巷にひとり在り

歴史好きな漫画家・大西巷一の公式ブログ

『辺境のダイナミズム (ヨーロッパの中世 3)』


だいぶ前に読んだ本ですが、思い出しながら感想をまとめます。
読み応えのある本でした。

序盤で印象に残ったのは、北欧の商業都市ベルゲンで見つかったという大量のルーン文字の木簡の話。
14世紀当時、公文書から商取引から私的なラブレターまで普通にルーン文字が使われていたようです。

ルーン文字というと、よく石碑に刻まれてたり、魔力を持った神秘的な古い文字というイメージでファンタジー作品でもお馴染みだけど、中世北欧ではアルファベットと併せて日常的に使われていたっぽいです。
「二重文字社会」ってすごいな!(…と思ったけど、漢字と仮名文字とアルファベットを使いこなす日本人から見れば大したことないかも?w)

この本ではこのような非スタンダードな中世ヨーロッパとして、北欧・東欧・南欧の中世が概観されていて、それぞれ特徴があって面白いです。
特にキリスト教をどう受容するか、と、隣接する非キリスト教徒とどう接するか、という2点が鍵になってきます。

イスラム教圏と接する南欧では、キリスト教徒とイスラム教徒の共存がある程度上手くいったシチリアと、うまく行かなかったイベリア半島が対比されていて、このあたりもかなり興味深い話でした。

北欧では、ヴァイキングへの布教活動やバルト十字軍など、キリスト教の受容が漸進していった一方、東欧では、ビザンツ帝国の東方正教会との関係や、モンゴルの侵入、オスマン帝国の進出など、常に「非カトリック」や「異教徒」との緊張関係が続きました。

「中世ヨーロッパ」というと、フランス、ドイツ、イタリア、イギリスあたりが想定されがちですが、「スタンダードな中世ヨーロッパ」とは違うバリエーションを概観することで逆説的に「中世ヨーロッパ的なもの」がネガ像として浮かび上がってくるという一冊です。


なお、東欧パートは中世チェコ史の薩摩秀登先生が担当しており、フス戦争の話もしっかり出てくるので、『乙女戦争』読者にもオススメしておきます♪
(ちなみに、薩摩先生には何度かお目にかかる機会があり、『乙女戦争』終盤の歴史的経緯などについて助言もいただきました。大変感謝しております。)



この「ヨーロッパの中世」シリーズは全8巻構成になっています。

ぼくは一応全巻手元に持っているものの、まだ1,3,4巻の3冊しか読めていません…
どれも面白そうなのでいつか読破したいです。

タイトルからもイメージできると思いますが、このシリーズは中世ヨーロッパ史と言っても各国の王朝の変遷とか歴史的事件を年表に沿って記述するとかいう類いの表層的な歴史概説書ではありません。

この時代の名もなき人々の(我々現代人とは違う)生活スタイルとか価値観とか世界観といった、社会や心理の深層に迫るものです。

「中世ヨーロッパ史」というジャンルは、この手の深層的な研究がかなり進んでいるのが特徴だと思いますし、このシリーズもそうした研究成果を一般向けに紹介してくれるものです。

この手の本が日本語でバンバン出てくるのがこのジャンルの魅力です♪(読む時間が足りないのが悲しいですが…)
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昨日は9.11テロからちょうど20年の節目でした。
あの時ぼくもちょっとしたピンチに陥ったのですが、その話を書いてみます。


当時僕は駆け出しの漫画家で、講談社の「アフタヌーン」という雑誌で連載をしていました。
その日――2001年の9月11日は〆切直前で、アシスタントさんと2人で徹夜の原稿作業をしていました。


いつものように流していたラジオからニュース速報が入り、アメリカの国防省が攻撃が受けたと聴いて耳を疑いました。
テレビを点けると映画でよく見るペンタゴンから煙が上がっていました。
その後ニューヨークで起きたさらに衝撃的な事件もテレビで横目で見ながら、ペンを動かし続けていました。


「これは大変なことになったな…」と思いつつも、どこか現実離れした事のようにも感じていました。
ましてそれがまもなく自分の身に危機を招くことになろうとはまったく予想できませんでした…


翌朝、完成した漫画原稿を抱えて僕は近所の運送業者の事務所へ行きました。
僕は当時札幌に住んでいて、その日の朝イチの航空便で東京の出版社に原稿を発送するのが〆切のデッドラインでした。
ところが事務所の受付で言われたことには、昨夜のテロの影響で航空貨物便は当面停止されるとのこと…


頭が真っ白になりました。
貨物便の再開はいつになるかわからないとのこと。
本来なら代わりに陸路で運ぶ手もありましたが(一日くらいは遅れるけど)、その日はたまたま本州から北海道に向かって台風が北上中で、陸路の貨物便もいつ届くかわからない状況でした。


何てことだ、原稿は出来ているのに、それを入稿する手段がない!
今なら一瞬でデジタル入稿できますが、20年前の当時はまだ紙に描いて現物を送る時代でした。 荷物として預けておけば数日後には届くだろうけど、それでは〆切に間に合わない…



その時、受付けの人が教えてくれました。
「手荷物なら運べますよ」
航空貨物は停止されたけど旅客便は動いているので、飛行機に客として乗って、機内に持ち込める荷物なら一緒に持っていくことが出来るとのこと。
それだ! それしかない!


