読んだ本の紹介、感想を含め、面白かったものや楽しかったことについて書いていくつもりです。

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新年度が始まり、高校生になっても一向に衰える気配がない藤井聡太六段の人気。それに伴って、師匠である杉本昌隆七段の姿や発言をメディアで目にする機会も増えています。

弟子が可愛くて可愛くて仕方がない様子の杉本七段に好感を持っている人は多いと思います。僕もその1人。

その師弟が今年3月8日、公式戦で初めて戦って(王将戦1時予選)話題を集めましたが、当の対局について杉本七段自らが記した自戦記が「将棋世界」2018年5月号に掲載されました。一読し、弟子への優しい思いと勝負師としてのプライドが滲み出る文章に、何とも心温まる気分になりました。

ふだんは「藤井君」と呼んでいる弟子を、文中、師匠の心境のときは「藤井」、勝負を争う棋士の心境のときは「藤井六段」と区別して表記。
そして、病気のファンとの出会いや30年前に亡くなった師・板谷進九段への感傷、奨励会退会を余儀なくされた弟子たちへの思いなど、温かい気持ちがいろいろ綴られます。

同時に、「絶対に勝ちたい」という強烈な意志がビシバシと伝わってくるのもこの自戦記のユニークなところ。
千日手後の指し直し局、後手番になった杉本七段は四間飛車を採用するのですが、それは今まで、藤井六段との研究会でほとんど指さなかった戦法だからだというのです。つまり、弟子にとっては経験値が少ない一方、自分にとっては〈棋士になれた原点〉と言うほどよく知る戦法を選ぶことで、少しでも有利に進めようとしたわけです。

結局、藤井六段が仕掛けた攻撃への対応を誤った杉本七段は、すでに広く報じられた通り、負けてしまいます。その敗戦後の心境を明かす次のような箇所が、また素晴らしく感動的でした。

〈対戦相手の藤井六段に感謝した〉

〈「ひどい内容で申し訳ない」と言いたかった〉

〈いつも通り、この上なく悔しく、そして「もっと研究せねば」と思った〉

師匠としての愛情と、棋士としてのファイティングスピリットが共に柔らかく伝わってくる自戦記。これを読むためだけでも、将棋世界のこの号を買った価値がありました。
将棋世界


勝つ者がいれば、その分だけ、負ける者もいる。全員が勝って全員がハッピーになることなどありえない──。
当然とはいえ、それが勝負の世界のルールです。

将棋の世界はまさにその典型でしょう。羽生善治竜王が四半世紀も第一人者として君臨したり、まだ中学生の藤井聡太六段がその羽生竜王や佐藤天彦名人を倒して圧倒的な成績を挙げたりしているのも、その裏で彼らに負けている人たちがいるからです。

羽生さんをはじめとする一部の人たちに勝ち星やタイトルが集まる一方で、それ以外の、どちらかといえば多数派の人たちはあまり目立った活躍もしないまま、人生を過ごしていく。残酷なようですが、やむを得ない真実でしょう。

そんな中で嬉しかったのが、タイトル戦となった「叡王戦」の7番勝負を、金井恒太六段と高見泰地六段が戦うと決まったこと。これまでタイトル戦の常連でもなかった若手が二人も揃って檜舞台に躍り出るというのは、大袈裟に言えば奇跡のようにも思え、本当にワクワクしました。

金井六段は、千田翔太六段、永瀬拓矢六段、佐藤天彦名人、佐藤康光九段、行方尚史八段といった凄い面々に勝って出場決定。片や高見六段は、やはり豊島将之八段、渡辺明棋王、丸山忠久九段といった超強豪たちを倒してきました。
共に見事と言うしかありません。

数日前に発売された「将棋世界」(2018年4月号)には、その二人のインタビューが載っていたのですが、これがまたたいへん面白く、中でも高見六段が強い思いのたけをストレートに語っていて、どんどん惹き込まれました。中でも、

