の無知を晒すのはなにより恥ずかしいはずだ。

この20頁目にして、ほとんどの研究者は
「ああ、この人と論争するには、大学1年生くらいの基本から摺り合わせないと議論がまるでかみ合わない」と思うだろうし、それがこれまで関氏への学術的な批判が起きなかった理由の一つであると思う。私もちょっと読み進める気がかなりうせてきました。

ただ強調しておきたのは、多くの日本国民が持っている古代史への知識は高校レベルであるということです。
古代史にいい入門書がないのは、専門家たちが一般人を馬鹿にして、市民の目線にたった本を書いてこなかったという問題があるのも事実です。

その点で、古代史に興味を喚起させる(やり方はともかく)関氏の業績はあると思います。ただ、ちょっと読んでいて恥ずかしい。

22頁にも、1冊で日本史を語ってしまうおおざっぱな教科書的な視点があります。

>>
難波ではどうしても補えない欠点があった。それは、海からの敵に対処できないことである。
そこで目をつけられたのが、奈良盆地だった。晴れた日には瀬戸内海を一望のもとに見渡せる葛城山系と生駒山系に守られた奈良盆地こそ、都にふさわしかった。この鉄壁の「西に対する防御性」こそ、都にふさわしい最大の条件だったのだ。

<<
 このように、空から見た日本地図を知っている現代人の視点で、地理と歴史を容易に結びつけるのは、神様視線の理論であることは分かって頂けることでしょう。

もう一つの問題は、あたかもヤマトが最初から律令国家のようなピラミッド型の統一国家であると見ていること。(教科書知識ではそう思ってもしかたないのですが)
古墳時代までのヤマトが地方の豪族連合組織だったということは、古代史を少しかじれば気付くはずです。

天皇という強権を持ったカリスマが最初からいて、自由に日本列島の好きな場所に都を置いたり、防御ポイントを置いたりというのは、まるで考古学の発掘成果を無視したといえます。

この調子だと、邪馬台国についても著作がたくさんありますが、同じように日本地図を眺めて、「ここならこっちに山があって防御性が高いからここが邪馬台国だ!」みたいな論を展開しているのではないかと想像してしまいます。

細かく突っ込むときりがないので先に進みましょう。

  • またまた仮説 関氏の「不思議なこと」は「不思議でもなんでもない」ことが多い
関氏の大化改新説は、大まかに言うと、
「蘇我氏VS中大兄皇子」という日本書紀の丸のみ論と言えます。

にもかかわらず、日本書紀をきちんと読んでいないことも浮かび上がります。

>>
しかし、不思議なことに、『日本書紀』を読む限り、孝徳天皇はこの事件にまったく関与していない。(123頁)
<<

645年の記事だけしか読まなければ、そう見えるのでしょう。
その前後の記事を読めば、孝徳天皇が反蘇我勢力としてうごめいていたことは容易に読み取れます。

関氏の「不思議なことに」は「不思議でもなんでもない」ことが多いという点は指摘しておくべきことでしょう。

なお「最新の説」として、大化改新の黒幕=孝徳天皇説をあげて批判していますが、最新でもなんでもありません。かなり前から言われています。

遠山美都夫氏の『大化改新』(中公新書)をあげているのですが、最新といいながら1993年の本です。関氏の本が2002年の本ですから10年も前の本を「最新」と言ってしまう感覚は、確信犯かあまり気にしないかどちらかでしょう。

  • 張られた伏線を回収せず
漫画「20世紀少年」が伏線を張りまくりながら、そのまますっとぼけて終わったということで、批判を浴びていますが、関氏の著作にもそうした伏線を張って、回収しないというところが見受けられます。

>>
蘇我倉山田石川麻呂が中大兄皇子側についたというのは『日本書紀』の創作である。実際にはそうではなかったことは徐々に明らかにしていこうと思う。(124頁)
<<

日本書紀が創作であるとは魅力的であるが、その後、218頁から、石川麻呂についての日本書紀の記述を長々と書いているが、伏線を回収する論が展開される様子はない。
逆に「もしそうであれば(関氏の想像)すべてのつじつまが合ってくる」が連発される。
>>
それが中大兄皇子であったと考えると、すべてのつじつまが合ってくる。(226頁)

これも中大兄皇子と考えることで、つじつまが合ってくる。(227頁)

乙巳の変の前年、中大兄皇子が石川麻呂の長女を娶ろうとし、身狭臣に略奪されていたことはすでに触れた。しかしこの略奪の真犯人は、身狭臣ではなく、中大兄皇子本人ではなかったか。(231頁)???????長女と次女のいずれもものするため?????意味不明である。

兵に追われたからではなく、中大兄皇子の仕掛けた罠であろう。(232頁)根拠は示されず・・・

あるいはこういうことかもしれない。(234頁)あるいは、ね・・・

そう考えることで、すべての謎は解けてくるのである。(234頁)そこまでこじつければどんな謎も解けるでしょう。

*斜体は筆者の突っ込み
<<


  • 藤原鎌足は百済王
後半になると、物部が出てきて、出雲が出てきて、一言主が出てきてと、もうバトルロイヤル状態になってしまう。これは、読者はついていっているのだろうか?編集者はこの流れについて行っているのだろうか?と心配してしまう。

