この仕事は、目も鼻も耳も第六感も良くなければ務まらない。
何しろこの手の中に存在する確かな証拠、被害者が加害者が関係者が残したであろう物証が全て、これが彼の矜持。
だから。





この目を閉じて半分寝ているような今この瞬間であっても、嗅覚が反応しただけで、勝手に脳内分析を始める。
この匂いは知っている。
どこかで嗅いだ。
しかも、この状況下で、だ。
寝ている時に嗅ぐモノか?
違うだろう、と思い直す直前に良い音も聞こえてくる。
油が爆ぜる音。
嗅覚聴覚総じて、実に香ばしい。
「はて・・・?」
頭の中で呟いたのか実際の声か判断つかない。
急に音も匂いもくぐもった。
蓋がされたのだろう。
蓋、ということは。
「マー君。」
今度は声が彼の愛称を呼ぶ。
転がる鈴のようで、優しい声が彼を呼ぶ。
「朝ゴハン、できちゃうよー。」
朝食・・・なんて食べなくなって久しい。
誰の朝ゴハンなのやら・・・?
「マー君、焼けたよー。」
マー君は、間違いなく自分のことだ。
ただ、そう呼ぶのはこの世でたった一人しかいない。
「マー君!」
「はいっ!!!・・・おごぉっ!!!」
飛び起きた理由は腹の上にドスンと強烈な一発が叩き込まれたから。
海老の様に両手両足を天に向かって伸ばしながら妙な悲鳴を吐き出し、目をかっ開いた米沢の小さくつぶらな瞳に映ったのは、タワー状態に積み上がり一番上にあった筈の未開封プラモデルだった。
「夢でしょうなぁ・・・やはり。」
それでも、まだ香りも音も、それはリアルな感覚のままだった。
勿論、彼女の声も。



白日夢に似た奇妙な目覚めになったのは、台所に行ったらすぐに理解した。
窓全開で隣室の朝食メニューがそのまま流れてきたのだ。
「早起きは三文の徳・・・。」
眼鏡をかけて、現実がくっきりと輪郭を描いた。
雑然とした部屋の中は、間違える要素が一切無い男臭い独り暮らしの散らかり様、自分がこの部屋に鑑識に入ったらこう呟くだろう。
『男性 中年 オタク 荒らされた部屋。』と。
こんなだったか?あの頃も?
彼女もこの空間にいた時代があったのに、あれから数年でここまで変貌すれば、ある種立派だ。
「何が立派なのやら、私のズボラが具現化されただけですが。」
ズボラもあるだろう、しかし米沢の職業柄、どうしてもそこまで手を回す時間がないのも事実だ。
様々な障害物を乗り越えて、美味しそうな匂いをとにかく遮断したところで、残り香は漂い続ける。
通常の起床時間を遥かに早めた静かな朝、静寂の薄い膜を完全に破り捨てたのは、米沢の腹の虫だった。



冷蔵庫に奇跡的にあった食材は卵一個だけ。
十分だった。
これをまさに欲していた。
彼女が作ってくれた朝食の定番、米沢が好きな卵料理のレパートリーは必然的に多くなっていった。
とはいえ、米沢が作れるものはたった一つだけで、他は無理だ。
冷たいままのフライパンにサラダ油を多めに、カッコつけて片手で割ろうとして一度大惨事になった経験上、慎重に両手で殻を開いて、そのまま落としたら、ちゃんと目的の場所に投下できたか、全く分からない。
どこから油でどこからが白身かは、火を付ければ判明するだろう。
コンロのノブを回して青い炎が湧き出したのも確認し、火加減は無視したまま。
その辺にあった蓋を被せ、サイズがあってないのもお構いなしにその場を離れた。
音が匂いが再び部屋に充満していく。
水分を弾く油が抵抗する音、強火で蛋白質が焼けていく。
時折、蓋からの水蒸気が続け様に手を離し、驚く程の破裂的な効果音を耳に、米沢は平然と無表情で仕事の準備をする。
どうせ着替えるのだが、とりあえずのスーツを着用し、時間の経過で勝手に綺麗なマッシュルームカットスタイルになる髪を一応、櫛で流して。
頃合いだろう。
湯気で何も見えなくなった蓋を不用心に開けたモノだから、一気に噴出する高温の煙で、眼鏡の視界を完全に失ってしまった。
「おおうっ。」
箸でつまみ上げた平べったい物体をとにかく皿に救出して、フライパンに冷水を蛇口から直接ぶちまける。
当然、部屋は疑似ボヤ騒ぎ状態となり、換気扇のスイッチを入れるという動作に頭の回転が追い付くのまで多少時間が掛かってしまった。
ようやく落ち着いて出来上がりの目玉焼きに目を向けてみる。
「ふむ、上出来ですな。」
大騒動したにしては、周囲が少し揚げ焼きのようになり、ふっくりと白身の膜から黄身が薄いクリーム色を盛り上がらせて、米沢好みになっていた。
「塩、醤油、ソース、胡椒、ケチャップ、マヨネーズ、今日の気分は・・・。」
そう呟きながら冷蔵庫を漁るも、口にした調味料の半分以上、そこには存在していない。
「あなたにしましょう。」
選択の余地はほぼ無かった中で、手にした刺身醤油は一体いつのものだろうか?
・・・と、いうのも何回思っただろうか?
毎度腹痛に見舞われたことがない過去を理由に使用するのだが、今回もそれで納得し、箸で割った黄身の中に適当にかけた。
「塩分過多でその内引っ掛かりそうな気もしますが、まぁ、良いでしょう。」

『かけすぎはダメよ、マー君。』

幻の注意が聞こえてくる。
今朝の夢は妙にリアルだった。
一口で半分啜り込んだ目玉焼きを黙って咀嚼しつつ、湧いた疑問を冷静に分析する。
夢に見たのはいつぶりだろうか?
そもそも初登場ではないか、塩っぱくなった目玉焼き、否、目玉焼きの形を取った醤油を飲みかけのペットボトルのお茶で流して、なおも考える。
キレイさっぱり、跡形もなく消えてしまった、本当に存在したのかさえ怪しくなるような幻の彼女。
物証が全ての米沢に対して、追跡する術を魔法のように消していった。
そこまでして?何を?
訊くことも答えもないまま、数年が過ぎて、現実は。
「帰ってきたら真っ先に叱られそうな部屋の様な・・・まぁ、良いでしょう、それはそれで。」
不意に気が向いて帰ってきそうな気がする。
その理由は。
鑑識に必要な第六感が、そう言ってる。



皿は帰ってから洗おう。
いつ帰って来るかは不明だが、多分、今夜帰って来るだろう。
「早起きは三文の徳、徳が在れば万々歳、何があるのやら・・・。さて、行くとしますか。」
扉を開けた向こうは快晴、には程遠いどしゃ降りだった。
「こういう時に外で事件が起こって欲しくないものですなぁ。」

傘を広げる準備だけして、米沢は廊下を歩き始めた。

数日後に、米沢が数年ぶりに彼女の痕跡らしきものを発見するのが、徳なのか何だったのか、それは彼しか分からない話である。




good morning