2020年01月01日

謹賀新年 ブログ移動のお知らせ

2020年1月1日
謹賀新年
当ブログは下記に移転致しました。



今後とも宜しくお願い致します。

音楽史研究家 郡修彦



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2019年09月23日

任天堂ペーパーモデル D51蒸気機関車

蒸気機関車の最終時期の1974年(昭和49年)に任天堂から発売された「ペーパーモデル」に中にD51型蒸気機関車がありました。当時、殆どの文房具店で取り扱いが有り、目にしたり購入した方も少なくないと思われます。ネットで調べますと結構該当しますので、現在でも多少は知名度が有る様です。
このD51は蒸気機関車の事を全く知らない担当者が製作したと思われ、比率も形態も荒唐無稽です。小学校6年時に文具店で見て余りの杜撰さに呆れたもので、若しも形式を隠して鉄道愛好家に見せたらD51と言う方は皆無です。少し専門的になりますが、車輪の数が実物と異なり、燃料の石炭と水を積む炭水車が小型過ぎるのです。発売当時は小遣いの都合上から購入を見合わせましたが、1992年1月に南武線矢野口駅南口の旧鶴川街道の文具店にて発売以来18年を経て購入しました。現在は矢野口駅は高架線になり鶴川街道は拡張移設され、該当場所は町の一角に埋もれました。
蒸気機関車のペーパーモデルは雑誌の付録として戦前の「少年倶楽部」時代からあり、SLブームの時期には小学館の学年別学習雑誌に頻繁にありました。小学館のは比率や形態が正しく子供心に感心したもので、当時は縁日にて旧月号の付録のみを廉価販売しており時折購入しました。それからしますと任天堂のは御粗末であり、「この様な品を企画・製作・販売する会社は一流ではあるまい」と勝手に想像しましたが、現在の隆盛からしますと隔世の感があります。トミーのプラレールも実物を踏まえていないとの指摘に応え、比率や形態を見直した結果が今日の隆昌に結び付いた話は有名です。
私は子供の頃から蒸気機関車が好きで、1967年12月に幼稚園の発表会にて、父親が画用紙にて製作したD51(車輪の一部を省略してあります)を手に、構造の説明をする写真が残っております。
発売当時の形態です。

完成予想図、現在では「写真はイメージです」との珍妙な断り書きがありますが、発売当時の世相では不要でした。

1967年12月に同年春に完成した遠藤楽先生設計の新校舎での自由学園幼児生活団のクリスマス催事にて、蒸気機関車の構造説明をする5歳の私。数日前から発表の練習をしましたが、台本を暗記するのではなく、説明の順番と話術に気を配りました。当時はカラー写真は高価であり、白黒写真が中心でした。撮影は同期生の父親で朝日新聞社写真部の方です。

音楽史研究家 郡修彦



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2019年09月21日

蒸気機関車型鉛筆削り

昭和40年代前半に蒸気機関車の人気が社会的現象となった「SLブーム」がありました。それより少し早く蒸気機関車の魅力に憑りつかれた私は、少し距離を置きつつ社会的現象を眺めていました。真の鉄道好きの他に便乗組も多く、物品も同様でした。
今回は当時に製造・販売された手動式鉛筆削りです。弱小会社の製品ですので、発売時期や会社概要は判然としませんが、当時の便乗商品の中では中々の出来です。蒸気機関車のD51は1936年から1945年までに1115両(欠番が有り最終番号は1161)が製造された貨物用機関車で、「SLブーム」の中心的存在でした。当時の東京近郊では八高線にて使用されており、1969年3月には中央線の高架線地ならしに吉祥寺に来ております。
本製品は当時の売れ残りの新品を1988年1月に1500円にて購入した物です。場所は東中野の中野坂上の中間、現在は道路拡張で店の痕跡もありません。本製品は販売数は余り多くない様で、発売当時に新品を見た記憶が無く、昨今骨董市かリサイクルショップにて一度見た記憶がある程度です。

化粧箱と本体。文具店の陳列棚に永く置かれており、化粧箱の写真が褪色しています。
左右と正面です。

正面。ナンバープレートの下の煙室扉開閉ハンドル部分が鉛筆の差し込み口です。前照灯(ヘッドライト)の写真右側(銀色)を左に引くと、鉛筆押さえのゴムが緩む仕掛けです。実物は前照灯は中央一つが基本ですが、補助等で2個もあり、それを踏まえての巧みな設計です。

鉛筆を削る場合は、正面上部を引き出して鉛筆を所定の位置に設置します。この稼働部分に除煙板(デフレクター)を摘み代わりとして使用しているのも巧みです。
削りカスは正面下部を引き出して捨てます。この部分は連結器など全て金の線にて省略してあります。

音楽史研究家 郡修彦

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2019年09月14日

懐かしのお菓子と空箱の中身

森永ハイクラウンと並行して一時期発売されていたのが「サンキストチョコレート」です。箱の形態や中身の体裁が良く似ており、オレンジ味とレモン味がありました。チョコレートの中に夫々の風味の練り物が入り、「ハイクラウン」よりも薄いので6枚入りです。私は1975年1月上旬に初めて食べましたが、発売は1973年であり、70年代の終わりには生産終了となった様に記憶しております。箱の意匠が洒落ており、食後には机の中の小物を入れ、今日まで使用しています。
その中身はキーホルダーとバッジです。写真左から1970年の日本万国博覧会の記念メダル、メダル本体200円、枠付きキーホルダーとプラスティックケースが100円、文字の打刻料が50円でした。ケースは早く破損しましたので箱に収容した訳です。次のメダルはチェーン式でしたが、早く破損してしまいキーホルダーに付け替えた独自の品です。下部のバッジは何れも会場の売店にて購入しました。赤べこと会津若松城の写真は1972年7月に旅行の時。富士山は1973年8月の小学校の移動教室の箱根仙石原2泊3日の時です。木彫りとL特急(この名称も廃止になりました)は中学受験の塾の教え子からの土産品です。
何れも時折取り出して眺めると当時を思い出して懐かしいものです。

