読んだ本の紹介、感想を含め、面白かったものや楽しかったことについて書いていくつもりです。

人工知能(AI)の凄まじい発達ぶりは、最近、さかんにメディアで報じられています。また、将来はAIやそれを搭載したロボットによって、いま人間がしている仕事の多くが奪われる、といった見方もさかんになされています。
日本や欧米の研究機関などが「職業や労働人口の半分近くがAIやロボットによって代替されるようになる」といった趣旨の予測をしているのはご存じの通りです。
単純労働や肉体労働だけではありません。たとえばアメリカでは昨年(2016年)、大手法律事務所が世界で初めてAI弁護士を採用したそうです。映画やドラマによく登場する、人間の秀才エリートのイメージが強い弁護士でさえも、AIを搭載したロボットに奪われていく可能性があるのです。

では、そうやってAIが社会を大きく動かすようになる近未来に、人間の働き方や生き方はどう変わるのか。生き残るために、人間は何で武装すればいいのか──。
いうまでもなく人類にとって重大な問題ですが、この点に関するわかりやすい説明を僕はあまり読んだ記憶がありません。
その中で明快かつ平易に答えを提示してくれる数少ない例の1つが、成毛眞さんの新著『AI時代の人生戦略 「STEAM」が最強の武器である』です。

AIが多くを担う未来社会における人間の仕事はどのようになるのか。踏まえて置かなければならない前提として、本書は〈AIやロボットを使う側の仕事と、使われる側の仕事が生まれる〉と説きます。
では、AIを使う側とAIに使われる側のどちらになることを望むでしょう。成毛さんの答えはシンプルです。

〈私ならAIを使う側だ。使われる側なんて、ちっとも面白くない〉

おそらく多くの人が同じ希望を持つと思います。
では、AIを使う側になるためには何をすればいいのか。成毛さんは、そのための必須の要素が「理数系の知識」であるとして、今後のAI時代を生きる人はすべからく理数系を学ぶべし、と訴えています。
これが本書の主張のシンプルな核心です。

このAI時代に必要な知識を、本書では諸分野の頭文字を取って「STEAM」と呼んでいるのですが、厳密に言うとこれはすべてが理数系ではありません。
サイエンス(科学)の「S」、テクノロジー(技術)の「T」、エンジニアリング(工学)の「E」、マスマティックス(数学)の「M」の4分野に、アート(芸術)の「A」が加わって「STEAM」になっています。
つまり、科学、技術、工学、数学の最先端の知に、さらにアートが結びついて、初めて大きなイノベーションが生まれるのが現代だというのです。

本書の特徴は、「STEAMで知的に武装すること」が基本的にこの社会で働く人すべてにとって不可欠だと強調している点です。
「理数系が大切です」くらいの穏やかな主張ではありません。学ばない人間は著しく不利になる(AIに使われる側になる)というのです。
 
正直なところ、僕は、社会が理数系を軸とする方向にそこまでシフトしているとは思いませんでしたし、成毛さんの危機意識の強さも予想を大きく上回っていました。
僕はこれまで、
「理数系の高度な知識は社会にはもちろん必須だし、そのリテラシーを持つ人が増えることは望ましいけれども、人によっては不得手な場合もあるわけで、そういう人は苦手な理数系ではなく他の分野に注力した方が、人生で戦うための武器を効率的に得られるのではないか」
といったことを漠然と考えていましたが、どうやら認識が甘かったようです。
さまざまなビジネスや開発の具体例を挙げつつ現状と近未来をわかりやすく教えてくれる成毛さんの説明に、目から鱗が落ちるような思いでした。

従来であれば、理数系の知識を「文系出身だから苦手」とか「興味ない」とか「別に仕事でも必要としていない」などと敬遠しても、別に大きな問題はありませんでした。しかし、そんな呑気なスタンスで生きている人にきわめて“危険”な時代が到来しているとして、成毛さんはこう述べます。

