冠城亘の表情は今でこそ冷静さを取り戻しているかのように見えたが、内心は未だ穏やかでない事は重々自覚していた。
法の下に等しく裁かれるべきという、確固たる信念。
法の下に裁かれない人間を必要悪として裁く、確固たる信念。
どちらが正しいかなんて。
嘗て法の番人たる組織に所属していた亘であればこその、苦悩。
その全てが正しいなんてありえないのだ。
重罪を犯しているにも関わらず、法の目を掻い潜り、明るい日の元で堂々と歩く人間もいれば、そうでない人間もいる。
罪を償い、一般社会に復帰したとしても・・・それからを保証してくれる世の中か・・・違う。
一歩出てしまえば、好奇の視線に晒されて誰かが守ってくれるなんてことはない。
それだけの罪を犯したのだから・・・そう言ってしまえばそれまでなのだが、償った事への更なる代償がこれなのか?
警察という組織に所属してからというものの、その疑問が亘の中にあった。

だからと言って。

必要悪を許す、という選択肢はなかった。
何故なら。
それでは【彼等】と【同じ】になってしまう。
1人は相棒に逮捕された【彼】
もう1人は・・・・・。





マジックミラー越しに見つめる取調室の中は非常に静かだった。
取り調べを受ける男も、取り調べを担当している刑事も動かない。
中ではポツリポツリとした質問に対する、緩慢な答え。
だが、空気はピンと張りつめていて、見ているこちらが緊張してしまいそうな雰囲気だった。
亘は珍しく1人でその様子を眺めていた。
相棒である杉下右京は、まだ来ない。
先程、此処に入る直前に足を止めて、何かを取りに行ってしまったのだ。
「先に行っててください。すぐに戻ります。」
大体、こういう場合は亘が取りに行かされるパターンが殆どなのだが、今日は珍しく右京自身で行ってしまった。
最近は、亘を置いて勝手に行ってしまう事が多い様な気がする。
そこは亘の考えすぎかもしれない。
何をしに行ったのか・・・考える間、中の状況が変わるかと言えばそうでもなく。
容疑者の男の前には芹沢が座り、様子を黙って見つめる伊丹が扉の横で立っていた。
『・・・だから何度も言ってるじゃないですか刑事さん。私は彼女を殺したという証拠もないしアリバイだってある。いい加減帰してくださっても良いんじゃありませんか?予定があるんです。』
スピーカー越しに聞こえる男の声は、いい加減にしてくれと言わんばかりのものだった。
いつもだったら、2人のどちらかが先にキレて、机を割る勢いで叩くなり、睨みを利かせるなりして男を牽制するはずなのだが、今日はどうも勝手が違っている。
2人とも、嫌に静かだ。
口を割らない男への苛立ちからか、それとも何かを確信しているからこその余裕なのか?
注意深く窺う横で扉が静かに開いた。
「あ、右京さん・・・。」
「どうでしょう?何か話は聞けましたか?」
亘の顔など見る事はせず、ミラーの向こうに視線を動かし、真剣にその様子を探る。
何をしに行ったのかも言わず、自分の質問だけを投げつけてきた右京に、亘も溜息をついて首を振った。
「何も。男の方はどちらかと言えば早く帰せの一点張りで、お二人の動きもまだ。珍しく伊丹さんも何も言わずに、芹沢さんに任せているようです。」
「そのようですねぇ・・・。」
「右京さんは何をしに行ったんですか?」
聞かなければ何も言うつもりは一切ない上司に、亘の方が先に観念した。
が、そのことを素直に答えるつもりは全く無さそうで、薄い微笑みを浮かべたまま、ただ中を見つめている。
「大したことではありませんよ。鑑識に返しに行っただけです。」
【何を】と言わないところが右京らしい。
これ以上は聞けそうにない事を悟り、亘も口を閉ざした。
程なくして、取調室の扉がノックされたらしい。
伊丹が振り向いてそこを開けると、ぬっと腕だけが入り込み、何かを渡して耳打ちするとあっという間に去っていった。
その手が着ていたものから察するに、鑑識員の誰か・・・恐らく益子だろう。