僕は車で千歳空港に向かい、羽田行きの便に乗りました。
教えてもらった通り、手荷物として原稿を持ち込むことは出来ました。

羽田から講談社のビルに着いた時にはまだ午前中で担当さんも出勤しておらず、担当さんのデスクに原稿と書き置きを残して、札幌にトンボ返りしました。


こうしてなんとか無事に入稿できました。

まあ、早朝だったので担当さんに電話するのも憚られたけど、緊急事態なのであえて相談してもよかったかもしれないし、相談すればもう少し〆切を融通してくれたかもしれません。
後になって冷静に考えればそれほどピンチじゃなかったかもしれないし、徹夜明けの眠い頭で必死に考えた方法は最適解じゃなかったかもしれないけど、後日担当さんは「大変だったね」と言って飛行機の代金を経費で落としてくれました。



そんな20年前の思い出話でした。


ちなみにその時連載していたのは『女媧〜JOKER〜』という作品です。

「マンガ図書館Z」では全巻無料で読めます。→ 大西巷一 『女媧 〜JOKER〜 1』
2001年の終わりには打ちk…完結しているので、この時僕が自ら出版社まで届けた原稿は終わりの方の回だったはず。
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今アフガニスタンのカブール脱出を巡る混乱が連日報道されていますが、第一次アフガン戦争(1838〜42年)の時に起きたイギリス軍兵士および民間人のカブール脱出のエピソードがあまりに壮絶だったので紹介してみます。



1839年、イギリス東インド会社の軍はカブールを制圧し、傀儡政権を打ち立てました。
ロシアの進出に対抗する目的だったようです。

英国人将校率いるインド人兵士4500人と、その家族ら民間人12000人がカブールに駐屯しました。

しかしその後、現地勢力の本格的な反撃を受け、1841年には彼らは危機的状況に陥りました。

11月には英国公邸が暴徒に襲撃され、12月23日にアフガニスタン側との交渉に出向いた特使と将校は殺されて、その死体はカブール市内を引き回されました。

イギリス側の兵士・民間人あわせて16500人(女性や子供も含まれていた)は、年が明けて1842年1月6日カブールを脱出。
雪が降り続く中、140キロ先のジャララバードを目指す死の行軍が始まりました…


安全に退去できるという約束を信じて大砲は置いていきましたが、カブールの城門を出るなり銃撃が浴びせられました。

一日目は8キロしか進めず、夜のうちに寒さで数百人が命を落としました。
ホルドカブール峠では両側の高地からの攻撃に晒されながら進み、3000人が死亡。
夜には寒さでさらに死者が出ました。
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5日後の1月11日、一行を率いる英国の少将エルフィンストーンは自ら人質になって安全を賄おうと試みましたが、その甲斐はなく、翌日はジャグダラクの峠を封鎖されて、分断された後衛部隊が壊滅しました。

13日の朝には将校と兵士合わせて65人が残るのみとなり、ガンダマクでアフガニスタン兵に包囲されて最後の抵抗を試みました。
The_Last_Stand,_by_William_Barnes_Wollen_(1898)

馬に乗った6人の将校だけがかろうじて包囲を突破しましたが、ジャララバードの目前でまた襲撃を受け、さらに5人が死亡しました。

13日の午後、イギリス軍が駐屯するジャララバードに生きて辿り着いたのはブライドンという名の将校ただ一人で、膝と左手と頭に重傷を負っていました。
Remnants_of_an_army2

2日後にさらにもう一人の商人が辿り着いたが、翌日に死亡しました。

また50人が捕虜になっており、のちに釈放されたとのこと。

地獄の脱出行を生き残ったブライドンは、1857年のインド大反乱の際にも重傷を負いながら九死に一生を得、その後退役して静かな余生を送り、1873年に亡くなりました。



…以上は『本当にあった 奇跡のサバイバル60』からの要約です。

本当にあった 奇跡のサバイバル60
タイムズ
日経ナショナルジオグラフィック社
2013-12-18


英語のWikipediaにも記事がありました。
1842 retreat from Kabul

こんな悲劇が繰り返されないことを祈ります…


なお、このアフガニスタンの首都の名前は、報道では「カブール」と表記されることが多く、出典元でも「カブール」なのでこの記事でもそれに準じましたが、「カブル」や「カーブル」の方が現地の発音に近いらしいです。

歴史関係の本では「カーブル」が多いようなので、僕の漫画の中では「カーブル」と表記しました。
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『乙女戦争外伝 火を継ぐ者たち』下巻の第6話で描いたルチェネツ(ロションツ)の戦いについて概説します。


ハンガリー史の概説書などでもほとんど言及されていないのでよほどの歴史好きでも知らない事件かと思いますが、スロヴァキアで半独立勢力を張るヤン・イスクラ(ハンガリー語ではギシュクラ・ヤーノシュ)と、摂政としてハンガリー王国の実権を握るフニャディ・ヤーノシュが直接激突した戦いですので、もう少し注目されてもいいのになーと思います。

なお、戦いの舞台となったのは現在のスロヴァキアのルチェネツLučenecですが、当時はハンガリー王国領だったので『乙女戦争』作中ではハンガリー語表記でロションツLosoncとしています。
この記事では主に「ルチェネツ」と表記しておきます。