70年代の意匠として時代の雰囲気を伝えております。

箱の中身の9種類です。会津若松城の写真は経年変化により随分褪色してしまいました。

現在はKOHRIの表記に統一していますが、当時はKOHORIと父が注文したものです。打刻の係が確か黒人で、関西弁や外人に生で接した貴重な経験でした。

音楽史研究家 郡修彦










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2019年09月13日

小さくなったお菓子 森永ハイクラウン篇

昨今、ネットにて「小さくなったお菓子」と題する同一商品の容量変更に関する写真や記事があり、見ると改めて納得の出来事です。見慣れた物は中々気が付かないものなのか、見慣れているので直ちに気が付くのかは関心の度合いでしょう。特に子供は敏感に思われます。
今回は私の少年時代の事です。当時の高級チョコレートの「森永ハイクラウン」は煙草の箱を模した洒落た意匠で、4本のチョコレートが夫々独立包装された品でした。箱上部の色の部分で味を示しており、赤がミルクチョコレートで、他に黒、青、山吹色がありましたが、小遣いでは買えない額でしたので食べた記憶がありません。その「森永ハイクラウン」ですが、1973年の石油ショックによる不況で「小さくなったお菓子」と化したのです。写真の箱は1972年の品と1974年の品で、並べますと若干小さくなった事が歴然としており、しかも定価も改訂ですから値上げと減量が同時に行われたのです。当時は全く話題にもなりませんでしたが、私は直ちに気が付き箱を保存したのでした。
箱の中身は当時の収集品と保存品で、シールは左側の如何にも1970年代初頭の品が富士フィルムのカセットテープの販売促進品で、擦ると柑橘系の香りが出る仕掛けでした。右側は文房具店で販売されていた一般品です。もうひと箱は当時在学していた小学校の開校五十周年記念品で、2022年には我々は60歳で創立百年を迎えるのかと同級生と話しておりましたが、あと3年に迫りますも小学校自体は都心部の過疎化により統廃合となり現存しておりません。なお、写真の下敷きの市松模様の布は小学校時代の給食時に机の上に敷いた物で、現在ではターンテーブルのダストカヴァーの上に敷いてあります。1974年に配布されましたので実に45年前の品です。

音楽史研究家 郡修彦

























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2019年08月29日

アゲイン9月催事の御案内

毎月第一日曜日13時半より武蔵小山のライブカフェ「アゲイン」にて開催中の音楽鑑賞会「ほのぼのSP講座 SP盤でたどる昭和流行歌史」の第177回の御案内です。本年1月より開始の新企画は季節の作品で、9月は「月の歌」を集めました。花鳥風月の名の通り日本には月を題材にした歌が様々な分野にあります。中秋の名月の旧暦8月15日(本年は9月13日)にちなみ、今回は軍歌・歌曲・童謡・軽音楽から流行歌に亙る広い幅で名作・名旋律を選びました。月に託した日本人の豊かな感性が夫々の歌の中から感じられ、格好の題材である事が御判り頂けると思います。感傷に限定される事無く千差万別の世界が繰り広げられるのは見事と言うより他はありません。

1、月下の陣(陸軍戸山学校軍楽隊)1935年
(ベッリーニの歌劇「ノルマ」中の詠唱と斉唱を軍歌に転用した作品です)
2、荒城の月(永田絃次郎)1936年
(尺八の名手福田蘭童の編曲と序奏とテノールの美声が見事な珠玉の傑作です)
3、月の砂漠(安西愛子、川田孝子)1947年
(楽譜と実演で知れ渡った作品の3番目のレコード、編曲と歌唱が見事です)
4、月光値千金(天野喜久代)1929年
(外国作品に日本語の歌詞を付けた当時最新の軽音楽です、邦題が洒落ています)
5、月光(ミス・コロムビア)1933年
(声楽系の新人歌手が歌う歌曲と流行歌の中間に位置する不思議な作品です)
6、青い月夜(瀧田菊江)1936年
(上品で洗練された流行歌、古き良き時代の具体例とも言えましょう)
7、緑の月(奥田英子)1937年
(米国で高く評価された古賀政男作品です、異国情緒とも無国籍とも言える不思議な作品です)
8、月のセレナーデ(松平晃)1938年
(服部良一の洗練された抒情作品として発売月の主力商品でしたが、復刻の機会に恵まれず)
9、月明の曠野(上原敏)1938年
(戦地からの葉書に記された歌詞を用いた時局作品、しみじみとした味わいがあります)
10、月のデッキで(霧島昇)1939年
(事変下とは思えぬ抒情的な作品であり、戦後も長く販売されました)
11、高原の月(霧島昇、二葉あき子)1942年
(流行歌を越えた映画主題歌として好評を博した名作です)
12、月夜船(波平暁男)1944年
(宮古島出身の名テノールの見事な歌唱が軽快な作品を際立たせております)
13、名残の月影(小笠原美都子)1947年
(戦後のポリドールの最初の流行歌、国定忠治を主題とした切々たる抒情作品です)
14、青い月の夜は(藤山一郎)1948年
(軽快な洋風作品を藤山一郎の美声が盛り上げております)
15、月の浜辺(安藤まり子)1952年
(20年前の古賀政男作品を新人歌手により再び世に問うたものです)

何れも良質のCDとSP盤による良好な音質です、是非とも御越し下さい。

9月1日 午後1時開場、1時半開演、3時前に終了予定、会費2000円(飲物一杯付)