チラリとその書類を確認すると、明らかに・・・。
まるで見えているかのように、伊丹の視線はマジックミラーの方を一直線に貫いた。
「・・・伊丹さん?」
「おや・・・気付かれてしまったみたいですねぇ。」
慣れ親しんだとは言え、この恐ろしいまでの強い眼光に何も動じない右京も大した度胸の持ち主だと思う。
「決定的証拠・・・ですか?」
「・・・決定的かどうかは彼等の腕次第ではないでしょうか?」
そう言いながらその場を動こうとしない様子に、亘も仕方なく動かずに見守ることにする。
「何のかんの言いながら・・・結構右京さんって捜査一課のお二人を信用してらっしゃいますよね。」
「信用・・・そうですね。言葉にすればそれが一番近いかもしれません。僕としては、彼等が間違いなく信念を持った警察官であるという事を知っているだけですよ。」



「貴方は、この日の夜に彼女と電話のやり取りもしていない、それで間違いないんですよね?」
伊丹はポツリと芹沢にも耳打ちし、元の位置に陣取った。
先輩の言葉に頷いた後、芹沢が放った質問に、もう聞き飽きたと盛大な溜息を男が吐きつけた。
「何度もお話ししたと思いますが?私は彼女と付き合っていたんです。彼女を失って一番傷ついているのは誰でもないこの私なんですよ?しかも・・・彼女は自殺した。自殺した彼女をどうして警察は殺人だと言い張るんですか?そしてどうして私をその犯人だと決めつけているんですか?どう考えてもおかしいでしょ?」
最初の内は紳士然と取り調べに応じていた男も、数日に渡ってしかも長丁場になればその仮面も剥がれ、疲労と苛立ちが見て取れる。
「付き合ってた・・・確か・・・不倫でしたよね?彼女、結婚してらっしゃったみたいですけど。」
怪訝そうに芹沢は目を細めて、男を横目に睨んだ。
「それは・・・そうですが・・・。」
口籠り、芹沢の視線を避けつつも『それがどうしたんです?』と開き直り気味に呟いた。
「彼女は自殺でしょう。間違いなく。ただ・・・それが彼女の意志だったとしても、それを教唆した人間がいる、それが貴方だと言ってるんですよ。」
今まで黙っていた伊丹がとうとう口を開いた。
芹沢の横に立ち、受け取った書類を握りしめたまま男を上から睨みつける。
「自殺を教唆?・・・そんなことをする理由が私にはない。愛する女に自殺しろという男がどの世界に居るんです?」
「・・・この世界に、目の前にいらっしゃるじゃないですか。」
『貴方が』と、真っ直ぐに指をさし、男の目の前で止まった。
「バカバカしい・・・・・!」
顔を背けて床に向かって吐き捨てた言葉は、取調室の中で妙なエコーを生み出した。
「・・・今沢健吾さん。」
伊丹の口から1人の名前が出る。
瞬間、男の肩が明らかに・・・誰が見ても分かるように震えた。
「・・・だ、誰の名前です?わ、私は・・・村松健吾・・・という名前ですが?」
男・・・村松は顔を上げて伊丹を睨んだ・・・が、その目は見事に泳いでいた。
「ええ、知ってますよ。【村松さん】。新進気鋭の今をときめくIT企業の2代目社長さん、ですよね?」
「知っていることを何度も言わないでください。それがどうしたんですか?」
「いえ・・・ただ、今沢健吾さん、これも貴方ですよね?」
バサリと置かれたのは村松の学生時代の写真数枚と、同窓会名簿の拡大コピーだった。
学生時代とは言え、その面影ははっきりと残したままだ。
「他人の空似ではないですか?私は村松です。」
「そうですか・・・。」
『でしたら』と伊丹は村松の青くなっている顔を更に凝視する。
「これを提供して下さったのは貴方の学生時代の御友人たちです。貴方の事をよく覚えてらっしゃいましたよ。親父から実力で奪い取ってやる、もう絶対に金で泣く様なことにはならない。と、仰っていらっしゃったそうですね。ああ、勿論、【今沢健吾】さん、として、ですが。何なら、今から直ぐにでも御友人たちをお呼びして顔を合わせて頂くという事も出来ますよ?念の為、御許可頂いていますから。」