〈(STEAMを)遠ざけたければ、それも個人の自由だろう。だが将来、そのような人は職を失う可能性が高い。あらゆる仕事が、サイエンスやテクノロジーとかかわるようになるからだ。仕事だけじゃない。生活全般とかかわるようになる〉

そういう現状にもかかわらず、日本には「女子生徒に三角関数は不要」という発言(科学軽視と女性蔑視という二重の意味で問題発言だと思います)をした鹿児島県知事がいたり、「二次方程式は社会に出ても何の役にも立たないから追放すべきだ」と公言する有名作家がいたりします。
このような、社会にとっても個々人にとっても有害無益な発想・風潮を成毛さんはこうばっさり斬って捨てます。

〈三角関数も二次方程式もわからない人が、これから急速に社会に浸透していく人工知能(AI)やロボットを「使う側」に回れるとはとても思えない。
あなたはAIに「使われる側」になりたいだろうか?〉

まさに明快にして痛快。批判された側はぐうの音も出ないほどの正論でしょう。

また、仮に組織に勤めている人が「自分が所属している部署は理数系と関係ないから問題ない」と思っていたとしたら、それも大間違い。
どんな大企業でも、あっという間に経営が傾いてしまう時代、各社とも新しい収益源となる事業を血眼になって探しています。
組織が従来とはまったく異なるさまざまな領域のビジネスにチャレンジしているのですから、個人にとっても、転職しなくても社内の人事異動によって、携わる領域が激変してしまいます。そして、企業が開発しようとする新領域の多くには、テクノロジーやエンジニアリングが密接に関わっている(というよりその土台になっている)のです。
そういう背景があって、成毛さんは以下のように厳しく指摘しています。

〈自分の仕事の範囲を自ら規定し、そこだけを見て仕事をしているような人は、会社が、そして社会がどの方向へ動こうとしているかを見落とす〉

〈企業は次のレベルに進化しても、一個人たる社員が置いてけぼりを食らい、脱落してしまう可能性は高い。この先は、会社やそれをとり巻く環境の変化に敏感な人だけが生き残れるということだ〉

ここまで紹介したように、本書は理数系の知識の習得が欠かせないものになる今後の世界像をわかりやすく、説得力を持って提示してくれますが、加えてもう1つ、非常に親切かつプラグマティックに役立つ点があります。
それは、その新たな世界で生き延びるため(AIを使う側になるため)の「学び」の方法を、具体的に詳しくアドバイスしてくれている点です。

悲しいことに日本では、大学受験に備えて「文系」を選択した多くの若者が、高校2年くらいの段階で数学や科学と縁を切ってしまいます。以後の長い人生でも、ずっと接することがなくなってしまうわけです。
そういう人たちも(特に50歳以下の世代は)理数系を学び直すべきだと成毛さんは強く主張するのですが、実際には、勉強しようにも、仕事で忙しかったり学校へ通うのも現実的でなかったり、といった問題があります。
そんな「STEAMを身に着けたいのにどうやったらよいかわからない人たち」に向けて、本書では、かゆいところに手が届くような具体的なアドバイスがなされています。たとえば以下のようなものです。

〈そこで独学だ。独学で十分なのだ。基本的にこれからの学びは高等教育でこそ自習になると思う。(中略)独学に最も適しているのは、もちろん読書だ〉

〈本に加えて、案外とバカにできないのはテレビ番組だ。NHKを中心に、サイエンス系について詳しく、なおわかりやすい番組が幾つもある〉

さらに、読書についても、薄い本でいいからとにかく1冊を最後まで読み通せと勧めたり、お勧めのテレビの科学番組を紹介したり、丸々1章を割いて30冊近くの推薦図書のブックガイドを載せたりするなど、行き届いたサービス精神が遺憾なく発揮されています。

そして異色のアドバイスは、最終章に書かれている、STEAMを身に着けるには「ゲーム」や「VR」(仮想現実)の体験が必須だ──というもの。
章タイトルからして、「ゲームで遊ばないような奴に明日はない」という挑発的な文言で、本文では、