音楽史研究家 郡修彦


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2019年08月15日

那須戦争博物館の軍用機の正体

8月15日の終戦記念日に靖国神社へ軍服姿で参拝する那須戦争博物館の栗林館長は有名な存在でしたが、一昨年の参拝を最後として入院され本年3月に亡くなられたと知りました。九段会館のホールを借りての軍歌・愛国歌の演奏会を年2回開催しており、1990年代の半ばから数回赴きましたし、私設の戦争博物館には2回御伺い致しました。
映画用の様々な複製品と本物とで構成された玉石混交の感がありましたが、貴重な本物も多く感心したものです。その中で屋外に展示されている軍用機は説明には「95式陸軍戦闘機」(一時期は98式一型練習機)とありますが、正しくは1934年から製造された米国製複葉機「ボーイング・ステアマン・モデル75 ケイデット(kaydet)」です。95式戦闘機は一人用の単座ですが、展示の飛行機は二人用の複座であり、初めて見た時に少年時代にプラモデルで製作した同機に間違いないと確信しました。私の小学生時代には72分の1の軍用機のプラモデルの全盛時代であり、特にレベル社の製品が種類が多く精密で知られていました。当時100円(葉書7円の封書15円の時代です)でしたので、毎週1機以上の割合で製作し、箱絵や模型を見つつ画を描いたものでした。ですので、戦争博物館で見た時に直ちに正体が分かったのです。
戦争博物館の機体は1941年製造、乳酸菌飲料の「ピロビタン」のCM用に購入・使用されたもので、1971年12月7日にJA3641としてピロビタンの所有にて登録され同社の宣伝素材として活躍、1976年のNHK連続テレビ小説「雲のじゅうたん」にも使用されております。元々はエンジンが剥き出しですが、購入時には覆い(カヴァー)のカウリングが付けられ、プロペラの先端にもスピンナーが追加された状態の飛行可能機体でした。その後に戦争博物館の所有となり、老朽化により複葉の上部が取られ単葉機となりましたが、操縦席の風防と計器盤・垂直尾翼・脚部分は正しく「ケイデット」であり、同館にて様々な名称にて展示されたのは合点の行かない事です。
さて、少年時代に制作した「ケイデット」のプラモデルですが、塗料(レベルカラー)にて指示通りに筆塗りをして、我ながら見事な出来と感心し遊びに出かけ夕方に帰宅しますと見当たりませんでした。何処に置いたのかと家中探し回りましたが、箱はあれども模型は見当たらず途方に暮れていました処、父親が飛行機の模型かと問いますので然りと返しますに、翼と脚が折れた残骸を見せられました。完成後に畳に放置したまま遊びに出、その間に帰宅した父が一休みに横になり押し潰したのが真相でした。机の上に置かず畳の上に置いた私も迂闊でしたし、確かめずに横になった父親も迂闊でしたが、結局は代金を頂戴して翌日に別の軍用機のプラモデルを購入したのでした。

音楽史研究家 郡修彦

昨今購入した日本発売当時の初版品です。私が購入した1972年の再版品では、絵の左右と下の白縁が無い意匠でした。

中身です。写真右上端の円形のスタンドベース(展示用の台座)は再版から省略されましたが、組み立て説明書には残っており、部品が足りないと思われていました。この辺りの不統一は杜撰でした。

このケイデットのプラモデルをピロビタン号に改造する特集を組んだ月刊誌
「モデルアート」の表紙です。こちらも昨今入手しました。

色刷りのカラー頁のピロビタン号です。こちらを再改造すると戦争博物館の現状になりますが、挑戦者はいない模様です。

改造の手引きは10頁に亙り丁寧に解説されています。二人乗りの複座飛行機ですので計器盤は2種類あります。写真の右側が操縦席の計器盤で、戦争博物館の現状写真と比較すると経年変化が分かります。



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2019年08月03日

アゲイン8月催事の御案内

毎月第一日曜日13時半より武蔵小山のライブカフェ「アゲイン」にて開催中の音楽鑑賞会「ほのぼのSP講座 SP盤でたどる昭和流行歌史」の第176回の御案内です。本年1月より開始の新企画は季節の作品で、8月は「高原・キャンプの歌」を集めました。8月の行楽にキャンプ(当時の表記はキャムプ)が登場したのは戦後の事ではなく、既に戦前に都市生活者に普及しておりました。また、登山も同様であり今日の生活様式の源流が意外と早い時期に始まっている事を歌が裏付けております。戦前の流行歌の幅の広さと清潔さをお楽しみ頂き、戦後は高原が感傷の題材に変化している点にご注目下さい。

1、キャムプ小唄(藤山一郎)1931年
(作曲の古賀政男、歌手の藤山一郎の最初期の作品であり、若々しい颯爽とした歌唱が印象的です)
2、高原の唄(中野忠晴)1932年
(大ヒットの連打後の模索期の古賀作品として一風変わった作風です)
3、山は微笑む(楠木繁夫)1935年
(新会社での再出発を図った古賀政男の本領発揮の作品、楠木繁夫の美声も見事)
4、山岳の唄(楠木繁夫)1935年
(北アルプス白馬岳の副題を持ち、古賀政男か長津義司か判然としない作品)
5、月のキャムプ(ミス・コロムビア)1935年
(1930年代の流行歌の真骨頂とも言うべき清潔で品の有る珠玉の名作です)
6、キャムプは更けて(二葉あき子)1936年
(牧歌的な旋律に新人の二葉あき子の美声が調和した見事な一曲)
7、キャムプの朝(ミス・コロムビア)1937年
(支那事変の直前に企画された平和な作品として貴重な存在です)
8、キャムプの唄(松平晃)1938年
(事変下でもまだまだ行楽の余裕が有った事を示す歴史の証です)
9、キャムプの一夜(田端義夫)1941年
(田端義夫の企画では題材がキャムプでも曲調は演歌路線との珍妙な作品です)
10、高原の羊飼い(真木不二夫)1950年
(占領下でも余裕が生まれ始めた時期の爽やかな作品であり、長津義司得意の旋律です)
11、さすらいの旅情(岡晴夫)1951年
(岡晴夫には珍しい高原物、旧作の転用ながら上質の感傷が見事です)
12、白樺の町(三條町子)1951年
(占領下の高原の風景が目に浮かぶ様な抒情作品です)
13、キャンプの歌(川田孝子・大貫房司)1952年
(新作童謡として作られた子供流行歌で、戦後の復興期の雰囲気が出ております)
14、高原の夢は悲し(近江俊郎)1953年
(新会社での心機一転と思いきや、矢張り抒情路線が中心の近江俊郎の佳作です)
15、高原列車は行く(岡本敦郎)1954年
(福島の沼尻鉄道を題材にした爽やかな名作です)