一言一言発する度に、村松の様子を観察し続けている。
青くなったり白くなったり赤くなったりと、その表情をとても忙しく変化させる男の挙動は、あまりに不自然だった。
「だ、だ、第一、私がその【今沢健吾】だっとしても、私が彼女を自殺に追い込む理由には何もならない筈だ!!」
尋常でない姿から、間違いない事だけは確かなのだが。
芹沢は、未だ冷静さを失わずに村松を揺さぶり続ける伊丹をただ、見守る。
「では村松さん、こういう話はどうでしょう?・・・今から5年前、ある事件が起こりました。一人の女性が複数人の男達に暴行を受け挙句殺された。殺人で逮捕された男達の供述によれば、主犯格である人間に唆されて女性を襲い殺したと言っていましたが、肝心の主犯格は直接手を下していない、男達の存在も知らぬ存ぜぬ、当時の警察も状況証拠のみで決定的証拠を得ることが出来ないまま結局証拠不十分で不起訴になった。」
「・・・・・・。」
淡々と関係の無さそうな事件の概要を説明する伊丹は、段々下を向き無言を貫く村松の頭をだけを見ている。
「主犯格の人間の名は・・・【桂山麗】・・・どこかで聞いた・・・ああ、貴方の自殺した恋人のお名前でしたね。」
名簿のコピーの上、村松の前に置いたのはつい先日、高層ビルの屋上から飛び降りて二目と見れない凄惨な遺体となり発見された恋人の、生前の写真。
とても端正で美しい女性。
飛び降りたビルの屋上に残された脱ぎ捨てられてあちらとこちらに爪先を向けた赤いハイヒールが映る現場写真。
薄く微笑む彼女の免許証写真は、その気は無くてもすれ違えば振り向いてしまいそうになる美人だった。
「そんな・・・彼女が・・・そんな過去が・・・。」
「知ってらっしゃいましたよね?何故なら・・・5年前の殺された女性って、貴方の妹さんなんですから。」
何も知らない人間が見ても、村松の動揺が手に取るように分かる。
位置関係は変わらずとも、取り調べの主導権は伊丹に変わっていた。
「5年前、貴方の妹さんは桂山さんとSNS上で知り合った。最初は単なる同じ趣味を持つ繋がりで。が、桂山さんの方はそうではなかった。最初から金を巻き上げる人間を探していた。貸してくれから始まり、優しい妹さんはそれに応じた。その内、金品をせびる様になり、脅迫へと変わり・・・でも、妹さんは家族にも相談できず、恐らく警察に相談するとでも伝えたのではないでしょうか?妹さんは彼女に頼まれた男達に用済みとばかりに殺された・・・違いますか?」
「・・・っ!!・・・私がこの・・・その、5年前に殺された・・・今沢康子って人の・・・兄って言う何か証拠でも?あるんですか?」
やっと顔を上げて伊丹に向けた瞳は血走っている。
真っ赤になった顔は、高い位置にある小窓から入る西日の光の所為だけではない。
証拠なんてある訳がない。今にも噛みつきそうな勢いの口ぶりで凄んでも、相手は捜査一課、しかも最前線で捜査をする二人だ。
何の牽制にもなりはしない。
それどころか、伊丹は表情こそ変えなかったがふ・・・とため息を漏らした。
「・・・何処でその名前を?」
「・・・え・・・?」
「・・・こちらは一言も伝えておりませんが?・・・10年前に殺された女性の名前は、一言も。」
広げてあるのは【今沢健吾】という事の証拠品と、桂山麗の写真、10年前の事件の概要だ。
「・・・こ、ここに、5年前の事件が・・・。」
「・・・念の為プライバシーの関係上、お名前は伏せてありますが見えませんでしたか?【村松さん】。」
軽く指で示された書類は、事件の概要をコピーしたもの。
しかし・・・伊丹が指さした箇所は被害者の名前が隠されて簡単なアルファベット記載に書き換えられていた。
「ついでに言えば、【村松さん】貴方が桂山さんと知り合ったのは1年前。父親から社長を継いだ後、社長として初めて出席されたパーティーの席で。それから彼女と付き合いを始めた。勿論、会社社長の村松として。彼女との連絡を取っていたスマートフォンはこちらで間違いないですか?」