〈目を覚ましてほしい。この先の残酷な時代を生き抜くには、5教科7科目の勉強や眼の前の仕事だけに必死になるよりも、ゲームで遊んだほうが役に立つ〉

とまで断言しています。その具体的な理由についてはぜひ本書に当たっていただきたいと思います。

成毛さんの著書は、以前も英語学習についての本を紹介しましたが、
「世界がどこへ向かうのか、その未来像を知りたい」
「来るべき未来社会の中で、なぜ、どんな能力を、どの程度高めなければならないかを知りたい」
「具体的にどうやって能力を高めればいいのか、その方法論を知りたい」
という3点のニーズを満たしつつ説明するのが、本当に巧み
な筆者だと思います。

しかも、ハイレベルな目標をクリアせよと呼びかけるのではなく、英語でも理数系の知識でも、少しの努力で無理なく到達できるゴールを設定する。その現実的なバランス感覚が絶妙です。
全体として読者への気配りが“てんこ盛り”で何重もの学びを得られる、実用性の高い本と言えます。買った人にとっては、代金の元が取れるどころか、非常にパフォーマンスの良い投資になることでしょう。
成毛氏AI時代書影

ノンフィクション作家・田崎健太さんの連載「タイガーマスクと呼ばれた男の真実 真説・佐山サトル」が楽しみでこのところ毎号読んでいる雑誌「KAMINOGE」、しばらく前にVol62が出ていたので買ったのですが、気がつくとVol63(格闘家の藤原喜明さんが表紙)が書店に並んでいました。
慌てて先に出たVol62の方を読んでみました。こちらは格闘家の前田日明さんと作家でタレントの乙武洋匡さんの2ショット写真が表紙です。

実際に表紙と目次をめくると、巻頭に前田さんと乙武さんの「スペシャル対談」が載っています。
このような異なる分野の人たちが語り合うと、えてして単なる有名人交遊録のような通り一遍の浅い内容になりがちですが、今回の“異種格闘技”的な対談は、実に面白くて読み応えがありました。
分量がたっぷりあるのも読者としては嬉しい限り。
前田×乙武誌面
昨年(2016年)3月、乙武さんについて複数の女性との不倫問題が報じられ、ずっと真面目な人という印象があっただけに、多くの人が驚いて大騒ぎになりました。
この不倫報道によって乙武さんは東京都知事選挙に立候補するのを断念し、また離婚したとも報じられています。
その乙武さんを、前田さんが「いま一番会いたい人」と言って誉めたことからこの対談が実現したそうです。
「性欲、ネゴシエーション能力、コミュニケーション能力、そのすべてが称賛に値する」という前田さんの誉め言葉があまりにもストレートすぎるような気がしますが、確かにその3点がハイレベルで揃わないと、複数の不倫などという面倒なことはできないのかもしれません。

実際、対談が始まって早々、乙武さんの“モテる理由”が話題になります。
前田さんは、モテぶりの最大の要因を乙武さんの「コミュニケーション能力の凄さ」と、それを可能にした「他者を見るときの情報分析の鋭さ」ではないかと指摘します。

この前田さんの推測は見事に的中しました。
対談の最後の方で、乙武さんは、実際に自分のコミュニケーション能力は子供の頃から高かったことと、その能力が磨かれたのは、先天性四肢切断という障害があったせいだと語っているのです。
乙武さんは障害を持つゆえに、子供の頃から現代に至るまで、日常生活のさまざまなことを人に頼まなければなりませんでした。
そのため自然に、頼みごとを引き受けてくれそうな人のタイプを見分けたり、頼んだときに相手がどんな反応をするかを予測したりする癖がつき、そうやって人間観察力が鍛えられた結果、コミュニケーション能力が高まったというのです。
まさに前田さんが考えた通り、乙武さんの、目の前にいる相手に関する「情報」を分析する力は非常に優れているわけで、それが艶福家であることを可能にしたわけです。