戦いのきっかけとなったのは1451年2月にオスマン帝国スルタン・ムラト2世が死去したことでしょう。
これによってメフメト2世が即位しましたが、即位したばかりの若いスルタンがハンガリーに攻勢をかけてくることは考えにくく、フニャディは国内問題に注力する猶予を得ました。
それ以前にもフニャディは何度か味方のハンガリー諸侯を嗾けてイスクラを攻撃させていたものの奏功しませんでした。
この機会に自ら軍を指揮してイスクラの勢力を叩き潰そうというのでしょう。
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1451年8月7日、フニャディはスメデレヴォでセルビア公ブランコヴィッチとの和解を締結しました。

ブランコヴィッチとはオスマン帝国との休戦を破ってヴァルナ十字軍を強行して以来関係が悪化してましたが、これで南の不安をひとまず解消し、フニャディはそのまま軍を率いて北へ向かいました。
フニャディに同行した大貴族には、マチョーの太守ベベク・イシュトヴァーン、エゲル司教ヘーデルヴァーリ・ラースロー、王国裁判官パーローツィ・ラースロー、主馬長パーローツィ・シモン、エステルゴム大司教セーチ・デネシュなどがいました。バンデリウムとも呼ばれるこれらハンガリー諸侯軍と、クマン騎兵などの傭兵部隊に、フニャディ自身の兵を加えて総勢は約1万2千(資料によっては最大2万)。
※なおフニャディ軍にのちのワラキア公ヴラド3世とのちのモルダヴィア公シュテファン3世が加わっていたというのは虚構です。
両者がフニャディの許に亡命するのは2ヶ月ほど先になります。

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対するイスクラの軍は約5千(資料によっては3〜4千)
スロヴァキアの傭兵団は一枚岩とは言えず、大小いくつもの傭兵集団がゆるやかに連合しているような状態でしたが、この時はオストロフのヤン・タラフースペトル・アクサミット、ドブレーのマルチン・ブルチャールといった傭兵隊長らがイスクラの援軍として参戦したようです。
イスクラ軍には鉱山地帯スロヴァキア製の優れた武装とフス派の戦術があるとは言え、戦力差は歴然でした。
※ペトル・アクサミットは前年の1450年8月にイスクラとタラフースに敵対の意志を表明していましたが、一時的に和解して参戦したと思われます。アクサミットはフス派の原理主義思想を強く信奉しており、それが論争の種だったのかもしれません。また、1450〜51年頃ヤン・タラフースがヤン・チャペクの娘ジョフィエと結婚しており、ヤン・チャペクもこの時イスクラ側に付いて参戦した可能性があります。チャペクはこの翌年1452年に死亡しました(作中ではフニャディ側に参戦し、戦死していますが)。
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8月10日、フニャディ軍はルチェネツに到着し、町の外れにある通称《聖王の砦》への攻撃を開始しました。
この砦は、フニャディの接近に備えてイスクラがベネディクト会の聖イシュトヴァーン修道院を急遽要塞化したもので、配下の武将クニェジツェのマテイと500人の兵士に守らせました。
※作中では砦の守将をヤン・タラフースとしています。
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イスクラ自身は大幅に守備を強化したハリチ(ハンガリー語ではガーチ)城に入りました。
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砦の守備は堅く、フニャディ軍の攻撃を何度も撃退しました。
そこでフニャディは戦術を変更し兵糧攻めに切り換えました。

砦の周囲に別の城壁を建設して完全に孤立させた結果、砦の守備隊は夏の暑さと飢えと渇きに苦しめられました。
絶望的な状況に陥った守備側はフニャディと交渉を試み、砦を明け渡す代わりに安全に退去させてもらうよう提案しました。
しかしフニャディはそれを拒否。
代わりに守備隊全員を車裂きにできるだけの車輪を立てて、恫喝しました。
砦を陥とすことよりも、イスクラの軍をおびき出すことが目的だったのでしょう。
※車裂きとは、中世の刑罰の一種。受刑者の手足を砕いてから車輪に縛りつけて晒すという非常に残虐な処刑法。
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↑聖王の砦があった丘の現在の様子。写真提供は『乙女戦争』の考証に多大な協力をしてくれた松山純氏。以下の写真も同様。

9月7日、ついにイスクラ率いる軍が救援のために現れ、近くの丘で火を焚いて砦に合図を送りました。

フニャディは軍を二つに分けて対応しました。
ベベク・イシュトヴァーン率いる部隊には聖王の砦への攻撃続行を命じ、ヘーデルヴァーリ・ラースロー司教率いる主力の封建騎士軍(バンデリウム)をイスクラ軍にぶつけました。
後衛にはわずかな予備兵と負傷兵だけを残しました。
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17フニャディ軍陣地より古戦場(西から東)
↑現在の戦場跡。フニャディ軍の陣地からイスクラ軍が布陣した丘を見た構図。

イスクラ軍は得意のワゴンブルク戦術でハンガリー軍を迎え撃ちました。
丘の上に荷車の陣地を構築し、銃とクロスボウで射撃しました。
フス戦争中に何度もフス派軍が強力な封建騎士軍を撃退したのと同じような構図が展開されました。
イスクラ軍の布陣する丘の麓には湿地が多く、騎士たちの動きが制限されたことも有利に働いたと思われます(イスクラも地形を十分考慮して布陣したのでしょう)。
またイスクラの兵士がよく訓練されて士気も高かったのに対し、フニャディ側の貴族諸侯たちは戦意が乏しく、中には裏切ったりさっさと離脱したり投降してしまう貴族もいました。
イスクラ軍は数で優る相手によく健闘しました。
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63 湿地帯からイスクラ軍陣地
↑丘の麓の湿地帯からイスクラ軍の陣地を見上げた構図。

