《ミュシャ展》始まりましたね!
 ミュシャ展公式サイト 

目玉は何と言っても《スラヴ叙事詩》です。
ぼくは一昨年にチェコに行った際に一度見ているのですが、来日すると聞いてからずっと楽しみに待っていました。

《スラヴ叙事詩》はミュシャ(母国のチェコ語ではムハ)が祖国への愛を込めた晩年のライフワークで、スラヴ民族の歴史を題材にした20枚の連作です。キャンバスの巨大さも相まって、壮大な歴史スペクタクルが感じられる大傑作です!

ミュシャがチェコ出身ということからチェコの歴史に関するものが多く、とりわけフス派関連の絵が多いです。絵の解釈にもよりますが、20点中10点がチェコの歴史、うち8点がフス派関連の絵になっています。

従って《スラヴ叙事詩》にはフス戦争を題材にした拙作『乙女戦争』とも関連する絵がいくつもあるのです。
以下、簡単に紹介します。
(※各絵の題はミュシャ展の公式サイトに準じました)


『ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師』
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まずはフス派の祖ヤン・フス

フスはプラハ大学の神学者で、ウィクリフ派の神学に傾倒し、教会と聖職者の腐敗を批判しました。市内のベツレヘム礼拝堂で定期的に説教し、民衆から国王まで多くの人の心を掴みました。
しかし、教会からは異端者と見なされ、1415年、コンスタンツ公会議にて処刑されました。
フスの死後もフスの支持者たちの改革への情熱は冷めず、全キリスト教世界を敵に回しての《フス戦争》へと突き進んでいきます。
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『乙女戦争』では、物語はすでにフスの死後ですが、回想シーンで少し登場しています。
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『クロムニェジージュのヤン・ミリーチ』
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ヤン・ミリーチはフスの少し前の時代にプラハで教会改革と貧者の救済に尽力した聖職者で、フスの先駆者と言われる人物です。当時カール4世(カレル大王)の治世の下でプラハは大きく発展を遂げていますが、その裏ではすでに社会の歪みが生じていました。
ミリーチは『乙女戦争』には登場してません。
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『クジーシュキでの集会』
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これはフス戦争開始直後の1419年9月30日の出来事です。

この頃フスの熱心な信奉者たちは、カトリック派からの弾圧を避けて、郊外の野山に集まって説教集会をしばしば開いていました。
そうした信者の集会をもとにして生まれた町のひとつがターボルです。
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ターボル誕生の経緯については以前ブログに書いてことがありますので、参考までに。
ターボルの誕生 - 巷にひとり在り 

こうした野山での説教集会は当初は平和的なものでしたが、次第に自衛のため武装し、攻撃的になっていきます。
この絵に描かれたクジーシュキの集会では、説教師ヴァーツラフ・コランダが武力闘争を説き、集まった民衆を率いてプラハに向かい教会の偶像を破壊してまわりました。
コランダは、『乙女戦争』作中には登場していませんが、(登場するヤン・ジェリフスキーのような)攻撃的・急進的な説教師で、民衆を扇動してプルゼニ市を一時フス派の支配下におき、その後フシネツのミクラーシュやヤン・ジシュカとともにターボルに加わりました。


『ヴィートコフ山の戦いの後』
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ターボルに新しい拠点を築き、武装したフス派の急進派は、フス派撲滅のために進攻してきた十字軍の大軍と戦うことになります。
そしてヤン・ジシュカ率いるターボル軍はプラハ郊外のヴィトコフの丘で画期的な大勝利をあげました。
この絵の右側の赤いマントの人物がジシュカです。

ヤン・ジシュカは『乙女戦争』ではもう一人の主人公と言うべき重要人物として登場します。
ヴィトコフの戦いについても第2巻で大きく取り上げています。
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作中では戦闘の経緯などはかなり脚色してありますが、史実の戦闘については以前ブログに書きましたので参照ください。
ヴィトコフの戦いについて - 巷にひとり在り 

ジシュカが組織した農民主体のターボル軍は「早すぎた近代軍」とも呼ばれるほど革新的な戦術を実現し、5回にわたって送り込まれた十字軍をすべて撃退するという驚異的な戦果をあげました。
彼がいなければフス派はたちどころに弾圧されて消滅していたでしょう。

『グルンヴァルトの戦いの後』
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グリュンバルトの戦い(ドイツ語ではタンネンベルクの戦い)は、1410年7月15日にドイツ騎士団とポーランド・リトアニア連合軍の間で行われた大規模な会戦です。
これはフス戦争が始まる少し前の出来事で、ボヘミアからの義勇軍としてヤン・ジシュカもポーランド側に参戦したと言われています。

