2009年11月28日
全てはハンキャリから始まった
今週の木曜日、InternetWeekのインターネットの歴史を語り継ぐ人々のつどいというBOFに参加しました。
奈良先端科学技術大学院大学、砂原先生の最初に日本にUNIXが入ってきた時の事や、TrailBraizer(往年のベストセラーモデム)でUNIX同志を接続し日本のインターネットの基礎を作った時の逸話とても面白く、そしてなつかしく当時の事を思い出しながらのBOFでした。
初めて日本にUNIXが入ってきたのは、当時AT&Tのベル研で研修をしていた石田晴久先生が、帰国する際、UNIX 6thエディションを1/2オープンリールテープにコピーして持ち帰ってきたというのは有名な話で、私もこの業界に入った直後に聞きました。つまりUNIXが日本にやってきたのは、ハンドキャリーによってです。UNIXのライセンスは7thエディションから導入されたので、6thエディションに関してはコピーフリーだったのかな?
その6thエディションなんですが、実はアーカイブフォーマットがtarではなくcpioで、東大のシステムでは読めなかったそうな。(今でもバークレー派の方はtarがお好きのようですが、AT&T派の方はcpioがお好みのようです) そこで、テープを筑波大学に持ち込み、そこのPDP-11で読み出して動かしたそうです。したがって、日本で最初に動いたUNIXは筑波大学のPDP-11だというのが真相とか。
あと、これはBOF会場から出たら忘れろ!といわれたのですが、いいや、書いちゃえw
日本の学術機関内でぼちぼち動き始めた日本のインターネットですが、やっぱり海外のインターネットと接続する必要があった。当時、環太平洋の接続はハワイ大学をハブとした相互接続だったらしいのですが、その接続をするためには今は亡きマルチプロトコルルータのProteonが必要だった(まだあるのかな?)。当然まだ日本に輸入されていないため、村井先生が北米で(多分中古を無料で)入手して、それをハンドキャリーで持ち帰ったのだそうな(笑
当然、数百万円もする機械なので国内に持ち込むには関税がかかります。そして、空港の税関で停められ、関税官との間でこういうやり取りがあったそうです。
「これは何ですか?」
「コンピュータです」
「価格はお幾らですか?」
「知りません」
「いずれにしても関税手続きが必要です」
「そうか、そうすると数日そちらが保管することになりますね」
「そういう事になります」
「あなたは、その間、東大の研究を止める気かっ?!」
「.....」
「今回限り、お持ちいただいて結構です。次はちゃんとしてください」
ああ、言っちゃった。 もう時効ですから、いいですよね? こうしてみると、日本のUNIXもインターネットも全てはハンキャリによって始まったのですね。革新的な何かは箱や物ではなく、やっぱり人間によって実現されるという事を再認識しました。
今、日本のインターネットの歴史と資料を保存しようという活動が為されているそうですが、ぜひ、このProteonの国内持込を容認した当時の関税官さんを日本のインターネットを作った偉人の一人に加えて頂きたいと思います。彼の存在無くして、日本のインターネットは生まれなかった、、、と。
今更ですが、改めて石田晴久先生のご冥福をお祈りいたします。
奈良先端科学技術大学院大学、砂原先生の最初に日本にUNIXが入ってきた時の事や、TrailBraizer(往年のベストセラーモデム)でUNIX同志を接続し日本のインターネットの基礎を作った時の逸話とても面白く、そしてなつかしく当時の事を思い出しながらのBOFでした。
初めて日本にUNIXが入ってきたのは、当時AT&Tのベル研で研修をしていた石田晴久先生が、帰国する際、UNIX 6thエディションを1/2オープンリールテープにコピーして持ち帰ってきたというのは有名な話で、私もこの業界に入った直後に聞きました。つまりUNIXが日本にやってきたのは、ハンドキャリーによってです。UNIXのライセンスは7thエディションから導入されたので、6thエディションに関してはコピーフリーだったのかな?
その6thエディションなんですが、実はアーカイブフォーマットがtarではなくcpioで、東大のシステムでは読めなかったそうな。(今でもバークレー派の方はtarがお好きのようですが、AT&T派の方はcpioがお好みのようです) そこで、テープを筑波大学に持ち込み、そこのPDP-11で読み出して動かしたそうです。したがって、日本で最初に動いたUNIXは筑波大学のPDP-11だというのが真相とか。
あと、これはBOF会場から出たら忘れろ!といわれたのですが、いいや、書いちゃえw
日本の学術機関内でぼちぼち動き始めた日本のインターネットですが、やっぱり海外のインターネットと接続する必要があった。当時、環太平洋の接続はハワイ大学をハブとした相互接続だったらしいのですが、その接続をするためには今は亡きマルチプロトコルルータのProteonが必要だった(まだあるのかな?)。当然まだ日本に輸入されていないため、村井先生が北米で(多分中古を無料で)入手して、それをハンドキャリーで持ち帰ったのだそうな(笑
当然、数百万円もする機械なので国内に持ち込むには関税がかかります。そして、空港の税関で停められ、関税官との間でこういうやり取りがあったそうです。
「これは何ですか?」
「コンピュータです」
「価格はお幾らですか?」
「知りません」
「いずれにしても関税手続きが必要です」
「そうか、そうすると数日そちらが保管することになりますね」
「そういう事になります」
「あなたは、その間、東大の研究を止める気かっ?!」
「.....」
「今回限り、お持ちいただいて結構です。次はちゃんとしてください」
ああ、言っちゃった。 もう時効ですから、いいですよね? こうしてみると、日本のUNIXもインターネットも全てはハンキャリによって始まったのですね。革新的な何かは箱や物ではなく、やっぱり人間によって実現されるという事を再認識しました。
今、日本のインターネットの歴史と資料を保存しようという活動が為されているそうですが、ぜひ、このProteonの国内持込を容認した当時の関税官さんを日本のインターネットを作った偉人の一人に加えて頂きたいと思います。彼の存在無くして、日本のインターネットは生まれなかった、、、と。
今更ですが、改めて石田晴久先生のご冥福をお祈りいたします。