何れも良質のCDとSP盤による良好な音質です。是非とも御越し下さい。

8月4日 午後1時開場、1時半開演、3時前に終了予定、会費2000円(飲物一杯付)

音楽史研究家 郡修彦






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2019年07月21日

アポロ11号50年

人類が初めて月に着陸して半世紀たった事になっております。戦後の米ソの宇宙競争は凄まじいものであり、正しく国威を賭けた熾烈な競争でした。最初はソ連が優勢、途中からアメリカが逆転し一気に月着陸となり、アポロ計画の終了まで連続して月に着陸しましたが、ソ連は続かずに方向転換をしました。南極到達ではノルウェーとイギリスが首位争いをし、結果的には双方共に到達しておりますが、月の場合は何故かソ連は二番手を避けているのは子供心に不思議でした。1970年代にはソ連が月に着陸するとは当時の子供は皆が確信しており、方向転換は何とも以外で納得の行かない結論でした。当時の宇宙技術では米ソは伯仲しており、ソ連はアメリカと互角の大国にて日本はまだまだとの妄想を植え付けられていました。
半世紀前の世の中は大変な宇宙ブームで、特に子供・少年を取り巻く環境に顕著でした。文房具・玩具・書籍の分野に宇宙関連商品が山の如くあり、チョコレートの「アポロ」も流行に便乗して登場した品です。少年雑誌では前年に極左児童文学者の集団がミリタリー特集の傾向に反旗を翻し、大々的な排除・追放運動を実力行使した為に、代わりに平和事業の宇宙探索が特集の中心になり、全社の全紙面に宇宙が登場しない日は無い程であり、プラスティックモデルや玩具も宇宙船が数多く見られました。
これらの啓蒙活動により当時の子供・少年少女は宇宙探索の知識を随分と身に着けたもので、その意味では成功しましたが、逆に月着陸を信じて疑わない土壌も十分に形成されたのです。
私も諸々の情報から大型ロケットの先端部分が母船と月着陸船、最後にはアポロチョコレートと同型の母船のみが地球に帰還すると知り、地球から宇宙空間へ行く事が如何に大掛かりかを納得しました。大気圏と言うものが存在し、その外には空気が無く無重力であるとの概念を子供心に理解したものです。そして宇宙空間での衣食住も地球とは全く異なり、アポロの乗務員も全員軍人と知り、宇宙飛行士になるには先ずは軍人になる事が先決とも知り、日本では如何にするのかとも考えたものです。
7月21日のアポロ11号の月着陸の中継放送は、TVが前年の初冬から故障中(何故か修理をせず、修理をしたのは同年9月の事でした)にて見られず残念でした。19日が一学期の終業式、級友とは21日のアポロ11号の月着陸の中継放送の話でもちきりであり、TVの修理を両親に言いましたが急には無理との事で、人生の不覚のひとつであります。
さて、写真の雑誌は当時読んだ物で、「少年マガジン」は従兄一家(母親の妹一家)と一週間ほど伊豆は宇佐美の別荘で過ごした間に毎日繰り返し読んだ物で、東京都内は7月24日午後に発売の号であり、出発時に従兄が購入したのです。巻頭の口絵(色刷り頁)の企画・構成・脚色は有名な大伴昌司氏であり、月を主題にした2回物の「月は地獄」は冒頭頁のみ色刷りでした。この雑誌を探すべく1990年代後半から神保町の漫画専門店を頻繁に歩き、書架で発見した時は感無量でした。直ちに購入して30数年ぶりの再会となり、殆どの作品を記憶していたのには驚きました。「週刊朝日」の増刊号は着陸直後に発売されたもので、NASAによるアポロ11号の宇宙空間・月面の写真は発表前でしたので収録されず、打ち上げ時のNASA提供写真とテレビ中継の画面を撮影した画像に、カラーイラストレーションにて写真頁が構成されており、小学1年生の私は記事の文章は読めないので写真頁を繰返し見たものです。この雑誌は昨今買い直した品であり、購入直後と殆ど変わらない美品を廉価にて入手しました。2冊共に1969年の夏を思い出させる懐かしい品です。




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2019年07月07日

カルピス100年

飲料のカルピスが発売100年を迎え、宣伝により広く100年が知れ渡りました。50年前の50年の時は殆ど宣伝されなかった様に記憶しており、今回は大々的で何よりですが、全てが大きく変化したのがこの半世紀でした。
茶色の硝子製の容器は無くなり、成分も変化して、味も微妙に変わった様に感じます。1960年代から1970年代までは御中元の主力商品であり、3本組や5本組が良く利用され、私の子供時代にも進物として度々届いたものです。標準品の白カルピスと果汁のカルピスの組み合わせであり、子供には果汁のカルピスが大変に貴重な品に思えたものです。
1973年に缶飲料として炭酸水で希釈した「カルピスソーダ」と果汁系の「カルピコ」(グレープとプラム)が発売されましたが、炭酸水の希釈は風味が変化しており、何故水の希釈では無いのかと子供心に疑問でした。実は技術的に当時は不可能であり、1991年の「カルピスウォーター」にて初めて水での希釈が実用になったと知り、18年も要したのかと不思議に感じました。
「カルピス」の名の由来も、「カルピコ」の由来も簡単にわかりますので敢えて記しませんが、1973年に「カルピコ」が発売されるや従弟から私の名の「ハルヒコ」にちなみ「カルピコ」と呼ばれる様になり、懐かしい思い出があります。
それから、父から聞いた話では、白地に青水玉の包装紙のカルピスと、青地に白水玉のカルピスがあり、後者の方が酸味が強かったとの事です。
生産性や輸送事情により硝子容器が消え、経費の関係から成分が変更されているのは時代の趨勢とは言え、残念であります。