そうこうするうちに聖王の砦の守備隊が包囲網の弛みを見抜き、攻撃をしかけました。
これが戦況を大きく変えます。
守備隊は包囲網を突破して、フニャディ軍を背後から襲撃しました。
挟撃を受けたフニャディ軍は全軍が崩壊し、フニャディは戦場を脱出しました。
この戦闘でベベク・イシュトヴァーンをはじめ多くの貴族が戦死し、ヘーデルヴァーリ・ラースローは捕虜となるなど、ハンガリー軍は甚大な損害を受けました。
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こうしてイスクラは大きな勝利を収め、その知らせはスロヴァキアとハンガリー全土に知れ渡りました。
スロヴァキア東部にあるヤソフスカー洞窟には「ルチェネツの戦いでブランダイズのヤン・イスクラの軍がフニャディ・ヤーノシュを倒した。」という落書きが残っています。


1451年の終わりに、フニャディとイスクラはリマフスカー・ソボタ ( ハンガリー語で リマソンバト)で和平を締結しました。
フニャディは賠償金を支払い、スロヴァキアでのイスクラの権力をなおも認めなければならなかったものの、戦前までの和平条件よりもイスクラにとって不利な内容になりました。
イスクラはプラヴェツ(ハンガリー語でパロチャ)城とケシュマロク(同ケーシュマールク)の権利を失い、それぞれを根城としていた傭兵隊長のアクサミットとミクラーシュ・ブラチャール(前述のマルチン・ブルチャールの兄弟)はイスクラから離反しました。
フニャディは戦闘では敗れたものの外交交渉では一枚上手だったようです。

さらにフニャディはイスクラのパトロンであるラディスラウス・ポストゥムス(ハンガリー王ラースロー5世)に直接働きかけることで、イスクラの地位と権利を剥奪することに成功し、1453年2月、イスクラはスロヴァキアから一時追放されます。
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オスマン帝国軍に何度も勝利した名将フニャディを撃退したイスクラの戦いぶりも見事ですが、それに対して外交力と政治力を駆使してイスクラを無力化したフニャディの手腕もさすがだと思います。


【参考資料】

チェコスロヴァキア史 (文庫クセジュ 450)
ピエール・ボヌール
白水社
1969-04-01



The Role of John Jiskra in the history of Slovakia

Hunyadi: Legend and Reality (East European Monographs)
Held, Joseph
Columbia Univ Pr
1985-04-01

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『乙女戦争』シリーズ最終巻となる『乙女戦争外伝 火を継ぐ者たち』下巻発売まであと3日となりました。

以前予告したとおり、新刊発売にあわせてツイッターでの読者参加型販促企画をやりたいと思います。

名付けて「乙女戦争シリーズ完結祭」

外伝も含めたシリーズが完結したこの機に、あらためて全巻セットで宣伝したいと思います。

参加してくれた方全員にDMで描き下ろしのカラーイラストとショート漫画をプレゼントします!

さらに抽選で4名の方にフランス語版『乙女戦争』全12巻セット(サイン入り)をプレゼントします!
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【参加方法】

・『乙女戦争』シリーズの好きな場面や好きなキャラ、お勧めのポイントをツイッターで投稿してください。
本編1〜12巻と外伝3巻のどの巻、どの場面でもかまいません。

・ハッシュタグ「#乙女戦争シリーズ完結祭」を必ずつけてください。
 複数ツイートする場合はそれぞれにタグをつけるか、同じスレッドにまとめてください。

大西巷一のTwitterアカウントをフォローしてください。
でないとDMを送れませんので。

・できれば『乙女戦争』の表紙や作中の画像を添付してください。
必須ではありませんが画像がある方がツイートが映えますので♪

・これも任意ですが、ついでに購入に繋がるリンクも貼ってもらえるとなおありがたいです。
例えば、
 ニコニコ静画の試し読みページへのリンク:https://seiga.nicovideo.jp/comic/6131 
 Twitter大西巷一アカウントへのリンク:https://twitter.com/kouichi_ohnishi
 Amazonの『火を継ぐ者たち』下巻へのリンク:https://amzn.to/3k1beVy
 Amazonの『乙女戦争』全12巻へのリンク:https://amzn.to/3qWCztF
それ以外の書店サイトなどへのリンクでもOKです。

・期間は外伝恐軸発売から2週間。7月26日24:00までとします。


現在大西巷一は次の連載に向けて準備を進めていますが、当面原稿料収入がなくなり、単行本の売り上げが頼みの綱です。
当座の蓄えもあるのですぐに生活に困るというわけではありませんが、後顧の憂い無く新作に挑戦するためにも、販促に協力していただけるとありがたいです。

なにより、全身全霊を懸けて描いたこの物語をもっとたくさんの人に読んでもらいたいです。
応援よろしくお願いします!

















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来たる7月12日に『乙女戦争外伝 火を継ぐ者たち』下巻が発売されます!