〈豊島八段に勝ったのはうれしかった。実は、ホテルに帰ったら、泣けてきちゃいました〉

なんていう発言、もう最高です。
勝負師にとって、「泣いた」などと自らの感情の発露を明かすのは決して得にはならないと思うのですが、読者にとってはありがたいことこの上なし。

また、七番勝負への登場が決まったことへの思いを、

〈パァーっと、世界が明るくなった気がします〉

〈これからの棋士人生、どんな勝負でも戦える自信がつきました〉

などと、喜びをあまりにも率直に語っているのにも、ものすごく好感を持ちました。
また高見六段は、デビューしてからしばらくは思ったような成績を残せず、悔しい思いをしていたようです。それが、昨年春に大学を卒業して将棋一本に集中するようになったり、勝負への意識を変えたりしたことが、最近の好成績につながっているとのこと。
インタビューでは、

〈大学に行ったことも含めて、すべてが無駄になっていません〉

〈いままでの人生、すべてが無駄になっていません〉

と、人生でやってきたことのすべてに意味があったと二度も語っているのが印象的で、その裏にあった苦労を思うと、言葉がさらに胸に迫りました。

こんな風に、行間から熱が伝わってくる素晴らしい高見六段のインタビュー記事。ぜひ「将棋世界」で全部をじっくり読んでいただきたいと思います。
僕はこれで一気に高見六段のファンになりました(といっても、以前から金井六段も好きな棋士だったので、叡王戦はどちらを応援するか悩ましいところなのですが……)。
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〈人間とはおもしろいものなのだ。そのおもしろさを伝えていきたい〉

近年、数々のスクープを連発してきた「週刊文春」の勢いは、相変わらず衰えることを知りません。
この快進撃の立役者となった新谷学編集長の著書『「週刊文春」編集長の仕事術』の核心は、煎じ詰めると先に引用した一行に尽きるのではないかと思います。

本書には何度も「おもしろいコンテンツを読者に提供したい」「人間ほど多面的で興味の尽きぬおもしろいものはない」という趣旨のことが記されています。僕なりに整理すると、

「おもしろいものを世の中に出していきたい。
世の中でいちばんおもしろいものは人間である。
だから人間のさまざまな面を追って取材し、記事にする」

というシンプルな三段論法(?)が、おそらく新谷さんの仕事哲学の中心にあるのでしょう。
そして、対象が政治家でも経営者でも芸能人でも、題材が権力闘争でも凶悪事件でも男女関係でも、どこまでも「ヒューマン・インタレスト」に応えていく形での編集が、読者の多様な好奇心を刺激して、週刊文春の好調を生んだのだと思います。

とにかく、新谷さんの「人間」と「おもしろさ」への徹底したのめり込みぶりには、感心するしかありません。特に、いろいろな場面で「人間」を大切にするということで、新谷さんのレベルを上回る人はほとんどいないのではないでしょうか。
この点は、週刊誌の編集者だけでなく、メディア関係者だけでもなく、「人間」と一緒に、「人間」に向けて、「人間」のために働くすべての人にとって、重要な哲学とノウハウになっていると思います。

人のさまざまな言動をおもしろがること。
それだけではなく、多くの人と直接会ってまめに付き合い、信頼関係を築くこと。
毎日、自分から積極的に新しい人と会うこと。
キーマンを探して関係を深め、「キーマンから最初に思い出してもらえる人間」になること。

……と、「人」「人との出会い」「人との関係構築」「人との関係の維持発展」などについて、貴重な知恵が明かされていきます。こういったスキルは、単に実用的に仕事に役立つだけでなく、何よりも実践して楽しいものでもあると思います。

〈どれだけ人に会うか、その出会いをどれだけ大切にするかに尽きる〉

〈我々は会った人によって鍛えられる〉

そう語る新谷さんが「すごい人」だと評価する人たちの特徴というのが、また非常に興味深いものでした。すごい人ほど他の人との関係を大切にする、として、具体的に2つの特徴が指摘されています。