郡修彦






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2019年07月04日

アゲイン7月催事の御案内

毎月第一日曜日13時半より武蔵小山のライブカフェ「アゲイン」にて開催中の音楽鑑賞会「ほのぼのSP講座 SP盤でたどる昭和流行歌史」の第175回の御案内です。本年1月より開始の新企画は季節の作品で、7月は「海の歌」を集めました。四面海に囲繞された島国の日本では海は身近な存在であり、唱歌・軍歌に始まり歌曲・愛唱歌・流行歌の世界でも様々な作品が作られました。島国日本の独立保持が主題の作品は時代背景と基本方針を象徴し、船員の感情や行楽での青春を謳歌した歌や、海への憧れと感傷等の百花繚乱の中から、代表作と音楽的に優れた曲を厳選しました。

1、軍艦行進曲(帝国海軍軍楽隊)1938年
(日本を代表する吹奏楽であり、元々は歌を行進曲にした作品です、今回は歌入り)
2、我は海の子(日本放送合唱団)1942年
(雄大な唱歌として長く親しまれた名作です)
3、海(加藤芳江)1935年
(美しい唱歌として長く親しまれた作品を、後の二葉あき子が歌う珍品です)
4、これぞマドロスの恋(奥田良三)1932年
(ドイツ映画の主題歌を日本人が日本語で歌った名作、ドイツ楽団の演奏が見事です)
5、海の若人(松平晃)1937年
(平和な時代の毎年恒例の季節の流行歌です、爽やかな美しさが印象的)
6、波の行進曲(二葉あき子)1938年
(海の行楽が盛んな時代には各社から様々な流行歌が毎年制作されました)
7、太平洋行進曲(徳山、波岡、中村、由利)1939年
(この年の大ヒット作品を4人の声楽系歌手が歌う珍品です)
8、海の勇者(徳山、新田、中村、由利)1939年
(太平洋行進曲の次点作品、雄大な中に悲壮感のある重厚な味わいです)
9、南洋航路(新田八郎)1940年
(後に「ラバウル小唄」として大流行した作品の元歌です)
10、水夫の唄(伊藤久男)1940年
(イギリス征討歌ともいわれるドイツの作品の日本語版、軽快な作品です)
11、海国日本(伊藤久男、二葉あき子)1941年
(軽快で躍動感に満ちた素晴らしい作品です)
12、海のつはもの(東海林太郎、美ち奴)1941年
(軍人の作詩による軽快な作品、テイチクとビクターの競作作品です)
13、ウミ(佐々木成子)1941年
(新作唱歌の教則音源、音楽学校時代の佐々木成子の美声が見事です)
14、海行く日本(永田絃次郎、長門美保)1942年
(七洋制覇の歌の副題を持つ募集作品、壮大で勇壮な詩と曲が見事に融合しています)
15、海に来たれ(三枝喜美子)1946年
(イタリア歌曲として古くから親しまれてきた名作、多くの声楽の名唱があります)

何れも良質のCDとSP盤による良好な音質です。是非とも御越し下さい。

7月7日 午後1時開場、1時半開演、3時前に終了予定、会費2000円(飲物一杯付)

音楽史研究家 郡修彦

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2019年07月01日

ウォークマン40年

ポータブルオーディオプレイヤー(ヘッドフォンステレオ)の代名詞ともいえるソニーの「ウォークマン」が発売されて40年の歳月が流れました。記録媒体のカセットテープは既に過去の遺物となり、実用面では現在の凡ゆる媒体に及びません。「速度誤差」「ヒスノイズ」「アジマスずれ」との致命的な三大欠点を抱えたカセットテープは一時代の記録媒体に過ぎませんでしたが、その中で品質を向上させ、録音再生装置の高性能化を主導したのが日本でした。カセットテープのハーフ(外装の樹脂部分)の精密な成型加工技術は世界最高水準であり、テープを製造し磁気を塗布する技術も日本が世界の首位でした。ちなみにカセットテープを入れるケースの樹脂成型加工技術とインデックスカードの印刷・裁断も日本が際立っていました。
さて、「ウォークマン」が発売された時のカタログがありますので一部を掲載しますが、総合カタログの一部に掲載されたのみでした。カタログ表紙には1973年竣工のワールドトレードセンターを背景にブルックリン橋の上でモデルがウオークマンを使用する写真、内容はスピーカーと録音機能の無い、ステレオ再生機能のみの小型再生機でした。小型のヘッドフォンが付属とはいえ、葉書20円、封書50円の時代の33000円は何とも高額に感じたものです。カタログには小さく「ヘッドフォンモニター専用機です」との断り書きがあり、録音機能とスピーカーの無いヘッドフォンによるステレオ再生専用装置が売れるのかと思いましたが、高校生活の二学期になりますと早くも購入した者が通学時に使用する程であり、私の予想は完全に外れました。その後の大流行は一世を風靡する程であり、各社が追随しオープンエアヘッドフォンを着用したり、首に掛ける姿は1980年代前半の風物詩となりました。
私は1981年末に漸くヘッドフォンステレオを入手し、SP盤の音楽(クラシック・流行歌)のみを聴く周囲からは異色の存在でした。その後、再生装置はソニーのWM-DDを経てWM-DC2となり、CDやMDのポータブルプレーヤーには見向きもせず、前述の二台が故障してからは外出時には音楽無しでしたが、何時の日か修理可能と希望を捨てずに温存し、昨今無事に修理調整完了して相変わらずカセットテープにてSP盤の音源を再生しております。正直、外出時の状況ではカセットテープでも十分に実用になる事が改めて良く判り、カセットテープは同一内容を音質の向上したSP復刻盤CDや、美品SP盤から録音し直して高水準の音楽を楽しんでおります。