上巻から引き続いて、フニャディ・ヤーノシュ、ヤン・イスクラ、メフメト2世という3人の歴史上の英雄たちの戦いを、主人公クラーラの目を通して見ていく物語です。
そして最後にはクラーラは母シャールカの元へ帰ることになります。

物語の後にはエピローグもあり、本編と外伝を合わせた『乙女戦争』シリーズ全体の結末になっています。
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『乙女戦争』本編では10数年分のフス戦争を全12巻かけて描いたのに対して、外伝兇任30年余りの物語を2巻分で描く形となり、かなり駆け足感はあると思います。
人間ドラマとしては物足りないかもしれませんが、その代わり歴史のダイナミックなうねりを感じてもらえたらうれしいです。

特にこの下巻ではコンスタンティノープル攻略戦のような有名な歴史上のイベントもありますし、エピローグも含めると100年分くらいの時間の流れと、ボヘミアから始まった動きが遥か遠くの国々にまで波及する様が見てもらえると思います。
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恒例の巻末解説文もあります。
今回は特に書くべきことがたくさんありすぎて使えるページは全部使いましたが、それでも全然足りないくらいでした…
作中の内容の補足として参考になれば幸いです。


また今回もいくつか書店購入特典用のイラストをいくつか用意しました。

【書泉・芳林堂書店様用】
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芳林堂書店高田馬場店さんだと思いますが、なにかフェアを企画してくれているようです。
サイン本とサイン色紙も用意する予定です。

まんが王】様用
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こちらもいつものようにサイン本を用意します。
事前抽選です。詳細は上記リンク先をご覧ください。

【共通用】
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これで約8年かけて描いてきた『乙女戦争』シリーズ(本編12巻+外伝1巻+外伝2巻)はきれいさっぱり完結となります。
思い返せば「このままだと中途半端なところで打ち切りになるかも…?」と焦った時期もありましたが、幸い多くの方に応援していただいてなんとか構想通りに本編を完結できましたし、驚いたことにさらに外伝も描かせてもらうことが出来ました。
外伝として前日譚と後日譚を加えることで、より厚みのある『乙女戦争』の世界観が実現できたと思います(この外伝恐軸を最後まで読むとシリーズ全体を通す軸がはっきり伝わるのではないかと)。

応援・協力してくれた方々には感謝の気持ちでいっぱいです。


シリーズ完結ということで、またツイッターでの販促キャンペーン的なこともやろうと考えています。
新刊だけでなく既刊も含めてシリーズ全体を改めて宣伝したいと思っています。
詳しいことは後ほどあらためてお知らせします。


今は次の連載に向けていろいろ準備を進めています。
次回作が決まりましたらお知らせしますので引き続き応援よろしくお願いします!
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前編はこちら

十字軍を率いてオスマン帝国領への大遠征を行って大きな成果を挙げたヴワディスワフ3世は、1444年4月、ブダでハンガリー王国議会を招集しました。
この国会でヴワディスワフは王権の拡大を承認させるとともに、強力な傭兵団を率いて北部ハンガリー(スロヴァキア)に居座わるヤン・イスクラを懐柔しようと試みます。

しかしここで予期せぬ事が起きました。
ヴワディスワフを支持する者たちが独断でイスクラら反抗分子を捕らえようとしたのです。
セントミクローシュのポングラーツという有力貴族が捕らえられ、その家族や家臣の多くが虐殺されました。
イスクラの身にも同じ危険が迫りましたが、変装(女装だったとも)とヴワディスワフの手引きのお陰で虎口を逃れました。
ヴワディスワフは自らの名で安全を保証してイスクラらをブダに招いていたので、このような暴挙は認められなかったのでしょう。

『火を継ぐ者たち』3話のシーンではこの事件をいろいろアレンジして描きました。
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ヴワディスワフはチェザリーニ枢機卿とともに次なる遠征の準備を進めていましたが、6月、オスマン帝国の使者がハンガリーのセゲドを訪れ、和平条約への調印を求めて来ました。
この和平交渉はセルビア公のジュラジ・ブランコヴィチが密かに進めていたものでした。
ブランコヴィチは先年の大遠征にも参加していましたが、彼の娘マーラはスルタンのムラト2世の妃になっており、ハンガリーとオスマン両国の間で巧みな立ち回りを演じていました。
ヴワディスワフには寝耳に水の話でしたが、フニャディにはきっちり根回しがされており、条約の内容もかなりハンガリーに有利なものだったので、ヴワディスワフもこれを承認しました。