さらに、これは面白いと感心したのは、乙武さんが次のようにサラリと、かつ堂々と語っていること。

〈私はこれまでの人生、思春期を含めても「どうせ俺は障害があるからモテないだろうな」とか卑屈な思いをしたことは1回もないんですよ〉

仮にこの発言が、不倫が発覚してから間もない頃になされていたら、あっという間に炎上して、あちこちに拡散されて、さらに叩かれていたかもしれません。
まあ、今もテレビなどでは言えないでしょうし、賢い乙武さんはその辺の感覚もわかっていて、「KAMINOGE」というエッジの立った個性的なメディアだからこそ発言したのだと思います。
いずれにせよ、乙武さんが、自分に関して確固たる静かな自信(ご本人の言葉では「自己肯定感」)を持ち続けており、それを恋愛だけでなく、人生全般の原動力にしてきたことは確かなようです。

それを受けて前田さんは、「人間にとって、ナルシズム、つまり自分を好きであることは大切なのだ」という趣旨のことを述べます。 
好きな自分をどうやって他者に見てもらうか。それを常に考えるところから、人間の成長は始まるのだ、と。
こういうふうに対話が噛み合っていくのが良い感じで、乙武さんも前田さんに賛同しながら、人生で卑屈な思いをしたことがないのはご両親の育て方のおかげだと語ります。
ご両親が、障害を持っていることも含めて乙武さんを全面的に肯定しながら育ててくれたからでしょうし、その事情を乙武さんは以下のように話しています。

〈私の場合、もし親の育て方が違っていて、私自身が自分が障害者であることを卑下していたりだとか、自分に自信がなかったら恋愛でももっと苦労していたと思いますし、異性から見ても「この人とは付き合いたくないな」っていうオーラが出てしまっていたと思うんですよね。ところが、両親の育て方のおかげで自分が障害者であることに対して否定的に思うこともなかったですし、それを引け目に思うこともなかったんです。(中略)「俺は障害者だからきっとモテないよ」だとか「どうせ俺なんか恋愛ができるはずもないんだ」なんて思うこともなく、自分自身がフラットに女性に対して向き合えていたので、逆に向こうから見てもそんなに障害ってことがハードルにはなりにくかった〉

親の育て方のおかげで自分に自信が持てて恋愛もいろいろ経験できた、とだけいうと、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいに聞こえますが、上記のように丁寧に説明してもらえると、なるほどと納得できます。
別に自分の不倫を親御さんのせいにしているわけではないと思いますが……(笑)。

とにかく乙武さんは、著書『五体不満足』がベストセラーになって一躍有名人になって以来、メディアから聖人君子のように扱われる一方でした。
雑誌の取材やテレビの収録などで羽目を外した発言(下ネタとかおふざけとか)をしても、すべてカットされてしまって世の中に出ず、品行方正なイメージばかりを植えつけられてきました。
もちろん、不倫は誉められたことではないし、元夫人やお子さんを傷つけた責任は今後も乙武さんが背負っていかねばならないものですが、それとは別に、不倫問題が社会に広く知られたことで、「真面目一方の好青年」の印象に押し込まれる息苦しさから解放されたのも事実のようです。
その点を乙武さんは〈私が不倫していたっていうこと自体は批判されてしかるべきだとは思います〉と断りながら、

〈これからは何か演じるってことをせずにありのままの自分でいけるんだと思うと、ある意味で凄く肩の荷が下りたというか、気楽になった部分がありますね〉

〈不登校とかひきこもりの方から見て、「あんな身体でもあんな堂々として図々しく生きてるなら、俺ももうちょっと図々しくていいんじゃないか」っていうふうに思っていただければ凄くありがたい〉

などと素直に真情を吐露しています。
「マイナスをプラスに変える」などと言うと陳腐に響いてしまいますが、しかし乙武さんの場合、不倫問題から何か前向きに生かせる要素を取り出すとすれば、「ダメな部分も抱えた素の自分を世の中に知ってもらえた」と「悩み苦しんでいる他の人たちを励ます材料になった」の2点が確かに最も大きいかもしれません。
それを受けて前田さんもこう激励しています。