ウォークマンの頁、1頁の上段半分のみの大きさです。

1981年12月14日に16000円にて購入した「アイワ カセットボーイ」、当時早くも機種交代により旧製品となった品を安く購入。少々大き目ですが音質・性能共に満足行くもので、モノラルマイクロフォン内蔵による録音が可能(但しモーター音が混入し、現在のICレコーダーとは比較にならない音質)であり、大学の授業を記念に随分録音しました。

ゼミの教授の授業を録音したものを、四半世紀後に御遺族に記念としてCDに焼き付けて進呈した事があります。

ウォークマンの三代目、外装の色が選択出来る洒落た配慮でした。1983年5月24日に19600円にて購入、付属のビニールケースは使い勝手が悪く殆ど使用しませんでした。使用説明書は輸出兼用として各国語が印刷された厚いものです。

鞄やブレザーのポケットに入れて使用しましたが、細かい傷が目立ちましたので、部品在庫が有るうちに外装は一度取り換えてあります。

設計は優秀ですが部品の強度は余裕が無く、駆動用のギアの破損が頻繁に生じました。長らく休止状態でしたが、代用ギアを製造している所からの入手により甦り、更にはコンデンサーの交換により音質が格段に向上し現役です。

1986年12月3日に23000円にて購入、既に生産終了しており店頭在庫を探し「銀座三越」にて在庫処分品を安く入手しました。陳列棚の中の展示品ですので、化粧箱の製造番号(シリアルナンバー)と一致しておらず、先に売れた品に本機の製造番号が記された箱が付けられたのです。ヘッドフォンが付属していないので、化粧箱は小型であり意匠も上品です。

付属のケースは使い勝手の良い革製品でしたが、耐久性に乏しく比較的早く寿命となりました。別売の専用ケースを購入しましたが、材質が若干異なっており、ソニーに問い合わせますに、付属用と別売用では使用が異なるとの返答でした。同一品を付属用と別売用に分けた方が合理的と思いますが。

こちらも細かい傷が目立ちましたので、外装を取り替えました。ヘッドからのコードが断線してソニーでは修理不可能との診断により長く休止状態でしたが、こちらも修理専門の方の努力で無事に直り現役です。ベルトを使用しないディスクドライブ方式と水晶制御モーターにより回転が安定しており、ヘッドも耐摩耗性に優れ音質抜群の材質ですので、外出時の必携品です。

音楽史研究家 郡修彦















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2019年06月27日

萱野国老殉節150年

本日は会津藩家老の萱野長修(かやのながはる)が戦犯として自刃して150年目に当たります。旧暦の1869年5月18日は新暦に換算しますと6月27日であり、この時期の東京は梅雨の最中ですので、自刃当日も雨か曇天であったと思われます。

さて、萱野長修の容貌は絵も写真も無く全く不明であり、1960年代の後半に想像画が作成されましたが、長修の三男の郡寛四郎の晩年の写真を参考にして描かれたものです。1911年(明治44年)5月18日に行われました「萱野国老追吊会」にて柴太一郎の国老追懐談の中に「君ハ父母ノ系統ヲ受ケ美男子デシタ」とありますが、江戸時代末期から明治時代の「美男子」の概念は今日とは異なると思われます。長修の実弟の萱野安之助(後に三淵隆衡と改名)の写真がありますが、長修の二女と、その次男の容貌と共通しており、おそらく長修の容貌も同系であったと想像されます。萱野断絶の後に実弟は三淵と改姓しますが、これは戦国時代に萱野、郡と関連の有る一族の姓にちなんだものです。

音楽史研究家 郡修彦


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2019年06月01日

小平文具センター 一橋学園駅北口の文房具店史

2019年6月1日

地元、小平市の一橋学園駅北口の商店街の事です。
日頃、利用しておりました文房具店の「小平文具センター」の前を通りますとシャッターが閉じられ、店名の看板も外されており閉店(廃業)と知り、ネット等で情報収集し5月3日にて閉店したと知り歳月の流れを痛感しました。少年時代に一橋学園駅周囲の文房具店は北口踏切西側(現在のコインランドリー)に「椎名文具店」がありましたが、1973年(昭和48年)9月(或いは8月)にて閉店(閉店売り出しで購入した色鉛筆一式は現在も使用中)、「小平文具センター」は1974年(昭和49年)の後半(多分冬)に開店し、品揃え宜しく店主夫妻の商品説明や助言も丁寧で、大いに利用したものでした。グーグルストリートの写真に閉店の挨拶が写されており「年令には勝てず」とあり、45年弱の年月を改めて思いました。何しろ小学校6年生が初老になる時間ですから、自分の中では短いと思う時間も客観的には長い訳です。
それから、もう一軒忘れられぬ文房具店が有りました。「小平文具センター」が開店して間もない1975年(昭和50年)春の事、学園坂通りを北上し十字路を右折(東へ)した「マルマツコーポ」の一階西端に文房具店が開店し、「半額セール」の大文字も鮮やかな折込広告にて出発しました。ちょうど弟の新学期の文房具が必要にて、母から指示を受けて私は店へ買い物に行き、半額との事で入用品を揃えました。ところが会計になりますと定価の請求です。「半額セール」では無いのかと尋ねますと、ホスト系優男の気障な店長が
「アナタは当店のシステムを誤解している!、これは本日お買い上げのレシートを後日持参すると同額の品が半額になるとの事なのデス!」と宣うではありませんか。「半額セール」は店内の品が半額ではと訝りましたが、無論折込広告には店長曰くのシステムの説明は記されておりません。そして水商売系の若い女定員も嘲笑するので実に不快な思いをして帰宅し、祖母と母に事情を話して誇大広告ではと言いましたが、「かかる商法は永続しない」との大人の見解を言われ、結局は母と弟で「小平文具センター」にて入用品を揃えたのでした。収まらないのは私でして、何時まで続くか終焉を見届け様と心した中学一年生でした。残念ながら折込広告は立腹の余り破棄処分したので現存しておらず、近郷近在にも残存はしておりませんでしょう。
その年の夏、祖母を残して一家は西荻窪に転居し、時折祖母を訪ねる生活が6年ほど続きました。その度に例の文房具店を外から見ましたが、1978年か1979年に終焉を迎えた様に記憶しており、1981年11月に私が祖母と同居するべく戻った時には確実に存在していませんでした。矢張り開店当初の誇大商法の報いと言わざるを得ません。
話は前後しますが、学園坂通りが急坂になる手前の西側に1975年までブロンズ彫刻家の斎藤素厳氏の大邸宅があり、その東側の商店街にも文房具店が有った記憶がありますが朧気です。斎藤氏の大邸宅は同年初夏から解体が始まり夏には更地となり、跡地には商店街が出来、そこに間口が通常の二倍の大規模文房具店が有りましたが、21世紀に入り静かに無くなりました。そして最後の一軒の「小平文具センター」が廃業し、かくして学園東口からは文房具店は一軒も無くなったのです。