こうしてオスマン帝国の間で10年の休戦条約(セゲドの和約)が結ばれましたが、教皇庁のチェザリーニとしては収まりません。
異教徒と結んだ約束にはいかなる拘束力もないと強弁します。
結局ヴワディスワフはその説得に乗って休戦を破棄し、再び十字軍遠征に乗り出しました。
おそらく、休戦締結後にスルタンのムラト2世が引退して、弱冠12歳のメフメト2世に譲位したという情報が大きく影響したのでしょう。
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9月、ヴワディスワフは十字軍を率いてドナウ川を渡りました。
しかし今回は期待したほど兵が集まりませんでした。
まず、和平を仲介したセルビア公が不参加。
また、イスクラの動きを警戒して信頼できるハンガリー諸侯の一部を国内に残さなければならなかった上、条約破りの正当性に疑問を抱く者も多かったと思われます。
代わりに、ワラキア公ヴラド2世(有名な串刺し公ヴラド3世の父)が参戦しました(ただしヴラド2世本人はすぐに帰国し、長男のミルチャがワラキア軍を率いた)が、総兵力は推定1万6千〜2万余り。
前年の遠征の半分ほどになってしまいました。
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それでも戦巧者のフニャディを擁する十字軍の襲来はオスマン帝国にとっては脅威でした。
幼い新スルタン・メフメト2世の手に余ると判断した大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは、ムラト2世の復位を要請。
ムラト2世はすぐさまアナトリアの軍団を招集して援軍に向かいました。
途上、ダーダネルス海峡がヴェネツィア艦隊を中心とする十字軍によって封鎖されていましたが、ムラト2世はこれを突破するためにジェノヴァの協力を得ます。
ジェノヴァから提供された大砲を両岸に据えて艦隊を砲撃して無力化し(このような大砲の使い方は史上初だとも)、ジェノヴァの艦隊によって軍をバルカン側に渡らせました。
このあたりの手際の良さからもムラト2世の有能さが伺えます。
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ともあれ、強力なアナトリア軍団の到来で、ヴワディスワフの目算は大きく狂いました。
エディルネへの進撃は諦め、東へ転進して、黒海岸のヴァルナでオスマン軍との決戦に臨みました。
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そして運命の日は1444年11月10日。
ヴァルナの戦いが幕を開けました。

十字軍側はワゴンブルクに立て籠もって味方の艦隊が救援に現れるのを待つという案もありましたが、その望みは薄く、会戦を挑むことを決意します。

両軍の戦力と配置は以下の図の通り(ただし雨が降っていたという記録はありません)。
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Battle_of_VarnaWS2000453

こちらは戦闘にいたる背景から戦闘の経緯までをまとめた解説動画。


戦闘序盤、オスマン軍の主力の左翼アナトリア軍団によって十字軍右翼はあえなく壊滅させられ、チェザリーニ枢機卿も戦死。
しかし、名将フニャディ率いる十字軍右翼は逆にオスマン軍左翼を押し込み、劣勢を挽回します。

このタイミングでヴワディスワフは勝機と見て、中軍の騎士隊を率いて敵本陣への突撃を敢行しました。
迂闊に突撃を仕掛けるのは西洋騎士の悪い癖で、かつてニコポリスの戦いでジギスムントがオスマン軍と戦った時もこれが大きな敗因となりました。
フニャディもこの突撃には反対したようです。
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ですが、今回はハイリスクではあるけどあながち無謀な作戦でもなかったかもしれません。
ヴワディスワフ率いるポーランドの親衛隊はイェニチェリの守りを突破して、敵の総大将ムラト2世に肉薄してもう少しで捕虜にできそうなところまではいったようです。
しかし、ヴワディスワフの馬が足を取られて、落馬した王は押し寄せたイェニチェリ兵によって討ち取られてしまいました。
これで勝敗は決しました。
フニャディ以下残った十字軍兵士は敗走し、多くの兵士が殺されるか、捕らえられて奴隷となりました。
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こうしてヴワディスワフ3世(ウラースロー1世)は20歳で世を去りました。
ヴワディスワフの死後、ポーランド王位は弟のカジミェシュ4世が継ぎ、ハンガリー王位はラディスラウス・ポストゥムス(ラースロー5世)の手に渡ります。


本来ならヴワディスワフ王の太く短い冒険の人生物語はこれで終わるところですが、彼はまだ生きているかもしれないという憶測、いわゆる生存説が根強く残りました。

ヴワディスワフを討ち取ったオスマン兵は彼の首を棒の先に刺して晒しものにしたようですが、ヴァルナの戦場がら生き延びた十字軍兵士はこれを目撃しなかったようです。
王の生死がはっきりせず、嫡子もいないので、ハンガリーでもポーランドでも王位の継承問題がややこしくなりました。
それだけでなく、王は負傷したが死んではおらず、和平を破ったことを後悔して巡礼者となり、あちこちさまよっているとの噂が長くヨーロッパで流れました。
いくつか伝説も残っていますし、アメリカ大陸の発見者コロンブスはヴワディスワフの子であるという珍説もあります。

日本でも源義経の生存説やそれに付随する伝説や俗説といったものがありますが、ヴワディスワフも異教徒との戦いに無謀に勇敢に挑み、若くして散った王ということで、何かと英雄視したり伝説化したりしたくなる要素があるのかもしれませんね。
ヤン・マテイコの描くヴァルナの戦いでもヴワディスワフ3世は実に英雄的に描かれています。
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【主な参考文献】

ハンガリー史
恒文社
1980-05T




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『火を継ぐ者たち』前半の重要人物ヴワディスワフ3世についてざっくり解説します。

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ポーランド王として在位10年(1434年〜1444年)、ハンガリー王ウラースロー1世として在位4年(1440年〜1444年)。
最期はヴァルナの戦いで戦死したことから「ヴァルネンチク」(ヴァルナの人)という異称があります。