〈乙武さんが今回やらかしたことというのは、いろんな人に勇気と夢を与えたと思うよ〉

〈「俺もがんばらないといけないな」と思った人はいっぱいいると思うよ。それをね、批判してるヤツらは何を批判してるんだと〉

やや煽り過ぎだと思う人もいるかもしれませんが、前田さんも、メディアにあることないこと言われて叩かれたという点では乙武さんの数倍、数十倍の経験を持つわけで、ある意味で“先輩”としても温かく元気づけようとしたのではないかと思います。

上記の内容は長い対談の一部に過ぎず、他にも興味をそそる内容がいろいろ語られていました。
たとえば、個人に同質性を求めすぎ同調圧力をかけすぎて、個性的なものをすべて「障害」として負の方向に排除する日本社会の問題。
人口減少と超高齢化が進む時代には、なぜリスクを冒して、皆と違うことをしなければならないのかという理由。
いずれも意義深く刺激的な内容で、社会の未来像と個人の生き方や働き方を考える上で示唆に富んでいました。
前田さんも乙武さんも非常に地頭が良い人たちで、かつ熱く共感し合う部分があったために充実した対談記事になったのでしょうが、またこのような好企画を楽しみにしています。
(というより藤原喜明さんが表紙の最新号Vol63を近いうちに読まなくては……)
KAMINOGE62

お目当てのパフォーマンスを観に行ったら、それをしっかり堪能できただけでなく、もう1つ別の素晴らしいパフォーマンスにも出会うことができた──。
この前の土曜日(2017年2月11日)、こんな幸福感を味わいました。
落語家・桂雀々さんの独演会「雀々動物ランドPart2」に行ったときのことです。

昨年10月、神田松之丞さんの講談を聞いてすっかり魅力に惹き込まれたことは当時ここに書きました
以来、僕は松之丞さんの高座にまた行きたくて仕方がなく、しばらく前に、この雀々さんの会に松之丞さんがゲスト出演するということを知って、すぐにチケットを買いました。
つまり、雀々さんには失礼な話ですが、当初、最大のお目当ては松之丞さんでした。雀々さんの噺は聴いたことがなく、関西の人気落語家で50歳を過ぎた数年前から東京に拠点を移している人、くらいのイメージしか持っていませんでした。
しかし、結論から言って、雀々さんの落語を聴けたのは最高の体験でした。松之丞さんの高座も良かったので、それに加えて望外の喜びが1つ得られたという感じでした。
雀々ポスター
会場は日本橋公会堂で、19時開演。
いつも落語会に行くたびに思うのですが、僕にとっては17時の開演くらいが一番ありがたく、たとえば19時過ぎに終わってそれから一杯飲んで帰る、といった流れが時間的にちょうどいいのですが、諸々の事情でなかなかそうも行かないのでしょう。
何か食べてから会場に行こうかと思ったのですが、あいにく時間的に余裕がなく、断念。
空きっ腹を抱えての2時間はちょっときついかも……と危惧しつつ席に着きました。

考えてみると、僕は雀々さんだけでなく、そもそも上方落語を聴いた経験がほとんどありません。
ライブではなくかろうじて映像なら、昨年亡くなった桂春団治(3代目)さんのDVDボックス「極付十番」を買って観たことがあるくらいです(これは高かったのですが非常に面白く、思い切って買ってよかった)。
 
開演直前、お決まりの「携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスが流れましたが、さらに「マナーモードでも目立ちます。他のお客様から白い目で見られて落語どころではなくなります」と続いたのがおかしく、客席から大きな笑い声が起こりました。
こんなふうに、落語が始まる前からコテコテに笑わせようとするところも、確かに関西風なのかもしれません。

トップバッターとして、若い前座さんが登場するのかと思いきや、出てきたのは細身の中年男性。しかし、華と渋味のあるイケメンで、赤い着物がよく似合っています。
「雀々や剛々」というこの落語家、名前の読み方は「じゃくじゃくやごうごう」だそうですが、実は俳優の伊原剛志さんだったのです。
不覚にも僕は、伊原さんが落語家としてデビューしていたことを知らず、びっくりしました。