ポーランド王国、リトアニア大公国、ドイツ騎士団はそれぞれボヘミアの近隣諸国としてフス戦争に深く関わっていくことになります。
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『乙女戦争』の架空キャラであるドイツ騎士団員ヴィルヘルムは、グリュンバルトで戦死した騎士団総長の庶子ということになっています。
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『ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー』
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ヴィトコフで勝利した後、ジシュカ率いるターボル軍はボヘミア国内のカトリック派を駆逐するべく各地を転戦していました。
この絵のヴォドニャヌイはその頃ジシュカが征服した町のひとつです。
絵の中央で聖書を持っているペトル・ヘルチツキーという人物は、フス派の思想に共鳴してターボルに加わったものの、武器を持って戦うことはフスの思想に反すると考え、ターボルを離れて独自の信仰の道を歩むことになります。

ヘルチツキーは『乙女戦争』の第3巻に登場します。
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武力闘争の道を邁進したターボル派はフス戦争の結果滅びますが、ヘルチツキーの思想はフス戦争後も脈々と受け継がれ、新しいフス派の一派《兄弟団》を産むことになります。

『イヴァンチツェの兄弟団学校』
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フスとヘルチツキーの思想を受け継いだ《兄弟団》(チェコ兄弟団、ボヘミア兄弟団とも)は次第に支持者を増やし大きな一派となりました。
フスは誰もが聖書を読んで学べるよう聖書をチェコ語に翻訳するなどして教育の重要性を説きましたが、《兄弟団》はとりわけ教育活動に力を注ぎました。
この絵に描かれたイヴァンチツェの学校も《兄弟団》が建てたもので、ここで翻訳・編纂されたチェコ語聖書は「クラリツェ聖書」と呼ばれ、《兄弟団》の大きな業績のひとつとされています。
ちなみにイヴァンチツェはミュシャの生まれ故郷でもあります。
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ヘルチツキーと《兄弟団》については《スラヴ叙事詩》もからめて以前ブログでも紹介しました。
ヘルチツキーについて - 巷にひとり在り


『フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー』
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フス戦争の結果ターボル派などの急進派は滅びますが、穏健派はカトリック側と和解し、一応の信仰の自由を獲得しました。ポジェブラディのイジーはフス派穏健派のボヘミア貴族で、着実に力を延ばしてボヘミア国王にまで登り詰めます。
イジーは混迷するヨーロッパに平和を実現するため、現在の国連にも似た「キリスト教諸侯同盟」の構想を打ち出すなど、優れた政治・外交手腕を発揮しました。

イジーはフス戦争の最中に生まれ、『乙女戦争』にもちょっと登場します。
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イジーの父親ヴィクトリーンはジシュカの信頼篤い盟友の一人でした。ジシュカはイジーの洗礼親(代父母とも。実の親とは別に定める後見人)にもなりました。


『ヤン・アモス・コメンスキー — 希望の灯』
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ルターによる宗教改革が起こり、宗教対立から三十年戦争が始まるとボヘミアは大きな戦禍に晒されます。1620年白山(ピーラー・ホラ)の戦いでハプスブルク家が勝利を収めると、ボヘミアの信仰の自由は失われプロテスタントもフス派も厳しい弾圧を受けることになります。
この絵はオランダに亡命したフス派の《兄弟団》の指導者ヤン・アモス・コメンスキーが描かれています。コメンスキー(コメニウス)は高名な教育学者で、身分階級を問わない学校教育の方法論を唱え、「教育学の父」とも呼ばれています。

一般庶民の教育を重んじたフスの思想をコメンスキーが大きく発展させたことで、我々にもなじみ深い学校教育の制度が生まれたと言えるでしょう。その点では我々現代人はみなフス派の影響と恩恵を受けていると言っていいかもしれません。




以上、ミュシャの《スラブ叙事詩》と拙作『乙女戦争』の関連についてまとめてみました。
チェコや東欧の歴史は日本人にはなじみが薄い題材だと思いますが、《スラヴ叙事詩》を観た後に拙作『乙女戦争』を読んでもらったり、『乙女戦争』を読んだ後に《スラヴ叙事詩》を観たりすると、いっそう楽しんでもらえるのではないでしょうか。
よろしければぜひ〜




◎参考文献・参考サイト
 ミュシャを楽しむために:スラヴ叙事詩 
 スラヴ叙事詩 - Wikipedia 

 
東欧を知る事典
伊東 孝之
平凡社
2001-03