「すごい人」の1つ目の特徴は、誰かと会話していて「また会いましょう」「今度食事でもしましょう」などとなったとき、「具体的な日にちはまた改めて」ではなく、その場でスケジュールを調整して決めてしまうこと。
これは、いわば「あなたとの関係を深めていきたい」「あなたは私にとって非常に大切な存在です」といった意思を伝える何よりのメッセージでしょう。
僕自身の経験でも、これをやられると感激して、「この人とは誠意を持って付き合いを続けよう」という気になります。
(逆に、会うたびにいつも「今度飲もうよ。連絡する」などと言いながら、まったく連絡してきたことのない人に対しては、正直なところ、「こういう人間は信用できないな」と思います)

そして、新谷さんが挙げる「すごい人」の2つ目の特徴は、肩書きで人と付き合わないこと。
相手の所属先や地位や肩書きを見るのではなく、相手の所属先や地位や肩書きが変わっても、信頼できると見れば、1人の人間としてフラットに付き合いを続けるということでしょう。本書には以下のような興味深い指摘もあります。

〈おもしろいことに、肩書きが外れても人間同士の関係を維持するタイプの人の方が、その組織の中で圧倒的に出世している〉

このように、いろいろなやり方で「人間」を大切にしているという新谷さんは、浅薄な正義感で人を裁いたり、イデオロギーによって人の言動を判断したりしません。
複雑に入り組んだ、ある意味で矛盾に満ちた人間の多面性を「ああ見えるあの人には、実はこういう意外な一面もあるんだよ」というように、非難も糾弾もせずにただ提示していく。そんな“大人の姿勢”こそが、週刊文春の編集スタンスに反映して、読者獲得の原動力になっているのでしょう。
 
故・立川談志は「落語は人間の業の肯定だ」という名言を残しましたが、それと同じく、週刊文春も人間の業を肯定する──と本書では語られています。善悪や正邪の判断は読者に任せ、人間のさまざまな言動をひたすらファクトとして報じ、おもしろがらせるという姿勢です。

本書ではもう1つ、新谷さんが語る「リーダー論」も興味深いものでした。
週刊誌編集部という大所帯で、非常に個性的な編集者や記者たちを率い、彼らに力を発揮させて結果を出すのには、優れたリーダーシップが必要でしょう。少なくとも、闇雲に尻を叩いたり、おだてたりするのでは意味がないことは明らかです。
 実際、本書で明かされているリーダー哲学は、他のいろいろな組織でも十分に応用できる普遍性の高いものだと思いました。

特に興味深かったのは、新谷さんが、「嘘をつかない」「弱い者いじめをしない」「仕事から逃げない」の3原則を自分と部下に徹底させている点。そして、「フェアであること」を大切にしている点です。
特に後者については、「ネタ」に対しても、「人」に対しても、「仕事」に対してもフェアであろうと努めているとして、こう記しています。

〈特定の人間ばかりを重用することはない。(中略)特別なことがない限り、現場の人間とは食事に行かない。一人と行ったら、他の人とも行かないと不公平になってしまう。中には、お気に入りの人、優秀な人とばかり付き合う編集長もいる。しかし、依怙贔屓をしてしまうと、それ以外の人のモチベーションが下がる〉

この引用部分の「編集長」を「上司」という言葉に入れ替えれば、これがどの分野のリーダーにとっても大切な姿勢であることがわかるでしょう。同時に、「お気に入りや優秀な部下ばかりと付き合わない」「依怙贔屓をしない」というスタンスを持っているリーダーが実際にはいかに少ないかということも……。