聞いたところによると、雀々さんの弟子となった伊原さんが53歳にして落語家デビューしたのは、昨年12月のこと。
以来、4回目の高座になるとのことで、演目は、デビュー時と同じだという「動物園」を演ってくれました。この噺を聴くのも僕は初めてでしたが、ウェルメイドな佳品だと思いました。

主人公は自分に合った適職を探している男で、ある日「体力は要らず、頭も使わず、口が達者でなくてもよく、朝はゆっくり寝られて、しかも1日に2万円もらえる仕事がある」と紹介され、喜び勇んで出かけていきます。
ところが、その職場とは移動動物園で、なんと、虎の皮をかぶって檻の中でウロウロ歩き回り、虎の真似をする仕事だったのです。
 
男が「私の仕事は何です?」と言うと、園長が「虎です」と平然と答えるやり取りが何ともとぼけた面白さを出していて、思わず笑ってしまいました。檻に入る前、男が虎の皮をかぶってのそのそ歩く練習をすると、園長が「あんた、お上手ですね。お父さんは虎ですか?」と誉める場面もおかしくてたまりません。

最後のシーンに差し掛かってまもなく、サゲは予想がつきましたが、それでもしっかり最後まで笑わせてくれました。
この雀々や剛々さん、俳優として十分な人気と実績があるにもかかわらずここまで入れ込むのは、本当に落語が好きでたまらないんだろうなと、愛情とリスペクトがひしひしと伝わってきました。

続いて、いよいよ雀々さんが登場。
マクラが始まって早々、高座の上でご本人が音頭を取って、パンパパパンと客席全員で手拍子を打ったのには驚きました。いつも冒頭にこれをやるそうですが、客席を自分の世界に惹き込むための仕掛けの1つなのでしょう。
雀々さんは、今年が芸歴40周年であることを皮切りに、若いときは師匠のもとで奴隷のように働かされ小言を言われ続けて苦労したことや、柳家小さん(5代目)が怖かったことなどを次々と語ってたっぷり笑わせてから、噺に入ります。

演目は「猿後家」でした。
主人公は、後ろ姿は色っぽいけれども正面から見ると猿にそっくりだという、裕福な大店の後家さん。彼女の前でうっかり「サル」の2文字が含まれる言葉を口にした人は、クビになったり出入り禁止になったりと大変な目に遭います。「猿回し」や「猿股」だけでなく、「さるお家」と口にしても激怒されてしまう。
 
この後家さんを巡るドタバタを描いた落語ですが、とにかく驚かされたのが、語りに込められた「熱」でした。雀々さんの落語、とにかく熱い。
東京の落語では見かけない「見台」を前に置き、それを「小拍子」(小さな拍子木)で要所要所でカンカンと叩きながら、スピードもパワーもマシンガンのような語り口。
胸倉をつかまれるくらいの凄い勢いで、自分の心と脳が落語の世界に引きずり込まれていくのがわかります。わかっていながら、興奮してしまう。
落語のみならず、音楽でも映画でも傑作に接したときに引き起こされるエモーションの波にすっかり翻弄され、僕はいつのまにか「この人、凄え……」と呟いていました。

その高揚が冷めやらぬ中で登場したのが、当初のお目当てだった神田松之丞さん。
「待ってました!」と男性客が声をかけると、高座に座るや否や「なんか太い声が聞こえますね」と応じてさっそく客席を笑わせ、「ゲストなのに『待ってました』と言われるのはありがたいことです」と言ってから、ひとしきりマクラに。
落語家は今、東西合わせて800人くらいいて、そのうち95%以上が男性。一方、講談師(講釈師)は落語家の10分の1の80人くらいで、その半分以上は女性だそうです。
松之丞さんは「東京と大阪を合わせていちばん若い男の講釈師は私。皆さん、今、非常に貴重なものを見ているんですよ」と続け、さらに会場を沸かせてくれます。

そして演ってくれたのが「鹿島の棒祭り」。
松之丞さんは「天保のその頃と言えば、1830年から44年、徳川の末期で……」と時代背景を簡潔に説明してから(これが理解を助けてくれて非常にありがたい)、講談に入ります。