生まれたのは1424年。
ポーランド王ヴワディスワフ2世の長男で、母はゾフィア・ホルシャンスカ

父親のヴワディスワフ2世はポーランド史上屈指の名君の一人と言っていいでしょう。
ヤギェウォ家のリトアニア大公でしたが、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚してポーランドとリトアニアの合同を実現し、タンネンベルク(グルンヴァルト)の戦いでドイツ騎士団を打ち破りました。
以後ヤギェウォ家は中東欧で何人もの王を輩出する大家門となります。

母親のゾフィア・ホルシャンスカはリトアニア貴族の娘で、ヴワディスワフ2世の4人目の妻です。
それまでの3人の王妃は男子の後継者を産むことが出来ず、王の晩年にゾフィアとの間に出来たヴワディスワフ3世が待望の跡継ぎとなりました。

ヴワディスワフ2世は『乙女戦争』本編にもちょこちょこ登場し、幼いヴワディスワフ3世もちらっと登場してます。
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1434年6月1日(リパニの戦いで急進フス派が壊滅した2日後)にヴワディスワフ2世が崩御し、ヴワディスワフ3世は10歳でポーランド王に即位しました。

しかし幼くして即位したため権力基盤が脆弱で、枢機卿ズビグニェフ・オレシニツキを筆頭とする宮廷の顧問団によって国政を壟断されました。
ヴワディスワフ3世は14歳になると「親政を開始する」と宣言したものの、枢機卿が実権を握る状況は変わりませんでした。


そんな中1440年に大きな転機が訪れました。
前年に急死したハンガリー王アルベルト(皇帝アルブレヒト)を継いでハンガリー王位に就くことをハンガリー王国議会から打診されたのです。
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ヴワディスワフのポーランドでの地位も不安定は状態であり、ハンガリー王位を主張するラディスラウス派との対決は必至であり、さらにオスマン帝国の脅威にも直面することになりますが、ヴワディスワフはこの大冒険に打って出ることにしました。
この時16歳。
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『火を継ぐ者たち』の中では初めから堂々たる青年っぽく描かれていますが、実はクラーラの1つ歳下です。

ラディスラウス支持派(主にツィレイ家、ガライ家などの大貴族)とヴワディスワフ支持派(おもに中小貴族層と新興のフニャディ家、ウーイラキ家など)の争いは内戦に発展し、2年にわたって衝突を繰り返した後、1442年12月ジェールで休戦協定が締結されました。
これによってヴワディスワフはハンガリー王として正式に認められました。

ヴワディスワフが事実上の勝利を収めた要因として、オスマン・トルコに対する十字軍を約束して教皇庁の支持を得たことや、そのオスマン軍の侵攻に対してめざましい活躍を見せていたフニャディ・ヤーノシュがヴワディスワフ支持派だったことが挙げられます。
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(※ジェールでの会談の際、ヴワディスワフはエリーザベトに毛皮を贈った。ヴワディスワフは自分の後にラディスラウスが王位を継承することを認め、ラディスラウスの姉のアンナと婚約しました。しかしこの結婚が実行される前にヴワディスワフは世を去ります。)

教皇特使ジュリアーノ・チェザリーニがヴワディスワフ3世の許へ遣わされ、「キリスト教世界の擁護者」の称号と十字軍の戦勝を約束する祝福をもたらしました。
晴れてハンガリー王となったヴワディスワフは1443年、十字軍の総大将としてフニャディ・ヤーノシュとともにオスマン帝国領内への大遠征に乗り出しました。

この十字軍遠征(のちにヴァルナ十字軍と呼ばれる)の経緯を少し詳しく追ってみます。

遠征軍を構成したのはヴワディスワフ自身のポーランド兵と、フニャディ率いるトランシルヴァニア兵を含むハンガリー諸侯の軍、ヤン・チャペク率いる元フス派のチェコ人傭兵、チェザリーニ枢機卿率いる十字軍兵士、セルビア公ジュラジ・ブランコヴィチ率いるセルビア軍、そしてオスマン帝国支配下のボスニア、ワラキア、アルバニア、ブルガリアなどのバルカン諸国からの志願兵たちで、総勢は2万5千〜3万ほど(4万という説も)。

9月に王都ブダを出立し、10月上旬ベオグラード(ナーンドルフェヘールヴァール)付近で渡河してセルビア領内を南下。

最初の本格的な戦闘は、11月3日、セルビア南部の主要都市ニシュの近郊で行われました。
ヴワディスワフ率いる本隊とは別れて進軍していたフニャディの部隊が、カシム・パシャ率いるオスマン軍に勝利し、ニシュを確保【ニシュの戦い】。

以後オスマン軍は決戦を避けて後退しつつ焦土作戦で十字軍側の補給を断つ作戦に出ます。
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なお、この時アルバニア兵を率いてオスマン軍に所属していたスカンデルベクは、この戦いを機に離反して祖国に戻り、独立を宣言しました。
スカンデルベクはその後オスマン軍の侵攻を何度も退け、アルバニアの英雄となります。
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十字軍はブルガリアのソフィアまで進んで再び合流し、オスマン帝国の首都エディルネ(アドリアノープル)へ向けて進軍しましたが、オスマン軍は形勢不利と見て山岳地帯で彼らを待ち構え、峠を封鎖する策に出ました。
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12月12日ズラティツァ峠で両軍の戦闘が行われましたが【ズラティツァの戦い】、地形の険しさと食糧の不足に加えて、折りからの寒波で降雪にも見舞われ、十字軍は撤兵を余儀なくされました。
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撤退する十字軍に対してオスマン軍は追撃隊を送りましたが、十字軍側はこれを度々退け、1月2日(または5日)にはニシュ近郊のクノヴィツァで十字軍の後衛部隊が追撃隊に完勝を収め、指揮官のマフムト・チェレビ(スルタン・ムラト2世の義理の兄弟で、大宰相チャンダルル・ハリル・パシャの弟)という大物を捕虜にしました【クノヴィツァの戦い】。
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十字軍は1月25日にベオグラードに帰還し、2月初旬にブダに入城。
エディルネの征服までは成らなかったものの赫々たる大戦果を挙げての凱旋となりました。