結局、組織をマネジメントするに当たっても、新谷さんは「人」及び「人との信頼関係」を大切にしているということがわかります。
リーダーシップの根源は「信頼」であって、そのために部下との信頼関係を築こうと努めている旨が本書では説明されていますが、それはまた、外部の人との間で信頼関係を構築すべく常に腐心しているのと同じことなのでしょう。
すべては人である、という本書の大きなテーマは、リーダー論にも通じているわけです。

また、新谷さんが挙げる「ダメなリーダー」の説明にも大いに納得しました。中でも、僕が直接経験したり、間接的に見聞したりすることの多い、明らかに悪しきリーダーのパターンが3つ紹介されていて、思わず「その通り!」と膝を打ったので、その説明を引用します。

〈最悪なのは「俺はこうやろうと思う」と言って企画を提示したら、みんながシーンとなり、右から左へそのまま通ってしまう組織だ。誰も異を唱えないのは危険極まりない。そういう組織はリーダーが反対意見を言う人間を左遷したり、干したりしていることが多い。そんなことをしていたら、あっという間に「裸の王様」の誕生だ〉

〈リーダーが厳に慎むべきは、部下からの報告に「そんなことは知っている。俺のほうが詳しい」と張り合うことである。こういう上司はどの世界でも意外に多い。記者が目を輝かせて報告しても、「そのネタ元とは俺のほうが古い付き合いで、俺が聞いている話はこうだ」と大勢の前でこれ見よがしに言われては、モチベーションは一気に下がる〉

〈いちばんダメなのは、最初からレッテルを貼ったり、予断を持って「あいつやる気ないからダメだよ」とたらい回しにするようなリーダーだろう〉

いずれもごもっとも、と言うほかはありません。

最後に僕が新谷さんと週刊文春に希望するのは、本書に記された「親しき中にもスキャンダル」を最近の事件でも実践してほしい、ということです。
週刊新潮が先日、安倍政権の御用記者と呼ばれている有名ジャーナリストのレイプ疑惑事件を報じました。このジャーナリストは、いったん準強姦罪容疑で逮捕状が発布されたものの、政権に近い警察幹部の意向で執行が見送られたというのです。被害者だという女性が顔を出して会見した、勇気ある姿も印象的でした。
 
本書では、以前このジャーナリストが週刊文春にスクープ記事を寄稿したときの経緯が記されています。新谷さんにとっては、いわば恩義のある筆者なのでしょう。そのせいかどうかはわかりませんが、週刊新潮が最初に報道し、他のメディアも一斉に後追いしたレイプ疑惑について、僕が知る限り、週刊文春はいままで報じていません。

しかし、この問題こそが「親しき中にもスキャンダルあり」を実践するのにふさわしいケースではないでしょうか。一度は週刊文春に注目記事を寄稿したジャーナリストが起こしたこの問題と背後の事情を週刊文春が追及し、スクープを放ってくれたら、まさにタブーなきメディアとして真価を大いに高めるだろうし、僕もさらに尊敬の念を持つと思います。
新谷氏著書書影

ノンフィクション作家・田崎健太さんの連載「タイガーマスクと呼ばれた男の真実 真説・佐山サトル」が楽しみでこのところ毎号読んでいる雑誌「KAMINOGE」、しばらく前にVol62が出ていたので買ったのですが、気がつくとVol63(格闘家の藤原喜明さんが表紙)が書店に並んでいました。
慌てて先に出たVol62の方を読んでみました。こちらは格闘家の前田日明さんと作家でタレントの乙武洋匡さんの2ショット写真が表紙です。