伊丹の指は書類からそのまま、机に置きっぱなしの彼のスマートフォンへと移行した。
「・・・ええ。」
「桂山さんのスマートフォンも確認させて頂きたかったのですが、残念ながら飛び降りた衝撃で本体は壊れていたんですよ、もう、それは粉々に・・・が、最近の鑑識は優秀でしてねぇ。大事な部分が無事で、全てのデータを復元出来たんです。・・・お陰で【村松さん】貴方のアリバイも成立しました。」
逆に自分を擁護する言葉に、村松はニヤリと・・・自信を取り戻した表情に戻った。
勿論、それも目の前の二人にとって想定内、だったが。
「でしたらもう、解放して頂いてもよろしいでしょう?先程も言いましたが予定が詰まってるんです、忙しいので。」
「残念ながらまだお話は終わってはいませんよ。【村松さん】」



ミラーの向こう側、亘は僅かに眉を顰めた。
今の今まで中を静観していたが、あまりにいつもと違う様子の伊丹。
いつもならば、短気な性格が前面に押し出されて、よく通る上に凄みの利いた怒声が取調室に響き渡っても良い頃合いなのに。
視界の狭い窓枠の中で繰り広げられる攻防戦らしきものは、どちらかと言えば横にいる右京の様に言葉巧みな頭脳戦だった。
勿論いつもいつも捜査一課の彼らの様子を見ているわけではないので、いつもはどうやっているかなどと知る由もない。
余程、荒っぽい取り調べの状況しか覗いていない・・・という事になるが。
芹沢の頭が少々動いたおかげで、伊丹の手元が亘の目に映る。
もう一枚だけ、何かを掴んでいた。
薄っぺらい紙が手の中でくっきりと皺を刻み、細く長い指先が少しだけ赤らんで・・・。
「・・・そういうことか・・・。」
「何か言いましたか?」
ピクリと眉尻を動かしながら右京が窓の向こうからは目を離さずに尋ねる。
「いえ・・・別に。」
亘の一言も気にはなったが今は目の映る向こうの様子しか興味はないと、暗に伝えているようだった。
要するに、静かにしていろということか。
細かいことが気になるのと、重箱の隅を突きたくなるのと、納得できないことを右京自身が納得できるまでとことん調べ尽くして、相手が降参するか感情的になるまで止めないという、甚だ迷惑な癖を持つ右京。
事件捜査上では迷惑であっても非常に役に立つ癖であることは、警視庁の右京に関わった人間であれば、特によく理解している。
その割には一つだけ。
あまり得意ではないことが一つあることを、相棒になって数年目の亘も何となく気付いていた。
本人が苦手意識を持っているかどうかは別として。
沈黙が続く。
こちら側も、あちら側も。
動く気配がない。
この狭い続きの二部屋の中で最初に動いたのは意外な人物だった。
「・・・。」
亘の隣の影がゆらりと動く。
右京が後ろ手に組んだまま、右足を横に動かしたのだ。
直感でミラーの向こう側に行こうとしているのが分かり、思わず・・・亘がその腕を掴んだ。
「・・・?何ですか?」
「・・・いや・・・つまり。」
思ってもみなかった行動に、少々目を大きく開く右京の表情は案外珍しい。
「つまり・・・もう少し、待ちません?・・・あと、ちょっとだけ。」
数秒・・・特命係の視線が互いの胸の内を探る。
掴んでいた手の中の腕が少し緩んだ。
何も言わなかったが了承してくれたようで、足を元の位置に戻した。
「たまには、俺の言う事も聞いてくれるんですね。」
「・・・僕はそんなに聞き分けの悪い人間ではないつもりでしたが?」
「・・・十分、聞き分け悪いと思いますよ。ここに居てくれってお願いしてもじっとしてくれなかったじゃないですか。」
『現に、つい最近』そう言いかけたが、それについては黙っていることにした。
亘の内心、穏やかでない心情が再び表に出てきそうな気がして。
何とか醸し出さぬように、亘は両腕を胸の前で組み、自然と力を入れた。




・・・続