音楽史研究家 郡修彦

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2019年05月26日

東名高速道路全通50年

2019年5月26日
東名高速道路が全通して半世紀になりました。郵便・宅配・物流・バス等の多分野に貢献している重要な施設であり、鉄道輸送中心であった日本が自動車輸送に転換する時期の事でした。鉄道輸送と自動車輸送は夫々一長一短であり、昨今は両者が上手く共存して膨大な流通・移動を支えている感があります。
東名高速道路が全通するまでの国道一号線による移動は大変なものでした。1968年(昭和43年)3月の或る日曜日(日付けは失念)に利用した記憶は今でも鮮明に覚えております。その日、母の父(私の祖父)と母の弟3人(私の叔父)を中心に乗用車3台にて、母の実家の杉並堀之内から静岡の御殿場まで赴きました。祖父の郷里への用事であったと思いますが詳しくは覚えておりません。私の所は両親と私、長弟一家(叔父・叔母と従妹)の大所帯で、日頃鉄道移動のみの私には自動車での長距離移動は初めて故に興味津々でした。実家を8時に出発予定で早朝に起床して赴き、国道一号線を南下して御殿場を目指しましたが、信号や渋滞で難儀した事を良く覚えており、現地到着は昼過ぎでした。来年になれば東名高速道路が出来、信号も渋滞も無縁で高速での短時間移動が可能と叔父が言っており、車窓から工事中の東名高速を見ました。御殿場を3時位に出発しましたが帰路は大渋滞で実家到着は8時近かった様に記憶しております。写真は往路の休憩場所で撮影したもので、小田急線と並行しており特急電車(ロマンスカー、3000形SE車)が上り線を走る光景が印象的でした。
翌年の8月18日、今度は祖父の乗用車にて東名高速を利用して伊豆へ行楽(海水浴)へ赴き、前年との移動時間の差を実感しました。その頃、叔母(三弟の伴侶)の一族が伊豆(宇佐美)に別荘を所有しており良く利用し、叔父(次弟)の乗用車に母と弟と乗った時には「これから100キロを出しますから」と言い、自動車での100キロを体験し母は青くなりましたが、子供は平気でした。
東名高速道路と聞きますと昭和40年代中葉の様々な事が思い出されます。

音楽史研究家 郡修彦



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2019年05月23日

アゲイン6月催事の御案内

毎月第一日曜日13時半より武蔵小山のライブカフェ「アゲイン」にて開催中の音楽鑑賞会「ほのぼのSP講座、SP盤でたどる昭和流行歌史」の第174回の御案内です。1月より開始の新企画は季節の作品で、6月は「雨の歌」を集めました。明確な四季のある日本では雨も重要な風物であり、流行歌の世界では戦前・戦中・戦後の各時代に様々な切り口で膨大な作品が作られ、現在の各分野に引き継がれております。SP盤時代ならではの上質の感傷の世界は、矢張り現代人の感覚とは異なる繊細な感性を示しており、大和民族の一時代の記録として貴重な存在であります。

1、城ヶ島の雨(奥田良三)1933年
(大正時代の名作品を作曲者の弟子が完璧に歌い上げた傑作です)
2、港の雨(松平晃)1933年
(江口夜詩と松平晃の初期の名作で、間奏部分が効果的です)
3、雨に咲く花(関種子)1935年
(洋風の洒落た旋律が印象的な名作です)
4、出島の雨(櫻井健二)1935年
(現在では忘れ去られた当時の流行作品ですが、まとまりのある上質の出来です)
5、雨のふる夜(霧島昇)1937年
(B面の発禁措置により短期間で販売終了となった名作です)
6、雨のブルース(淡谷のり子)1938年
(淡谷のり子の名作の一つとして歴史に残る出来です)
7、或る雨の午後(ディック・ミネ)1938年
(和製タンゴの傑作です、実に洒落た旋律と歌唱は不滅と申せましょう)
8、雨の哀愁(小林千代子)1939年
(江口夜詩の隠れた名作、詩・曲・歌の融合は見事の一言です)
9、港は雨(北廉太郎)1940年
(若くして病没した歌手の美しい高音が魅力的な作品です、音質良好です)
10、雨の日曜日(結城道子)1940年
(洒落た抒情作品として事変下の傑作のひとつです)
11、雨の沈丁花(藤山一郎)1941年
(服部良一の隠れた名作です、編曲の美しさが魅力的)
12、雨の夜汽車(奈良光枝)1948年
(戦後に流行した抒情作品、夜汽車も既に過去の存在となりました)
13、雨のタンゴ(岡晴夫)1951年
(流行歌調が多い岡晴夫の中では珍しい本格的な和製タンゴです)
14、みどりの雨(藤山一郎)1953年
(上質の流行歌として忘れがたい作品です)
15、雨の酒場で(ディック・ミネ)1954年
(歌の途中に台詞を入れた珍しい構成が効果的な作品です)