実際に表紙と目次をめくると、巻頭に前田さんと乙武さんの「スペシャル対談」が載っています。
このような異なる分野の人たちが語り合うと、えてして単なる有名人交遊録のような通り一遍の浅い内容になりがちですが、今回の“異種格闘技”的な対談は、実に面白くて読み応えがありました。
分量がたっぷりあるのも読者としては嬉しい限り。
前田×乙武誌面
昨年(2016年)3月、乙武さんについて複数の女性との不倫問題が報じられ、ずっと真面目な人という印象があっただけに、多くの人が驚いて大騒ぎになりました。
この不倫報道によって乙武さんは東京都知事選挙に立候補するのを断念し、また離婚したとも報じられています。
その乙武さんを、前田さんが「いま一番会いたい人」と言って誉めたことからこの対談が実現したそうです。
「性欲、ネゴシエーション能力、コミュニケーション能力、そのすべてが称賛に値する」という前田さんの誉め言葉があまりにもストレートすぎるような気がしますが、確かにその3点がハイレベルで揃わないと、複数の不倫などという面倒なことはできないのかもしれません。

実際、対談が始まって早々、乙武さんの“モテる理由”が話題になります。
前田さんは、モテぶりの最大の要因を乙武さんの「コミュニケーション能力の凄さ」と、それを可能にした「他者を見るときの情報分析の鋭さ」ではないかと指摘します。

この前田さんの推測は見事に的中しました。
対談の最後の方で、乙武さんは、実際に自分のコミュニケーション能力は子供の頃から高かったことと、その能力が磨かれたのは、先天性四肢切断という障害があったせいだと語っているのです。
乙武さんは障害を持つゆえに、子供の頃から現代に至るまで、日常生活のさまざまなことを人に頼まなければなりませんでした。
そのため自然に、頼みごとを引き受けてくれそうな人のタイプを見分けたり、頼んだときに相手がどんな反応をするかを予測したりする癖がつき、そうやって人間観察力が鍛えられた結果、コミュニケーション能力が高まったというのです。
まさに前田さんが考えた通り、乙武さんの、目の前にいる相手に関する「情報」を分析する力は非常に優れているわけで、それが艶福家であることを可能にしたわけです。

さらに、これは面白いと感心したのは、乙武さんが次のようにサラリと、かつ堂々と語っていること。

〈私はこれまでの人生、思春期を含めても「どうせ俺は障害があるからモテないだろうな」とか卑屈な思いをしたことは1回もないんですよ〉

仮にこの発言が、不倫が発覚してから間もない頃になされていたら、あっという間に炎上して、あちこちに拡散されて、さらに叩かれていたかもしれません。
まあ、今もテレビなどでは言えないでしょうし、賢い乙武さんはその辺の感覚もわかっていて、「KAMINOGE」というエッジの立った個性的なメディアだからこそ発言したのだと思います。
いずれにせよ、乙武さんが、自分に関して確固たる静かな自信(ご本人の言葉では「自己肯定感」)を持ち続けており、それを恋愛だけでなく、人生全般の原動力にしてきたことは確かなようです。

それを受けて前田さんは、「人間にとって、ナルシズム、つまり自分を好きであることは大切なのだ」という趣旨のことを述べます。 
好きな自分をどうやって他者に見てもらうか。それを常に考えるところから、人間の成長は始まるのだ、と。
こういうふうに対話が噛み合っていくのが良い感じで、乙武さんも前田さんに賛同しながら、人生で卑屈な思いをしたことがないのはご両親の育て方のおかげだと語ります。
ご両親が、障害を持っていることも含めて乙武さんを全面的に肯定しながら育ててくれたからでしょうし、その事情を乙武さんは以下のように話しています。

〈私の場合、もし親の育て方が違っていて、私自身が自分が障害者であることを卑下していたりだとか、自分に自信がなかったら恋愛でももっと苦労していたと思いますし、異性から見ても「この人とは付き合いたくないな」っていうオーラが出てしまっていたと思うんですよね。ところが、両親の育て方のおかげで自分が障害者であることに対して否定的に思うこともなかったですし、それを引け目に思うこともなかったんです。(中略)「俺は障害者だからきっとモテないよ」だとか「どうせ俺なんか恋愛ができるはずもないんだ」なんて思うこともなく、自分自身がフラットに女性に対して向き合えていたので、逆に向こうから見てもそんなに障害ってことがハードルにはなりにくかった〉