後半の斬新な説は、「藤原鎌足=百済王・豊璋」説だ。

これは本当にびっくり。この発想には拍手を送りたい。

ただ、それが正しく論証できるかは、トンデモ説かは別問題だ。

豊璋説の根拠についての説明を読めば、それが後者であることはすぐに分かるだろう。

>>
理由はきわめて簡単だ。
まず、中臣鎌足の『日本書紀』における登場の場面が、豊璋来日の後であったこと。百済滅亡の危機に際し、豊璋は本国に召還されるが、豊璋が百済に帰国したときから、中臣鎌足も歴史から姿を消していることである。そして中臣鎌足は、白村江の敗戦ののち、なに食わぬ顔で、中大兄皇子の前に姿を現す。
<<
続けてお得意のフレーズ。
>>
白村江の戦いの前後に中臣鎌足がぱったりと歴史の闇に紛れたことを、これまで指摘されなかったことが不思議なぐらいだ。
<<
これが通用するなら、中臣鎌足でなくても色々な人が豊璋になれるのは言うまでもない。
そもそも鎌足は白村江の戦いのあった1年間だけでなくほかの期間にもほとんどその活躍は記されていない。

なによりも、百済王家の末裔は日本に亡命しており、「百済王氏」を名乗って存続している。これをどう説明するのか? もちろん説明していない。

もしかしたら日本書紀のあとの続日本紀などを読んでいないために百済王氏を知らないのかもしれない。これは仮説である。




そして最大かつ全体を覆してしまう矛盾も露見してしまった。
本書でとく大化改新の謎とは、
蘇我氏は乙巳の変後も孝徳天皇の時代に重用されている。すなわち、孝徳は黒幕ではなく蘇我派だったとする。
そして、中大兄皇子・藤原鎌足によってようやく蘇我氏はつぶされたとする。
(ちなみに関氏は中大兄皇子と鎌足が悪者で、蘇我氏がいい者。その点は私もどちらかというと賛成。むしろどっちが一方的に良い悪いでもないと思う)

ところが、本書も終盤、196頁(全体249頁)になって大きなミスをしてしまうのだ。

中大兄皇子(天智天皇)の死後の壬申の乱についてだ。
>>
壬申の乱に際し、蘇我氏はじつに奇怪な動きを見せている。
はじめ蘇我氏は大友皇子の近江朝に与していた。これは、天智天皇の時代から蘇我氏が重用されていたからで、左大臣、大納言、少納言という要職を蘇我氏が席巻していたのである
<<

んんんん?????


矛盾しますね。関氏の大化改新論が全体の5分の4まできたところで破綻してしまったのです。

関氏もさすがに気付いたのでしょう。すかさず(  )で言い訳をいれます。
>>
(なぜ天智朝で蘇我氏が重視されていたのか。簡単にいってしまえば、白村江に敗れた天智が、「旧勢力」と妥協を図らざるを得なかったからである。)
<<

そんな重要なこと簡単にすますな!!
と普通の読者は突っ込みたいところですが、それまでに神話になったり、古墳時代になったり、聖徳太子になったりと頭をぐるぐるにされているので、( )で書かれていることに気付かなくなっているかもしれません。

関氏の「簡単に言うと」は、怪しいということも覚えておきたいフレーズです。

「簡単に言うと」(きちんと証拠を示して論拠を説明できない)
「不思議なことにこれまで誰も指摘していない」(自分が知らない)
「こういう風に考えれば、すべての謎がつじつまが合う」(自説と合わない史料はすべて捏造されている)
などのフレーズには要注意です。

以上で、終わります。少しはみなさんの役に立ったでしょうか。

仮説「関裕二古代史は架空古代史である」

まずは「関裕二古代史」がどういった性格なのかを知る上で、関氏がどんな著者で、どういった著作があるかを知ろうとしました。
とりあえず、と安易にウィキペディアで調べてみました。

>>
関 裕二(せき ゆうじ、1959年 - )は、歴史作家。千葉県柏市生まれ。仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー、以後古代をテーマに意欲的な執筆活動を続けている。
<<

シンプルです。
著作は数えるのも大変なくらい。多数です。
古代史の研究者としての評価を知りたいところですが、なにも書いていないなと思って、ウィキペディアの編集履歴を見ると、ありました直近の10月に、

>>
以後古代をテーマに意欲的な執筆活動を続けているが、歴史学界で問題にされておらず、トンデモ本扱いする者と、評価する者とがある。また限られた期間に厖大な数の著書を出しているため、同じような内容を何度も繰り返すことでも批判されている。
<<

という記載が消されていました。現時点で私が持っている印象は、まさにこの「消された」ウィキペディアと同じです。


この修正を施した人がほかの項目での修正履歴(投稿記録)を見ると、


ご覧の通り、「架空戦記」や小説が並ぶことから、一つの仮説として、「フィクションをもっぱら楽しむ人に真実の歴史を紹介する作家と認知されている」ということがあげられると思います。

つまり私がこのブログで主張したいと思っていることは、
「関裕二古代史」とは「架空古代史」
であるということです。(結論ではなく、現時点での仮説です)
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