フルンゼが病院で死んだのは1925年の10月31日で、おそらくスターリン自身がが関与しているのではと疑われている“不審死”事件では最も早い時期のものである。

 フルンゼが解任されたトロツキーに代わってソ連陸海軍人民委員および共和国革命軍事会議議長に就任したのが同年1月であったことを考えると正味10ヵ月間しかその地位に就いていない。

 しかもフルンゼは政治局の指示で手術を受けさせられている。しかも腹部を開口に心臓マヒで死んでしまったというのであるから「?」がいくつもつく。

 どうしてこういうことになってしまったのかを考える前に彼の経歴をみていこう。

 1903年にロンドンで開かれたロシア社会民主労働党の第2回総会で、運営方針を巡って党がウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキとユーリー・マルトフ率いるメンシェヴィキに分裂した際、フルンゼはボリシェヴィキに参加した。(彼は生粋のボリシェヴィキだった)

 その2年後、1905年の第一次ロシア革命でフルンゼは繊維労働者を率いてデモを組織した。革命が失敗すると、フルンゼは逮捕され、死刑を宣告されたが、その後減刑され重労働付きの終身刑となった。

 その後シベリアの労働キャンプで10年間過ごす。

 のちにフルンゼは脱走しチタへ逃亡した。その地ではボリシェヴィキの機関誌の編集をしていた。(血の日曜日事件によってサンクト・ペテルブルクにおける労働者組織が壊滅すると、チタが労働者たちの活動の拠点となっていた)

 1917年に2月革命が勃発すると、フルンゼはミンスクの赤衛隊を率いて活動し、ベラルーシ・ソビエト議長に任命された。

 内戦が始まるとフルンゼは南方軍の司令官に任命され、オムスクでアレクサンドル・コルチャーク率いる白軍に勝利し、コルチャークをシベリアへ駆逐した。(コルチャークは、連合国からの援助を受けオムスクを首都とする臨時全ロシア政府を樹立していた)

 1920年11月、フルンゼは最後まで白軍の統治下にあったクリミア半島を激戦の末占領しウランゲルをクリミア半島から駆逐した。(ウランゲルはスゥエーデン系貴族の子孫で、白軍を率いていたデニキンよりも人格も軍事的才能も、すぐれており政治に関する認識も持っていた)

 続いてネストル・マフノが率いていたウクライナのアナーキスト運動を鎮圧した。(1920年10月にはマフノ軍は赤軍と協力してヴランゲリ軍に対し共に戦ったが、白衛軍が粉砕された後、再びソヴェト権力に従属することを拒否し、その年の末に再び蜂起したが、敗北した)

 トロツキーはフルンゼを東部戦線全体の総司令官に任命し、トルキスタンの白軍を制圧するよう命じた。、(その後赤軍方面軍は極東シベリア、中央アジアのカザフスタン、一部はイラン北部へ、また一部はタクラマカン砂漠を越えて外モンゴルへと進んだ。)

 1921年、フルンゼは党の中央委員会委員に任命される。(彼の数々の軍功を考えると中央委員になったのは少し遅い気がする)

 そして1925年、ソ連陸海軍人民委員および共和国革命軍事会議議長に就任した。(彼がこの地位に登りつめたのはあくまでもトロツキーが“事実上”の失脚をしたからだった)

 もちろん21年から25年までになにもなかったというわけではない。ロシア共産党第11回党大会(1922年)に選出されていた軍関係の代議員の会議で、フルンゼとトロツキーはフルンゼらの“統一軍事理論”“統一した軍事的世界観”について論争している。

 もちろんこの論争におけるトロツキーの背後にはレーニンがいた。トロツキー=レーニン連合の主張は「実践的な技術においては、理論の葉や花をあまりはびこらせてはならない。これらの技術は経験という土壌の近くに置かれねばならない」。(クラウゼヴィッツ『戦争論』序文)につきるのだが、トロツキー=レーニン連合が警戒していたのはむしろ“統一軍事理論”の筆頭にあげられる「つねに攻勢的に行動せよ」というテーゼである。

 この時、トロツキー=レーニン連合の頭には昨年のポーランド侵攻の失敗があった。内戦の一つの結果ではあったが、赤軍がポーランド領内深くに侵攻したことはポーランドの民族主義を刺激して赤軍はポーランド軍の前に手痛い敗北を喫し、ポーランド侵攻を容認したことをレーニンは自己批判をした。(ポーランド侵攻についてはトロツキーが反対、ジノヴィエフ=カーメネフ連合が賛成の立場をとりレーニンはジノヴィエフ=カーメネフ連合に支持を与えていた)

 ドイツの「革命」を支援するために赤軍を送り、その通行の妨害となるであろうポーランドを占領するということは横暴な大国主義でしかないが、フルンゼの「一般的攻勢論」にはそういう大国主義を隠し持っていた。

 22年には大会で否決された理論を25年、フルンゼは再び持ち出しジノヴィエフ=カーメネフはそれに飛びついた。

 かくしてフルンゼ=ジノヴィエフ連合によって「つねに攻勢的に行動せよ」というスローガンが掲げられたが、22年のようにレーニンもトロツキーももういない。

 誰がフルンゼ=ジノヴィエフ連合の暴走をくい止めるのか、スターリン派の“軍事専門家”はせいぜいヴォロシーロフであるが彼は無能を絵に描いたような人物であり、エンゲルスやクラウゼヴィッツの引用を駆使して論争を挑んでくるフルンゼの敵ではなかった。

 その時、スターリンの頭にひらめいたのは、フルンゼが病気で死んでくれるというのであればそれにこしたことはないということだったとしても不思議ではない。