親の育て方のおかげで自分に自信が持てて恋愛もいろいろ経験できた、とだけいうと、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいに聞こえますが、上記のように丁寧に説明してもらえると、なるほどと納得できます。
別に自分の不倫を親御さんのせいにしているわけではないと思いますが……(笑)。

とにかく乙武さんは、著書『五体不満足』がベストセラーになって一躍有名人になって以来、メディアから聖人君子のように扱われる一方でした。
雑誌の取材やテレビの収録などで羽目を外した発言(下ネタとかおふざけとか)をしても、すべてカットされてしまって世の中に出ず、品行方正なイメージばかりを植えつけられてきました。
もちろん、不倫は誉められたことではないし、元夫人やお子さんを傷つけた責任は今後も乙武さんが背負っていかねばならないものですが、それとは別に、不倫問題が社会に広く知られたことで、「真面目一方の好青年」の印象に押し込まれる息苦しさから解放されたのも事実のようです。
その点を乙武さんは〈私が不倫していたっていうこと自体は批判されてしかるべきだとは思います〉と断りながら、

〈これからは何か演じるってことをせずにありのままの自分でいけるんだと思うと、ある意味で凄く肩の荷が下りたというか、気楽になった部分がありますね〉

〈不登校とかひきこもりの方から見て、「あんな身体でもあんな堂々として図々しく生きてるなら、俺ももうちょっと図々しくていいんじゃないか」っていうふうに思っていただければ凄くありがたい〉

などと素直に真情を吐露しています。
「マイナスをプラスに変える」などと言うと陳腐に響いてしまいますが、しかし乙武さんの場合、不倫問題から何か前向きに生かせる要素を取り出すとすれば、「ダメな部分も抱えた素の自分を世の中に知ってもらえた」と「悩み苦しんでいる他の人たちを励ます材料になった」の2点が確かに最も大きいかもしれません。
それを受けて前田さんもこう激励しています。

〈乙武さんが今回やらかしたことというのは、いろんな人に勇気と夢を与えたと思うよ〉

〈「俺もがんばらないといけないな」と思った人はいっぱいいると思うよ。それをね、批判してるヤツらは何を批判してるんだと〉

やや煽り過ぎだと思う人もいるかもしれませんが、前田さんも、メディアにあることないこと言われて叩かれたという点では乙武さんの数倍、数十倍の経験を持つわけで、ある意味で“先輩”としても温かく元気づけようとしたのではないかと思います。

上記の内容は長い対談の一部に過ぎず、他にも興味をそそる内容がいろいろ語られていました。
たとえば、個人に同質性を求めすぎ同調圧力をかけすぎて、個性的なものをすべて「障害」として負の方向に排除する日本社会の問題。
人口減少と超高齢化が進む時代には、なぜリスクを冒して、皆と違うことをしなければならないのかという理由。
いずれも意義深く刺激的な内容で、社会の未来像と個人の生き方や働き方を考える上で示唆に富んでいました。
前田さんも乙武さんも非常に地頭が良い人たちで、かつ熱く共感し合う部分があったために充実した対談記事になったのでしょうが、またこのような好企画を楽しみにしています。
(というより藤原喜明さんが表紙の最新号Vol63を近いうちに読まなくては……)
KAMINOGE62

近年、世間のご多分に漏れず僕も紙の雑誌を読む量が減り、特に「dマガジン」の会員になってからは、書店や売店、コンビニなどで紙の雑誌を購入することが稀になりました。
ところがこの前、旅行に発つ直前の空港の書店で「ブルータス」の最新号(2017年1月1・15日合併号)を見かけると、パラパラとページをめくって少しだけ立ち読みした末に、つい一冊買ってしまいました。
特集「危険な読書 人生変えちゃうかもしれないあの1冊。」が何やら面白そうに思えたのです。