当時日本一の剣客と言われた平手造酒が、酒癖の悪さゆえに師の千葉周作に破門され、銚子に流れてくるところから話はスタート。当時、侠客として飯岡助五郎と笹川繁蔵という2人の親分がいましたが、平手造酒は、300人の子分を抱える助五郎ではなく、配下わずか40人の繁蔵の用心棒になります。
やがて鹿島の祭りが開かれることになり、そこでは賭場が立つので、平手が酒を飲んで他の侠客とトラブルを起こすことを恐れた繁蔵は、「先生、2日の間だけ酒を飲むのをやめてください」と懇願。平手は「承知いたした」と答えるものの、居酒屋でつい酒を頼んでしまい……というふうに話は進みます。

平手のコワモテの部分だけでなく、ぐでんぐでんに泥酔するところや、白いむく犬を見ると一転して甘ったるい声で「かわいい」と漏らすコミカルな一面など、多面的な描写が実に楽しい。
さていよいよ大喧嘩の勃発か……という場面になったとき、「続きはまた明日……」で終わりました。

松之丞さんの圧倒的な面白さは相変わらずでした。
張り扇で釈台をパパンと叩くタイミングと間合いが絶妙で、奔流のように言葉が溢れるかと思えば次の瞬間はフッと沈黙し、さらに再び量も密度も尋常ではない語りが続く。その間、身振りも表情も目まぐるしく変わります。
緩急自在な松之丞さんの語りに、僕はまたも“持って行かれ”てしまい、何度も爆笑しながらすっかり陶酔の時を過ごしました。

仲入りの後、再び雀々さんが登場。この日最後の演目、それは「池田の猪(しし)買い」でした。
雀々さんは冒頭、「さっきの松之丞君は講談界のスターという感じですね」と言ってごく短いマクラの後、すぐ落語に入ります。

主人公は冷えに悩む男。隣人から「医者に診てもらうより食べ物で改善したらどうか」「それにはイノシシの肉がよい」などとアドバイスされ、池田に住むシシ撃ち(イノシシを獲る猟師)の六太夫を紹介されて、訪ねていきます。
池田は、今は大阪の高級住宅地だそうですが、この噺ができた江戸時代にはまだ山の中だったのだとか。

聞きどころの1つは、少しトロい主人公の男と周りの人たちのちぐはぐなやり取りです。
たとえば、池田まで行く途中、男が近くの人をつかまえて道を聞くと、相手はひどく急いでいて「うちの嫁はんのケが、ケが」としきりに言う。「ケって何のケですか?」と聞くと「産気づいた」という答え。それを聞いた男が「サンケ? 参詣ってどこの神社ですか」「サンケイって新聞ですか」などと延々と問い返し、相手が行きたがってイライラしている様子をまったく意に介さない様子が何ともおかしい。

また、男が池田に着いて、六太夫のイノシシ猟に同行したときの会話も笑いを誘います。雄と雌の2頭のイノシシに出くわし、鉄砲を構えて狙いをつける六太夫に、男が「オン(雄)とメン(雌)のどっちを撃つ方がいいか」「一緒に食うネギや醤油はあるか」「飯はあるか」などとしつこく話しかけ、苛立った六太夫に怒鳴られる場面の滑稽さ。

一席目の「猿後家」に突き抜けた熱さと聴き手をねじ伏せるような狂気の力があったとすれば、この「池田の猪買い」は絶妙のリズム感と円熟味が際立っているように感じられました。
もちろん、喋りに合わせて、雀々さんが小拍子でさかんに見台を叩いて小気味よい音を立てながら、会場全体を自分の“磁場”にどんどん吸引していくのは同じです。

終演は21時10分くらいだったでしょうか。
桂雀々さんという、また聴きに行きたいと強烈に思わせる演者と思わぬ形で出会えた喜びを感じながら会場を出て、寒い夜道を歩きました。そのとき初めて、僕は自分が空腹だということを思い出しました。
雀々演目表

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