何れも良質CDとSP盤による良好な音質です。また「雨の酒場で」の初期作品(旋律の一部が異なる)を参考として御用意致しますので、珍品を是非ともお聴き下さい。

6月2日 午後1時開場、1時半開演、3時前に終了予定、会費2000円(飲物一杯付)

音楽史研究家 郡修彦



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2019年05月22日

5月23日のTV出演の御知らせ

明日、5月23日(木)に下記のTV番組に出演致します(※生放送のため、内容が急遽変更になる可能性があります)
「スッキリ」番組内「キニナルジャーナル」のコーナー(放送時間は、9時30分頃~を予定)
6月は下記日程にて、自宅催事を開催致します。蓄音器の迫力ある音質と、レコード音楽史のわかりやすい解説、新築の文化住宅の雰囲気をお楽しみいただけます。お気軽にご参加ください。

音楽史研究家 郡修彦


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2019年05月18日

萱野国老殉節150年 萱野家と郡家

本日は会津藩家老の萱野長修(かやのながはる)が戦犯として自刃して150年目に当たります。旧暦の5月18日ですので新暦では6月27日、梅雨の時期に当たります。
萱野長修は私の高祖父であり、会津萱野家の末裔として「萱野」と「郡」の正しい関係を御伝え致します。武士の時代には一族に不名誉が生じた場合は「家名断絶・当事者切腹」との慣例が有り、会津萱野家は会津戦争の責任者として新政府より吻首の刑が下されましたが、明治2年(1869年)は新時代の黎明とは言え武士の時代の風習が根付いており、吻首の代わりに名誉ある切腹の措置が取られました。現代の感覚からすれば「吻首」も「切腹」も同等と思われがちですが、武士の感覚では天地の差がある措置でした。
これにより、会津萱野家は断絶し、長男の長準(ながのり)以外は「郡」に改姓しました。この「郡」の姓は会津萱野家初代の長則(?~1666、80余歳との記録あり)の母親の姓であり、元々は関西地方の一族です。萱野家は長則の父親の弥三左衛門長政(やそうざえもんながまさ)を祖とし、それ以前の記録は現時点では未発見ですが、長政の妻の「郡」家に関しましては更に100年ほど遡り得ます。長政の妻は伊丹勘左衛門の娘として生まれ、父親の戦死後は叔父(母方の郡を継いだ父親の実弟)の郡宗保(1546~1615)に育てられました。宗保は大坂夏の陣にて勇戦し自害した武将として知られており、実父の「伊丹」家と実母の「郡」家は親密な関係にあり、血統が絶えない様に常に男子を養子に取り、存続に努めました。
歴史本の誤記として、長修の母親の姓が「郡」とありますが、正しくは「一ノ瀬」であり、会津藩には「郡」家は存在しません。また、長修は「ながはる」と読み、通称の権兵衛は「ごんのひょうえ」と読みます。
1960年代に制作された肖像画は三男の郡寛四郎の晩年の写真を参考にした想像画であり、根拠に乏しいものです。

音楽史研究家 郡修彦

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2019年05月15日

小平第十五小学校創立50年

2019年5月15日

地元の小平第十五小学校が創立50周年を迎えました。
当時1年生として同校に在学しておりましたので、その頃の様子を御伝えします。
高度成長期の小平市は児童数の急増で毎年小学校を新設しなくては追い付かない状況にありました。私の居住地は小平第四小学校の学区であり、1969年(昭和44年)の新入生として同校に入学しました。既に第四小学校の容量を超えた為に十五小学校の新設が決定し工事中でしたが、新学期には間に合わずに第四小学校に入学となった訳です。1年生は6組で構成され、実は5組と6組が2学期より十五小学校へ移る学区の生徒で構成されており、4組までは第四小学校の本校舎ですが、十五小学校用の5・6組は校庭に仮設されたプレハブ校舎でした。ベニヤの床板、扉と窓は木枠、照明は流石に蛍光灯でしたが、雨天の時は屋根への雨音が激しく難儀したものでした。2学期から十五小学校に移る事を知りませんでしたので、この教室で一年間とは何とも辛いと子供心に痛感しました。
朝礼は5月半ばまでは全学年一斉に行われましたが、或る日の朝礼にて本日より第四小学校と十五小学校は分離すると言われ、翌日から別々に朝礼が行われた(場所は添付写真の中庭と記憶しています)のは子供心に不思議な限りでした。同じ敷地内に二つの学校が併存するとの事実は一年生には難しい事象でした。2学期からは別の小学校、それも新しい鉄筋校舎(当時の第四小学校は全て木造校舎、便所は汲み取り式の悪臭がありました)へ通えるとの話が同級生から広がり、プレハブ校舎とは7月にてお別れとは嬉しく思ったものです。
6月1日付の「15小学校通信」の第一号の4頁の、第四小学校内に於ける配置を掲載します。ちなみに私は小学校時代の教科書・ノート・配布物・答案は全て保存しております。伴侶からはそろそろと言われますが、自分の過去が消滅する様な感覚があり、喜寿位までは保存したく考えております。

音楽史研究家 郡修彦



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2019年05月06日

本日のTV出演

本日5月6日(月)毎日放送(MBS)『ミント!』の「この人フォロ-しとく?」に出演(予定)致します。関西圏のみの放送ですが、受信可能な方は是非とも御覧下さい。最新の状況が取材されております。

音楽史研究家 郡修彦


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