本来ならいつものようにdマガジンを使えばいいので、紙版のために余計なお金を払ってしまったのかもしれません。
しかし、ざっと飛ばし読みするよりじっくり読んでみたい記事が多そうな特集だったので(ブルータスのテキストの小さな級数の文字をスマホやタブレットで読むのはしんどそうだなと思ったこともあり)あえて買ってみました。
 
もともと僕は、ブルータスという雑誌を昔から今までほとんど読んだことがないのですが(特集のテーマにあまり食指が動かなかったということもあります)、今回は買ってよかったと思いました。まさに“アタリ”です。
「読書」「本」を軸にさまざまな人や書籍が登場する、多彩かつ充実した内容で、大いに読み応えがありました。

まず冒頭に置かれた滝本誠氏(映画評論家、編集者)と荒俣宏氏(作家、博物学者)の対談「10代で読んでおきたい異常本。」が、お二人の少年時代からの圧倒的な読書体験を回想しながらのブックガイドになっていて、あっという間に「自由でアブノーマルで危ない本」の世界に惹き込まれます。
奇想天外なSFから奔放なエロティシズム、幻想世界、映画、科学、戦争……など、両「書物狂」の対談に出てくる幅広いジャンルの本は、どれも“濃い”ものやディープなものばかりで、話を聞いていると読みたくてたまらなくなります。

それにしても、お二人がまだ20代の頃(1970年代初めから半ばくらいでしょうか)は洋書を手に入れるのも一苦労な時代で、荒俣さんは欧米に大量に本を買い出しに行き、それがあまりに重いせいで帰りの飛行機の中で痔が破裂し、ズボンのお尻が真っ赤になった──という強烈なエピソードには感動しました。
そこまで人生の時間とエネルギーを読書に捧げたにもかかわらず、いま69歳の荒俣さんは、すでに膨大な蔵書の半分を慶應義塾大学に、4分の1を武蔵野美術大学に寄贈したと打ち明け、こんなことを語っています。

〈やっぱり人間、読書なんて趣味にすべきじゃないですよ。(本は)家財道具としては最悪だからね。引っ越す時は困るし。もう一回並べ直すのに10年かかって、並べ終わる前に死んじゃうっていうね、こんな始末に悪いものはない。だからもう本を買うという習慣はなくなるんじゃないかと思ってるんですよね〉

本をテーマにした対談で、日本でも指折りの読書家である荒俣さんが〈読書なんて趣味にすべきじゃない〉と言うのだから、とぼけているというか人を食っているというか、思わず笑ってしまった発言です。それを受けて滝本さんが、

〈今回の『ブルータス』のテーマはある種の「悪徳としての読書」だけど、それ以前に、読書そのものの習慣が消滅するなら悪徳ですらなくなる〉

と応じているのも一種の切なさを感じさせました。
おそらくスペース上の理由で誌面に反映できない部分も多かったであろうこの対談、改めてきっちり時間を取ってお二人に語り合ってもらい、対談本にすれば非常に面白い1冊になると思うのですが……。

また、海部陽介さん(人類進化学者)と石倉敏明さん(芸術人類学者)の対談「我々は何者なのか?」もじっくり読ませる内容でした。
海部さんの著書『日本人はどこから来たのか』は以前面白く読んで紹介したことがありますが、失礼ながら石倉さんのことは存じ上げませんでした。
この対談は、お二人が本を挙げていくという内容ではなく、最近邦訳も刊行されて話題を集めている歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの世界的ベストセラー『サピエンス全史』を取り上げ、その内容に沿って「ホモ・サピエンス(クロマニョン人も含む私たち現生人類)とは何か」というテーマで語り合ったものです。

この対談で、海部さんはのっけからホモ・サピエンスの“変な特徴”について指摘してくれます。
クロマニョン人が約2万年前に洞窟の中に描いた壁画について、なぜ彼らはわざわざ顔料や筆を用意し、住んでいたわけでもない暗い洞窟の奥に、石製のランプを持って入っていって、構図やデフォルメも工夫した絵を描くという「ヘンテコなこと」をしたのか、と。そして、