このヴァルナ十字軍の第1回遠征はヴワディスワフの人生の絶頂だったと言えるでしょう。

後編へ続く)
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今月24日発売の月刊アクションに『乙女戦争外伝 火を継ぐ者たち』最終話となる第10話が掲載されました!
月刊アクション2021年6月号[雑誌]
月刊アクション編集部
双葉社
2021-04-24


タイトルは「旅の終わり」

クラーラの長い婚活の旅も終わり、フス派の残党兵士たちは一応の安住の場を得ることになります。

当初の構想ではクラーラは誰とも結婚せずに終わる予定でしたが、こうなるのが必然だったような気がします。
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最後に9ページ分のエピローグで、その後の歴史の流れもかいつまんでフォローしています。
シャールカの血筋がなかなかすごいことになりました♪

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外伝兇歪垢複雑な歴史を短くまとめたのでかなり駆け足な展開になりましたが、俯瞰気味のマクロな視点で綴る歴史物語として楽しめるものになってくれればと思っています。

クラーラの物語の結末も、エピローグで示した『乙女戦争』シリーズ全体の結末も、自分ではとても気に入っています。
ここまで描けてよかった!


『乙女戦争(ディーヴチー・ヴァールカ)』は月刊アクションの創刊号からスタートして、8年がかりで全60話・単行本12巻分、さらに外伝気5話・1巻分、外伝兇10話・2巻分が完結しました。

こんなに長く続いた連載は初めてです。
間違いなく漫画家・大西巷一の代表作になりました。

ここまで来られたのも、多くの方々の協力と、何よりたくさんの読者の励ましのお陰です。
本当にありがとうございました!!


今は『火を継ぐ者たち』下巻の単行本作業を進めています。
7月12日発売予定となっています。
発売時には久々に販促キャンペーン的なこともやりたいと考えています。


例によってニコニコ静画では先月分の第9話が公開されました。




「WEBアクション」の方は更新が止まっているのかな?
確認してみます。


単行本作業が終わったら、少し骨休めの期間を取ってから、新連載の準備に取りかかります。
まだ何を描くのかは決まってませんが、今後ともよろしくお願いします!



【余談】先日仕事時間についてツイートしたらかなりバズって驚きました。

https://twitter.com/kouichi_ohnishi/status/1385128166717415424

『乙女戦争』連載スタート時はギリギリ30代でしたが、もう40代後半…無理の利かない身体になってきたのをヒシヒシ感じます…

今後は効果的に休息を入れて効率的な働き方を心がけようと思います。
みなさんも働き過ぎにはご注意を。
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今月25日発売の月刊アクションに『乙女戦争外伝 火を継ぐ者たち』第9話が掲載されました!


月刊アクション2021年5月号[雑誌]
月刊アクション編集部
双葉社
2021-03-25



タイトルは「去りゆく者、残される者」

1456年7月のナーンドルフェヘールヴァールの戦いが終わり、クラーラは再びハンガリーに戻ります。

そして史実なのでネタバレしてしまいますが、戦いの直後にフニャディ・ヤーノシュが世を去ります。
陣中で発生したペストが死因です。
この時代にはよくある話ですね。ヤン・ジシュカも同じくペストで命を落としましたし、ジギスムントの跡を継いだものの在位わずか2年で世を去ったアルブレヒトも陣中の赤痢が死因でした。

ともあれ、フニャディ亡き後ハンガリー国内は国王ラースロー5世(ラディスラウス・ポストゥムス)とフニャディ家の政争が激化します。
これは外伝興盤のラースロー派とウラースロー(ヴワディスワフ)派の内戦の時から続く構図と言っていいでしょう。
そして謀殺の応酬の中でフニャディ・ヤーノシュの長男のラースローも命を落とし、代わって頭角を現すのが次男マーチャーシュです。あれよあれよという間にわずか15歳でハンガリー王になってしまいます。

一方イスクラは律儀にラディスラウスに仕え続けて苦しい立場に追い込まれていき、クラーラはひょんな事からそんなイスクラと行動を共にするようになります。

今回もかなり内容詰め込みました(苦笑)

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なお今回登場するボヘミア摂政のイジーは、『乙女戦争』本編終盤に登場したイジー坊やです。
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彼もハンガリーのフニャディ同様、下級貴族ながら急速に頭角を現した有能な人物で、フス派の信仰を保ったままボヘミア王になります。

そんなこんなで、次回はいよいよ最終回です。
クラーラの長い冒険の旅の結末はどうなるのか、どうぞご期待ください!


そして今月もニコニコ静画で先月分の第8話が公開されました。


「WEBアクション」では先々月の第7話が公開されるはずですが、たぶん週明けの月曜日更新になると思います。
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