〈ヘンテコなことをするのが僕らホモ・サピエンスの本質ではないか、と言いたくなります〉

と続けるのですが、これに石倉さんは〈ヘンテコはアートの本質です〉と応じます。
さらに、クロマニョン人の壁画は、彼らに創造的な芸術性と精密な科学的視点が備わっていたことを示す〈美術の歴史において、一つのメルクマール〉であるとしてから、

〈ここからホモ・サピエンスの“心”も見えてくるように思いますね〉

と述べているやり取りが、冒頭部から好奇心をどんどん刺激してくれます。
そしてありがたいのが、ハラリの『サピエンス全史』について、僕のように未読だけれども興味を持っている読者に対し、大切なポイントをお二人が説明してくれる点。
「約7年前にホモ・サピエンスの脳に大きなニューロン(神経細胞)の組み換えがあった」という認知科学の理論を『サピエンス全史』は立脚点にしており、その時点から現生人類は「想像力」を獲得したというのです。
つまり、神話や芸術、宗教、国家、法律、貨幣といったものは、すべて7万年前に得た「想像力=虚構を作る能力」から生まれたのであり、この「虚構を作る能力」こそがホモ・サピエンスの特徴なのだとか。

このように、歴史学者が書いた本でありながら、文明が始まった数千年前ではなく、ホモ・サピエンスの始まりから語り始めるという壮大な視点である点が画期的であり、かつ正しいと海部さんと石倉さんは語っています。
そんなハラリの議論の基盤になっているのは、生物学的、進化学的な考え方を大胆に採り入れているところ。
さらに、ハラリが「人類が昔よりも幸福になっている」という進歩史観的な考えにきわめて懐疑的であることや、「どんな価値観も人類がイマジネーションで勝手に作り出したもので正当性はない」というショッキングな主張をしていることも指摘して、この大著『サピエンス全史』の意義の核の部分をうまく説明してくれています。
同時にお二人のやり取りから、現代人にとっての「知」の意味を考えるための貴重なヒントも得られるという充実した対談だと思います。

他にじっくり読み込んでしまったのが、「最も危険な作家」筒井康隆さんに関するページ。
町田康さん(作家・ミュージシャン)が「筒井康隆と私」と題した論考を寄稿し、佐々木敦さん(批評家)と中原昌也さん(小説家)が「筒井康隆の傑作について語り合おう。」というタイトルで対談しています。
筒井さんが僕にとっても思い入れが深い作家なので、話し出すと切りがなくなるのですが、とりあえず上記の論考と対談では、

〈自分という人間の考え方の殆どは筒井さんの小説、筒井成分によって成り立っている〉(町田さん)

〈その魔術に魅了されて私は正道を踏み外し、魔道に迷い出たという疑いが濃い〉(町田さん)

〈いやあ、(筒井さんの影響は)かなり大きいですね。人格形成というか、人格破壊の原因は筒井作品ですから、筒井さんを訴えたいくらいですよ。責任とってほしい〉(中原さん)

といった、自己形成における筒井さんの抜き難い影響を語った第一線の表現者の言葉が深く心に残りました。
(僕も、かなり10代の人格形成期に筒井さんに強烈に“やられた”口なので、表現者のお三方に比べれば微々たるものかもしれませんが、自分の根本的な価値観のかなりの部分が筒井作品によって作られていることは、僭越ながら共感できます) 

とにかく、いろいろな雑誌(やデジタルメディア)が、特に年末に「読書特集」「本の特集」を組む傾向がありますが、どれも概ね同じような内容や切り口なのに比べて、今回の「ブルータス」は出色でした。
ものすごく久しぶりに手に取った同誌の最新号が充実した内容だったのは、非常に幸運だったと嬉しく思っています。
ブルータス書影

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